メビウス・リング-4
二列目と三列目の倉庫の間の大通り。そこが秋人と由貴がいる筈だった場所だ。
しかし実際にいる場所は一列目と海に挟まれた道、つまり予定から南に道を二つ逸れてしまっていた。
「あ、秋山さん……!」
何が起きたのか理解出来ていない由貴が、秋人に救いを求めるように不安に染まりきった視線を送る。一方秋人は辺りを見渡しながら沈思していた。
「恐らく植え付けられた癖が変わったんだ」
「く、癖が変わった?」
由貴のオウム返しに秋人はコクリと頷いて返す。
「距離か時間か、はたまたもっと別の条件かも分からないが、だが敵に植え付けられていた『無意識に右に曲がる癖』が、いつの間にか『左に曲がる癖』に変わっている」
それ以外に西へ進んでいた二人を南へと向かわせる方法はない。
敵の能力に与えられた癖が変化したとしか考えられなかった。
そしてその事実に気付いた秋人は背筋にヒヤリとした汗が流れるのを感じた。
「破壊力も俊敏性もないが至極厄介な能力だと、そう言っていたな、由貴」
「え?は、はい」
突然の何の関係も無さそうな秋人の問い掛けに戸惑いながらも、由貴は直ぐに首肯する。
「俺もその通りだと思った。面倒な守りの能力だと、そう思った」
その前置きが否定をほのめかしている事を由貴は感じ取り生唾を飲む。
「しかしコイツは守りの能力じゃない。破壊力も俊敏性もないが、だが攻めの能力だ」
そう言うと秋人は視線を由貴から海へと向ける。
疎らにボートが横付けされているそこには、壁も柵も、テトラポットもない。誤って足を踏み外せばそのまま海へ真っ逆様だ。
「例えばもし、進路を南へと変えそこから海に落ちたとして、俺達はそれに気付くか?」
「それ、は……」
気付くに決まっている。由貴にはそう断言出来なかった。
二人は道を変えたことに気付けない。つまりそれは方向を変える意志も、景色を見る視覚も、現在地を特定する全てのものが役に立たないということだ。
秋人は敵の能力を見切ったと考えていた先程までも気を緩めず、波の音や感じる風にも注意を払っていた。それでも方向を変えたこと、予想外の場所に自分がいることに気付けなかった。
気付いたら海の底、なんて事も十分に有り得る能力だと、秋人同様に由貴も理解し、再び唾をゴクリと飲み込んだ。
「まるで毒のように、ジワジワと蝕むように、俺達を死へと誘う能力……厄介な迷宮に入り込んだもんだ」
「ど、どうしましょう……」
尋ねるではなく、考え込む由貴はそう零し視線を落とした。
目的の為には進むしかないのだが、しかしこうなっては動くに動けない。推測出来ない進行方向の変化の中、目的地に辿り着けるとは到底思えない。
「こ、これは勝手な憶測ですけど、近付くにつれて癖の変化は頻繁になると思います」
「同感だ」
秋人を上目遣いで見上げ、なぜか申し訳なさそうに言う由貴の言葉に秋人は同意する。
敵のこの能力はあくまで二十一時までの時間稼ぎであり、秋人達を手に掛ける目的はない。
秋人達を中心に能力を展開する必要はない。
それに秋人達が能力によってさ迷っている事に敵が気付いているかも怪しいところだ。
「それに、て、敵はここを隠れ家に選んだ事から自分の能力を熟知してます。こ、これも憶測ですが、最終防衛ラインは螺旋を描くように進路を変えさせ、一カ所に誘い込む形になってる筈です」
「何があるかは分からないが、そこに誘き出されれば確実にやられるだろうな」
アリ地獄のようなものだ。進路を操作し、最終的に一カ所に集めて待ち構えていた牙で喰らう。
物理的なトラップか、もう一人の能力者による攻撃か、それは判断出来ないがそこには確実に侵入者を葬る準備がされてると見て良い。
秋人にその考えを認められ、由貴は益々下手には動けないと思った。
