マイクロ・ブラスト-6
見慣れない真っ白な天井。馴染みのない他人の家の匂い。
秋人は僅かに瞼を持ち上げ、寝起きのぼんやりとする頭で状況を確認する。目が覚めてくると浴びる日差しすらいつもと違って感じられた。
「そうか、俺の部屋じゃなかったな……」
徐々に覚醒してきた頭で昨日の事を思い出し、秋人はそう一人ごちた。
昨晩、秋人達が病院を後にしたのは時刻が三時を回った頃だった。
そんな時間に自宅に戻る訳にはいかないし、どこかで時間を潰すにしても疲れがピークに達していた。そこに自宅に来るかという綾の申し出を受け、秋人と由貴は西桜庭町にある綾の自宅のマンションにお邪魔したのだった。
さすがは情報だけでなく物資の仲介もする『虫食い』と言ったところか、着替えは勿論の事、歯ブラシや携帯の充電器や、秋人にも由貴にも必要なかったのだがコンタクトの洗浄液まで直ぐに準備され、二人は何不自由ない一夜を過ごせた。
――綾はもういないのか
秋人は寝ていたリビングのソファから体を起こして辺りを見渡し、時計の針が昼を指しているのを見てそれもそうかと思い直す。
今日は金曜日で綾は桜庭高校の教員だ。既に学校へ行ったのだろうと秋人は思った。
生徒の自分を残して行ってしまったのは教師としてどうなのかとも秋人は思ったが、昨夜の事と今日に残った疲れを考えればそれはありがたかった。
そもそも秋人と違い教師である前に『虫食い』である綾が、昨日の疲れを押して登校しろなどと秋人に言うはずがなかった。
ちなみに学校外では綾と呼ぶように、と昨晩秋人と由貴は念を押されていた。
「あ、おはようございます」
丁度由貴はどうしたのだろうと思った時、別室で寝ていた由貴がまだ秋人は寝ていると思ったのか忍び足でリビングにやって来た。
「おはよう。よく眠れたか?」
「はい。秋山さんは落ち着いてるんですね」
「ん?」
普段と変わらない秋人の様子に由貴が楽しそうにそう言った。
「私、こういう風に学校をお休みしたの初めてで、なんだがドキドキします」
「ああ、そういう事か。慣れてる訳じゃないが俺は初めてじゃないからな」
秋人が聞いた話では由貴は優等生だったらしいし、健康な状態で皆が学校にいる間ゆっくり休暇を取るなんて事はなかったのだろうと納得した。
遠足にでも来たかのような気分になっている由貴は見てて微笑ましかった。
秋人がソファで寝たせいですっかり固まってしまった筋肉を解していると、由貴はテーブルにあった置き手紙に気が付きそれを手に取った。
「食材を使って良いみたいですよ。台所を借りて何か作りますね」
綾からのメッセージを要約して伝え、キッチンに向かおうとした由貴の背中に秋人が声を掛ける。
「コーヒーでも買ってくるから俺の分は準備しないでいい。食欲がないんだ」
「うふふ、ダメですよ」
悪戯をするように笑いそれを否決すると、由貴はテーブルの手紙をチョンチョンと指差した。
秋人は何がおかしいのかと疑問に思いながら、つい先程由貴が目を通した綾からの手紙を手に取った。
そこには学校と親には自分が上手く言っておくという事。二人が休めば心配するであろう緩奈達にも事情を話しておくという事。ずっと居て良いし今日も泊まって構わないが、もし外に出る用事があるならスペアのキーで鍵を閉めていってくれという事。家にある物は好きに使って良いという事。引き出しの上から二番目が下着だという事。
そして最後に由貴へ、秋人は食欲がないからコーヒーだけ飲もうとするだろうが、食事をしなくては貧血も治らないから無理にでも食べさせるように、という事が書かれてあった。
まさにその通りの行動を取った秋人は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
「『虫食い』恐るべしだな……由貴、お手柔らかに頼む」
「はい、任せてください!」
由貴はその自信に満ちた返答通り、ある材料を確認した後初めてのキッチンだというのに慣れた手つきで調理を開始し、手早く冷製和風パスタとサラダを作り上げた。秋人が手を貸す隙などまるでなかった。
