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チェリー・オーバー-2

「ふー……」


 肩まで湯に浸かり、体の芯から疲れが滲み出るような心地良さに包まれた秋人は、手足を伸ばして深く息を吐く。

 緩奈の言う通り最初こそ落ち着かなかったが、手足を伸び伸びと放り出しての入浴はやはり格別であった。


 二人ぐらいならば大人でも楽に入れてしまうこの広さも、白い柔らかな湯気が立ち込めているせいか今や全く気にならない。


「悪くないな」


 不意にルーシーのニヤリと笑う得意気な顔が浮かんだ秋人は、手放しに誉めるのはなんだか(しゃく)なので天の邪鬼にそうボヤいてみた。

 それでも一応の賛辞を送る辺りに、本音では十分過ぎる程に満足している事が伺える。

 事実、ここが『番犬』のアジトというあくまで敵地であるにも関わらず、秋人は自身が心底リラックスしている事を自覚していた。


 しかし、暖かさと若干の浮力で全身の筋肉がほぐされ緩んでいくのとは裏腹に、秋人の頭の中では未だに堂々巡りの思考が繰り返されていた。


 秋人が思索しているのは無論、先程緩奈とも意見を交わした小枝子の今後についてである。

 そして行き着く結論はやはり変わらない。


――『四重奏』に対抗できるだけの力を持った協力者、か……


 考えをどうこねくり回しても、やはり協力者の存在は必要不可欠だった。

 そして『四重奏』が能力者集団である故に、協力者の条件は必然的に能力者となる。


 秋人が持つ能力者との繋がりは大きく分けて四つ。


 行動を共にする四人の仲間達。一般人と称し分類して問題ない夏目と健一。一応の協力関係にある『番犬』。そして敵対している『四重奏』である。


 『虫食い』との繋がりもあるが、『虫食い』は一部を除き能力者では無い。彼等は能力を仕掛けられた非能力者だ。

 そもそも中立の立場にいる彼等が秋人に手を貸す事は無い。


 『四重奏』は言うまでもなく協力者の候補から除外される。

 『番犬』は小枝子の保護を秋人に任せた張本人なのだから、彼等の助力も期待出来ない。


 となると残る候補は二つ。しかしどちらに属する人間も全員が学生だ。

 僅かに違いはあれど、生活のリズムが秋人とほぼ完全に重なる。


 秋人が学校や自宅にいる間小枝子を守るとなると、必然的に誰かが日常を捨てなくてはならなくなる。つまりは秋人の為に犠牲にならなくてはならない。


 自己犠牲も厭わない人物がいるかどうかは別にして、そんな手段を秋人が取れる訳がなかった。


 つまり、秋人が持つ協力者の(つて)は全滅だった。


――丁度良い能力者がいないか綾に聞いてみるか?


 秋人は自問する。

 候補がいないなら、新たな候補を立てる他無い。秋人はそれを『虫食い』に紹介して貰おうと考えた。


 一見、能力者の斡旋など『虫食い』の本分から外れているようにも思えるがそれは違う。これはあくまでも情報の仲介だ。


 例えば『能力者としての仕事を探している』、という情報を『虫食い』に売り誰かがその情報を買えば、情報の売買という形で擬似的に『虫食い』は能力者の紹介をした事になる。

