バイブリカル・スレイブ-2
暑さがピークを迎える時間を映画館の館内で過ごした新平と由貴の二人は、そこから程近い場所にあるカフェへとやって来ていた。
夕食にはまだ早いこの時間、店内はそれ程混雑しているという訳ではないが、それでも座席の半分は埋まっている。それこそ夕食までポッカリと時間が空いてしまった者達が、何かをするには足りない微妙な時間を持て余しここで暇を潰しているのだ。
では、店の隅に設置された円形の四人席に座している新平達はというと、二人の間に夕食を共に取るという予定は今のところ無い。
新平は由貴とこのまま一緒に夕食を取りたいと考えているが誘う勇気が出せず、次善の策としてカフェに入りロスタイムを稼いでいる、というのが現状であった。
そんな中、由貴はアイスティーの注がれたグラスから延びるストローを弄び、カランコロンと氷の当たる小気味良い音を鳴らしていた。
「素敵な映画でしたぁ」
映画館を出てからというもの由貴はトロンととろけた瞳で虚空を眺め、時折甘美な甘味を口にしたように溜息を零してはこうして賛辞の言葉を繰り返していた。
「ええ。主人公の一途な姿が良かったですね」
「やっぱりそう思いますよね! はぁ、あんな恋愛がしてみたいです」
そして新平はそれに同意する返事を繰り返していた。
二人が観たのはベタベタの恋愛ものだ。
もう少し具体的に言えば、不治の病に侵されたヒロインとそのヒロインを一途に思い続ける主人公の、愛するという事、そして生きるという事に向き合うお話である。
由貴は賛辞をこれでもかと浴びせている事から分かる通り、この映画にいたく満足していた。
原作となった小説のファンでもあるらしく、惚けては熱弁し、熱弁しては惚けてを繰り返している。
だが一方で、新平の賛辞の言葉は本心からのものではなかった。
確かに良いお話だったとは思うものの、その感情は主に病魔と懸命に戦うヒロインの姿に起因するものであり、主人公とヒロインの恋愛模様には特に思うところはなかった。
というのも恋愛に疎い新平からすれば、この映画は『面白かった』、『つまらなかった』という評価を下す以前に、『難しかった』のである。
しかし満足していないかと聞かれれば、由貴が満足しているので新平も大満足だった。まったく現金な男である。
そして新平が由貴の興奮に水を差すのを望むべくもなく、由貴の言った感想をあたかも自分の感想が如く流用して答えているのだった。
――どうやって切り出そう……
適当に、という訳ではないが、由貴への返答には独自の解釈を交えないので思考を割く必要がない新平は、いかにして夕食の件を切り出すかという難題について思案していた。
単純に『夕食も一緒に食べませんか?』とでも誘えば良いのだが、本命の四番打者を相手にド真ん中直球勝負というのは初登板の新平には荷が重かった。
そもそもにして映画を見たのも『雲雀町まで来てご飯だけでは勿体無いから』という言い訳があり、このデート自体『賭けに負けた罰ゲームだから』というお膳立てがあった。つまり変化球で組み立ててきた試合に今更直球を投げられないのも無理からぬ事である。
ならばさも当然のように『夕食はどこで食べますか?』などと聞いてみようかとも新平は思ったが、そんなスローボールを『自宅で食べます』などと打ち返された時は目も当てられない。
やはり最後の勝負は直球しかないかと新平は決心し、いやに乾く喉を潤すべくアイスココアをゴクリと飲み込んで、姿勢を正して投球フォームに入った。
「ゆ、由貴さん」
「はい?」
新平の突然の呼び掛けにキョトンとしながら由貴は返事を返し、その様子に新平は唐突だったかもと思ったがそのまま突き進む。
「あの、良かったらご飯を……晩ご飯を……」
――告白をする訳じゃないんだ! 例え断られたって大した事はないじゃないか!
