降参……
方源の言葉が、まだ人々(ひとびと)の耳に残っていた。
一瞬の間、石楼の下にいるほぼ全員の二転蠱師が、驚きの視線を方源に集めていた。
方源は見向きもせず、腕組みしたまま動かず、平然とした表情を保っていた。
「降参?まさか直接負けを認めた?聞き間違いか?」
「あれが方源?手も出せない腰抜けじゃねえか、ケケケ」
「熊力の気迫は確かにすごい。だが負けるにしても形だけは作るべきだろ。直接降参なんて、自分が臆病なだけじゃなく一族の顔も潰すぞ」
……
次第に、囁き声が静かな湖面に広がる波紋のようになっていった。
最初の驚きが過ぎると、多くの蠱師の目は軽蔑・侮蔑・他人の不幸を喜ぶ冷笑へと変わった。
少なからぬ古月の蠱師が落ち着かなくなり始めた。熊家と白家からの視線は、無形の針のように彼らの自尊心を刺し続けていた。
方源は古月一族の者。彼が直接降参したことで、連れ合いの者たちまでが面目を失う結果となった。
「降参なんて許せねえ!方源、お前は古月の男だろ!出て行って熊力と戦え!」
「仮に負けたって大したことねえじゃねえか」
「戦う度胸すらねえ方が本物の恥だぞ!」
古月族の蠱師たちが叫び立ち、方源を煽り立てる。
方源は顔色一つ変えず、これらの言葉を野良犬の遠吠えのように聞き流していた。
名誉や面目・栄光などというものは、所詮絵に描いた餅。支配層が組織の成員に嵌めた首輪に過ぎない。
この蠱師たちも、首に縄を繋がれた犬の群れでしかない。
熊力は方源をじっと見つめ、突然嗤い出した。「本当にがっかりだな。古月家の勇武って、こんなものかよ?」
この言葉に古月一族の蠱師たちは一斉に顔色を曇らせた。
熊家寨側からは爆笑が湧き起こり、白家寨の蠱師たちさえも嘲るような視線で古月を見下ろした。
方源の周囲の者たちも次々(つぎつぎ)と足を動かし、恥ずかしそうに距離を取っていった。
瞬く間に方源の五歩圏内ががらんどうになり、彼だけが孤立して立ち続けた。我が道を行く異質な存在だが、平然とした表情を崩さない。
他の者が勇武の名誉を重んじる中、方源は鼻で笑う。この態度が自然と周囲の嫌悪感を誘った。
名誉への蔑視は大衆の価値観を否定する行為だ。その価値観に従って生きてきた者たち自身の否定へと繋がるからだ。
人は自らの生き方を誤ったと認めたくない。だから無意識に方源を拒絶し、排斥するようになる。
心の弱い者はこの排斥に屈し、自らを変えて大衆化するのだ。
だが方源は正にこの排斥を必要としていた。彼の身上には秘密が増え続けており、孤立を求めていた。同時に、これらの者と交際する価値もない。記憶にある通り、青茅山の三大山寨は狼潮を辛うじて乗り切ったが、二年後のあの事故で全滅した。以降、青茅山は氷に閉ざされた死の土地と化る。
方源が為すべきことは、この期間を最大限に活用して成長し、時を逃さず家族を脱し、殺身の禍を避けることだ。
不利な状況を目の当たりにし、古月山寨の二転最強である青書は、否応なく立ち上がらざるを得なかった。
「熊力、我々(われわれ)で試合をしてみないか」
「へへ、どうやって勝負するつもりだ?」熊力は笑いながらも、眉間に険しい表情を浮かべた。
古月青書は熊力を見ず、掌を微かに上げつつ真元を密かに駆動。垂れ下がった視線で手の平から徐ろに伸びる青藤を注視していた。
「お前の腕力を試そう。この青藤の束縛から抜け出せたら、わが負けだ。どうだ?」
「へへ、面白い提案だ。かかってこい」熊力は歯を剥き、目が鋭く光った。
心で計算する――既に熊一頭分の力を蓄え、熊豪蠱で爆発的な力を放出すれば二熊の力になる。青藤は丈夫だが、二熊の力で必ず脱出できる。熊姜は既に白病已を倒した。自分が青書に勝てば、面子は十二分に立つ!
青書は穏やかに微笑み、両掌を広げた。掌から二本の青藤が緑の蟒のように熊力の体に絡み付いていく。
熊力は両手を腰に垂れ下げたまま、青藤が両腕に絡み付き、瞬く間に十数本巻き付いて両手と背中を締め付けた。
他の蠱師たちが目を凝らしてこの対決を見守る。
「どうぞ」青書が熊力に告げる。
熊力は瞬時に目を見開き、拳を握り締めて力を込め始めた。
彼の全身の筋肉が隆起し、岩塊を積み上げたかのように膨らんだ。
一熊の力!
バキバキッ!
青藤が一本また一本と巨力に耐え切れず断裂していく。
「ははは、青書兄、どうやらこの勝負は俺の勝ちだな!」熊力は力を爆発させながら余裕で言葉を放つ。
「青書先輩……」傍らの方正が手に汗握り、緊張の面持ち。他の古月族の蠱師たちも同様だった。古月青書は彼らの最高戦力。もし敗れれば古月の面目は完全に失われる!
