トラジック・チャージャー-3
学校を終えた秋人と緩奈の二人は、最近ではすっかり足が遠退いていた老人のマスターが一人で切り盛りする、あの寂れた喫茶店へと向かっていた。
今回はコンテナのアジトを使う訳にもいかない為、そこで麗奈と健一との待ち合わせをしているのである。
それに不服がある訳ではないのだが、喫茶店へと歩む秋人の表情は暗く、そしてその足取りは重い。
「秋人のクラスって面白いわね」
そんな秋人の様子がおかしくて、緩奈はクスクスと笑いながらそう言った。
「笑い事じゃないんだぞ……」
秋人はチラリと緩奈に視線を送りそう言うと、先程の事を思い出し、そして今後の事を思って堪らず深い溜息を零した。
放課後、緩奈は約束通り秋人の教室を訪れ教室の外から声を掛けた。すると『あきひ』まで言ったか否かというタイミングで、クラスメート全員が一斉に鋭い視線を秋人に集中させたのであった。
この時秋人が、緩奈が迎えに来ると言った事を失念していた自分の愚かさを呪わずにはいられなかったのは言うまでもない。
一方緩奈はと言うと、予行演習でもしたのではないかと思う程に息の合ったその反応に、軽率な行動に対する申し訳なさや秋人に対する哀れみを抱くよりも、なんだか楽しくなってしまっていた。
僅かに嗜虐心をくすぐられはしたが、だからと言って緩奈は面白がってそれを煽るような真似はしなかった。
接点はないが春香が泣き虫なのをたまたま耳にした噂で知っていた緩奈は、さすがに泣かれては困ると思い『今日だけ借りるわね』と眉をハの字に歪める春香に告げ、逆に緩衝材の役割を果たしていた。
しかしそれで全てが丸く納まる程甘くはない。
クラスメートについては八割方こういった状況を楽しんでいるので無視して構わないが、春香はそうはいかない。
秋人はただ喫茶店に行き緩奈の妹の男友達に会うだけだと春香に説明したが、それも信じたかどうか疑わしい。
恐らく今回は春香お気に入りの西桜庭町にある少し値段の張る店の、そのメニューの中でもこれまた値段の張る特大サンデーでご機嫌を取らなくてはならないだろうと秋人は思い、財布の中身を思い描いては零れる溜息を禁じ得なかった。
「はぁ、特大サンデーか……」
「奢ってくれるの?」
「緩奈が好きになるような雰囲気の店じゃない」
無意識に発していた呟きに尋ねる緩奈に、秋人は弱々しく首を横に振って答える。
その店は、調度品から従業員の制服までピンクと白で飾られたおとぎ話に出てきそうな、女性ではなく女の子に人気のある何ともメルヘンチックな店構えなのだ。
秋人の気後れする最たる要因の一つである。
「特大サンデーって言ったら西桜庭町のmaidenでしょ?」
「まさか好きなのか?」
「友達に連れられて一度だけ行ったけど二度と御免ね」
その答えに秋人は二つの意味を孕んだ安堵の息を漏らし、緩奈はあの空間に秋人がいるのを想像して再びクスクスと失笑するのであった。
「さてと、ねぇ秋人」
一通り秋人のちょっとした不幸を楽しんだ後、緩奈が改まった様子で秋人と視線を交わす。
「そろそろ不味いんじゃない?」
「ああ、ここいらでご退場願いたいな」
秋人と緩奈は視線を前に向け自然を装い普通に歩きながら、背後の人物に神経を払う。
学校を出てから、二人は何者かに尾けられていた。
これは秋人からすると今日に始まった事ではない。『番犬』の指導者、ルーシーと会った日から尾行されており、秋人はその存在に気が付いていた。
実に一週間と少しの間、常に何者かに尾行されているのだ。
奇襲の機会を伺っているのではない。その機会はこれまでに何度もあった。尾行している者の目的は監視か調査、もしくはその両方にあると秋人は推察していた。
『番犬』か『四重奏』か、はたまたそれとは全く別の組織の差し金か。それは分からないが、直接の害がない事からこれまで秋人は気に掛けないできた。
しかし今から能力者と会うとなるとこれ以上は無視出来ない。
「撒くのが一番ね」
「そうだな。尾行に気付いていたのを知らせる事になるが、そこは仕方がないか」
捕まえ締め上げ、尾行の狙いを白状させるという選択肢もあるにはあるが、わざわざ危険を犯してまで敵対するような行動を取って立場を悪くする必要はない。
『四重奏』の末端のように追跡者自身は何も知らない可能性もあると考えると、益々その行動に意味はない。
