トラジック・チャージャー-1
恭一郎を含めた五人の引き渡しは、あれから約一週間後の土曜日に行われた。
準備に時間が掛かったという訳ではなく、月曜日からテストが始まった為その期間を避けたのだ。
秋人がその期間を避けたのは自分の為ではない。正直なところ、秋人個人としてはテストなど受けても受けなくてもどうでも良かった。
戻る事が出来るかも分からない日常の、ほんの些細な出来事に意味を見出す方が土台無理な話である。
何より奈々に対してのやり切れない思いが、秋人の心の片隅で未だくすぶっていたのがその要因であった。
テストを受けるという一般的には忌み嫌われるイベントも、日常を過ごす者にのみ与えられた特権だ。
奈々を差し置いて自分だけがその日常を謳歌していて良いのだろうかと、日常を捨てたところで奈々への罪滅ぼしにはならないしそもそも奈々に対する罪などないのだが、秋人はそう考えてしまっていた。
秋人がテスト期間に引き渡しを行わなかったのは、緩奈と新平、由貴と翔子が気兼ねなくテストを受けられるようにという気遣いからだった。
では秋人はテストを放棄したのかと言うとそうではなかった。
面倒を見てくれた由貴に対して申し訳ないという思いもあり、そして他にすべき事が何もなかった事から秋人はテストを受けていた。受ける理由はあれど、受けない理由は特になかったのだ。
何より秋人がテストを受けた一番の理由は緩奈にあった。
「話は聞いたわ。秋人の考えてる事は分かってるつもり」
テスト前日の日曜日。電話を掛けてきた緩奈は秋人が電話に出るや否や、挨拶も抜きに唐突にそう切り出した。
緩奈の言葉は秋人の奈々に対する思いと、そしてテストへの姿勢に対してのそれだ。
間髪入れず、緩奈は次にこう尋ねた。
「秋人は私が考えてる事、分かる?」
秋人は読心術など使えないし女心も分からない。だが緩奈の言わんとする事は分かった。
秋人がテストを受けないかも知れないと察した緩奈の行動など、そういくつもない。
緩奈は秋人がテストを受けなければ自分も受けない、という脅しをほのめかしてきたのだ。
自分はともかく、仲間には日常の側にいて欲しい秋人としては痛恨の脅し文句であった。
緩奈はテスト自体は重要視していない。
本人に受ける気があっても、体調不良やどうしても外せない切迫した理由があり受けられない場合もある。
夏休みの追試と補講が覚悟出来ているならボイコットしても構わないと思っている。
だが今の秋人は例外だった。秋人には、絶対にテストを受けさせなくてはならなかった。
赤点でも構わないし、名前ごと白紙でも構わない。受ける事そのものに意味があった。
緩奈には、テストの放棄というちょっとした弾みが、秋人を非日常の闇に突き落とすきっかけになってしまうような、そんな気がしたのだ。
どんな形であれ今秋人を日常から距離を置かせてしまえば、そのまま自分を置き去りにして深い闇の最深部まで転がり落ちて行ってしまうような、そんな漠然とした不安を抱えていたのだ。
だから緩奈は秋人を日常に繋ぎ止める為に電話を掛けてきたのだった。
「緩奈には敵わないな」
秋人は苦笑混じりにそう返し、そして緩奈とテストを受ける約束を交わしたのだった。
自らの意志によってではない、という奈々に対する言い訳を緩奈に与えられた秋人は、もう暫くの間、日常に浸かる事を許されたのだった。
恭一郎達の返還を終えた後の月曜日。
東桜庭町にある中学校は、同町の高校と同じくテストを終え答案の返却期間に入っていた。
返されたテストの出来不出来に一喜一憂する生徒に溢れた放課後の教室で、一人の少女が机に肘を着き頭を抱えていた。
彼女が『憂』の側の生徒なのは一目瞭然である。
「うぅ……さすがにヤバいよこれは……」
