バイブリカル・スレイブ-1
夏休みの二日目に当たるこの日、新平は西桜庭町の更に西、雲雀町へとやって来ていた。
ショッピングモールや映画館と休日にこそ需要のある施設の多いここ雲雀町は、夏休みだけあり今日は一層の賑わいを見せている。遊びに来た道行く人々の足取りは一様に軽く、皆が夏の熱気に当てられたのかどこか浮かれた様子であった。
そんな雲雀町で新平は何をしているかというと、電車が到着する度に改札から吐き出される人の波を、緊張した面持ちで見渡していた。
半袖の青いチェックのシャツを第一ボタンまでキッチリと止め、緊張感というより緊迫感すら感じさせる様子の新平は、強張った顔付きで右に左にギリギリと錆び付いた機械の駆動のように首を動かす。
そして待ち人の姿が見えない事を確認するとある種の安堵を感じ、そして次の電車の到着に向けて再び緊張を高めて行くのであった。
新平が待っているのは由貴だ。
テスト結果で彼女と賭けをしていた新平は、秋人の予想に違わず惨敗を喫していた。そのせいで新平は今日、由貴にご飯を奢る事になってしまったのである。
だが新平の心境は、嫌々罰ゲームを受ける被害者のそれではない。そもそもこれを罰ゲームだとすら考えていない。
新平にとってのこの状況は、都合の良い理由を手に入れ自然な形で漕ぎ着けた絶好のチャンス、デートという名のご褒美である。
昨日、新平は今日に備えて二十時には床につき、結局二十三時に眠りについた。そして五時に起床、六時には準備を完了させた。
それからお茶を飲んだりしてはみたものの落ち着かず、居ても立ってもいられず家を出て、当初シミュレートしていた全ての予定時刻が前倒しを繰り返した結果、待ち合わせの十二時にはかなり早い九時には改札に到着したのだった。
それからというもの、新平はこの場に地蔵のように微動だにせず立ち尽くしている。
昨晩から今に至るまでの行動から分かるように、新平の意気込みたるや筆舌に尽くしがたい。
いささか空回りをしてる感も否めないが、女性と待ち合わせをして遊びに行く事など新平には初めての経験なのだから、それも仕方が無い事だと言えた。
いつもは無垢とも表現出来る程に、女性に対して羞恥の無い紳士っぷりを見せる新平の姿は、今は欠片も無かった。
「……大丈夫か?」
ガチガチに緊張した新平にそう声を掛けたのは秋人だ。隣に立ち新平と同じく待ち合わせをしている秋人は、余りにあんまりな新平の様子に僅かに苦笑を浮かべていた。
秋人は新平とは別件で、ここで春香と待ち合わせをしている。
以前、二宮健一の件で緩奈が教室に来た時に春香の機嫌を損ね、更にその後三日間も連絡を取れなかった事で秋人は完全に彼女の不興を買っていた。
なので今日は春香のご機嫌を取る為に、こうして雲雀町へと遊びに来たのだった。
新平達と待ち合わせの日時と場所が被ったのは単なる偶然である。
現に秋人は改札前にたたずむ新平に気付き声を掛けたが、事情を聞き、気を利かせて離れた場所にいようとした。
だが新平が心細いので一緒にいてくれと懇願した為、無粋だと思いながらも仕方なくこうして並んで立ち尽くしているのだった。
「だ、大丈夫、全然大丈夫です。……ああ、やっぱりダメです、心臓が口から出てしまいそうです……」
「肩の力を抜け。いつも通りにすれば大丈夫だから。学校でも一緒に昼飯を食べたりしてるんだろ?」
いつもに比べ幾分も早口で、新平は表情からも余裕を微塵も感じさせない。そんな新平の肩に片手を置いてグイグイと揉みほぐしながら、秋人は何度目かになる緊張を和らげる為の言葉を掛けた。
だがその効果は皆無であった。
「学校とじゃ全然勝手が違います……先輩、やっぱり今日は一緒にいてくださいよぉ」
「情けない声を出すな。それに邪魔者が居たら折角の一日が勿体無いだろう? 大丈夫、お前ならうまくやれる」
新平が弱音を吐き、秋人がそれを勇気づける。そんな事を繰り返している内にも、待ち合わせの時間は徐々に迫ってきている。
そして約束の時刻の十五分前になった時、改札を抜けた待ち人の姿を二人は見付けた。先にやってきたのは春香だった。
幾何学模様のあしらわれた軽そうな布の、茶色と橙色の中間色といった色彩のロングスカート。淡い黄色のティーシャツに大きめのアクセサリーを身に着け、小さな足にはナチュラルテイストのサンダルを履いている。
モロッコの市場でも歩かせればそのまま絵になりそうなラフな格好ではあるが、いつもと違い秋人と新平には構造も分からない髪型をしている辺りからも、お洒落をしてきたのを即座に察する事の出来る出で立ちであった。
ちなみに秋人は黒のポロシャツにベージュのカーゴパンツと、こちらは単純にラフな格好だ。
「こっちだ、春香」
「あっ秋人!」
肩に掛けた服装と合わせたバッグから携帯を出そうとした春香に秋人が声を掛けると、春香は直ぐに二人に気付き、顔をほころばせて駆け足でやって来た。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「少しだけな」
「そっかそっか。新平もデート?」
少々変則的なお決まりのやり取りをしてから、春香は横に立つ地蔵にそう尋ねた。
「は、はい。僕はそう思ってます」
「あはっ、ガッチガチだ。頑張ってね」
新平の様子から事情を察した春香は、そう言って新平の肩をポンポンと叩いた。
「邪魔をするのも悪いし、俺達は行こうか」
