第9話
よろしくお願いいたします。
目が覚めると、照明が瞳孔に差し込み慌てて腕を顔の前に持っていく。
半開きの視界にはシミが目立つ天井。
つい最近も見た事がある様な光景に思えた。
周囲を見渡すと自分の部屋である事に気づかされた。
足を動かそうとすると鈍い痛みが走った。
毛布をめくりそっと確認する。
すると捻った箇所には丁寧に湿布が貼られていた。
独特の匂いが鼻孔に流れて来る。
きっと、養護教諭の先生―サクラが施した物だろう。
一応、学校現場で活躍するアンドロイドはアップデート次第で養護教諭の仕事も任せる事ができる(どんな教科でも課金すれば担当する事が可能なのだ)。
実際、学校にいる養護教諭の先生は季節外れのインフルで来られなくなってしまっていた。
故に今回は養護教諭としてサクラが活躍する事になっていたのだ。
佐山先生は恐らくヒトの養護教諭が付いてきているものだと勘違いして行ってしまったのだろう。
会議でも共有していたが、まあ、先生になったばかりだから顔と名前もまだ一致していなかったのだろうと勝手に解釈した。
そんな中、俺は自室のベッドで横になったままパソコンを開き、これまでの年の収支報告とにらめっこしていた。
どう見ても経営的には苦しい。これは現在、多くの私立学校でも直面している問題だろう。この学校もそれが原因でサクラを新しいアンドロイドに入れ替える事が出来ない。
まさか自分がこんな仕事に就職しちまうとは、と一人で愚痴をこぼしていた。ぼっーとそんな事を考えているとドアを叩く音が聞こえた。入って来たのは入学式前に職員室で会った国語科の姫野先生だった。
「先生足を怪我したそうですけど大丈夫すか?」
「ええ、なんとか大丈夫です」
「そっすか……にしても足を捻られたらしいっすけど、ここまでどうやって帰って来たんすか?」
「えっと、それはサクラ先生に頼んで手を貸してもらいました」と苦笑しながら彼女に返事をしてみせた。
「へぇ、サクラ先生優しいっすね」
「まっ、まあ」というかそれ以上に付き合いが大変だがな、と心の中でぼそりと呟く。
そんな自分に対し彼女はペットボトルのお茶を差し出してきた。
「まあ、校長もまだこの学校に慣れてないでしょうし、先生達との関係づくりも大変じゃないすか?」
「まあ、そうですね」
「ですよね……てか、私的には、教頭先生がこの学校を継ぐものだったと思ってたんすけど。やっぱ世襲制の威力って強烈すね」
「本当はその予定だったのだろうがな(あっ)」
「というと、何か裏の事情が? てか、前の職場ってどこで何されていたんですか?」
「……」
つい口が滑ってしまった。ここで、前の職場をリストラされて校長になった事実を知られるのは個人的に恥ずかしかったので無言を貫いた。
「ああ、すみません。何かまずい事聞いちゃったみたいっすね」
「じゃあ、逆に姫野先生はどうしてこの学校に来たのですか? そもそもなぜ教師になろうと思ったのですか?」逆質問は失礼かもしれないが自分に当たる矢を避ける為には仕方が無かった。
「じゃあ、先生がいつかその理由を語ってくれたら私も語るって約束でイイっすか?」と少し不機嫌そうな表情を浮かべている。
「えっと……俺の方こそなんか変な事聞いてすみません」とその不機嫌な顔を見るとそう言わざるを得なかった。しばらくの間、沈黙が流れる。
すると―
「先生と前の校長って仲良かったんですか?」
「えっ、どうしてそんなことを?」
「何となくって理由じゃ駄目すか?」
彼女の興味本位なのかは不明だが、かなり込み入った事を質問してきている印象だった。
まるで俺の家庭や過去に探りを入れている様な感じがしてならない。
「……別に、普通ですよ」
作り笑顔を貼り付けて嘘を吐いた。
まあ、悪かったと言えばこれ以上に深い話を要求される恐れがあったのでこう対応するしかない。 それにまだ内情を離せる程に彼女との人間関係は形成されているとは言えなかった。
「なら良かったです」
何が良かったのか、俺にはさっぱり分からなかったが納得してくれた様で何よりだ。
「あっ、じゃあここらへんでお開きにさせてもらうっす」
もう満足したのか、それとも他の用事があるのか、先生は部屋から出ていった。
▽▲
その日の夜。
生徒達にとってある活動が控えていた。
それは、合宿だと定番のカレーを手作りするという活動だ。
俺はベッドの傍らにあったボロボロの松葉杖をつきながら匂いのする方へと歩みを進めていった。
誰も居ないのに明るい廊下をまっすぐ進んでいくと外に通じる勝手口が半開きになっていた。
そっとドアを開けて外を見ると生徒達が調理をしていた。
野外だったせいか暖色の灯が外の世界と隔てている様であった。
奥の方に目をやると相変わらずタンクトップ姿……のはずの万田先生が珍しくエプロンを身に纏い素早く野菜を切っている様子が垣間見えた。
それからぼーっと様子を伺っていると一人の生徒が俺の存在に気づく。