返却されたテスト用紙の右上、三角形に折られている点数が書かれたその場所を、少女は恐る恐る指で摘んでチラリと中を覗き込む。
何度確認したところで凄惨な点数が変わる事はなく、直ぐに元に戻して再び頭を抱え込んだ。
「どうしよう……こんなのお母さんに見せたらもう直ぐ夏休みなのにお小遣いが無くなっちゃうよぉ……」
それもこれも、いつも面倒を見てくれる姉の緩奈が今回は手助けしてくれなかったからだと、少女は恨めしく思った。
頭を抱えていたのは緩奈の妹、先崎麗奈である。
彼女は足は速いのだがしかし、頭の方は少し残念な子であった。
「先崎さん……」
「はい?」
不意に声を掛けられた麗奈が涙目のまま後ろへ振り向くと、そこには無表情の男子生徒が立っていた。
一言で言い表せば、気味の悪い男だ。
病的なまでに体の線が細く、顔色は死人のように青白い。頭蓋骨の形まで分かってしまいそうな程にペッタリと落ち着いた髪質の髪は、襟足は刈り上げられ、その分前髪が異常に長い。
髪に隠れる目元にはクッキリとした隈があり、下マツゲがこれまた異常に長い。
パーツのどれもが不気味な雰囲気を醸し出していた。
最近では段々と暑さが厳しさを増しているというのに、長袖のワイシャツを手首のボタンまでキッチリと止めている事が、更に彼の普通ではない雰囲気を助長していた。
「えーっと?」
「二宮健一……」
麗奈が誰だっただろうかと思索すると、男は直ぐに名乗る。そこから初対面である事を麗奈は理解し、忘れた訳ではなかった事にホッとした。
同時に健一の名前から、彼がオカルト研究会の会長である事を麗奈は思い出した。
彼等オカルト研究会は一般生徒に忌み嫌われているという訳ではないが、その性質から卑下され露骨に避けられている。
隣に座る事を躊躇われたり、話し掛けようものなら『呪われたかも知れない』と陰で言われたりしていた。『アイツならまだオカ研と付き合う方がマシ』などと『死んだ方がマシ』と同等の揶揄に使われる事も多々あった。
そんな中、麗奈は彼等に普通と変わらぬ接し方をする数少ない内の一人であった。
オカルト研究会会員の隣の席が空いていれば『ここ空いてるよ! こんな良い席が空いてるのにみんな気付かないなんてラッキーだね!』と友人に言っては嬉々とし座るし、オカルト研究会会員がお菓子でも食べていたなら『一個ちょうだい』と普通にねだるようなタイプだった。
最初こそ『操られてる』などと言い麗奈にまで侮蔑の視線を送る者もいたが、周囲が麗奈の人となりを理解した今では『麗奈だから』という理由で受け入れられていたのだった。
「あたしは先崎麗奈だよ」
「知ってる……」
にっこり微笑み自己紹介を返した麗奈を健一は一蹴する。
呼ばれたのだからそれもそうかと麗奈は反省した。
「それで二宮くんはあたしに何の用?」
そして麗奈は当然の問いを健一に投げ掛けた。
「助けて……」
それに対して健一は不穏な答えを返したのだった。
余りに斬新な切り口に麗奈は特に何を思うのでもなくキョトンとしてしまった。
「えっと、何か困ってるの?」
麗奈の確認に健一が首肯する。
「あたしで間違いない?」
困っているならば助けてあげたいが、なぜ自分を頼るのかが分からず麗奈は尋ねた。
初対面の者に悩み相談をするのもおかしいが、救済を求めるのはもっとおかしい。
自分ではない、違う先崎麗奈に用があるのではないかと思うのも無理はなかった。
「夏目くんが君なら何とかしてくれるって……」
「夏目くんが?」
麗奈のオウム返しに健一は再び頷く。
麗奈は腕を組んで思考を巡らせた。
麗奈の知る夏目は過去に走る技術を奪われた、スキル・インストールのあの夏目しかいない。
あれ以来避けている訳ではないが、否、正しくは避けられてる故に接点がない夏目が関わっているとなると、麗奈が思い当たるのは一つだけだ。
「もしかして、普通じゃない事かな?」