「うん!」
長居をしては由貴がやって来てしまう。
秋人は新平が心配ではあったが、自分が居たところでどうにもならないだろうというのをこれまでの時間で理解していた為、早々にこの場を離れる事にした。
「も、もう行っちゃうんですか?」
「じゃあな、新平。今日は楽しめよ」
「もう少しだけ一緒に……」
「じゃあね、新平! 楽しめよ!」
秋人と春香の二人は新平の弱々しい声を聞こえないようにして歩き出し、直ぐに人波に紛れて姿を消した。
縋るように差し出していた新平の手は、それを見届けてからブラリと垂らされた。
不安と緊張で押し潰されそうになりながら、新平は再び改札を向いて立つ。
前日までは今日という日が楽しみで仕方なく有頂天になっていたというのに、今や緊張の余りこのまま煙のように消え去りたいとさえ思えてきていた。
そして新平のアイドリングが三時間に差し掛かろうとした時、とうとうその瞬間が訪れる。
電車が到着し、ホームから押し出されるようにして改札に流れ込む人混み。新平はその中に、いつもとは格好も髪型も違い、雰囲気も違って見えたが、それでも即座に由貴を発見した。
しかし発見は奇跡的なまでに早かったが新平は心の準備が未だ出来ておらず、取れた行動と言えば緊張を極限まで高め、石の地蔵から鋼鉄の地蔵へと硬度を高める事だけだった。
新平が町のオブジェと化している間にも、状況は流動的に変化する。
辺りを見渡しても新平を見付けられなかった由貴は、改札口の隅へと移動し新平の到着を待ち始めた。
そこでようやく致命的なミスに気付いた新平の顔色が変わる。
――し、しまった! この状況は予定に無い!
由貴の取った一連の動きを目で追っていながらも行動出来なかった新平は、狼狽え、そして後手に回った事を心底後悔した。
新平の予定では自分が先に待っているのは大前提であり、このように待っている由貴に自分から声を掛けなくてはならないシチュエーションは想定していなかった。
もう少し早めに自我を取り戻していれば先程の秋人を手本に声を掛けたのだが、そのタイミングも既に逃してしまっている。
だが無論、このままという訳にはいかない。
由貴は完全に『待ち』の姿勢。新平から動かなくてはならないのは明白である。
――篭城に対する必要戦力は三倍というのが通説。三時間待った僕なら……いけるッ!!
そして訳の分からない思考による薄っぺらな自信を携え、新平は意を決して由貴へと歩み出した。
緊張により膝の曲がらなくなった新平の歩行は歩み寄るというより、にじり寄る、と表現した方が正しいかも知れなかったが、どちらにしろ接近を開始したのであった。
由貴に近付くにつれ喧騒が遠く感じ、代わりにやけに鮮明に聞こえる心臓の鼓動に、新平は耳元で打ち鳴らされているような錯覚を覚えた。
最早歩む足の感覚もなくなり、視覚が何を捉えているのか理解する事もままならない。
ただ、純白のシフォンブラウスに黒のふんわりとした短いスカートを着た由貴を、それほど上等な服装でもないのに深窓の令嬢のようだと、そう思った。
由貴に見取れボンヤリとしたまま歩いていた新平は、いつの間にやら自分が由貴にかなり近い場所まで来ている事に気が付く。
「ゆ、由貴さん!」
そして発した声は大きく、悲惨なまでに裏返ってしまった。
驚いた由貴はビクリと肩を震わせてから振り返り、あっ新平くん、と微笑みながら至って平静に返した。
「私より早く来てたんですね。あ、もしかして長い間待たせてしまいましたか?」
そして由貴は新平にそう不安げに尋ねた。
思考回路がショートしている新平は、ついさっき聞いたような気がするその問いに対し、
「す、少しだけ」
無意識の内に、ついさっき聞いた気がする答えを返していた。
「ごめんなさい……もっと早い電車に乗るべきでしたね……」
そして失敗した。
約束の時刻よりも前に来ているというのに、本当に申し訳なさそうにシュンとしてしまった由貴に新平は我に返る。
「いや、冗談ですよ! 僕も今来たばっかりですから!」
「本当に……?」
「ええ、多分同じ電車だったんじゃないかなぁ? あはは!」
本当は三時間も前に来ているのだが、それは口を引き裂かれても言ってはならない。新平もそれぐらいの事は理解出来た為、笑う事で無理やり追及を躱した。
「そ、それでは、まず映画館でチケットを買って、それからお昼を食べましょう」
雑談というのは意外にハードルが高い。
新平はスケジュールに沿う事でその難関を打破する事にした。
今の新平に由貴を映画に誘う勇気など振り絞れる訳がなく、前日の内に、雲雀町くんだりまで来て昼ご飯だけというのは勿体無いので映画も見よう、と提案していたのは正解であった。
「はい! 昨日パソコンで調べたら、丁度良い時間のがありましたよ。空いてると良いですね」
元気に返事をして楽しそうに話す由貴に、新平の顔には自然と笑みが浮かんだ。
そして昨日の内に映画の時間を調べてくれたと聞いて、もしかしたら由貴も今日を楽しみにしていてくれたのかも知れないと思い、高揚する気持ちから鼻息も荒く映画館へと意気揚々と歩き出すのだった。
余談だが、この後映画のチケットを買った二人はイタリアンの食事処へ入る事になる。
そこで無難にパスタを頼んだ新平は、店員の些細なミスによりフォークとナイフを渡されてしまうのだが、そうとは知らない新平は恥をかきたくない一心に、その未知の用途に苦悩するのであった。