そして席につきいざ口にしてみると体は欲していたのか、予想外に食指が動いた。味も申し分なく、お店で堂々と出せる程に美味しい。
感心する秋人だったが一つ、秋人にとって決定的な欠陥が由貴の料理にはあった。
トマトだ。秋人にとって唯一にして最大の難敵、トマトがサラダに乗せられていたのだ。秋人に言わせれば『トマトが乗せられている』ではなく最早『異物が混入している』であった。
「由貴……」
「ダメです」
「まだ何も言ってないんだが……」
「見れば分かります」
確かにポツンと皿に取り残されたミニトマトを見れば誰だって何を言いたいのか分かる。
「残しちゃダメです。好き嫌いしてたら体調も良くなりませんよ?」
「しかしコイツは……」
「もう、子供じゃないんですから。フルーツみたいでトマトも美味しいですよ?それにトマトだって秋山さんに食べられたいはずです」
子供じゃないんだからと言いながら、まるで子供に諭すように言いくるめようとする由貴に矛盾を感じるも、作ってくれた由貴に対して秋人が強く出れようはずがなかった。
勉強を見て貰っている時から秋人自身は感じていたが、教えを乞う立場であった為か、はたまた緩奈の影響なのか、由貴は秋人を子供扱いする傾向にあった。
年下に子供扱いされるのは複雑な心境であったが、怖がられるよりはマシなので秋人は受け入れる事にしていた。
結局、秋人はミニトマトを皿のドレッシングの中でコロコロ転がす三十分を満喫してから、観念して丸飲みするのだった。
「ちゃんと食べて偉いですね。はい、どうぞ」
秋人が食事を終えたのを見計らい由貴が淹れたばかりのコーヒーを差し出す。
秋人は飲み込んだのに口内に感じるトマトの味を消すため、いつもより多めにコーヒーを口に含み、そこでやっと一息付いた。
「この後どうしましょうか?」
食事を取った時と同じ秋人の前の椅子に座り、コーヒーのカップを両手で包み口に運びながら由貴が尋ねる。
「たぶん俺達は登校してる事になってるだろうし、帰るには微妙な時間だな」
秋人の予想通り、綾の計らいで二人は親に対してだけでなく記録としても登校している事になっていた。
帰宅するのは下校の時間に合わせるべきであり、そして一時を少し回った時刻の今は昨日とは逆に少し早く微妙な時間だった。
「もう少しだけここでゆっくりさせて貰いましょうか」
「そうだな」
あえて出歩く必要もない為、二人はそのまま綾の自宅に留まる事にした。
秋人はコーヒーを飲み干すと、食事の準備は由貴に任せてしまったので後片付けを引き受けキッチンへと向かい、由貴は寝間着から着替える為に寝ていた部屋、恐らく奈々の自室であろう部屋へと向かった。
キッチンに綾の趣味とは思えない可愛らしいキャラクターの書かれたマグカップがあったり、リビングに綾と奈々の写った写真がある事から、二人がここで共同生活を送っている事は明白であり、やはり『虫食い』の仲間という関係ではなかった事が伺えた。
自宅に招いた事からも綾はその事を隠していないが、あえて詮索する必要もない事なので秋人も由貴も追求はしないつもりであった。
「あ、秋山さん!どどどどうしましょう!!」
秋人が食器を洗い終えた時、由貴がバタバタとキッチンに駆け込んできた。
「そんな慌ててどうしたんだ?」
「これ!これ見て下さい!」
「ん?」
由貴が突き出す携帯電話を、秋人はマジマジと見る。そこには翔子からのメールが表示されていた。
随分と長く遠回しな表現の多いメールの内容を意訳するとこうだ。
『お泊まりは楽しかったでしょうか?応援してくれていると思ってました。私の秋人とどうぞ末短くお幸せに。裏切り者の由貴へ』
乾いた笑みを浮かべる秋人に対し、由貴は翔子に嫌われてしまったと半分泣いていた。もう半分はどうしたら良いのかというパニック状態だ。
「……とりあえず昨日からの事を一から全部説明するしかないな」
「そ、そうですね!私電話してきます!」
心得たと踵を返す由貴は、今はまだ授業中だぞと秋人が指摘する前に慌ただしく部屋へと戻っていってしまった。
秋人は小さく嘆息する。
――ったく、綾は一体どんな説明をしたんだ?
