第百二十三節:「天地など我の意のままに独行す」
「用事か?」方源は赤山を見た。
冬でも、彼は上半身裸のままでいた。赤く焼けた肌からは温もりが発せられ、まるで火炉に寄りかかっているような錯覚を覚えさせる。白い雪が彼の体に降りかかっても、瞬く間に溶けてしまう。
これは彼の体内の空竅に潜む双竅火炉蠱のためだった。火炉蠱は二転の蠱で、火気を蓄えて攻撃に用いる。防寒は単なる副次効果でしかない。
赤山の目には複雑な色が浮かんでいた。彼は方源を睨みつけて重々(おもおも)しく言った。「このところ、熊家寨の熊力がお前と力比べをしようとしてるの、知ってるか?」
「知っている」方源は頷いた。
赤山は長いため息をついた。「熊力が力比べを仕掛けてくるのは、単純な勝負じゃない。今回の三寨連盟の利益分配に関わるものだ。狼潮の前では、連盟しなければ滅亡する。だが連盟した後の利益分配こそが最大の問題だ。だからこそ、ここ数日、三寨はこの問題で膠着状態にある」
方源は赤山を一瞥し、彼が自ら訪ねてきた意図を即座に理解した。
「交渉こそ最も辛い仕事だ。利益のため、三家族とも一歩も引かず、寸土でも争う。交渉の席には既に硝煙が立ち込め、戦火の如く激烈だ」
「この世界の価値観は二つ。第一が力、第二が家族愛だ」
「青茅山の三大家族は各が独自で、摩擦は長年、怨恨も深い。当然、家族愛で糊塗することなどできぬ。ならば交渉の膠着状態を打ち破るには、力に頼るしかない」
「地球には軍事演習で力を誇示する。この世界でも同工異曲、切磋のための蠱闘で自らの強勢を示し、より大きな利益を奪い取るのだ」
「熊力が方源に力比べを求めてくるのも、この理による」
果たして、赤山は続けた。「俺は熊力と手合わせしたことがある。奴は棕熊本力蠱を持っている。既に一熊の力を養い上げ、さらに熊豪蠱で再び一熊の力を暴漲させる。重なれば双熊の力だ。俺など足元にも及ばぬ。認めたくはないが、青茅山一の大力士の名は名実相伴っている」
一呼吸置いて続けた。「客観的に話せばな。お前と俺の力差は大きくない。だからお前も奴には勝てん。だが負けるわけにはいかん。お前は吞江蟾を目覚めさせ、青茅山を救った英雄だ。一度でも負ければ、我が古月一族の利益が毀損する。だから家族の利益のため、個人的な名誉を捨てて避戦を選んでくれ!」
方源は沈黙したまま赤山を見詰めた。
赤山は目線を伏せた。「この件、お前には相当に心苦しいのは分かっている。避戦を選べば、個人の勇名など文字通りに潰える。だが家族の利益が最優先だ。もしお前が負ければ、一族の譲歩がさらに拡大するだろう。家族が我々を養育ててくれた以上、当然の報いだ。そうじゃないか? 一族はお前を必要としている。個人的な名誉を犠牲にするのも理に適った行いだ! ただしこの件は俺が発端だからな」
「個人名義で多少の補填をしよう。心ばかりのものだ」
そう言うと赤山は方源に大型の銭袋を差し出した。方源がそれを受け取り手で軽く量ると、思わず嗤い声が漏れた。「俺の名誉がたった200枚の元石か?」
赤山はその嘲りを悟ると、瞳に鋭い光を宿し厳かに言い放った。「方源、憤懣を抱くでない! これまで穏やかに諭してきたが、実は任務を帯びて来たのだ。避戦は族長会議の密命である。聞くも聞かぬもない。自重されよ」
言い終えると雪原に深い足跡を残し去って行った。
方源は赤山の後姿を眺めながら、悟りきった眼差しを浮かべた。
「一族が最大利益を狙うため、俺が吞江蟾を追い払った件を早くも交渉材料に使っているんだろう。吞江蟾がここにいる限り、青茅山全体にとって脅威なのだから。熊家寨がこの材料を潰すため、密かに熊力に挑戦させたってわけだ」
「一族から見れば、俺は単なる駒に過ぎない。熊力も駒なら、赤山も駒だ。笑えることに、喜んで駒になり栄えあると思い込む奴らがいる。まさに家族に洗脳されたってやつだ」
「だが元々(もともと)熊力との力比べなどする気はない。名誉って他人の称賛に過ぎん。この枷が古今東西の英雄を縛りつけてきた数を知れど、俺にとって捨てて何が惜しい? はは、むしろ赤山に感謝しなきゃな。200枚の元石をただで貰えるんだから」
そう思い至ると、方源は心の底で冷笑を洩らした。
「己がなぜ熊力の挑戦を招いたか。ただ山寨の名誉を救ったがゆえだ。赤山がなぜ熊力に挑むか。青茅山一の大力士という名が欲しいからだ」
「名とやらは虚栄の大餅に過ぎぬ。幾人を誘惑し、幾人を繋ぎ止め、幾人を囲い込んだことか」
「嘆かわしいことよ、嘆かわしい!」
雪はなおも静かに降り続けている。
古月山寨全体が雪の中に黙然と佇み、傍らを行き交う人々(ひとびと)は道を急いでいる。
「笑止千万! こいつら皆、幻の大餅に身を縛られているというのに」方源は瞼を伏せ、睫毛の奥に潜む漆黒の瞳を半ば隠す。