気づいたにも関わらず「あっ」とだけ言って別の方へと顔を背けた。
その生徒の声に周囲の学生もそっと手を止めて視線をこちらに向けて来る。
ちらっと見た後に、最初に俺を見た生徒と同じ様な行動をとって見せ作業に戻り談笑し始めた。
俺の存在に気付いてはくれたが誰も声を掛けてくれない。
先生の立場ってそう言うものなのか。
この仕事に就いて、学生時代には分からない苦労も分かる気がしてきた。
生徒にそっぽ向かれる様な先生でも生徒が悪い事をしたなら強制的に怒りのボルテージを上げて説教しなくてはならないのだから。
ただ、親父の気持ちと言うのはこの時にはまだ分からなかった。
生徒を本気で叱った事も無い。
なんなら元の仕事だと顧客をその気にさせなければならなかった。
真逆の事をする事になっている。
それに俺はあくまで校長という立場。
生徒と直に接する機会は他の教員と比べると少ない。
それにまだ教員になって一ヵ月すら経過していないのだから分かる方がスゴイと言うものなのか。 そう自問自答を繰り返しながら俺はそっと部屋に戻った。
▽▲
翌朝― 今日は午前中からドッジボールの大会がある。
そして運良く晴天にも恵まれた。
廊下に出てみてもまだ人がいる気配がしない。
松葉杖をつき、食堂へと向かう。
大きなガラス扉を肩で押し、タイル張りの床が特徴的な食堂に入る。
整然と並べられた長いテーブル。
会議室にある様な簡素なテーブルだ。
その端を見ると、既に佐山先生が座っていた。
松葉づえをつきながら俺はそっと近づく。
彼女はどうやら朝に強いらしい。
「おはようございます佐山先生」
「あっ、おはようございます」
「痛っ!」
彼女が引いた椅子が立ち上がる時に真後ろにあった俺の足に思いっきり直撃した。
それを見た彼女は直ぐに俺に向かって一礼した。
アレとは大違いである。
「いやぁ、良い目覚めの一発でしたよ」と作り笑顔を貼り付けながらも実際には滅茶苦茶に痛かった。
改めて席に着くと俺はスマホを取り出して今日のニュースを適当にスワイプしながら確認した。
まだ他の先生が揃っていないので話合いを始めようにもできないのである。
その話合いでここから先のスケジュール確認等を行う予定だった。
それからしばらくして姫野先生、万田先生、そして最後にやって来たのはサクラだった。
「お前、機械のクセに遅いな……」とため息交じりに日頃の行動を指摘した。
「お言葉ですけど校長、機械が早く正確に行動できるだなんて私に対するモラハラですよモラハラ」
「はっ?」
「これ以上言ったらマスコミに告発しますよ」
「……はあ、わかった。なら、どうして遅れた? 充電しそびれていたのか?」
「いいえ違います」
「じゃあなんだよ」
「充電では無く、睡眠です」と否定してきた。
「……」どこまで人間である事にこだわっているのだとため息が出る程だった。
「じゃあ先生だって大の大人がアレ程度の事で失神して失禁するなんてどうかしていますよ!」
湯呑みに入った熱いお茶を当然の様にむせ返す。
「……今なんて言った?」と俺は頭を奴の方に向けて睨みつけた。
「えっ、ああ、ですから失神して失……」奴が言い切る前に俺は奴の口元に自分の手を勢いよくあてがった。
そこからすぐに親指であっちに行くぞと扉の方を指図した。
他の先生達はこの状況を察したのか皆俺の方を見ず下を向いたり、スマホを見たり、さっきまで元気だった佐山先生は居眠りを装っている始末。
そそくさと場所を移動させた。
「で、さっきの続きを聞かせてもらおうか」
「ああ、生徒には見られていませんから心配する事ないですよ校長。フフッ」
「本当に誰にも見られていないんだろうな?」
俺は奴の両肩をがっしりと掴んだ上で凝視した。
「ですから、先生が失禁した時には佐山先生くらいしかいませんでしたよ」
「……佐山先生は……いたのか?」
「ええ、まあ」
「……」
「本当に生徒は居なかったんだな?」
「えっと、まぁ、はい」
俺はコイツの反応を疑わずにはいられなかった。
その疑いを抱くと同時に俺は昨夜の光景をふと思い出していた。
俺が生徒達の様子を見にカレー作りの現場に足を運んだあの時の彼らの反応。
アレは、もしや……そう言う事だったのか? 本当に見られていたら大問題どころの騒ぎではない。
人権剥奪レベルである。
失禁してしまった所を学生に見られたなんて。
しかもこれから三年間は関係してくるだろう顧客、否、生徒に。校長という立場上、あまりにもイタすぎる。
そのイメージのまま卒業すれば、きっと卒後も伝説として語り継がれていくのだろう。
被害を最小限に留めておかなければ―
「いやいや、皆さんすみませんでしたサクラ先生がちょっと調子悪そうだったので」
苦しい言い訳ではあるが、何とかごまかそうとする。
「それより会議の続きをしましょう」
俺は話題を変える為に外見を取り繕いこの話に終止符を打った。
その会議が終わって暫くすると何人かの学生が食堂に入って来た。