まさか昨晩の八つ当たりに対するちょっとした仕返しなのではないかと、秋人は洗った食器の水滴を拭き取りながら思った。
由貴が電話に出ない翔子に本格的に嫌われたと勘違いしながら、何とか弁解したく何度も根気強くコールしている事を帰って来ない事から秋人は察し、そんな由貴を哀れに思うのであった。
新平からの『由貴は本当に良い子だから大切にしてやってくれ』とう内容のメールと、『最低』とだけ書かれた緩奈からのメールに、秋人が冷や汗を流して頭を抱えるのは数分後の出来事である。
電話に一向に出てくれない翔子に対し、こうなったら校門で出てくるのを待つ、所謂出待ちをするという由貴の気迫に秋人は押され、二人は予定していたより少し早い時間に綾の自宅を出た。
秋人も新平と緩奈に弁解しなくてはならないが、由貴と二人で校門前で待つのは逆に良くない印象を与えると思ったのでメールだけし、そっちの対処は由貴に任せた。
直接説明しに来なかった事を緩奈に怒られるのはまた別の話である。
時間の出来た秋人は由貴と別れてそのまま西桜庭町に留まり、奈々の入院する病院に見舞いに行くことにした。
――日中に見ると昨日よりも馬鹿デカく感じるな
秋人は昨晩の印象より更に大きく感じる病院に感嘆しながら中に入った。
どこの部屋かは分かっていたが一応受け付けで許可を取り、奈々のいる個室へと向かう。
そしてノックをしてから病室に入ると、奈々はスースーと静かに寝息を立てて眠っていた。
少し前までは起きていたという話を看護士から聞き、寝たきりでないのを知っていた秋人はその事に対して余計な心労は抱かなかった。
秋人は起こさないよう静かに扉を閉め、奈々の寝顔を覗き込んでからベッド脇の椅子に腰掛ける。
「むにゃむにゃ……あ、アッキー……それは奈々の自爆スイッチだよぉ……触っちゃダメだよぉ……」
ゴロンと寝返りをうちながら、奈々がそんな寝言を言った。
そんな恐ろしいスイッチには触らないだろうと秋人は苦笑し、顔に掛かった髪をそっと触れて払う。
幸せそうに眠る奈々を見ていると秋人の表情は自然と綻び笑みが零れていた。
奈々の病室は昨晩から入院したせいもあって物が何もない。こんな事なら花でも買ってくれば良かったかと秋人が考えていると、不意に病室の扉が開いた。
音に秋人が振り返るとそこには花を抱えた一人の少女が立っていた。
――奈々の友達か?
秋人は少女を見てそう思った。
年齢もそう変わりなく、白に近いウェーブの掛かった長い金髪は一見して奈々と同じく日本人のものではない。
校章もなく形状もどこぞの学校の制服とは違う、スーツのような服を着ているのも、普通ではないように秋人は感じた。
秋人が誰何しようと口を開きかけた時、少女はニコリと微笑んだ。
「そこの子とは互いに素性は知ってるが面識はない。お前がここにいると聞いてな。見舞いついでに会いに来た」
秋人が何を言いたいかを察していた少女は秋人が問う前に疑問に答えた。
少女は奈々ではなく自分に用がある、そしてここは『番犬』の縄張りであるという事はつまり、彼女は『番犬』の能力者なのだろうと秋人は理解した。
「しかしこんな子供相手に見とれるというのはどうなんだ?まぁ私の容姿を前にすればそれも致し方ないか」
要件を聞こうと秋人が口を開きかけると、少女はまたその一瞬前に話しだしその間を与えない。そしてその突飛な内容に秋人は反論する為喉まで出掛けていた台詞を思わず飲み込む。
「ほれ、花なんて買わんから勝手が分からん。代わりにやってくれ」
反論の言葉が喉から出掛ける寸前、少女が秋人に花束を押し付けた事で、またも秋人の発言は食い止められてしまった。
ほれ、ほれ、と少女に腰の辺りを両手でグイグイと押されて秋人が椅子から立つと、少女は空いた椅子に座り、ベッドに身を乗り出して奈々の顔を覗き込んだ。
「顔色も良いし落ち着いているみたいだな。うむ、何より可愛らしいではないか。良かったな秋人」
どっちに対しての良かったなのかと秋人は思ったが、今度は何も言う気はなくただただ少女を見やる。どうせまた話す隙は与えられないんだろうと思ったからだ。
