第20話
よろしくお願いいたします。
夏休みが目前に迫ったある日。
この日は年に一度実施されているという避難訓練の日。
今日も俺は朝早くから来て生徒達が登校して来る前に仕事を始める。
この職に就いた頃、とは言ってもせいぜい三か月くらいしか経過していないがそれでもかなり色々と自分の内面を変えられた気がしていた。
生徒に対する考え方、自分は校長になどやはり向いていない事などが自分の中で分かってきた。
そんな事を改めて考えながらパソコンに向かい仕事をこなしていると突然、サイレンが鳴り響く。時間通り。でも想定外の事が起こっていた。ふと校長室から窓の外を見ると何やら黒い煙が立ち込めているのが見えた。
「なっ……」
ぼそっと声が出る位には驚き、俺の目はそちらへと釘付けになった。きっと何かが燃えているに違いない。そしてそこには案の定、奴がいた。草を燃やしているらしく、持っている長い鍬で突いていた。
「おいおい、何やってんだよ!」
「何って、本物に近い方がよりリアルさが増すかなと思いまして抜いてきた雑草を燃やしているんですよ」
「馬鹿か! ダメに決まっているだろ!」またコイツの面倒事に巻き込まれた。コイツからどれだけ迷惑をこうむってきたか。入職する前の自分に言い聞かせてやりたいくらいである。
「ああ校長、火の後始末をお願いしてもらってもよろしいですか?」真剣そうな表情をサクラは突然、こちらへと向けてきた。
「はっ?」
「お願いします……」と言った奴の声には冷徹さが滲んでいた。
「おいっ! お前はどうするんだよ! おいっ!」
いつものように俺の言葉を聞かぬままサクラは一目散に校舎の中へと消えていった。
俺はアイツを見送ってから一つため息をこぼす。
そして火を見つめながら思う。元社長である山田さんとの話の内容を。そして、彼からの誘いを。自然と出るため息。足元に置いてある消火器を手に取る。
小さく書かれた説明書きを読み、燃える草に向かって噴射する。バラエティ番組でしか聞いた事が無かった音は意外にも大きく反響した。
火を消し止めるも、周囲は依然として焦げ臭さが立ち込めていた。鎮火された後を見るとそこには薄ピンクの粉が積もっていた。
親孝行と借金返済の為にこの仕事に就いた。元社長いわく借金の一部も肩代わりしてくれる上に好待遇が約束されている。あれで良かったんだよな。母さんもありがとうって最後に言ってくれていたし。
それにやっぱり俺は子供相手に仕事をするのは合っていない感じがする。
キレイごとだけで学校の経営をしていくこともできないし、教師経験ゼロの自分が他の教師からの相談に乗る事自体が今更ながらにおかしな話である。
それこそ今の教頭の方が適任とみて間違えない。前にも佐山先生と結構親しい感じで話していたし、俺の時と比べるとかなり柔らかくて慣れている感じの話し方の様に感じられていた。それも教員歴の差というモノなのだろうか。
そう考えながら気が付くと俺はぼーっと空を見上げていた。残骸を目立たぬ場所に移動させた。
かなり多めの雑草だと一目で分かる。
それに全て燃えている訳では無いので、まるで自然のクッションにでもなりそうなくらいである。
こんなにも大量にアイツが草を引いてくれていたのかと少し感心した。やる時はやる奴なのかと内心だと少し奴の評価が上がった。そんな思いにふけながら俺はグラウンドの方へと向かう事にした。
避難訓練で校庭に集まっている生徒達の前で少し話をしなくてはならなかったからである。その最中、向かい側から誰かが勢いよく走って来た。よく見るとそれは姫野先生だった。
「こっ、校長先生! 大変っす」
「……もしかして、またサクラ先生がまた何かやらかしたんですか?」
「いいえ、やらかそうとしているんすよ,今!」
「えっ?」
「屋上で生徒の胸ぐらを掴んで突き落そうとしているんすよ!」
「えっ……ええええええええ!」
おいおい、火消しを任せて何をしようとしているのかと思えば。奴め、まさか本当にぶっ壊れてしまったんじゃないだろうな。
「取り敢えず俺が屋上行くので、姫野先生はサクラ先生の停止コードを教えていただけますか?」
まさか、また暴走したんじゃないだろうな……一抹の不安が脳裏をよぎる。