二人は意見が一致したところで曲がり角を自然な歩みのまま曲がった。
追跡者はそれに対し走るような事はしない。
一定の距離を保っていた追跡者はスピードを変えず、秋人達が曲がった道を同じく曲がった。
「あん?」
しかしここで振り切る心算だった秋人と緩奈の姿は当然そこにない。
僅かに慌てた様子で近くの別の路地を見てもやはり姿が見えないところで、追跡者は自身がまんまと二人に撒かれた事実に気が付くのであった。
カウベルの音を鳴らし店内に入った秋人と緩奈を、冷房で冷やされた涼しい空気が出迎える。
倉庫街で由貴にしたように、緩奈を抱き上げ壁面を駆け上がり建物の上を疾駆した秋人には、それはそれはありがたい歓迎であった。
ちなみに余りの恐怖に涙した由貴とは違い、緩奈はなかなか味わえないスリルにご満悦だった。
老人の一瞥を受けてから店内を見渡すと、既に到着していた麗奈と健一が窓際の席で向かい合って座っているのが直ぐに確認出来た。
「うーん……」
出入り口に背を向けている麗奈は余程真剣になっているのか、カウベルの音にも気が付かず手にしている五枚のトランプと睨めっこしている。
健一は入店して来た時から二人に気付いていたが、麗奈のカードを後ろからそっと覗き込むその様子から何も言わずに視線を麗奈に戻した。
――ポーカーかしら?
場の様子から二人が興じているのがポーカーだと推察した緩奈が視線を向ける事で無言のまま秋人に尋ねると、その問いを正しく理解したかは定かではないが同じ考えだと秋人は頷いて示した。
ポーカー。山から引いた五枚のカードの組み合わせ、つまり役の強さを競い合うトランプゲームの一つだ。
カードを交換出来る回数や、一般的にジョーカーと呼ばれるどのカードの代わりにもなるワイルドカードの有無など、細かいルールこそ分からないが大まかなルールは今来た二人にも予想出来た。
通常、ポーカーはポーカーフェイスという言葉があるように、チップの賭け方や言動でのハッタリで相手に勝負を降ろさせたり、場に出ているチップの額で勝負所を判断する、運よりも駆け引きが重視されるゲームである。
しかし二人が行うポーカーはよくある降りなどがない純粋に出来上がった役の強弱を競うだけの、つまりは運だけを必要とするローカルルールを採用しているようだった。
秋人と緩奈が麗奈の肩越しに確認したカードは『A』『Q』『8』、そして『10』が二枚。『10』のワンペアが出来上がっている。
「よーし、じゃあ二枚交換!」
麗奈はそう宣言すると『8』と『Q』のカードを捨て、テーブルの上に重ねられたカードの山から二枚新たなカードを引く。
手にした新たなカードは『A』と『4』。麗奈の役は『A』と『10』のツーペアとなった。
「おお! ふふふ、今回は強いよ。勝っちゃうんじゃないかな?」
麗奈はわざとらしい笑みを浮かべ、秋人達には見えないが頑張って口角を片方だけ上げる慣れない仕草を健一にして見せた。
何度やったのかは分からないが、どうやら過去最高の役が出来たようだと秋人はその台詞から察した。
健一はカード交換をしないルールらしく、当然のようにそのまま勝負となる。
「せーのっ!」
そして麗奈の掛け声と共に互いに役を披露する。
麗奈が得意気にテーブルにカードをズラッと並べたのに対し、健一はまるで落としてしまったかのように控え目にカードを出した。
『J』『J』『J』『4』『2』。健一の役は『J』が三枚、つまりツーペアよりも一つ強い役であるスリーカードだ。僅差ではあるが健一の勝ちである。
「ま、またぁ!?」
それに対し麗奈は『うひゃあ!』と声を上げて大げさなリアクションをした。
結果だけ見れば特に珍しい事でもないのだが、麗奈のその反応も仕方のない事であった。
と言うのも、秋人達が来るまでの間に二人は五回の勝負をしていたのだが、その全ての勝負に健一が勝利したのは勿論の事、勝利の全てを麗奈より一つだけ強い役で納めていたのだ。
ロイヤルストレートフラッシュを揃える事も勿論凄い事だが、麗奈にはこちらの方が尋常ではない強運が作用しているように感じられた。
「一つだけ強い役で五連続勝つのって何分の一ぐらいの確率なんだろう……?」
「麗奈がずっとノーペアなら大した事ないんだけどな」
「うひゃあ!」