「……晩ご飯を?」
なけなしの勇気を振り絞る為に黙し俯いてしまった新平に、由貴は小首を傾げて続きを促す。
そして意を決した新平はガバッと顔を上げ、
「晩ご飯を二人で食べるシーンも良かったですよね!」
牽制球を投げてお茶を濁すのだった。
その後、晩ご飯を取るシーンは小説には無い映画特有の演出であったらしく、新平は由貴に長々とそのシーンが何を意味していたかの推論を語られる事になった。
無論、由貴のファン心の導火線に火を着けてしまった新平は本題へと踏み込む事が出来ず、一度立て直しを図る為にカフェ内のお手洗いへと、それこそ逃げるようにやって来たのだった。
新平は目に見えない何かを拭い去るように水でバシャバシャと乱雑に顔を洗うと、水滴の滴る前髪越しに鏡に映る臆病者を睨み付ける。
「一体お前は何をやってるんだ酒井新平。ご飯に誘うぐらい簡単な事じゃないか。この意気地なしめ」
弱気な自分に嫌気のさした新平は鏡の向こうの自分に蔑みの言葉を吐いてみたが、それはそのまま向こうから言われてるようなものであり、新平の気分は空気の抜けた風船のようにしぼんでしまった。
「……はぁ」
そしてそれを体現するかのごとく、深く溜息を吐いた。
――秋人先輩ならこんな時、サラッと切り出せるんだろうなぁ……
そしてふとそんな事を考えてから、新平は首を横に激しく振った。
これは由貴を夕食に誘う勇気が出せるか出せないかという結局は自分との戦いなのであって、人と比べて卑屈になっても仕方がないと思ったのだ。
――そうだ、これは自分との戦いなんだ
新平はどこかで、これを由貴との駆け引きのように考えている自分に気が付いた。どのようなタイミング、口上で誘えば成功の確率が高いかと、そんな事ばかりに気を取られていたのだ。
実際はそんなに複雑な事ではない。
誘わないという選択肢を選ばない以上、新平には由貴を夕食に誘う選択肢しかない。その誘いに伸るか反るかを判断するのは完全に由貴の領分であって、新平があれこれ考えても仕方がないのだ。
よくよく考えてみれば今という短い時間で誘いを断りたくなるようなイメージの悪化は有り得るが、その逆はそうそう有り得ない。
ならば今更意味の無い事に気を回すのは止めて、素直に一緒に夕食を食べたいという旨を話すのが最善の手段である。
「よしっ!」
新平は水を弾くように頬を両手でパチンと叩く。それからポケットから取り出したハンカチで顔の水気を拭うと、意気込みも新たに由貴の待つ店内へと向かって行った。
トイレへ行く前と同じ、混んでいるのか混んでいないのか微妙な人混みの店内に戻った新平は、由貴の待つ席を見て首を傾げた。
先程まで二人で座っていた席にもう一人、見知らぬ女性が腰掛けていたのだ。
鋭い目元を強調するようなフォルムの銀縁の眼鏡をかけ、黒のパンツスーツに身を包んだ見るからに仕事の出来る女といった風貌のその女性は、円形のテーブルに四つの椅子が置かれているその席の、由貴の向かいではなく隣と言える席に座している。
――知り合いかな?
空席もある事から見知らぬ者との相席だとは考え難い。だがしかし、知り合いだと思ってはみたものの雰囲気からしてそれも違うような気が新平にはした。
新平の位置から由貴は後ろ姿しか見えないが、どうも由貴はその女性と会話をしていないように見える。
そもそも視線すら合わせていないのではと、新平は由貴の後ろ姿から推察した。
――どういう事だろう?
