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トラジック・チャージャー-9

 薬品の刺激臭とメンソールのタバコの臭い、そして香水の甘い香りが混ざりきった、何とも形容し難い、まるで魔術師の実験室のような異臭漂う部屋で、秋人は緩やかに意識を取り戻した。

 目を覚ましたという事を直ぐには自覚出来ない程に静かに目覚めた秋人が、自分が煌々と光を放つ天井の明かりを眺めている事に気付いたのはそれから数分経った時の事だ。


――あん?


 見覚えの無い白い部屋。簡易的なベッドに横たわり、僅かに熱を宿し火照る体。

 秋人は自身の置かれたこの状況に疑問を感じるが、昏睡とも言える深い眠りから目覚めたばかりの頭では一体何がおかしいのかが分からなかった。


――ん?


 現状を把握しようと、眠りに着く前の記憶を頭の奥から引き出し始めた秋人の耳に、パタンと扉の閉まる音が届いた。秋人は横になったまま、音のした方へと視線を向ける。

 縦長の曇りガラスがはめ込まれた白い横開きの扉は、何事も無かったように閉め切られておりそこに人の姿はない。


――誰かが出て行ったのか?


 扉が開き誰も入っていないという事は、誰かが部屋から出たという事だ。

 秋人が不自然なまでに冷静な頭でそう推理していると、今度は外から足音が聞こえてくる。そしてその足音が部屋の前まで来ると、間を置く事なく再び扉が開かれた。


「あらヤダ。ホントに気が付いてるじゃないの」


 扉を開いた人物は目を覚ましている秋人を見るやそう言い、わざとらしく、そしておどけるようにして驚愕の表情を作って見せた。


 白衣を着たその人物を医者であると認識した秋人は、ここはどこかの病室なのだと理解する。

 よくよく見てみれば、この部屋は保健室か診察室のようだと秋人は気が付いた。


 命を繋ぎ止めている事からも、どうやら自分は『番犬』により治療を施されたようだと思考し、秋人は理解の追い付かない現状にようやく納得する事が出来た。


 だがフリだとはいえ白衣の人物が驚愕するのは納得出来ない。驚愕しているのは自分の方だと秋人は思った。


 その理由は白衣の人物の格好にある。


 『白衣を着た人物』という表現は誤りではないが、事実を伝えるには少し言葉が足りていない。『白衣だけを着た人物』という表現の方がまだ正しい。

 だがそれも、白衣を脱げば全裸になるという訳ではないので的確ではない。仮に白衣を脱いだとすれば、上下セットの妖艶な雰囲気を放つ紫色の下着と、可愛らしい猫のキャラクターがプリントされたピンクのサンダルだけが残る。


 露出狂を体現しているその格好自体も問題だが、秋人の驚愕を引き起こした根源はそこではない。

 上下セット、つまり女物の下着を身に着けている訳だが、白衣の人物は男なのだ。それも短髪で無精髭を生やした、体格の良い中年の男なのである。


 一見しただけで変態だと分かる彼に驚愕されるのは、どうにも秋人には納得出来なかった。


「知らせてくれてありがとねー小枝子ちゃん。ご褒美に飴玉あげちゃう」


 秋人の胸中など知らぬ白衣の男は、まるで隠れるように背後にいた小枝子へと振り向き、頭を撫でながらイチゴミルク味の飴玉を白衣のポケットから取り出すと、それを小枝子に差し出した。

 果たして本当に受け取って良いものかどうかと戸惑う小枝子は、許可を求めるようにチラリチラリと秋人に視線を送る。

 しかし秋人の頭にあるのはこちらを伺う小枝子に対する返答ではなく、先程部屋を出て行ったのは小枝子だったのかという思考と、小枝子がいるならばここは『番犬』のアジトであり、この白衣の男は『番犬』なのだろうという推察だった。


「イチゴミルク味は嫌いかしら?」


 その問いに首を振った小枝子は、秋人の様子を伺いながら恐る恐る手を伸ばし、まるで繊細なガラス細工を扱うようにして飴玉を手に取った。


「急いで来たから喉が乾いちゃった。小枝子ちゃん、悪いんだけど飲み物買って来てくれる?」


 両手の掌に乗せた飴玉を嬉しそうに見詰めていた小枝子は、その問い掛けに顔を上げて頷く。

 その無言の了承を受け、白衣の男は飴玉を取り出した方とは別のポケットから五百円玉を取り出して、三人分の飲み物を頼み小枝子を笑顔で送り出した。


 小枝子の足音が遠ざかっていくのを確認してから、白衣の男は扉を自然と閉まるのに任せ部屋の中に入る。そして秋人を視界に収める事もせず、まずは壁に取り付けられた内通電話の受話器を取った。