 『仕事をしてくれる能力者を探している』という情報を売った場合も、前述の流れとは逆の形で能力者に仕事を紹介する事になる。


 仕事を探す能力者、能力者を探す者、このどちらからのアプローチも可能にしている『虫食い』のシステムは、他の追随を許さぬレベルの利便性があるのだ。


――いや無いな。危険は犯せない


 しかし思い至ったその案を払い落とすように、秋人はお湯を掬い顔を拭った。


 『虫食い』の斡旋も万能ではない。


 まず、この『虫食い』を利用した仕事探し、人材発掘に気付く者が果たしてどれほどいるのかが分からない。

 利用者が多く事業の規模が大きければ、それだけ質の高い能力者が揃うのは自然な事であり、逆もまた然りである。

 規模が分からなければ、質の良し悪しも予想出来ないという事だ。


 助けは必要だが、秋人に猫の手を借りるつもりはない。

 強者である事。それがそもそもの大前提なのだ。


 更に紹介された人物に全幅の信頼を置く事は出来ない。

 信念を(たが)え、自己の利を最優先し損得勘定で動くフリーランスを、雇い主が信用出来ないのは当然の事である。


 これが秋人にとっての最大のネックであった。


 自分の目が届かぬ間、小枝子を素性の知れない者に任せるという事はつまり、金で雇った傭兵に王の寝室を警護させるようなものだ。

 防犯の為に野良犬を庭に囲い込み、それで家主が噛み付かれたのではかなわない。


 信用は出来ずとも、利害が一致すればまだ良い。

 だがそれすら期待出来ないとなると、『虫食い』の紹介という手段を秋人が取る事は出来なかった。


――手がないな


 現状での解決は不可能と見た秋人は、天井に向けて吐いた溜息で立ち込める湯気を払った。

 そして不意に見た時計で珍しく長風呂をしている事に気付き、思考を切り上げ、栓を抜いた湯船から火照った体を引き上げるのだった。






 緩奈が準備してくれていた着替えは、黒のティーシャツにスウェットという普段秋人が自宅で寝間着に使うようなものだった。

 先に風呂に入った小枝子と緩奈がパジャマを着ている事から、自分も同じものだろうと思っていた秋人には嬉しい誤算である。


 寝間着を幾通りも準備している『番犬』にも秋人は驚いたが、それ以上に緩奈が自分の嗜好を理解し準備したのにも驚かされた。

 なぜ分かったのかという疑問が沸々と涌いてきたが、秋人は深く考えず緩奈だからという事で納得する事にした。


 テキパキと着替えを済ませた秋人は洗面台に移動し、そこのトレーに置かれたアメニティの歯ブラシへと手を伸ばす。

 そして透明な袋に入ったそれを手に取ったところで、秋人は異変に気が付いた。


――震え……?


 伸ばした指先が、ほんの僅かに震えていたのである。


 風呂上がりの秋人に寒気はない。むしろポカポカとした暖かさを感じている。

 だというのに、秋人の指先は確かに震えていた。


――寒さじゃない。かといって筋肉疲労じゃないし、のぼせた訳でもない。何かがおかしいな


 冷静に自らの体の状態を検分し、そしてこの震えの異常性を秋人は確信する。

 僅かな震え程度ではあるが、これまでの経験から秋人が漠然とした違和感を感じるにこれは充分な現象であった。


 秋人は手に取った未開封の歯ブラシをトレーにそっと戻す。

 そして首に掛けていたタオルで髪の水気を拭いながら、落ち着いた足取りでダイニングへと歩き出した。


 何が起きているのかは分からないが、何かが起きているのならばそれは、人為的なものであるかそうじゃないかのどちらかだ。

 そして人為的なものであるとしたならば、この事態を引き起こしている人物、つまり敵に異常に気が付いた事を悟られるのは利口じゃない。


 今はまだ変化が緩やかだ。

 もともとそういう効果なのか、はたまた目的がありそうしているのか。それは分からないが、もし後者であり秋人に行動を察知されたとなれば、敵が早急に決着を付ける為に動き出すのは明白である。

 それは秋人にとって都合が悪い。


 そして今はまだ緊急性が低い。現状、異常事態ではあっても緊急事態ではない。


 故に秋人は悠長とも取れる形で行動を起こしたのだった。


 間接照明の灯されたダイニングに入った秋人は、まず壁に設置されている空調の端末を一瞥する。

 空調は正常に機能しており、表示されている室温も至って正常だ。


――寒さのせいじゃないな


 凍えるような室温ではない。

 そして空調が効いているならば、震えの原因はやはり神経ガスなどの毒の類によるものでもないと秋人は思考する。

 『やはり』というのは、寒さと同様にその可能性は極めて低いと秋人は初めから考えていたからだ。


 神経ガスによる症状はまず目眩や吐き気、頭痛や発汗から始まり、次に震えなどとは表現出来ない抑えようのない痙攣(けいれん)が起こる。そして意識が混濁し、最終的には死に至る。