雪原の光が少年の顔を照らし、青白く冷気を帯びて見える。
ふっと嗤うように笑うと、方源は軽く詠った:「白雪尽皑皑,天地我独行。独行无牵挂,孤影任去来。」
彼は足を踏み出し、歩き続けた。
道中、人々(ひとびと)は慌ただしく行き交うが、方源だけが独行していた。
族人であれ白雪であれ山寨であれ、全て(すべて)はただぼやけた背景に過ぎない。
しばらくして自らの借家に戻った。
竹楼や酒肆などは全て転売してしまっており、今も粗末な借家に住んでいる。環境は劣悪だが、方源は些細なことには拘らず、足の掛かりさえあれば十分だった。床に胡座をかくと、修行を開始した。
蠱師の修行において、大境界を突破するには天資と才情が必要だ。しかし小境界の突破は純粋に水磨の仕事。時間さえ掛ければ、竅壁は絶えず温養され、徐々(じょじょ)に強化されていく。
約束通り夕暮れ時、江牙は方源の住居を訪れた。
「方源様、今回の元石でございます。ご査収ください」部屋に入るなり恭しく五つの銭袋を差し出した。中身は当然、膨らんだ元石で満たされている。
元石は四百塊を軽く超えていた。狼潮が迫るにつれ、蠱師たちの生機葉への需要も増大し、方源の販売価格も上昇を続けていた。
方源は江牙に生機葉九片を渡すと同時に問うた。「先に依頼していた物の買い付けはどうなった?」
江牙は赤面しながら首を振った。「方源様、折悪しく狼潮対策で一族が物資統制を実施しております。魚鱗蠱は玉皮蠱に次ぐ価値のもの。全力を尽くしましたが、直ちに入手は難しいかと……」
方源は眉をひそめた。
魚鱗蠱は隠石蠱との合煉で隠鱗蠱を煉成する必要があった。これがなければ隠鱗蠱の合成は不可能だ。
「物資統制下でも魚鱗蠱が入手できないわけではない。要は江牙の力が及ばぬだけだ。隠鱗蠱の煉成も延期せざるを得まい」方源は心中で嘆いた。
だが落胆はしなかった。
世の中の事、思い通りにならぬこと十中八九。
これこそ人生の常であり、「一帆順風」などというのは単なる美辞麗句に過ぎない。
「白家寨は魚鱗蠱の産地で、一族にも多少の在庫がある。ただ数が少ないだけだ。正式な連盟成立を待つ必要があるようだ」
方源は焦りを見せなかった。三家族が正式に連盟すれば、必ず戦功榜が設置されることを知っている。蠱師たちに積極的な狼狩りを促すためだ。その時には戦功で三寨の物資と交換できる。
無論、古月一族の月光蠱、熊家寨の熊力蠱、白家寨の溪流蠱といった各家の象徴は交換対象外だ。
だが魚鱗蠱は必ず入手可能となる。
危機には常に機会が伴う。
蠱師たちにとって狼潮は厳しい試練であると同時に、躍進の好機でもある。
狼潮の衝撃で、数多の有名蠱師が死に絶え、同数の蠱師が新たに名を馳せる。一族内では旧勢力が衰退し、新興勢力が政治舞台に台頭するだろう。
夜になると、予期せぬ客が訪れた。
古月青書と古月方正である。
青書は前置きなく核心を突いた。以前の話を蒸し返し、方源の酒虫を買い取りたい意向を示した。
ただし今回は更に、方源の黒豕蠱までも、加えて九葉生機草まで要求してきた。
九葉生機草は絶対的な非売品だった。酒虫は既に四味酒虫に合煉済みで、取り出す術もなかった。故に全て(すべて)拒否した。
ただし黒豕蠱に関しては……
「既に一猪の力を増強していた。黒豕蠱の利用価値は極めて低い。黒豕蠱への最適な進化先は鋼鬣蠱だが、攻防一体の特性とはいえ、白玉蠱を有する身には不要だ。魚鱗蠱と交換するのも一考だ」
方源はそう考えると、即座に提案を持ち出した。
「魚鱗蠱?」青書は微かに眉をひそめたが、すぐに頷いた。「分かった。確かに防御用の蠱が不足しているな。魚鱗蠱は二転の鱗甲蠱に合煉可能で、防御効果は申し分ない」
魚鱗蠱と隠石蠱で隠鱗蠱を煉成する秘方は、前世で二百年後に偶然発見された優良レシピだ。今の青書が知らぬのも当然である。
方源は真実を明かさず続けた:「黒豕蠱は魚鱗蠱より高価だ。交換するなら差額を補填してもらう必要がある」
「当然のこと」青書は頷き、更に問うた:「九葉生機草は諦めるとして、酒虫は本当に売らんのか? お前にはもう不要だろうに。養ってても元石の無駄だ」
方源は首を振った:「酒虫の話は終わりだ。非売品だ」
青書は鼻を擦り、苦笑いを浮かべた:「方源、これは思いの外に複雑な話なんだ。古月薬楽を知ってるか? 薬堂の家老・古月薬姫様の孫娘で、今年の学堂新入生、乙等の資質を持つ。薬姫様はこの孫を溺愛しており、以前樹上小屋で酒虫を競り落とそうとしたが失敗した」
「酒虫の利点は体感済みだろう。老いたる者の子を思う情は理解できる。本気で購入を希望しており、高値を提示している。狼潮での負傷時には薬堂が手厚く治療するとの約束もしている。どうか再考願いたい」