健一はまた頷いてそれを肯定する。
当たってしまった、というのが麗奈の正直な感想だった。麗奈は組んでいた腕を組み直し、そして難しい表情をした。
「やっぱりそうかぁ。うーん……」
「駄目……?」
「ううん、違うよ。駄目って訳じゃないんだけど、あたしじゃちょっと難しいかなぁって思って」
麗奈は不可思議な力の存在こそ知っていても、それについての知識は皆無だ。更に自身にその力は無い。
夏目と対峙した時もその場に居はしたが、何か手を下した訳でも策を講じた訳でもない。
少し普通でない経験はしたが、麗奈は至って普通の女子中学生であり、それを自覚していたが故に健一の頼みを軽はずみには受け入れられなかったのだ。
「そう……」
ハッキリとは言われなくとも麗奈が断るであろう事が分かった為、健一は無表情のままだが僅かに肩を落とした。
それを見てしまうと麗奈はやはり見捨てられなくなってしまう。
「夏目くんは何か言ってなかった?」
自分が無力なのは夏目も知っている事であり、その夏目が健一を自分へと委ねたのだから何か意図があるのかも知れないと思い、麗奈は健一にそう尋ねてみた。
「褒めてた……」
「へ?」
しかし返ってきたのは全く予想だにしない答えであった。
「夏目くんが? あたしを? なんで?」
「史上稀に見るおバカなお人好しだって……」
麗奈の疑問符に一々頷き返し、そして健一は夏目の言葉をそのままに伝えた。
「あはは、褒めてるのかなぁ? それ」
「夏目くん、本当に馬鹿にしてたらこんな事言わない……」
苦笑いを浮かべる麗奈に健一は至極真面目な表情で言った。
「夏目くんとは仲が良いの?」
「幼稚園からの幼なじみ……」
「そっかそっか、それでなのね! ガッテンガッテン!」
夏目の事に詳しいのも、最初に夏目に対して普通ではない事を相談したのも、自分の中で疑問だった事が繋がり麗奈は一人納得した。
夏目がなぜ自分に、という疑問は晴れなかったが、それは詳しく事情を聞けば分かる事だと思い直した。
「話だけでも聞かせてくれるかな? 力になれるかは分からないから、二宮くんがそれでも良いならだけど」
秋人が自分に掛けてくれた言葉に比べると、どうにも頼りないなと麗奈は思ったが、その言葉に頷いた健一は無表情ではあるが少し安堵したように見えた。
「僕は、悪運に取り憑かれてる……」
「……悪運?」
麗奈は続きを待っていたのだが、なかなか話し出さないので聞き返すと、健一はコクリと頷いてから再び話し出した。
これが健一と上手く話すコツなんだと麗奈は理解した。
「廊下を次に通る人、男女どちらだと思う……?」
健一は麗奈の教室の外を指差し、麗奈に問う。
ちょっとした賭けをして取り憑いている悪運とやらを試して見せるつもりなのだと麗奈は察した。
「じゃあ私は女の子にする。負けた方がジュース奢りね!」
意気込む麗奈に健一は頷き、
「僕は赤いジャージを着てる大人の人に限定する……」
自ら条件を厳しくした。
「二分の一じゃ足りない……」
キョトンと呆気に取られている麗奈に健一はそう言い、廊下に背を向け麗奈の隣の席に向き合って座った。
ずっと座りたかったのだが、オカルト研究会の自分に椅子を使われると嫌な思いをする人ばかりなので、教室に麗奈以外がいなくなるのを待っていたのだった。
二人きりになった静かな教室で麗奈ばかりが廊下を気にする。
「なかなか通らないね」
「準備に時間が掛かってる……」
「……もしかしてイカサマ?」
健一は首を横に振った。
「取り憑いているのは悪運と言うより運命……だから必ずそうなる……今頃大人の男の人がジャージに着替えなきゃならない事故に合って着替えてる……」
そう言われても、麗奈は『ホントにぃー?』といった思いを視線に乗せて健一を細目で見ていた。
「君が条件を足しても良い……」
