ホール・ニュー・ワールド-7
翌朝、酒井は重い足取りで体を引き摺るようにして学校へと向かっていた。
秘密裏に不良をやっつけていた昨日までは、まるでヒーローになったような気分だった。張りぼての、中身なんてまるでないヒーローだったけど、心はまるで満たされなかったけれど、それでも過去に比べれば格段に幸せだと思った。
心にぽっかり空いた隙間も、学校一の美少女の春香をものにすれば埋まると思っていた。
「そんな訳ないのに……」
酒井は自嘲気味に苦笑して呟いた。
例え春香を手に入れたとしても、能力で手に入れた後ろめたい安息などに安らぎなど無く、決して埋まる事のない隙間だった事は誰よりも酒井本人が理解していた。
――当然の報いだ
因果応報。昨日から何度と無く繰り返している言葉を、酒井は再び頭の中で反芻し、そしてうなだれた。
校舎が見え、酒井の足取りは益々重くなる。秋人の錘が未だに付いているんじゃないかと酒井は思った。
親には心配をかけたくないという気持ちだけで、今日も何とか校門を抜け下駄箱に辿り着く。
「オイ」
「ッ!!」
そこで掛けられた声に、酒井は大げさ過ぎる程に飛び上がった。
声を掛けてきたのはやはり不良グループの一人であった。
酒井の心臓が早鐘を打つ。気を失っていたせいか件の犯人が自分だとは知られていないが、それでも彼等の声を聞くだけで反射的に冷や汗が背中をジットリと濡らした。
そして、いつものような鋭い視線を向ける不良を見て酒井は絶望した。またこの生活に舞い戻ってしまった、と。
「もう! 昨日はなんで途中で帰っちゃったの!?」
「色々あってな。悪かった」
昨日、秋人はあれ以降授業を受ける気になどなれず、あのまま帰宅していた。その為今朝は教室に入るなり、一緒に帰れなくて不満たらたらな春香の説教を受ける羽目になったのだった。
しかし頬を膨らませていた春香の顔が何かに気付き曇る。
「え? 怪我……してる……」
春香は背伸びをして秋人の唇の傷にそっと触れる。無論、これは昨日酒井につけられた傷だ。
「秋人……喧嘩、したの?」
手の怪我にも気付いた春香が、眉を八の字にして恐る恐る尋ねる。
あれは喧嘩の類のものなのだろうかと秋人は少しだけ逡巡したが、どちらにしても返答は同じなので思考は直ぐに放棄された。
「今朝ベッドから落ちたんだ。喧嘩なんかしてないから心配するな」
春香が余計な心配をしないよう秋人は嘘を吐いた。
その答えに疑いを抱きながらも一応納得した春香は、先程までの怒りなどどこかに忘れてしまっていた。
予定より早く説教から解放された秋人は自分の席に向かい椅子に座ると、後ろから付いてきていた春香が秋人の机にちょこんと座る。
そしていつも通りの他愛ない会話が始まるのだった。
――昨日も確認したが、後遺症とかはないみたいだな
秋人は春香と言葉を交わしながら、左手で何度か宙を握り返して調子を確かめる。
一度切り離されたというのに左手には違和感一つない。不良達も問題ないだろうと秋人は安堵の溜息を吐いた。
――それにしても……
能力はやはり常軌を逸している。秋人はそう思った。
自分の能力も勿論だが、それ以上に酒井の、初めての他人の能力は衝撃的だった。秋人は能力が人には過ぎた力であるという考えを改めて再認識した。
「ねぇ、ちょっと良い? 春香」
昨日見たテレビの話しをしていた春香と、その話しを聞き流して物思いに耽っていた秋人が声の主へと首を向ける。
話しかけてきたのはクラスメートの女の子だ。
二人の甘い時間を邪魔してしまったと思っているのか、申し訳なさそうにしている。
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
「えーっと、噂を聞いたのよ」
春香の返事に、女の子はチラチラと秋人を見ながら答える。
「噂? 噂がどうかしたの?」
春香の噂などこの学校では日常茶飯事だ。だから意味が分からず春香は首を傾けた。
しかし一方秋人は、冷や汗をダラダラと滝のように流していた。不味い。その一点に思考が集中していた。
何を隠そう、恐らく彼女が真相を確かめようとしているのは、昨日秋人が例の噂好きの女生徒を使って流した噂である確立が、猛烈に高いからだ。そしてその真相をここで暴かれては秋人の計画はご破算なのだ。
違う噂であれと祈ると、自然と秋人の姿勢が良くなった。
「あのさ、春香って虐められてる男の子がタイプって本当?」
ド直球の質問に秋人の滝汗は勢いを増す。秋人はシャワーのように顔面から汗がピューっと飛んでないか心配になった。