 その表情は、小枝子に見せていた柔らかな笑顔ではない。


「クソ坊主が目を覚ましたぞ。用があんならとっとと来な」


 低い声で一方的にそう告げると男は受話器を壁に押し付けるようにして戻す。

 通話相手の声が聞こえない秋人からも、返答を待たずして通話を断ち切った事が見て取れた。


 そして白衣の男は背を向けていた秋人に振り返ると真っ直ぐ歩み寄り、秋人の胸倉を掴み乱暴に上体を引き起こさせた。


「何でテメーは頷いてやる事もしねーんだよ」


 眉間にシワを寄せ、歯を剥き出しにして怒りの表情を作る顔を秋人の眼前に寄せる白衣の男。

 秋人はこれが何に対しての怒りなのかが分からず、脳内に疑問符を浮かべた。


「飴玉なんか焼き肉屋だとか居酒屋の出入り口じゃあ無料で配ってんだぞ? それをたった一つ貰うのに、なんであの子があんなにビクビク怯えなきゃならねーんだよ。あ?」


 まるで脅すような口調の男のその台詞で、秋人は先程の小枝子に飴玉を渡した時の対応が男の怒りを買ったのだと気が付いた。


「黙ってんじゃねーよ。嘗めてんのか? テメーが怪我人で俺が医者だからって身の安全が保証されてると思うなよ? それともあれか、勝手に兄代わりにされて小枝子が(わずら)わしいか?」

「起きたばかりで考えが及ばなかっただけだ。別に小枝子を(うと)ましく思ってる訳じゃない」


 秋人はそう答えると腕を振り胸倉を掴む男の手を払う。


「小枝子の境遇は俺も気の毒だとは思ってる。だが――」

「自分は関係ねーってか? ふざけんなよ」


 払われた男の手は再度胸倉を掴み秋人の台詞を遮り、そして先程より更に乱暴に秋人を自分の方へと男が引き寄せる。


「テメーはあの子の兄代わりなんだぞ?」

「俺が望んだ事じゃない」

「それこそ関係がねー。結果としてあの子の兄を奪ったのはテメーだろうが」


 目覚めて早々、変態との厄介な問答に付き合わされている秋人は堪らず嘆息した。


「俺にそうさせたのはお前等『番犬』だろ? 大体それに関して責められる覚えはない。兄を失ったお陰で、彼女の生活は少なくとも一応の改善はされた。違うか?」

「クッ……」


 秋人の正論に男の言葉が詰まる。

 それを見て秋人が胸倉を掴む男の手を再び払いのけると、今度はその腕はそのままダラリと力無く垂れた。しかし固く拳を握り締めるその手には、指で掌を貫こうとしているかのように力が込められていた。


「俺だって分かってんだよ……お前に何を言ったってただの自己満足の八つ当たりだってな。でも、あの子を見てるとそうでもしなきゃやり切れねぇんだよ……」


 呟くように自白した男に、秋人は言葉を返さなかった。

 気持ちは分かる、などと無責任な事を言うつもりはないし、その言葉の責任を取る事も秋人には出来ないからだ。


 男はベッド脇にある机に差し込まれた車輪付きの椅子を引いて座り、引き出しから取り出したタバコを一本くわえて火を着けた。


「……あの子は支配とすら言える、過剰な依存状態にこそ安心を覚える。裏を返せば今のようなそうじゃない状態に不安になるんだ」


 天井へ向けて紫煙を吐き出した男は、その行方に視線を向けたまま独り言を呟くようにして話し出す。


「だからと言っていつまでも誰かに隷従させてちゃダメだ。それじゃあいつまでも経ってもあの子は幸せになれない。自分の意志で生きて良いんだと教えなきゃダメなんだよ」


 男は机の上に置かれた灰皿にタバコの灰を落とし、ガシガシと髪の毛を掻いた。


「これまで俺のした事と言やぁ、お使いやお願いという形であの子に命令を下していただけだ。笑えるだろ? 結局俺はクソ兄貴と同じ事しかしてねぇ。罰じゃなく褒美を与えた所でそこに意味なんか無いのによ」