予想だにしていなかった背後からの返答に麗奈は再び奇声を上げて飛び上がった。
その反応にどこか満足げな秋人の頭を緩奈が軽く小突く。
「あ、秋山さん! いつから居たんですか? ビックリさせないで下さいよぉ」
「すまない、少し趣味が悪かったな」
「お姉ちゃんも黙ってるなんてヒドい!」
「麗奈にしては珍しく椅子に座って集中してるみたいだったから声を掛け辛かったのよ」
麗奈は驚いて立ち上がったまま頬を膨らませて二人に抗議の視線を向けた後、鞄を持って奥の席へと移動すると、『詰めて詰めて』と言って健一に窓側に移動して貰い並んで腰掛けた。
そして麗奈が空けてくれた席に緩奈、その隣、窓際の健一の前に秋人は腰掛けた。
タイミングを図っていたように老人のマスターが注文を取りに来たのでそれを済ませ、立ち去ったのを確認してから麗奈が話し出す。
「お久しぶりです、秋山さん。今日は忙しいなか来てくれてありがとうございます」
麗奈にならって健一も無言で頭を下げ、緩奈も改めて秋人に礼を言った。
「えっと、こちらの彼が噂の悪運の持ち主の……」
「二宮健一……」
「くんです」
掌で健一を示しながら話し出した麗奈が間を置いたので、自分が名乗るのだろうと察した健一がペコリと頭を下げ短く挨拶する。
「それで、こちらが噂のお姉ちゃんの友達の」
「秋山秋人」
「さんです」
麗奈は今度は健一に視線を向けて同じように秋人を紹介する。
「こっちが噂のわたしの姉の」
「先崎緩奈」
「だ」
「何だか私だけぞんざいに扱われてないかしら?」
「ぞんざい?」
「何でもないわ……」
首を傾げた麗奈のオウム返しは、麗奈の紹介では全員が噂になっているではないかという指摘も詮無いことだと理解させた。
丁度運ばれてきたアイスコーヒーを口に含みながら、無知は時として武器に成りうるのだと秋人は感心した。
「早速話を聞いて良いかしら?」
緩奈の問い掛けに健一はコクリと頷き、それを確認してから緩奈は秋人を視線で促す。それを受けて秋人はテーブルにグラスを置いて口火を切った。
「大まかな話は聞いているが、正確な状況を把握して置きたい。まず、君は半年前に悪運の能力に目覚め、三ヵ月前に事故に遭った」
秋人の確認に健一は再び頷き、麗奈も一緒に頷く。
「つまり今は事故から三ヶ月。能力に目覚めてから事故に遭うまでと同じだけの時間が経っている」
その確認は単純計算ではあるが、近々溜まった不幸が降りかかって来るかも知れない、という事を示唆している。
実際は期間ではなく、どれ程の幸運を手にしたかが関係しているのだが、期間から見ても近からずとも遠からずといったところだろう。
健一はそれを理解した上で首を縦に振って答えた。
「どれだけの猶予が残されているのか。それは自分で分かるか? 漠然とした感覚でも構わない」
尋ねてから秋人はこの問いに意味はないだろうと思った。
「漠然とした焦燥感はある……けど、これが猶予を知覚しているからなのかは分からない……」
そして予想通り健一は意味の無い返答をした。
能力については能力者であっても分からない点が多々ある。否、多々なんてものではない。そのほぼ全てが分からない。
例えば能力をいかにして操るのか。
それは能力者であろうと分からない。少なくとも秋人には理解出来ていない。
この問いは、腕をいかにして操るのか、という問いに似ている。
脳からの指令で腕の筋肉が収縮する事により操作されている、という仕組みの話ではない。それは秋人の能力に置き換えると、錘によって重力が加算される、という部分の話だ。
もっと根源的な、いかにして錘を出現させるのか、という問いはつまり、いかにして腕を操作するよう脳から指令を出すのか、という問いである。
腕を自在に操る事が出来たとしても、恐らく誰もが答えに窮する問いだろう。
それだけ能力というものについては能力者であっても理解出来ていない。
自身が理解出来ていないというのに、他人に説明するなどまず不可能だ。
出会った頃に緩奈から聞いた、バタフライ・サイファーの目を増やす感覚もそうだ。他人に理解出来ようはずがない。
説明した緩奈でさえ理解出来ず、疑問符でそれを話していた。
近いものとして、左右の目で別々の方向を見る感覚だと緩奈が説明し、秋人と新平はなんとなくその感覚掴めたが、緩奈自身はやはりそれとは全く別の感覚だと思っていた。
