チェリー・オーバー-1
秋人が目覚めたその日の夜。『番犬』のアジトを足早に歩む一つの人影があった。
夜の帳が降りた薄暗い廊下には、足下を照らす照明に淡い光が宿り、音を殺し歩むその者の顔を下方から照らし出している。
どこかおどろおどろしい雰囲気の中、その者の顔は憮然としながらも僅かに笑みを浮かべるという、照明による加味を別にしても奇妙と言える表情をたたえていた。
納得は出来ないが喜ばしい出来事に遭遇した。そんな表情である。
「慎治郎さんもよく分かんねぇなぁ……」
廊下を進む男は、まず不可解な点について一人呟く。
「どうしたってあんなガキを……透かした野郎だってだけで別にどうって事ねぇのによ……」
彼が侮蔑を込めて言う透かしたガキとは他でもない、秋人の事である。
まるで知人について話すかのような口振りの通り、額面通りではないが文字通り、男は秋人をよく知っている。表面上の、ではあるが、彼は長い間秋人を見ていた。
というのも、ルーシーとの関わりを持ってから秋人が感じていた尾行は彼によるものであったからだ。そして『番犬』の構成員である彼に尾行をさせたのは、同じく『番犬』に身を置く慎治郎の指示によるものである。
団長であるルーシーと和臣が一目置く秋人に対し、慎治郎はある種の興味を持たざるを得なかった。その興味は決して好意的なものではなかったがしかし、秋人の動向に気を配るという点では好意的なそれと変わりない。
それが秋人を調査した男にはどうにも納得出来なかった。
格好付けの女っ誑しのそこいらにいるただのいけ好かないガキ。それが彼の目に映る秋人の印象であり評価である。そしてその印象は、形を整えはされるが内容はそのままに慎治郎に伝えられた。
だが、味方にも敵にもなったところで別段気にかける必要はない、わざわざ神経を尖らせるような驚異は微塵もない、という男の報告に対し、慎治郎は調査を続けさせる内容の返事を返すばかりで満足する事はなかった。
それが男には腑に落ちないのだ。
なぜ秋人をそれ程意識するのか。それとも自分の報告はそんなにも信用出来ないのか。
疑問は苛立ちとなり男の心中を掻き回していた。
「まぁ良い。結局は俺に嬉しい展開になったんだしよ……」
そう呟くと、男はニンマリと喜色に満ちた笑みを浮かべる。
男が苛立ちを募らせる中、一向に進展の無い調査報告に慎治郎も同じように苛立ちを感じていた。
秋人の尾行でさえ、他の者には知られてはならない慎治郎の独断による行動であったにも関わらず、積もり積もった苛立ちは慎治郎を更に大胆な行動に駆り立てた。
このまま受動的な消極策を続けたところで成果は出ない。そう見切りを付けた慎治郎は、能動的な積極策に打って出たのだ。
秋人への攻撃。それが、男に与えられた慎治郎からの新たな指示であった。
能ある鷹は爪を隠すとはよく言ったもので、能力者は自身の力を晒しはしない。例え能力者である事を暴かれたとしても、生命線である能力そのものをみだりに公にする事はまず無い。
しかし慎治郎は秋人が爪を剥き出しにした本来の姿を見極めておきたい。
限りなく可能性の薄い、秋人が自身の前で真価を見せる機会が自ずと訪れるのを悠長に待つのは、明らかなる愚策。ともすれば、秘めたる爪を剥かざるを得ない状況を作り出す他に慎治郎に残された選択肢は無かった。
そしてその方法として、秋人の攻撃という手段が選ばれたのである。
自棄になったのではない。そもそも慎治郎は秋人を味方と認識していない故に、この手段を取る事も辞さない構えを以前から取っていた。
そして今日という日が、決行にまたと無い絶好の機会である事も慎治郎の背中を押した。
作戦の決行にあたり慎治郎が最も憂慮すべきは、事前は勿論、事後にも事が露呈してしまう事である。
独断で秋人に尾行を付け、一人とはいえ『四重奏』の縄張りである東桜庭町に人員を投入、更に秋人への攻撃を敢行したとなれば責任の追及は免れようがない。
成果の有無よりもまず、誰にも知られない事こそが最優先事項なのだ。
そして作戦の露呈を防ぐ為には勘の良いルーシーと、諜報系の能力を常時展開している真琴の不在が必須事項だと、慎治郎はそう考えていた。