しかし予想に反して今度は少女は何も言わず、彼女は秋人に視線を向けて言葉を返すのを待った。
秋人はやれやれと一度溜め息を吐く。
「あー」
「今日は学校は……」
どうせ話し出したらまた被せるつもりなのが分かり切っていた秋人が適当に声を出すと、少女はやはりまた話し出した。
しかし引っかけられたと分かると喋るのを止め、ムッと不機嫌な顔をした。
「意地が悪いな」
「そっちがな」
秋人はやっと会話が成立した事で少女から視線を外し、渡された花束を花瓶に移し替える作業に入った。
「それは仮の姿か?」
秋人は病室にあった空の花瓶に水を入れながらそう尋ねた。
「本来の姿ではないという意味ならばこれは仮の姿だ。戻る事は出来んがな」
「そうか。危うく説教するところだったよ」
「?」
口調や身の振り方ではなく僅かに感じたタバコの香りから尋ねた秋人は、嫌煙主義者ではないがこんな小さな子供が吸っていたら小言を言わなくてはと思っていた。
秋人は昨今の過剰な禁煙ブームは愚かしいと考えていたが、それ以上に未成年の喫煙は愚の骨頂だと思っている。
一方、いまいち秋人の言葉の意味が分からない少女は首を傾げるのだった。
「それで、俺に何の用だ?」
花瓶を窓辺に置き、少女に向き直って秋人は尋ねた。
少女はチラリと奈々の安らかな寝顔に視線を向ける。
「ここで話すのは気が引けるな」
眠っているので奈々がいる事自体は問題ではないが、物騒な事に巻き込まれたばかりの彼女の病室で話す事ではないと、少女はそう思った。
「確かここの病院は一階にちょっとしたカフェが入っていた筈だ。そこに行かないか?」
「ああ、分かった」
秋人もここでは込み入った話をしたくなかったので少女の提案に従う事にした。
秋人は奈々の寝顔をもう一度見て、それから少女に続いて病室を出た。
すると偶然、隣の病室の扉が開き、スーツの男に連れられた少女が同じタイミングで病室から出てきた。
自然と視線がそちらに向かう。
――アイツは……
秋人はその少女に見覚えがあった。
以前、西桜庭町で秋人の敵として現れたエア・トランスポートの能力者、小枝子だ。
――生きていたのか。しかしなぜここに?
咄嗟に秋人は警戒まで行かずとも小枝子に対して注意を払い、構えはせずともいつでも動き出せる程度に足のスタンスを取る。
とそこで、隣に立っていた少女が一歩前に出て、掌を秋人に向ける形で片腕を上げて小枝子との間を遮った。
「頼む、身構えないでやってくれ。彼女はお前に手出ししない。いや、手出し出来ない、の方が正しいな」
「あ……」
秋人の警戒した様子に少女がそう言うと、小枝子もこちらに気が付く。
本能的にビクリと一度体を跳ねさせ秋人に対して怯えた様子を見せてから、小枝子はどうしたら良いか分からず悩んだ末に深々とお辞儀をした。
しかし秋人は反応を返さない。ただ小枝子に射るように視線を向ける。
「あ……あぅ……」
間違った事をしたかもと落ち着きを完全に失った小枝子は、オロオロと指示を求めるように秋人と連れのスーツの男を交互に見る。
そこで小枝子の隣に立つスーツの男が秋人達に気付いて一礼し、秋人の隣に立つ少女が手を軽く上げたのを見てから背中を向けて歩み出した。
小枝子はもう一度深くお辞儀をしてからその後に続き、何度も振り返りながらその場を立ち去った。
「見舞いだ。彼女の兄がそこに入院してる。すまない、まさか鉢合わせるとは思わなかった」
「別に気を使わないで良い。彼女とやり合ったが俺に禍根がある訳じゃないからな」
向こうに取っては分からないが、と秋人は付け足し語尾を濁した。
二人は小枝子達が去って行った方とは反対方向へと廊下を歩き出す。
「兄というのは俺が相手したクラゲの奴か?」
「そうだ。兄の方も奇跡的に一命は取り留めた」
姫乃に銃で撃ち抜かれた小枝子が既に回復している事から、彼女達も『番犬』の能力者による治療を受けた事が分かる。
能力による治療を受けてなお入院している事、少女が詳細を話さない事、そしてその表現からして意識は戻っていないのだろうを秋人は察した。
目を覚ましたとしても身体機能や精神が以前のままではないのかも知れないが、それは最早医者の領分であり冷酷だが自分の関知する問題ではないと、秋人はそこで思考を打ち切った。