大股で階段を駆け上がり屋上へ向かう。
すると直ぐにマズイ状況だと飲み込めた。生徒の胸ぐらを掴んでいるサクラ。そして掴まれている生徒を見ると阪本君だった。しかも阪本君の体は宙に浮かびそのまま手を離せばグラウンドに真っ逆さまであった。
「おい、どういう状況なんだよコレは!」
「ああ、校長。どういう状況って、阪本君がダイビングしようとしているので止めているんですよ」
「お前、さっきまで胸ぐらを掴んでいたって聞いたぞ!」
俺とした事が、続けるべき言葉が見つからない。交感神経が昂り、声が自然と震える。それを尻目にサクラは彼との対話を続ける。
「いいえ、彼に判断を委ねようかなと思いまして」
「はっ?」
「現実逃避する手段として死を選ぶ事は愚かな事だと私は思います」
「別に死ぬことなんて自分の勝手ですよね? 自由ですよね?」
「ええ、確かに人の勝手です」
奴らしくないセリフ。
いつもとは違う語気で阪本君に向かって突き放す様に返答した。思わず、俺の右足が一歩前に出る。
しかし―
「校長はそこで黙って見ていてください!」と右手でこちらの方に静止を要求してきたのだ。
「……」
あまりの覇気と声の圧力で俺はその場で足を止めた。こちらには見向きもせず手と声だけで俺の行動を制御していた。「こんなにも命の大切さを?みしめられるチャンスなんて他にないですからね」
「だったら別にいいじゃないかよ」
「それじゃあ、とっとと飛んでいただいてもよろしいでしょうか?」とさらに冷徹さを増した口調になった。そこに感情等一切介入しない。無機質、という言葉が似合う。この時、なんだか故障していたのが嘘だったかのように俺には感じ取られていた。
「ちっ、とっ、飛んでやるよ」と言いながらも阪本君は口以上に足元が震えていた。
「あなたが反抗したい気持ちは理解できます。あなたの母親はあなたの意思に関係なく生きる選択肢を強制させてきたのかもしれません。それでも、あなたは生きているだけでも価値があると思うのですが」
「ふっ、きれいごとさ」
「いいえ、紛れもない事実です」
「うっ、うるせえ」と明らかに声が張りつめていた。
すると―
奴はそこから彼との距離を一気に詰め始めた。それは物理的にも精神的にでもある。生徒と一対一で接近した途端。
「ふざけやがって!」そう言いながら彼は手すり越しにサクラの胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。
しかし、伸ばそうとした手は容易に跳ね返された。そして、跳ね返されるだけにとどまらずその反動で彼の体は後ろの方へとゆっくりと傾いていった。数秒後、俺の目の前から姿を消した。
一方、奴はと言うと―振り払った瞬間に飛び上がり軽々と柵の向こう側へとジャンプ。すぐさまうつ伏せの状態に移行し柵の向こう側の細い足場に体を着けた状態に見えた。サクラの動きが止まった瞬間に俺の足も自然と、まるで枷が外れたかの様に動き始めた。
急いで柵に手を掛けて下を見ると阪本君は片手だけでサクラの手を握ってぶら下がっている状態だった。
「たっ、助けてくれぇ!」と泣き叫ぶ生徒の顔は必死そのものだった。
「おい、早く助けろよ」と奴に命令する。しかし、奴の反応は「いいえ」と一言だけ答えるだけだった。
「ここからが本番ですよ」
「おい! 聞いているのか!」
「そんなに助けたいのなら校長が助けてあげればいいじゃないですか」と冷たい声で奴は俺の事を煽り始めた。
「何を馬鹿な事を言っているんだよ、畜生!」と言いながら俺の体はおそるおそる柵をまたぎ、二人がいる方へと降り立った。
「さて、阪本君、あなたは今、生と死の狭間にいます。どんな気持ちですか?」
「いっ、いい加減にしろ! シャレにならねぇぞ!」と俺は奴の冷徹な暴走を止めようと意を決して坂本君に手を伸ばそうとした。その刹那―俺の片足が滑る。
「えっ、」それと共に俺の体はあの気持ち悪い感覚に襲われた。あの浮いた様な感覚である。まずい、まずい、まずい! もう終わりなのか。視界から二人が次第に遠ざかっていく。あの時の浮遊感が蘇る。
最後まで読んでいただきありがとうございます。