 そう言って男は自嘲するように笑みを浮かべる。


「安心すると小枝子が笑うからさ、ついつい俺も手近なあの子の幸せに手を伸ばしちまうんだ。でもそれじゃあダメなんだ……俺じゃあ、ダメなんだよ」


 男まだ長いタバコを灰皿に押し付けると、椅子を回して秋人に向き直った。


「本心は知らねぇけど、あの子に対して悪意も好意も示さないお前が丁度良いのかもな。少しずつで良い。あの子を過去から解放してやってくれ。小枝子を頼むぞ」

「……は?」


 視線を虚空に向け黙って男の言葉を聞いていた秋人は、思いがけない台詞の締め括り方に間抜けな声を上げて男を見る。


「一体何の話をしてるんだ?」

「そのまんまだ、秋人。小枝子を引き取ってくれ」


 いつからそこに居たのか、扉を開き真琴を引き連れ部屋に入ってきたルーシーが秋人の問いに返答した。


「あらん、盗み聞きしてたの? 団長さんったら人が悪いわぁ」


 がに股で椅子にドッカリと座っていた白衣の男は急いで内股になり、小枝子に見せていた態度にスイッチを切り替える。


「相変わらずお前は気味が悪いな、貴文(たかふみ)

「もう、その名前で呼ばないでっていつも言ってるでしょ? あっそうそう、自己紹介がまだだったわね、秋人くん」


 白衣の男、貴文はルーシーと真琴へと向けていた顔を秋人に戻す。

 先程までとは打って変わって笑顔をたたえる貴文に対し、秋人は頭の天辺から爪先まで全身に鳥肌を立たせた。


「私は人呼んで『番犬』の癒やしの女神、『治療を施す能力者』の貴子(たかこ)よ。ボロ雑巾みたいになっていた貴方を治療したのは私なんだからね、感謝してよ?」


 色々言いたい事はあったが言葉が見付からず、秋人は無意識にルーシーへと助けを求める。


「意識の無い間の貞操は心配しなくて良いぞ、秋人。こいつは女にしか興味がない」

「同性愛者なの」


 語尾に音符を付けるような口調で白状し、赤らむ頬に両手を添える貴文改め貴子。

 外面以上に複雑な内面を持つ癒やしの女神に対し、秋人は引きつった笑みを浮かべる事しか出来なかった。


「そ、それで、小枝子を引き取れというのはどういう事だ?」


 秋人は微笑む貴子に視線を向けないよう努力しながら、ルーシーに尋ね話題を戻す。


「説明してやってくれ、真琴」

「はい」


 そしてルーシーの指示を受けた真琴が、これまでの経緯を秋人に語り出した。


 友人とmaidenにいた由貴は、駆けつけた恭一郎に事情を聞き緩奈と連絡を取った。そして緩奈の指示により、由貴は健一が運ばれた東桜庭町の北、仙宮町にある病院の屋上へとエア・トランスポートで送られた。


 既に治療室へと運ばれていた健一と一般人である由貴が接触を果たすのは困難なのだが、恭一郎から行き先を聞いた『番犬』が由貴の到着より前に病院に根回しをしたお陰で、それは問題にはならなかった。

 西桜庭町の病院に『虫食い』の息が掛かっているのと同様に、能力者集団は往々にして幅広い人脈を持つ。特に病院や警察、暴力団といった、裏表の区別なく有力な機関にほど顔が利く。今回もその一端が役立ったのであった。


 新平と翔子よりも先に由貴を確保する為に『番犬』の行動は素早く、副次的に早急に治療を受ける事の出来た健一は大事には至らなかった。

 輸血を受ける為と由貴の能力を隠す目的で未だ入院しているが、結果としていつでも退院出来る程度の軽傷で済んだ。


 一方、秋人の回収には手間取った。


 まず縄張りの端の端という場所が悪く、迎えを寄越すのに時間が掛かったという事と、発砲した為に姫乃達は一時的に警察から逃走しなくてはならなかった為である。

 一時的、というのは、先述したように『番犬』は警察機関に顔が利く為、架空の人物を逮捕した事にさせればそれで済むからなのだが、その処理をするには時間が掛かる。ましてや姫乃が捕まったり秋人が保護されれば尚更時間を食う。