彼女が確認したのはまさしく秋人が昨日流した噂であった。
春香が虐めに嫌悪感を抱いているのは不良の間でも有名な話である。
春香に気のある不良達が、だからといって甘い汁を啜るのを止めるかというと、それはまた別な話で「バレなければ良い」というスタンスを当然取っていたし、実際春香にはバレていなかった。
虐めをしている側を見つけるのは意外にも困難なのだ。
それに比べ、虐められている側というのは容易く見つけられる。
虐める側が事の後に家まで送る訳でも無し、何かと目に付きやすい存在なのだ。
そこで秋人は『虐めをする人が嫌い』を『虐められている人が好き』と改変、否、捏造し、不良達への一つの抑止力にしようとしたのだ。
効果の有無はさておき、ここで春香が否定してしまっては元も子もない。
まさか本人に確認するとは思って居らず、秋人は『春香との昼飯にでも酒井を誘えば少しは信憑性が出るかな』などと悠長に構えていた。
しかし今は、嘘から出た真を信じ、心の中で祈るように指を絡ませ春香に対して必死に念を送っていた。
「うーん、そうだなぁ……」
春香は顎に手を添えて考える。考えるような質問ではないというのに、春香は考える、フリをした。
春香は秋人の挙動がおかしい事に気付いており、秋人にチラリと一瞬だけ視線を送った。目の合った秋人は、本当に微妙な動きで頷くと、春香が視線を尋ねてきた女の子に戻す。
「うん、どっちかって言ったら好きかな」
秋人は春香を胴上げしたい気持ちになった。そのまま天高く放り投げ、空飛ぶ力を与えたい。果たしてそれが感謝の意を込めた褒美なのかは謎だが秋人はそう思った。
友達がやっぱりそうなんだ、と言って去っていった後、秋人はとりあえずしこたま頭を撫でてやり春香は大満足だった。
酒井が教室に飛び込んできたのはその直後の事だった。
酒井の手によって壊れる勢いで扉が開け放たれ、突然の来訪者にクラス中の視線を集めながら酒井はキョロキョロと視線を巡らせた。
走ってきたのだろう、息が絶え絶えである。
そして呆然としていた秋人と目が合うと、
「秋山さん!」
すぐに駆け寄ってきて、秋人の手をガシッと掴み両手で力強く握り締めた。
「秋山さん、いえ秋山先輩!」
どっちも変わらないだろうと秋人は思った。
「僕……僕……僕ッ!」
感極まって言葉が続かない。酒井の目には、昨日とは違う涙がこみ上げてきていた。
秋人はそれで意外にも計画が巧くいったのだと理解した。
意外にも、というのは、画策した秋人自身『まぁ無駄だろうけどやってみるか』程度の策だったのだ。
というのも、不良達が更に姑息な手で悪事を続ける事も有り得たし、逆に酒井への風当たりが厳しくなる事も考えられた。最終的には全員の顔を覚えたし、秋人は結局は実力行使になるだろうと思っていた。
しかし秋人の予想外に、予想以上に不良達は春香を重要視したのだった。
秋人は春香の人徳を褒め千切り、砂になるほど細かくした後に砂の城を築いてあげたいと、やはり謎な褒美を春香に与えたいと思った。
「うまくいったみたいだな」
秋人はそれだけ言って酒井に微笑んだ。
「やっぱり……やっぱり秋山先輩が……」
「言っただろ? 普通の学生になれって」
最早酒井が溢れる涙を止める術は一つしかなかった。そして迷うことなくそれを実行に移した。
「秋山先輩……大好きですッ!!」
「は?」
完全に隙を突かれ、秋人は胸に向かって飛び込んできた酒井を制止出来なかった。酒井は秋人の背中に手を回し、胸の中おんおん泣いている。
秋人を含めたクラス中の全員が呆気に取られた。
「……ちょ、ちょっと何なの、この子は!? ちょっと秋人から離れてー! 変な趣味を与えないでー!!」
真っ先に自我を取り戻したのは春香だった。酒井の服を背中から引っ張るが、残念ながらびくともしない。
次に現実を受け止めたのは秋人ではなく、クラスメート達だった。
「ま、マジか秋山!?」
「おめでとう! 春香ちゃんは任せとけ!」
「違……」
「不潔よ秋山くん! 不潔よ!!」
「良いわ……良いわ秋山秋人! 貴方分かってるじゃない!」
一斉に息を吹き返した面々により秋人の言葉など聞こえぬ程の騒ぎとなり、この一件は瞬く間に学校中に広まった。
そして史上稀に見る桜庭高校の一大トップニュースとなったのは言うまでもない。
魔王の絞り込み。春香の不良抑制。そして秋人と酒井の禁断の熱愛。
秋人はここ数日で噂というものの恐ろしさを、身を持って体感することとなったのだった。