 それを考えれば秋人の震えは余りに症状が軽い。神経ガスが原因ならばこの程度では済まされない。


 秋人は思考を巡らせながらダイニングを横切り、緩奈のいる部屋へと向かう。

 影響を受けているのは自分だけではないだろうと予測する秋人は、ノックを挟まず無遠慮にドアを開け放った。


「緩奈、無事か!」

「うん? どうしたの秋人?」


 飛び込むという程の勢いではないが、力強くドアを開け部屋へと入ってきた秋人の様子と台詞に緩奈は首を傾げる。


 ダイニングと同様に間接照明の灯された部屋で、緩奈はベッドに足を揃えて腰掛け、いつもは結んでいる長い黒髪を下ろし(くし)でとかしていた。


 最悪の場合も一応は想定していた秋人の予想に反し、実に日常的で平和な時間が部屋には流れていた。


「手を出せ、緩奈」

「急にどうしたの?」


 誰の目も無い状況に置いても絵になる隙の無い所作は緩奈らしいな、などと秋人は思ったが、今はそれどころではない。

 症状の確認の為に、秋人は煮え切らない様子の緩奈の腕を掴んだ。


「もう、一体どうしたっていうのよ?」


 掴み上げた腕をジッと見る秋人の行動を疑問に思いながらも、真剣な表情故に緩奈は従いながら半ば呆れた口調で尋ねる。

 そして十分な時間を置いてから秋人が口を開いた。


「……ない」

「生命線とか結婚線の事だったら承知しないわよ」

「震えていない」


 的外れな事を言っている緩奈の手には、秋人とは違い震えの症状は出ていなかった。


――俺だけが影響を受けているのか?


 緩奈には症状が出ていない。そしてこの部屋にもダイニングにも異常は見当たらない。

 だとしたら、考えうるのは秋人のみがピンポイントで標的にされている可能性である。


――どうやって狙いを付けているんだ?


 どのようにして自分だけを標的としているのか。

 それが分かればこの異常の真相に近付く事が出来ると、秋人はそう考えた。


 だがその思考に没入する寸前、秋人はその考えを捨てる。


「緩奈、外に出る準備をしてくれ。俺は小枝子を起こしてくる」


 異常の根源について思考するのは重要だが、幸いにしてここは『番犬』のアジトである。

 真っ先に原因の排除に動き出すよりもまず、影響から逃避する事で速やかに危険を回避し、後に応援を呼び圧倒的に優位に立ってから敵を排除する方が賢明な判断である。


 腑に落ちない点の多いこの状況に対し、秋人は既に能力者による攻撃を仮想していた。


「震えって、それに外って秋人、今から外に出掛けるの? もう夜も遅いわよ?」


 状況を把握出来ていない緩奈は怪訝な表情で秋人に問う。

 突然の事なのだから、緩奈が秋人の言動を不可解に思うのも仕方がない事であった。


「原因の分からない震えが俺の手にあるんだ。何か嫌な事が起きている予感がする」


 秋人はクローゼットの扉を開いて、その広さに対して極端に少ない服の中からハンガーに掛かっていたパーカーを手に取りながら、掻い摘んで緩奈に事情を話す。


「でも震えって言っても」

「大袈裟かもしれないが無視は出来ない。頼む、言う通りにしてくれ」

「でも秋人」


 説明を聞いてなお納得出来ない緩奈は秋人の説得に間を置かず口を挟む。


「貴方、震えてなんかいないわよ」

「……は?」


 そして秋人の予想だにしていなかった事を緩奈は告げた。


 その言葉に振り返った秋人は持っていた服を取り落とし、直ぐに自分の手に視線を落とす。


 手の震えは、何事もなかったかのように治まっていた。


――馬鹿な……何故……いつからだ!?