 結果、姫乃と真琴は秋人を連れ逃走、指示された地点で医療班と合流という、面倒な手段を取らざるを得なかった。


 応急処置の出来る能力者ではなく、『治療を施す能力』の能力者である貴子を送るという策をルーシーは取ったが、それでもやはり時間が掛かった。

 その影響からなのか、秋人は治療されてからも三日間の間目を覚まさなかったのであった。


 順序立てた真琴の説明を受け、秋人はあの日から既に三日の時が経っている事。そして小枝子に借りがある事を理解した。


「このまま小枝子さんを『番犬』のアジトに置いていては何も変わりません。秋山さんに彼女を引き取って頂こうというのは、小枝子さんの幸せを思えばこその判断です」

「任せたぞ、秋人お兄ちゃん!」


 無駄に溌剌とした口調でそう言うと、秋人に寄り添うようにしてベッドに腰掛けていたルーシーは秋人の肩に両手を叩くようにして乗せた。


「む、無理だ!」


 しかし珍しく狼狽を露わにした秋人は当然その提案を拒否する。


「今は自分だけで手一杯だし、小枝子を迎える場所もなければ構う時間もない! 資金面でも……大体俺は医者じゃないんだぞ? 小枝子を正しくケアする自信もなければ保証もない!」

「大丈夫だ、私だって丸投げする気はないからな。場所と資金はこちらが面倒見よう」


 特別だぞ、とルーシーはグッと親指を立てウィンクをした。無論、秋人はそれにも首を振る。


「駄目だ。大体それでも問題の半分も解決していないだろう」

「学校を辞めて実家を出れば全て解決だ。なに、自信と実績というのは後から付いてくるものだ、秋人お兄ちゃん」

「お兄ちゃんはやめろ」


 秋人はそう言って肩に乗せられたルーシーの手を払った。


「性質の悪い冗談だな。小枝子に借りがあるならそれは返す。だがそれで身を切るつもりはない」

「そうか、そこまで言うなら仕方ない。お前に小枝子を任せるのは諦めよう」


 秋人の反論を受け、ルーシーは意外にもアッサリ諦めた。それを不審に思う秋人にルーシーは背を向ける。


「真琴、今のうちに手頃な公園を小枝子に教えておいてやれよ?」

「はい。ダンボールの手に入る場所も調べておきましょう」

「食べ物はやはりコンビニの余り物とかになるのか?」

「業者が回収し工場で廃棄すると聞いた事があります。どうにか分けて貰えないか連絡を取ってみます」

「……おい」

「ん? なんだ、聞いていたのか。どうした秋人?」


 白々しいルーシーの反応に秋人は目を細める。目の前で話しているのだから聞こえない訳がない。

 そしてまるで小枝子の今後を気に掛けるようなので問いたくないが、問わない訳にはいかない為に秋人は渋々口を開く。


「……小枝子をどうするんだ?」

「決まっているだろう。放り出すんだ。まさか私達が一生あの子を面倒を見ると思っていたのか? ここは児童福祉施設じゃないんだぞ? そもそもあの子は私達の敵だ」


 小枝子の面倒を見ているのは『番犬』の慈悲だ。『四重奏』に戻さない為という目的も勿論あるが、それでも小枝子は捕虜としては普通では考えられない程に優遇されている。

 見張り付きではあるが兄のいる病院に外出する事も出来るし、アジト内ならば自由に歩き回る事が許されている。見張りも監視というより護衛の色が濃い。

 衣食住、そして身の安全から自由まで、全てが『番犬』の慈悲により提供されているというのが実状なのだ。


 そしてそれを辞める事に対して『番犬』に責められる点はない。

 ルーシーの言う通り、敵対心を持っていないとは言え『四重奏』の一人である小枝子は『番犬』の敵なのだ。


「……資金と場所を提供すると言っていたのは?」


 せめて住む場所とお金があれば、幼いながらも一人で何とかなるのではないかと思い、秋人はルーシーに尋ねる。


「あれは小枝子に必要だから出すと言ったんじゃない。お前が必要になるから出すと言ったんだ。なんたってお前と私の仲だからな」


 それほど親しい間柄になった覚えの無い秋人だったが、今はそれは棚上げした。


 ルーシーの言い分は屁理屈ではあるが一応筋は通っている。人道的には問題なのだが、『番犬』の判断に部外者である秋人が異を唱える事は出来ない。

 秋人がもし何かをするのならば、出来るのは小枝子を引き取る事だけだ。


「しかし小枝子も不憫なものだな、真琴。本当の兄には慰み者にされ、仮の兄には見捨てられるんだからな」