そしてその条件が偶然にも今夜、整ってしまった。
三日前、小枝子のエア・トランスポートにより発現した飛行船を西桜庭町から仙宮町へと放ち、由貴を病院へと送る作戦が執り行われ、その作戦は予定通り滞りなく完遂された。
しかしこの作戦は仙宮町を縄張りとする能力者集団、『極楽蝶』に不信の念を抱かせる事になった。
多くの能力者を生み出す東桜庭町の北に位置する仙宮町は、言わずもがな好立地であり、そして同時に激戦区でもある。つまり能力者集団のいない空白地帯である筈がなく、そこに根を張る『極楽蝶』は『番犬』にも比肩する実力の戦闘集団なのである。
そうなるといかに『番犬』が大きな組織であるとは言え、『極楽蝶』をないがしろにする事は出来ない。
更に性質が悪い事に『極楽蝶』は『番犬』のように秩序を重んじる事は微塵もなく、自由と快楽のみがこの世に存在する不動の価値ある物と認識する者達の集まりだった。
彼等の弱肉強食を躊躇なく実践するその姿勢からは、生まれる時代が違えば間違い無く山賊の類にでもなっていたであろう事を、否応なく、そして誰にでも確信させる。
言ってしまえば『極楽蝶』は巷の不良グループと変わらない思考で行動しているのである。
そんな彼等がエア・トランスポートによる由貴の輸送を『番犬』からの攻撃と捉えた為、ルーシーは今後の『極楽蝶』の動向に頭を痛めていたのであった。
最悪、『極楽蝶』による問答無用の報復行為も有り得るとルーシーは懸念を抱いていた。
しかし、意外にも彼等は説明と謝罪を求めるという理性的な大人の対応を見せた。
『極楽蝶』らしからぬ判断だとも取れるが、連絡を受けたルーシーの聞いた判断理由は実に『極楽蝶』らしく、そしてシンプルだった。
『犬っころとやり合う危険を犯すぐらいならば、危険な女を犯す方がマシ』
笑えない内容の冗談ではあるが、面子や誇りを完全に軽視するその答えにルーシーは思わず吹き出していた。
とはいえ、判断を下した『極楽蝶』の指導者も指導者という立場がありプライドをかなぐり捨てる訳にはいかず、指導者直々に仙宮町へと赴き謝罪する事を今回の一件を水に流す条件に出した。
ルーシーはそれを了承、真琴を含む護衛と共に今夜仙宮町へと出向いていったのだった。
この好機を慎治郎が見逃す手は無い。
そして作戦の実行を決めた慎治郎に、更にもう一つ嬉しい偶然が起こった。
それは秋人の尾行につけた非能力者であった男が、東桜庭町に長くいた事が影響したのか最近になって能力を顕現させたのだ。それも奇襲に打ってつけの能力を。
この誰も知らない新たな能力を襲撃に使えば、例え秋人が攻撃を受けた能力の詳細を把握し『番犬』の誰かに話した所で、内部犯とは絶対に暴かれる事はない。
もっとも、秋人への襲撃に能力を行使した事を隠し通す為には、今後も実行犯である男は非能力者として振る舞わなくてはならない業を背負う事になるのだが、当人にその自覚はなかった。
男の心は力に目覚めたばかりの者が往々にして抱く喜び、そして歪な優越感に支配されていた。
格段に優位な状況からの初陣、そして能力者に対し嫉妬に限りなく近い憧れを抱いていた彼に、高揚感を抱くなという方が土台無理な話である。
「へへ、殺しはしねぇから安心しろ。軽ーく遊んでやるだけだ……」
言葉の通り、危機感の無いこの状況からの襲撃は男の中ではほとんど遊び感覚であった。
子供が買い与えられた玩具を早く開封したがるように、試し撃ちをしたい一心でウズウズしていた。
不意に男の足が止まる。
待ちに待った目的地に到着したのだ。
一層つり上がる口元の歪みを抑えようともしないまま、男は淀みない挙動でゆっくりと右手を目の前のドアへとかざした。
その動きは、まるで指揮棒を構える指揮者のようである。
「行くぜ……発動、チェリー・オーバー!」
そして、男は秋人達のいる部屋に、能力を発動した。
アジトにいる間好きに使うようにとルーシーが緩奈に与えた部屋は、一人で使うにはかなり広い2DKの間取りの部屋であった。
ワンルームのアパートよりも広い二つの個室にはベッドや机、ソファにテレビなどの一見して安価ではないと分かる家具が完備され、それぞれには一つの部屋と勘違いしてしまいそうになる広さのウォークインクローゼットまである。