健一は疑いを晴らす為、更に厳しい条件を付け足した。確かにこれではイカサマのしようがない。
何だか面白そうな事になってきたと、麗奈は健一が自信満々な為無茶な要求をしてみる事にした。
「じゃあねー、その男の人は片足だけジャージを捲ってるの。それも股まで! それで、えっと、他には、そうだなぁ……ブルマを頭に被ってる!」
言ってからこれはさすがに無理過ぎるだろうと麗奈は思った。
麗奈の中学校は女子もブルマなんて履かない。ブルマなんて一昔前の物であり、今は女子の体操着も膝上の丈のショートパンツだ。スカートの中を隠すのも今やスパッツに変わっている。
頭に被るどころか校内にあるかも疑わしい。
「やっぱり――」
「それで良い……長くなりそうだから一分以内の条件も足す……」
麗奈が訂正しようとすると、健一はそれを許さずあろうことか更に条件を厳しくした。
最早賭けは成立していない。麗奈はそう思った。
女性が来れば麗奈の勝ち。男性でも大人でなければ麗奈の勝ち。大人でもジャージでなければ麗奈の勝ち。ジャージでも片足を捲ってなければ麗奈の勝ち。片足を捲っていても股まで上げてなければ麗奈の勝ち。股まで捲っていてもブルマを被ってなければ勝ち。ブルマを被っていても一分を過ぎていたら麗奈の勝ち。
悪条件なんてレベルの話ではない。無理難題もいいところだ。
「やっぱりジュースは無しに――」
「君が買ったら最高級レストランのフルコースにしよう……」
そして賞品までもが格段にランクアップを果たした。
「無し無し! こんなんじゃ二宮くんが勝てっこな……い……のに……」
麗奈が思わず立ち上がった瞬間、廊下を何食わぬ顔で一人の男が歩いていく。
そして一度通り過ぎた後に、
「ん? まだ残ってたのか先崎、と、お前は二宮か。お前達クラスも違うのに仲が良かったのか。良いぞ、学生の内は色んな奴と友達になれ! そうやって沢山の刺激を受けて人は成長するんだからな!」
そうニコニコと笑い、二人に話し掛けてきた。
麗奈は目をまん丸に見開き、口をパクパクさせながらその男を指差す。
「せ、先生……その格好……」
「やっぱジャージは変か? いつもはスーツだからな。間抜けな話なんだが転んだ拍子に頭からコーヒーを被ってしまってな。着替えがこれしかなかったんだ」
そう説明してまいったまいった、と彼は豪快に笑う。
「あの、その足は?」
「ん? これか? 格好いいだろ。さっき二組の奴等が教えてくれてな。こうやってジャージを履くのが今はナウでイケてるらしいぞ」
そう言って股まで捲り上げたジャージを更に持ち上げ、得意気に鼻を鳴らした。
「じゃあ頭のそれはなんですか!?」
今とナウが同じ意味だなどと麗奈に取ってはどうでも良いことだった。
どうなれば頭に乗るでもなくブルマを被るのかが問題だった。それも目一杯目深に。
麗奈に指摘を受けた男は頬を染め、少しバツが悪そうにした。
「コーヒーを被って火傷してな。保健室に行ったら一応の為に消毒液を染み込ませたガーゼを押さえとけって言うのに包帯が切れてたんだ。頭だからテープも駄目だし、ブルマならあるって言うから、仕方なく、な……決してこういう趣味ではないぞ先崎! 先生はブルマなんぞに興味はないんだからな! 違うからな! 違うんだからな!」
男は叫ぶ事で居たたまれない空気を払いのけ、その勢いのままに教室を立ち去っていった。
教室には愕然としている麗奈と、廊下に一瞥もくれず座り続けていた健一だけが残された。
「信じてくれた……?」
廊下を見つめたままの麗奈に健一が尋ねる。
「僕は悪運に取り憑かれてる……」
そして再度その事を麗奈に告げた。
麗奈は目の当たりにした異常なまでの健一の運に、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。