「そうとも限らん」古月青書は薄笑いを浮かべ、瞳に自信の光を宿した。
その言葉が消えやらぬ内に、手の青藤が変容を始めた。元の碧緑が突如墨緑へ変色。蔓は太く逞しくなり、周囲に幅広い藤葉が生え始めた。
熊力の表情が硬くなる。青藤からの締め付け力が十倍以上に増大したことを察知したのだ。
更に驚いたのは、自らが断ち切った蔓が再生し、断裂部を繋ぎ直す様だった。
熊豪蠱!
危うしと悟り、空竅内の熊豪蠱を急き込んで発動させた。
瞬時に髪が鋼針のように逆立ち、全身の筋肉が膨張して体躯が巨大化した。
双熊の力!
青藤がギシギシと軋むも、この怪物じみた力に耐え切れず、熊力を厳しく拘束し続けた。
熊力は顔を真っ赤に染め、極限の力で青藤を引き裂こうとした。しかし結局、一本を断ち切っただけで力尽きた。
「わが負けだ」熊力は自ら熊豪蠱の強化を解き、息を切らしながら言った。
「恐れ入ります」青書は拱手の礼を取り、青藤を収めた。
「青書様、流石です!」古月一族の蠱師たちが歓喜に沸いた。
「さすが青書先輩、兄貴とは比べ物になりません」方正は青書の傍らに立ち、尊敬の眼差しで彼を見詰めた。
熊力は複雑な表情で古月青書を眺めた。自分が棕熊本力蠱を獲得して成長したように、青書も進化していた。その手法は不明だが、真の好敵手は彼だ。方源如きは単なる新参者、全く心配するに足りない。
「やはり木魅蛊か」方源は遠目から青書を観察し、心中で呟いた。
青書と対峙する熊力は気付いていないが、青書の髪に新たな緑の葉が一二枚生え始めていた。
これは木魅蛊使用の明確な兆候である。
木魅とは樹精のことで、木魅蛊を発動すると樹精へと変身し戦闘可能となる。
樹精は特異な存在で、天地の気を直接吸収し自己の力と化す能力を持つ。
一方、普通の蛊師は空竅内の真元しか利用できない。木魅蛊で樹精化した蛊師は大気中から直接天地の気を吸収し、天然真元を補給するのと同然の効果を得る。
通常の蠱師が戦闘中に、戦いながら元石の天然真元を吸収する余裕などない。
しかし樹精へと化すれば、天地の気を吸収するのは本能的行為となり、全く集中力を削がれない。つまり木魅蛊使用者は持久戦の達人だ。真元が無限とは言わぬが、持続的補充により戦闘時間が三倍に急増する!
同時に樹精化すれば青藤蛊や松針蛊などへの増幅効果も発揮する。
方源は瞬時に多くの情報を連想した:「木魅蛊の合成昇進は天下で最も贅沢な強化方法の一つ。三転蛊から百年寿蛊との合成で四転百年木魅へ、更に千年寿蛊で五転千年木魅となる。この秘方は広く知られているが、実際に使う者は稀。寿蛊はあまりに貴重で、通常は寿命延長に直消費されるからだ」
この世界で人間が無病息災であれば、最長でも百歳までしか生きられない。百年が人間の寿命の限界だ。
しかし寿蛊を使えば寿命を延ばせる。
百年寿蛊は百年の寿命を増やし、千年寿蛊は千年の生き永らえることを意味する。
寿蛊は極めて稀で、世の人々(ひとびと)がこぞって求める至宝である。
方源は前世で五百年以上生き、五匹の百年寿蛊を次々(つぎつぎ)に使用した。合計五百年の寿命を追加され、本来の百年と合わせ六百歳まで生き延べるはずだった。しかし中途で正派の集団攻撃を受け、自爆せざるを得なかった。
寿蛊は「長生」を可能にするが、「不死」を意味しない。
「木魅蛊は強力だが欠陥もある。使用時間が長すぎると、蛊師の肉体が木質化し、最終的に樹人の屍と化る。前世の古月青書はまさにこうして死んだ」
そう考えると、方源の目がきらりと光った。
強力な蛊虫ほど弊害も大きく、他の蛊虫と組み合わせて使用する必要がある。そうしなければ蛊師自身に悪影響を及ぼす。
熊姜の遊僵蛊は血気蛊と併用するのが最善。使用過多で血液が減り続ければ、本物の僵尸になってしまう。
熊力グループが自陣に戻ると、白病已を倒した後青書に敗れたにも関わらず、拍手と賞賛を浴びていた。
「漠顔、お前と勝負だ」
「さあ来い熊驕嫚、相手になってやるぞ!」
……
熊力グループを皮切りに、場は一気に活気づいた。数多の蛊師が次々(つぎつぎ)と出場し、目指す強敵に挑み、自らの武勇を誇示した。
会盟坡は一時混乱状態に陥り、切磋琢磨する蛊師たちの熱戦が繰り広げられた。
真の闘蛊勝負は今まさに幕を開けたのだ。