そして彼らが俺の方を向くといきなりひそひそと話始める光景が目に入って来た。
彼らは隠したつもりかもしれないが俺には分かる。
確実に笑われた。
「ああ、アレは私のクラスの生徒ですね。何か気になるのですか?」
佐山先生がテーブル上に広げた書類の整理をしながら教えてくれた。
「いやいや、とても楽しそうにしているなと思いまして」
軽い言い訳を考える。
昨日の出来事を隠すために。
きっと佐山先生も俺の事を気遣ってくれているに違いない。
「確かに、とても楽しそうですね」と先生も笑みを浮かべている。
「ええ……」
何も悟られない様に一言だけ呟き俺は別の方に目をやる。
向いた先には偶然、奴の顔があった。
奴は俺の方を見て完全にニヤついた。
さらに顔を見られぬ様に両手で隠す様な素振りを見せる。
コイツ確信犯だ。
昨日のアレは確信犯だったんだ。
ヤバい。
恥ずかしいの領域を超越している。
こんな思いをするのはいつぶりだろうかという位に尻の穴がすぼむ感覚に襲われた。
「あれ、サクラ先生もなんだか楽しそうですね。何かあったんですか?」
書類の束を抱えた佐山先生が声をかけてきた。
「いっ、いやいや……昨日、あった、事が……」と言いながらサクラからは笑い声が漏れだしていた。
「おい!」
俺が咄嗟に佐山先生に対してついた言い訳。
それが奴に向けられた質問に効果をもたらしてくる事になるとは。
想定外。
「へぇ……校長先生も何かあったんですか?」
「あの、聞かなくて結構なんで。本当にくだらない事なんで」
と言いながら俺はアイツを急いで連れ出そうとする。
しかし、ビクともしない。ちっとも動かない。
そう、コイツはアンドロイド。
滅茶苦茶に重たいのだ。
そこで俺は小声で忠告だけして元の席に戻った。
おそらく生徒達にバレている確率はサクラ曰くほぼ無いらしい。
ただ、昨晩の調理場での反応。
今ではバレてる事がきっと確定しているであろう。
もう誰を信じれば良いのだろうか疑心暗鬼になっている。
しかし、佐山先生には見られたとサクラが言っていた。
それなら彼女から拡大するのを抑え込みたいところだ。
「そう言えばサクラ先生って頼んだらお姫様抱っこしてくれるって本当なんすか?」
ド直球の質問―それは姫野先生から放たれた。
「えっ?」とコレはその場にいた俺を含めた教員の声である。
オワタ……これだけが俺の心から出た唯一の感情だった。
お姫様抱っこというキーワードだけで黒確定だ。
俺のアレが漏れた事実が。
佐山先生以外にも漏れてしまったという事実が。
漏れてはいけない二つが漏れた。
それが分かると顔の表面温度が熱くなるのを感じる。
「ええ、できますよ! してみましょうか?」
「えっ、本当に! してして!」
上機嫌な姫野先生はサクラの元に興奮を隠す事無く幼子の様に急接近して両手を握りしめていた。 サクラはいとも簡単に先生をお姫様抱っこしてみせた。
「これくらい余裕ですよ!」
お姫様抱っこされた先生はさぞかし満足そうだった。
そして少しばかり赤面していた。
しかし、俺としては気が気じゃない! 早く真実を確かめねば!
「あの、姫野先生、どうしてサクラ先生がやってくれるって事知っているんですか?」
「ああ、佐山先生が言ってたっすよ!」
「そっ、その時、何か変な事言っていませんでしたか?」
「変な事? 別に何も言っていなかったすよ」
拍子抜けした様な表情を浮かべている。
とてもではないが嘘をついている様には見えない。
どうやら、今のところは佐山先生でこの情報はストップされていると考えてよいだろう。
気が付くとその場に佐山先生の姿は無かった。後を追う。
「先生! 一つお願いがあるのですが……」息つく間もなく話かける。
「なっ、なんでしょうか?」
「秘密にしておいて欲しいんです! 昨日の事は!」
「昨日の事って……ああ、分かりました」
「あっ、ありがとうございます」
「えっとたしかアレ……ですよね」
「そうそう、俺がしっ、失禁したことです」
内容が内容だったので目をつぶり勢いよく早口で言い切った。
「……えっ、なっ、何の話でしょうか?」
「はっ?」
目を開けるとそこにはきょとんとした彼女の顔がこちらに向けられていた。
状況を整理する。
俺はサクラからアレを目撃したのは佐山先生だけだと言われた。
しかし、姫野先生までもがサクラがお姫様抱っこをしてくれるという情報を知っていた。
ただし、失禁の事については知らなかった。
つまり佐山先生できっと情報漏洩は止まっている。
そう信じてお願いした。
なのに、この反応。恐らく奴の言葉を信じた時点で俺は嵌められていたのだ。
「あの、私は校長がその……抱っこされていて、その場からサクラ先生に連れていかれた所を目撃していただけですけど」
「……えっ」
俺は自身の頬と耳が更に熱くなっていくのをひしひしと感じその場からしばらく動けなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。