どうにも状況が掴めず、しかしここで立ち尽くしていてる訳にもいかない新平は由貴のいる席へと戻る事にした。
近付いていくと背を向けている由貴ではなく、その見知らぬ女性が新平に気が付く。そしてニヤリと口角を歪め、真っ赤な口紅の塗られた唇に人差し指を立てて添えた。
静かに。もしくは喋るなというサインだと新平は理解したがその意図は分からず、そしてどこの誰かも分からぬ彼女の指示に従う気はさらさらなかった。
彼女と交差した視線を直ぐに外し、
「由貴さん。こちらの方は……」
新平は背後から覗き込むようにして由貴に話しかけ、そしてサインの意味を理解した。
薄く開かれた口からは規則正しい呼吸が僅かに確認出来るが、焦点の合わない瞳はどこを見詰めるでもなく、由貴の表情はまるで催眠術にでもかかっているかのように脱力したものだったのだ。
突然現れた見知らぬ女性と浮かべていた不敵な笑み。そして精巧な人形だと言われれば恐らく信じてしまうだろう、生気をまるで感じさせない由貴の表情。
導き出せる答えは一つだ。
「貴様、『四重奏』……ッ!!」
新平は怒鳴りそうになる衝動を何とか抑えつけ、弾かれたように女に顔を向けた。
「君はなかなかに返答の難しい質問をする。そうだな、君達が『四重奏』以外の誰かにも付け狙われているのならば、私はその問いに対し愚問だと答えなければならない。しかしもしそうでないならば、私は君の洞察力に賛辞を送るべきだと思うのだが、どうだろう?」
「由貴さんに一体何をした……」
実に楽しそうに、そして中身の無い返答をする女の言には付き合わず、新平は怒りを露わにした表情と口調で問う。
「その問いに答えるにはまず、私の能力を明かす必要がある」
女は愉快だというのを隠そうともせずそう答え、新平に由貴の隣、つまり自分の向かいの席に座るよう促した。
由貴に何をされたのか分からない以上、新平は指示に従う他無い。そして新平が怒りに震えながらも椅子に座るのを待ち、女は口角を歪めたまま能力を発現させた。
テーブルにかざした手の下に一冊の本が現れる。
革張りの表紙にはタイトルも何も書かれておらず、分厚いそれは新しくはないがが古びてもいない、一見して不思議な印象を受ける本であった。
「私の能力、バイブリカル・スレイブは契約の能力だ。同意のもとに交わされた契約を迅速かつ確実に履行する。例えそれがどんな契約であってもだ。一例を見せよう」
女はおもむろにページを捲り、本をテーブルの上で半回転させ新平に向ける。新平は女を睨み付けていた視線をその本に落とした。
そこには手書きでこう書かれていた。
『酒井新平を解放して欲しければ、藤森由貴は桂木美和子の出題する問いに正答しなければならない。それが出来なければ、藤森由貴は桂木美和子の物になる』
そしてその下には葛城美和子と、それとは別の筆跡で藤森由貴と名が記されており、由貴がこの契約に同意した事を示していた。
これを見た新平の心中にはやり切れない思いが湧き出し、頭を抱え込みたい衝動に駆られた。どうしてこんな訳も分からない契約を結んでしまったのだ、と。
いや、どうして、というのは契約の内容から察する事が出来る。
恐らく由貴は騙されたのだ。新平を捕らえたと。
新平が思うのは、なぜよりにもよってこんな滅茶苦茶な契約を、という事であった。
この契約は、あらゆる部分が全く足りていない。
まず『出題する問い』というのが範囲が広すぎる。例えば『小学生の頃の私のあだ名は何でしょう』などというプライベートな問題が出されたとしたら、由貴には絶対に正解を答えられない。
更に『解放』が何を指すのかもこの契約からは分からない。これでは『この世に生きる葛藤からの解放』などと、新平を殺害する事が解放だと言われても筋が通ってしまう。
極めつけは『解放して欲しければ』という最低最悪の引っ掛けだ。これでは『勝てば解放する』ではなく、『勝てば解放して欲しいと願う事が許される』という意味にも取れてしまう。
これは悪意に塗り固められた、否、悪意より作り出された契約である。
「なかなかよく出来た契約だと思うだろ? 一番のポイントは『物になる』という部分だ」
表情から新平がこの契約の真の内容に気が付いたと見た美和子は、得意気に『物』の字をトントンと指で叩いて示した。
「物とは文字通り物、ペンや消しゴムと同じさ。奴隷なんかよりもっと深く、感情や意志、生命維持すら含め私の所有物になり、私の意のままに出来るという事だ。本来ならば失う筈の無いものですら、私の能力ならば徴収する事が出来る」
無論、そんな事を聞かされていない彼女はこんな事になるとは思ってもみなかっただろうが、と美和子は笑いを堪えるようにして付言し言葉を続ける。
「今の彼女は私の命令さえあれば、君の座っているその椅子にすら恋慕の情を持って股を開き、私に行為を許された事への感謝の涙を流しながら嬉々として初めてを散らすだろう」