二つの部屋と二つのウォークインクローゼット、これと一つの壁で面するダイニングも異様なまでに広く、キッチンも大人一人が大の字で寝転がれる程に広々としたシステムキッチンだ。
トイレはさすがに見慣れた規模のものであるが、その反動なのか風呂場がこれまた開放感すら覚えかねない広さを有する。
ただただ広いとしか言い表せない、仮住まいとしてでなくとも広すぎるこの部屋が緩奈に与えられたのは、秋人が目を覚まし病室を出たら共にここを使うようにというルーシーの意図があり、緩奈はそれを理解したのだがしかし、それでも広い。
姫乃の銃撃により秋人が深い眠りに落ちている間に案内された緩奈もこれには戸惑い、これより格段に質素な部屋、それこそクローゼット程度の広さの部屋で良いとルーシーに訴えた。
だがベッドが二つある部屋となると同じ間取りかそれ以上の部屋しかないと言われ、緩奈は恐縮しながらも仕方なく引き下がったのだった。
そして今夜、この部屋に初めて案内された秋人は今、明かりを消した暗い部屋のベッドに腰掛けていた。
「もう寝た?」
部屋の扉が開き、緩奈がしっとりと濡れた髪をタオルで拭きながら顔を出す。
ダイニングから差し込む一筋の光がベッドに腰掛ける秋人と、そしてその横で猫のように丸くなって眠る小枝子を照らし出した。
「ああ、少し前にな」
小声で尋ねる緩奈に小声で返答し、秋人は力が抜け僅かに開いた小枝子の掌からそっとシャツの裾を引き抜いて腰を上げる。
そして小枝子のくるまっている毛布を掛け直し、小さく嘆息した。
「変わった子よね」
「……ああ」
緩奈は小枝子の過去を知らない。
それでも感じ取った小枝子の違和感に緩奈は哀れみを含まない率直な感想を述べ、秋人は複雑な心境でそれに頷いた。
こことは別に、小枝子もルーシーから部屋が与えられている。捕虜という立場上、電子ロックにより扉が外部から制御され夜間に部屋から出る事は出来ないが、単身用である事を除けば小枝子に与えられた部屋は秋人達の部屋と大差ない。
夜に出歩く必要の無い小枝子にすれば、そこはかとなく窮屈に感じはすれど不便は無い部屋である。
だが小枝子は夜が近付くにつれソワソワし出し、明日も一緒に居ていいか、明日は何時に起きているか、何時以降なら部屋を訪れて良いかなどを遠回しに秋人に尋ね、直接言葉にはしなかったが部屋に戻りたくないという意思を見せた。
その様子を見かねた秋人と緩奈は、小枝子を部屋に戻さない事に別に不都合は無いので、今夜は自分達の部屋に小枝子を迎る事にした。
ここまでなら秋人に懐いていると取れるが、やはり小枝子の保つ距離感は付かず離れず微妙なものだった。
小枝子が秋人達の部屋に泊まるとなると、ベッドの数が足りなくなる。
最初は緩奈と同じベッドで寝かせる事にしようとしたが、小枝子は秋人のシャツを離さない事でそれに難色を示し、それでは秋人はソファで寝るのでベッドを使うようにという提案をしたが、恐れ多いといった挙動でそれにも頷かなかった。
秋人と小枝子が同じベッドで眠るという提案は、子供とはいえ女性だという事で緩奈は黙殺し、秋人は過去のトラウマから冗談でも提案してはいけないと分かっていたので同じく口にしなかった。
ではどうしようかと秋人と緩奈が悩んでいると、頭を捻る二人を尻目に小枝子は当然のようにクローゼットへと入っていった。自分を置いてどこかに行かないよう、秋人の靴を持って。
その予想外の行動をポカンとした表情で見送ってしまった秋人と緩奈は慌てて小枝子を追い、そこで寝ようとしている小枝子に部屋で寝るよう促した、が、やはりその提案には頷かなかった。
簡単な解決策は、小枝子にベッドで寝ろと命令をする事である。逆らえない小枝子はベッドで寝るしかなくなり、事は楽に進む。
だが貴子の話を聞いた秋人はそうはしたくない。
かといって自分は悠々とベッドで眠り、小枝子をクローゼットの隅で寝させる訳にもいかない。
悩んだ挙げ句、秋人は緩奈と同じベッドで寝るからと言い聞かせ、なんとか小枝子を自分のベッドで寝かしつけたのであった。
「本当にあの子を引き取るの?」