反動についても同様。蝶を四匹出した時の、視覚情報に溺れる感覚は誰にも分からない。
健一の感じる焦燥感は能力の反動を表すバロメーターかも知れないが、能力に目覚めてから事故に遭うまでの三ヶ月が再び経過してしまった事に対する心労なのかも知れない。
それは秋人がどちらか判断出来るような事ではない。
例えば『頭の中に後三回って見えます』とでも言われたとしたら、それが不幸が来るまでの猶予だと秋人も断言出来たが、一回目の不幸に無抵抗に見舞われた時点で明確なサインはないと予測出来ていた。
故に秋人は答えを聞く前から意味の無い問いだと思い直していたのだ。
「ようは猶予は分からないって事ね。まだまだ余裕があるのかも知れないけど、楽観視する訳にはいかないわね」
「ああ、今にも凶事が舞い込むと思っていた方が良いな」
ゆっくり経過を見てみましょうという、風邪を看る町医者のような事を言ってる場合ではないというのが、秋人と緩奈の共通の結論だった。
二人の会話を顔色を青くして聞いていたのは、健一ではなく意外にも麗奈であった。
何かに気付いた麗奈の表情には、焦燥の色がありありと現れている。
「あの、もしかしてわたし、二宮くんの残された幸運を使っちゃってたんですか……?」
麗奈がその心配をするのは当然であり、そして残念だが秋人はそれを肯定せざるを得なかった。
先程まで行っていたポーカーも間違いなく幸運を消費している。反動の不幸は間違いなく溜められていた。
「恐らくは……」
秋人は確定的であるが推論として肯定の意を伝えた。それが気を使っての事だというのは麗奈にも分かった。
助けてあげるつもりが、悪戯に不幸の到来を加速させていたという真実。逆に健一を奈落に突き落とすような自分の行いに、麗奈は湧き上がる悔恨の情に胸をぎゅっと締め付けられる思いだった。
自身の救いようのない愚かさと健一に対する申し訳なさに、後悔の涙がどっとこみ上げてくる。
「どうしよう、わたし……ごめんね、ごめんね二宮くん……わたしバカだから、二宮くんの残りの幸運を無駄に使っちゃって……」
「無駄じゃない」
罪の意識に小さくなっていく麗奈の声に被せ、健一がキッパリと断言した。
声量こそ無いが、これまでで一番強いその口調に麗奈は思わず目を丸くする。
「先崎さんと初めてポーカーをした時の僕の手……」
「昨日の事……? ロイヤルストレートフラッシュ……?」
健一が頷く。
ロイヤルストレートフラッシュ。柄の一致した『A』『K』『Q』『J』『10』のカードで構成される、ワイルドカードが無い二人のポーカーでは事実上最強の役だ。
ロイヤルストレートフラッシュが出来上がる確率は約六十五万分の一。変則的なルールでポーカーに興じるギャンブラーでもなければ、まずお目にかからない役だと思って良い。
しかし健一は一度目でそれを揃えた。それどころか二連続でロイヤルストレートフラッシュを叩き出し、ノーペアの麗奈を完膚なきまでに叩きのめしていた。
「昨日までは悪運が暴走してた……」
凄まじい運を発揮すればするほど、不幸の到来は早まる。
健一は必要以上に大きな運を消費していた事を、まさに暴走だと、そう思っていた。
「でも今は違う」
そう、今は最早そうではない。
健一の勝利という結果こそ揺るがないが、幾度となく繰り返すうちに二人の役は差が詰まってきていた。確実に、着実に。
初めのように麗奈のノーペアに対し、健一の悪運はロイヤルストレートフラッシュを引き当てるような事はなく、今や麗奈よりたった一つ強いだけの役を作るに留まっている。
スリーカードが出来上がる確率は約四十七分の一。ロイヤルストレートフラッシュに比べて、絶対的に必要な運が違う。
つまり、健一は麗奈と勝負を繰り返すうちに、無意識に悪運を制御し始めていたのだ。
「なるほど、解決策が見えたな」
健一はその秋人の言葉に首肯した。麗奈は訳が分からず首を傾けている。
「よくやった麗奈。お陰で解決の糸口が掴めた」
「え? えっと、どういう事ですか?」
やはり意味が分かっていない麗奈は、答えを求めるように三人の顔を順番に見る。
「勝負を繰り返し、悪運を完全に支配する。君が悪運の呪縛から逃れるには、これしかない」
秋人の断言に、健一は力強く頷いた。