 思いがけない事態の進展に、様々な疑問が秋人の頭の中を駆け巡る。


 緩奈が気付いたのは秋人に腕を掴まれたあの時。だとしたらその以前に既に震えは治まっていたという事になる。


――いや、それ以前の問題だ……


 時系列ではなくもっと根源的な問題、震えは本当にあったのかという疑惑が秋人自身の中で浮上して来ていた。


「今日までずっと眠っていたんだし、まだ調子が良くないだけじゃないかしら?」


 立ち上がり歩み寄った緩奈は優しく手に触れ震えがないのを確認すると、秋人の心中に湧き上がってきた疑問を肯定するようにそう言った。


「……そうかも知れない」


 本当に震えがあったのかどうか自信が無くなり、疑心暗鬼に陥った秋人はそうじゃないと思いつつも強くは出れない。

 そして異常事態だという判断は否定しながらも、震えの存在自体は肯定してくれている緩奈の言葉に、秋人は頷く他無かった。


「…………」


 しかしやはり心底納得する事は出来ない。

 証拠もなければ確信もなくなったが、震えは確かにあったのだと秋人は心中で叫ぶ。


 押し黙り、緩奈の手が添えられた自分の掌を見詰める秋人に対して、緩奈は溜め息を吐いた。


「もう本当に子供よね、秋人は。全部が思い通りに行かないからってしょげないでよ」

「そんなつもりは……」

「明らかに納得いかないって顔してるじゃない」


 フンと鼻を鳴らした緩奈は踵を返し、ベッドにポツンと置かれていた髪留めを取って口にくわえ、下ろしていた髪をまとめ出した。


「いいわ、分かったわよ。どうせこのままじゃ寝れないでしょ? 外に出るのに付き合ってあげる。着替えるからその間に小枝子ちゃんを起こして来て」

「……すまない」

「もう秋人に振り回されるのにも慣れちゃったわよ。ダイニングで待ってて」

「分かった」


 再びフンと鼻を鳴らして不平を表す緩奈に感謝の念から軽く頭を下げ、秋人は部屋を後にした。


 部屋を出た秋人は直ぐに小枝子の眠る隣の部屋へと向かう。そして急いで扉を開き、照明の落とされた暗い部屋の中に入った。


 ダイニングからの明かりで照らされたベッドの毛布は小さく上下し、小枝子の寝息が僅かに聞こえてくる。

 安らかに眠る小枝子に申し訳ないという思いもあったが、秋人は足早に近付くと丸くなっている小枝子を軽く揺すった。


「小枝子、起きてくれ小枝子。小枝子」

「ん……」


 眠りが浅かったのか、秋人に揺すられ繰り返し名を呼ばれた小枝子は直ぐに瞼を薄く開けた。


「あ……ご、ごめんなさい、あの、わたしいつの間にか眠っちゃってて……」

「いや、良いんだ。起こしてすまない。急用が出来た。外に出るから準備してくれ」

「うん、分かった……」


 こういった状況でも、秋人の行動に一切の疑問も不平も抱かない小枝子の反応は早い。

 ただその反応が正しいか否かは別である。


 小枝子は眠たい目をこすりながらも直ぐベッドから抜け出し、秋人のシャツをキュッと掴んだのであった。


「……外は寒い。クローゼットから何か羽織る物を取って来てくれ」

「はい」


 小枝子はトテトテといった風に駆け足でクローゼットへ行き、先程秋人が緩奈の部屋で手に取ったのと同じパーカーを取って戻ってくる。

 つまり持って来たのは小枝子が着るにしては大きめのパーカーが一着。そして小枝子はそれを秋人に差し出すのであった。


「……ありがとう。だがこれは小枝子の分だ」

「え? わ、わたしが着て良いの?」

「ああ、勿論だ」

「でも、えっと、どうしよう……」


 小枝子に非はないが、ペースを合わせているとどうにもこうにも時間が掛かる。

 秋人は小枝子が未だ差し出しているパーカーを受け取ると、それを肩から羽織らせた。


「あ……」

「緩奈も今準備している。行こう」

「うん」


 なぜか驚いている小枝子の手を握り、秋人は再びダイニングに戻った。


 ダイニングに緩奈の姿はまだ無く、秋人は一先ずソファに小枝子を座らせその隣に腰掛ける。

 そして今後どう動くのが最適か、異常を引き起こしている正体は何なのかと、秋人は黙考した。


 一分、二分と時が経つ。

 ただ時計を眺め思考を巡らせながら待つ秋人にとって、その時間は酷く長い時間に感じた。


 そして三分が経ち、小枝子がコクリコクリと船を漕ぎ出したのをきっかけに、秋人は再度動き出した。


「まだか、緩奈?」


 秋人は扉をノックしながら緩奈に問い掛ける。

 しかし返答はない。


 もう一度ノックして呼び掛けるが、やはり返事はない。


 そこで秋人はある事に気が付きハッとした。


 自分にだけ影響が出ていたように、この異常はターゲットを絞り込む事が出来る。ならば緩奈のみを狙う事も可能ではないか、と。


――クソッ、俺は何故それに気付かなかったッ!?


 考えれば簡単に分かる事である。

 秋人はそんな事にすら気付かなかった自分の不甲斐なさへの怒りを禁じ得なかった。


 ダイニングで浪費した三分間も、実のところまるで中身が無い。

 なぜか集中力が欠け思考はまとまらず、気付けばボーっと時計を眺めてばかりいた。なんとか思考を引き戻しても、ただ闇雲に頭を悩ませるだけで成果は皆無であった。


 愚鈍。秋人は自分への怒りに奥歯を噛み締めるが、感情的になるのは二の次だ。


「緩奈!」


 最悪の事態が脳裏によぎり、秋人は扉を打ち破るように開け放ち部屋へと飛び込んだ。


「うん? どうしたの秋人?」


 部屋に飛び込んできた秋人に、緩奈が首を傾げる。


 緩奈はベッドに足を揃えて腰掛け、長い黒髪を櫛でとかしていた。


 部屋には、実に日常的で平和な時間が流れていた。


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