部屋を出て小枝子を起こさないよう静かに扉を閉めてから、緩奈は秋人に対する親心に似た感情からそう言った。
「秋人もまだ子供だし、普通の子でも大変なのにもっとずっと荷が重そうよ?」
「断れない事情なのは知ってるだろ? そもそも能力者を預かるんだ、楽じゃないのは小枝子に限った話じゃない」
「秋人の人生って本当にトラブルが絶えないわよね。退屈と無縁で羨ましいわ」
何を言ったところで、どうせ秋人は放り出される小枝子を見捨てはしないだろうと確信していた緩奈は、皮肉混じりにそう言って苦笑する。
もし小枝子を見捨てる判断を下せば緩奈が黙ってないだろうと確信する秋人も、緩奈の皮肉にまったくだと言って苦笑した。
「小枝子ちゃんを預かるなら誰かの助けが必要になるわね」
冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを取り出し、それをグラスに注ぎながら緩奈は具体的な話に踏み込む。
小枝子を引き取る事が決定事項であるならば、それをどうするのが最善かに思考を切り替えるのが賢明だと緩奈は理解したのだ。
そして緩奈も秋人に学校を辞めさせ実家から出させるつもりはなく、故に秋人と同じ、誰かの手を借りるという結論に至っていた。
「ああ、それも戦闘に長けた人物の助けがな」
ダイニングのソファに腰を下ろした秋人は頷き、緩奈の言う誰かの絶対条件を足す。
小枝子はただの子供じゃない。能力者だという点だけで勿論そうなのだが、ただの能力者でもない。
小枝子は『四重奏』に属していた。
今も『番犬』による監視もとい、護衛が着けられているように、いつ小枝子に『四重奏』の魔の手が伸びるが分からない。
『四重奏』に属していたのは小枝子の意思ではなく、事実小枝子はいつ来るか分からない『四重奏』の迎えに怯えている。
そして小枝子にはそれから逃れるだけの力があるのだが、いかんせん意志が弱い。そもそも小枝子は『逆らう』という思考そのものが欠落している。
故に協力者には『四重奏』を退けるだけの力が必要になるのだ。
「心当たりは?」
「まるでない」
だがそんな人物が都合良くいる訳がない。
何度繰り返しても同じところで行き詰まる思考に、秋人は堪らず溜息を零した。
「まぁ今すぐの話じゃないし、追々考える事にしましょ」
「ああ」
結局は結論を先延ばしにする他なく、秋人は緩奈のその提案に頷くのであった。
小枝子の話題はここまでと打ち切った緩奈は話題を変える。
「秋人もお風呂に入ってきたら? 広くて落ち着かないかと思ったけど気持ち良かったわよ。それに一緒に寝るのに不潔なのは嫌」
「……緩奈、本気にはしないが冗談でもそういう事は言わない方が良いぞ」
秋人は呆れたような表情で緩奈をジト目で睨んだ。
小枝子を説得する手前、緩奈と同じベッドで眠ると言ったが秋人にそれを実践するつもりは毛頭無い。
ダイニングのソファで寝れば何かの拍子に小枝子に嘘がバレかねないので、緩奈と同じ部屋では寝るが同じベッドで寝る気はない。秋人はソファを使うつもりであった。
無論、緩奈もそれを分かって言っている。
「一緒の部屋で寝るんでしょ? 違うの?」
「…………」
ハメられた。
秋人は緩奈が策士と呼ばれていたのを思い出し、心中でそう叫んだ。
一緒に寝るの意味を履き違えた事に秋人の落ち度はない。緩奈の台詞は間違いなくミスリードを狙ったそれであった。
「怖いわぁ、何を勘違いしたのかしら」
「……この三日で性格が悪くなったか?」
「状況に流される尻の軽い女になってるよりはマシでしょ?」
そう言って自分の肩を抱いてわざとらしく怯えたポーズのまま、緩奈は秋人に不敵な笑みを見せた。
純粋にこの状況を楽しんでいる様子の緩奈の問いに、秋人は溜息で返答して立ち上がる。
「思ってみれば三日振りの風呂だな。せっかく豪華な部屋に泊まれるんだし、風呂ぐらい堪能させて貰うとするか」
悲しいかな、豪華な部屋のソファで寝なくてはならない秋人は、着替えは準備して置いたという緩奈に礼を言ってから、風呂場へと向かっていった。
血塗れのままベッドに寝かせる訳にはいかず、実は貴子が初日に秋人を風呂に入れているので二日ぶりの風呂なのだが、秋人の尊厳の為に緩奈はそれは口にしなかった。