「彼女が俺に手出し出来ない、というのは?」
「お前が思うように何かの能力で彼女の力を抑え込んだ訳じゃない」
少女はそこまで言ってからチラリと秋人の表情を伺い、何かを逡巡した後、
「彼女が縛られてるのは過去に受けた虐待だ」
繕わず真実を告げた。
秋人はその答えに思わず眉間に皺を寄せ表情を厳しくする。
「彼女は物心ついた頃から兄のストレスの捌け口だった。性的にもだ」
「……兄妹じゃなかったのか?」
「信じがたいし疑いたいのも分かる。だが間違いない。体にも長年積み重ねられた痕跡が生々しく残ってる。残酷だが事実だ」
今時珍しい事ではないし、能力者として他人に認知された中ではまだマシな部類だと少女は話すが、秋人には到底そうは思えなかった。
そう言った少女自身も本心からそう思っているのではない。そうでも思わなくてはやり切れないのだ。
「逆らえば更に過酷な仕打ちを受ける環境で、従順である事を彼女が己を守る為の術として身に付けたのは当然の成り行きだった」
気付けば歩みを止めていた秋人に構わず、少女は先を進み説明を続ける。
「彼女はどんなに理不尽な指示であっても絶対に兄に逆らわないし逆らえない。精神を犠牲にして肉体を守ってるのか、はたまたその逆か、どちらにしても彼女の本能とでも言うべき部分にそう深々と刻み込まれてる」
更に過去の仕打ちは小枝子に対し、兄にだけでなく男性に対しての恐怖心と歪な従順性を与えていた。
「そして彼女は自分に壮絶な危機感と実際に危険を与えたお前を兄と重ねてる。だから彼女はお前を攻撃しない。出来ない。したいともしようとも思わない。彼女の中ではそんな選択肢がそもそも存在しない」
少女は話を終えて、
「安心したか?」
足を止め秋人を振り返り尋ねた。
この問いは、小枝子との再戦はないという事に対してではなく、手を下した兄の男がろくでもない人間であって安心したか?という事である。
しかし秋人を見て、この問いがどれ程的外れかを直ぐに少女は自覚した。
――見誤った……
それが彼女の心中であった。
彼女は感情を余りに出さない秋人を見て、この話をしても心を乱すようなタイプの人間ではないだろうと踏んだ。
むしろ問うたように、眼前にある一応の罪悪感を払拭し安堵するようなタイプだと思った。
だが実際には真逆の効果を出してしまっていた。
秋人は奈々に対して無力であった歯痒さが、小枝子の話を聞いて再び再燃していたのだ。
理由は知らずとも、少女にも秋人の苦虫を噛み潰したような表情と様子から胸中は容易に読み取れた。
――姫乃め、渋ったな……
少女が姫乃から聞いていたのは秋人の実力に関しての話ばかりであった。
このような、言ってしまえば利他主義の人間だとは全く聞いていなかったのだ。
敵を良い奴なんて言える訳がない故、姫乃が故意的にそこの部分を省いたのは明白だった。
思えば奈々の見舞いに来ていた事から冷徹な人間ではないと分かりそうなものだが、無表情な秋人を見るとそれが結び付かなかった。
姫乃が教えていてくれれば、と恨めしく思いながら、少女はギュッと目を瞑り怒鳴られる事を覚悟した。
安心したか、などと失礼極まりない問いを投げ掛けたのだから当然である。
だが予想に反して雷は落ちなかった。
「俺には彼女にも彼女の兄にも関心がない。あの時のような憤りもないし免罪を乞う気もない。ましてや聖職者のように善行を重ねたいとも思わないし、与えた仕打ちを正当化し許されたいなどとも考えた事もない。小枝子について尋ねたのはあくまで危機管理の為だ」
秋人は安堵したのでも憤りを感じたのでもなく、何も感じなかったとそう告げ、少女の脇を抜け先を歩き出した。
少女はキョトンと暫しの間呆けた後、秋人の背中に向かって溜息を吐いた。
口ではそう言いつつも、秋人の纏う空気は明らかに今までと違う。
そうあるべきだと頭が指示する事を、心を無視してただ言葉にしてみただけなのは簡単に見て取れた。
「なんとも、ひねくれ者というか何というか、難儀な性格だな」
少女は一人そう呟き、そしてにっこりと微笑んだ。