「……それ以上その汚い口を開いてみろ。腕を突っ込んで声帯を握り潰してあげますよ」
美和子のおぞましい発想による脅しに新平は恐怖よりも憤怒を抱き、低い声でそう警告をする。
そしてその反応がお気に召したのか、美和子は一層口角を吊り上げた。
「彼女は今、私の命令で気を失っているだけだ」
命令されたからといって、ブレーカーを落とすように自ら気絶する事など人間には出来ない。だがそれを由貴が実際に行っているという事は、契約に基づき由貴の体は命令を忠実に実践する『物』と化しているという事である。
美和子の話した生命維持すら所有したというのは決して誇大表現ではなく、今の由貴は命令されれば心臓の鼓動すら止める存在となっている。それ程までに美和子の能力、バイブリカル・スレイブは強制力があるという事だ。
「もし望むならば、私は彼女を無傷で取り戻す機会を君にやろう」
「……一体何が狙いですか?」
由貴を手駒にされた時点で新平は追い詰められていると言って良い。
こうして大人しく美和子の話を聞いているように、実に厄介な形で由貴を人質を取られている状態であるし、由貴に普段通りに振る舞わせ奇襲をかける事も出来た。
新平が取り戻すチャンスを与えるなどという提案を訝しく思うのも当然だと言えた。
「自分で言うのもおかしな話ではあると思うのだが、私はなかなか難のある性格をしている。安っぽいようで不本意だがあえて短くまとめて言うと、私はわがままで、気まぐれで、そして何より――」
美和子はテーブルに身を乗り出して新平にニヤニヤと笑みで歪む顔を近付け、
「――退屈が嫌いだ」
そう囁くように告げた。
そしてスッと新平から離れた美和子は体重を背凭れに預け語を次ぐ。
「更に己の欲求には忠実であるべきだというのが持論だ。さて、伝わっただろうか? 私の真意が」
「暇つぶしが目的、という事ですか……」
「そう、大正解だ。私を正しく知って貰えて嬉しく思うよ、酒井新平。君とゲームをして暇を潰したい。それが望みだ」
笑みを浮かべたままの美和子の顔を数秒睨み付けてから、新平は静かに瞼を閉じる。
それからゆっくりと両肘をテーブルに着き、口元を覆うようにして手を組んでから、鋭い眼光で再び美和子を見据え、そして口を開いた。
「由貴さんは、頭は良いのに人を疑うという事が出来ない……悪意というものに鈍感な人なんです」
唐突な切り出しにも表情を変えない美和子を鋭利な視線で射抜きながら新平は続ける。
「表層では警戒してみても、深層では無条件に相手を信じてしまう。貴女の持ち掛けた契約もそうです。姑息な手段で騙そうとしている貴女の悪意にも気付かず、由貴さんは真っ当な勝負をするものだと信じてしまった」
新平や秋人と出会った時もそうだ。由貴は『四重奏』に騙され、知らず知らずの内に悪事に荷担してしまっていた。
純粋だと言えば聞こえは良いが、言い換えれば世間知らずで見通しが甘く、判断力が著しく欠けていると言える。そして能力者として敵と対峙するならば、由貴のこの性分は決定的に命取りとなるだろう。
ならば由貴は変わるべきである。そうでなくては『四重奏』に敵対し、危険に寄り添う立場にいる今を生き抜く事が出来ない。
「僕は今、怒っています。それも、かつてない程に。現在進行形で『腸が煮えくり返る』というのを体験しているんですよ。なぜだか分かりますか?」
だが新平はそうは思わない。由貴は由貴のまま、今のままであるべきだと考えている。
新平だけではない。秋人も緩奈も翔子も、皆が同様に思っている。だから由貴のありように誰も苦言を呈さない。
それはそうあって欲しいという彼等の願望も多分にあり、『四重奏』というふざけた連中に汚されてなるものかという、使命感にも似た気持ちもある。
たが感情論による理由だけではない。
足手まといとも言える由貴の存在は、足手まといだからこそ意味があった。
足を引っ張るという表現があるが、それはブレーキになっているとも表現出来る。
ブレーキの利かない車に次が無いように、秋人達も何物も省みずに突き進む事が出来てしまえば、恐らくいつかは日常に帰る事が出来なくなるだろう。
非日常という名の奈落の上で殺し合いという綱渡りをする秋人達にとって、由貴は命綱に相当する存在なのだ。
「貴女は利用した。由貴さんの汚しちゃならない部分を、貴女は薄汚い欲望の為に利用したんです。踏み入っちゃならない領域に、貴女は土足で踏み入った」
そしてそこに付け込む輩には一切の容赦をしない。
それもまた、由貴と共に歩む事を決めた四人それぞれが抱く、決意、覚悟、誓いであった。
「契約を交わしましょう。勝負を受けます。最初に言っておきますが、僕には言葉遊びの小細工は通用しません。そして――」
新平はスッと上体を美和子に寄せ、
「――僕は由貴さんのように優しくはない。貴女のような者には、特に」
そう、囁くようにして告げた。