「まったくです。まだ幼い、いたいけな少女を一体何だと思っているのでしょうね」


 ルーシーと真琴は言葉を交わしては同時にチラリと秋人を見て、そして再び似たようなやり取りをしてはチラリと秋人を見る。

 秋人にとって極限に居心地が悪いのは言うまでもない。


 秋人が見捨てたところで本当に『番犬』が小枝子を放り出すとは思わないが、さすがに捨て置けないと秋人は諦めた。


「クソッ……分かった分かった、分かったからもう止めてくれ」

「ん? なんだ居たのか秋人。一体何が分かったんだ?」


 既視感を覚えるそのやり取りに秋人は今世紀最大の溜め息を吐いた。


「……小枝子は俺が引き取る」

「おお! そうか秋人! 何だか押し付けたようですまないなぁ」

「よく言う……」


 秋人は白々しいルーシーの言葉に再度溜め息を零す。


「ただ少し時間をくれ」

「ああ、それは構わん。それまでの間は『番犬』が小枝子を預かろう」


 学校を辞め実家を出るという、『番犬』の提案通りに動く気は秋人にはない。

 頼み込んで奈々の姉妹として綾に預けるか、最悪、新平の財力に頼り海外の別荘にいるようなお手伝いさんを雇うかするつもりだ。

 無論、他力本願に全てを自分以外に任せるのではない。引き受けたからには出来る限りの事はするが、助力が必要なの確かだ。

 ただそれは他に手段がない時の事であり、もう少し思案して別に道がないかを秋人は思索したかった。その為に時間が欲しかった。

 今すぐ小枝子をどうにかしたいという事ではないルーシーはそれを了承した。


 不意に真琴が視線を壁越しに部屋の外へと向ける。


「小枝子さんが戻って来ます。策士様もご一緒ですね」


 常時広げている事が最早癖になっているキャッチ・バイブレーションによる索敵に、小枝子ともう一人の歩行の振動が引っかかり、真琴はそれを告げる。


 真琴の言う策士様とは緩奈の事だ。コードネームでもあだ名でもない、ルーシーの戯れの呼び名である。

 緩奈が電話で告げた、姫乃が銃を向けているという事。そして新平と翔子の動員までもが嘘であった事が、ルーシーにそう呼ばれる原因だ。


「覚悟しろ秋人、お説教の時間だ。緩奈が来るぞ」


 小枝子と誰が来るのか分からなかった秋人は、ルーシーのその台詞を聞いた瞬間にドッと冷や汗を噴き出した。


「か、緩奈もここにいるのか?」

「ええ。緩奈ちゃんったらずっと付きっきりだったんだから。さっきやっと寝たばかりなのにもう起きたのね」


 愛だわ、と言う貴子の言葉は秋人に届かない。

 三日も目を覚まさなかった重傷、つまりそれに比例してこれまでで最大級の怒りを買っていると秋人には分かったからだ。


「や、やっぱり緩奈は怒っていたか?」


 しかしやはり聞かずにはいられない秋人は恐る恐る尋ねる。

 その問いに対し、三人は躊躇なく頷いた。


「ああ、お前が無茶な事ばかりするせいでかなりご立腹だ。とばっちりを喰らっては堪らん、悪いが私は席を外すぞ」

「意識の無い秋山さんを相手に、お説教の予行演習をしていたくらいですからね。私も耐えられそうにないのでこれで失礼します」

「私もパス。緩奈ちゃんになら何をされても良いけど、あの空気はさすがの私も御免だわぁ」


 三者三様、しかし結論は同一の返答を秋人に返し、三人は立ち上がって扉へと向かっていく。

 顔色を青くする秋人は、この際貴子でも良いから残って欲しいと思ったが、それすら叶う事は無かった。


「そうそう傷は埋めたが体調は万全じゃない。もう二、三日ゆっくりしていけ。小枝子には話が固まるまでは何も言わなくて良いからな」


 ルーシーは扉の前までやって来たところで思い出し、茫然自失といった様子の秋人に告げる。


「後、すまんが姫乃に会ってやってくれ。あの日からふさぎ込んでるんだ。気まずいのか見舞いにも来れていない」

「分かった」


 そう答えながら、秋人はいそいそと布団の中に潜り込み始めた。それを見てルーシーは苦笑する。


「一応言っておくが、寝たフリは効かんぞ。小枝子からお前が起きたのを聞いてる筈だ。じゃ、達者でな、秋人」

「…………」


 その言葉を最後にパタンと扉が閉まり、部屋には秋人と絶望感だけが残された。


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