「秋山さん……」
もう何度目かも分からない由貴の呼び掛けは、今までで一番小さな声だった。
それは、由貴自身も下したくない、苦渋の決断を進言しようとしている為だった。秋人に確認した二つの憶測もこの進言の為のものだ。
捕らわれた『虫食い』の救出はもう諦めよう。
由貴はそう秋人に言おうとしていた。
幸か不幸か、敵の能力に二人は完全に翻弄されている。
故に目的の達成は困難を極めているが、故に敵のテリトリーに深く入り込む事もなく、引き返せる位置に未だいる。
捕らわれた『虫食い』は可哀想ではあるが、不用意に侵攻して自分達がやられてしまえば不要に死体が二つ増えるだけだ。
撤退こそが、口惜しいが今や最も賢明な判断だと、由貴はそう思っていた。
「あ、諦め――」
「坊さんに髪をいじる癖があると思うか?」
「……え?」
意を決して告げようした言葉は、秋人の突拍子もない質問に遮られた。
由貴は至って真剣な表情をしている秋人を目を白黒させて見詰める。
「女性にヒゲを触る癖があると思うか?裸眼の人に眼鏡を上げる癖があると思うか?」
「え?え?あ、えっと……」
続けて投げ掛けられた問いに由貴は頭を捻る。全く別の事を考えていただけに、なぞなぞにもならない簡単な問いに思考が追い付かない。
「持っていないのに携帯を開く癖、吸わないのにタバコを取り出す癖、ポケットのない服を着てるのにポケットに手を突っ込む癖――」
「あ、秋山さん!?どうしたんですか?い、一体何を言ってるんですか?」
尋ねておきながら理不尽にも返答を求めていない秋人は、まくし立てるように問いを次々に投げ掛ける。
そして一拍置いてから、
「曲がり角がないのにそこを曲がる癖は、果たして有り得るのか?」
「……え?」
秋人は抱いた核心の問いを由貴に尋ねた。
髪をいじる癖を持つ坊さんなどいない。髪が無いのだから。
同じようにヒゲを触る女性も、眼鏡を上げる裸眼の人も存在しない。その行為を出来よう筈がないからだ。
ならば、角が無い場所を曲がる癖はあるだろうか?
「……そんな癖は、有り得ない?」
「そう、角が無い場所を曲がる事など出来ない」
秋人の言わんとする事を由貴は察した。秋人は角のない道を進み二十三番倉庫を目指せば良いと言っているのだ。
確かにそうすれば敵の能力に翻弄されず目的地に辿り着けるかも知れない。
「で、でも!ここの倉庫街は角ばかりです!角が無い道なんて……あ、秋山さん?」
確かに秋人の言う通りだが根本的に実現不可能だと由貴は言おうとし、それを止めて再び秋人の名を呼び問い掛けた。
秋人がずっと繋いでいた手を離して由貴に背を向け跪いたのだ。
おぶされと秋人が言ってるのだと由貴は理解したが、その理由が分からなかった。
「あ、あの?」
「角の概念のない、倉庫の上を行く。後三十分しかない、急ぐぞ」
「う、上!?屋根の上ですか!?」
「ああ」
驚く由貴に秋人は当然だと言わんばかりに頷き答える。
「時間が無い。早くしてくれ」
「で、でも!」
「指示には従う約束だ」
「うっ……うぅ、はい……失礼します」
そんな約束していた事を少し後悔しながら、しかし由貴は秋人に遠慮がちにではあるがおぶさった。というより、秋人は手を後ろに回していないので抱き付いたに近い格好となった。
「振り落とされない様にもっとしっかり掴まれ」
「は、はい!」
「…………」
秋人は返事をしながらも腕を緩く首に絡める程度にしか掴まらない由貴に小さく溜息を零す。
「キャッ!」
「行くぞ!」
「え?あ、キャアアアアア!!」
秋人は一度手を由貴の膝の裏に回しグイッと持ち上げ、目の前の倉庫に向けて走り出した。
由貴は唐突な秋人の行動に悲鳴を上げ、そして余りの速度に目を見開いて再度悲鳴を上げる。
しかしそれは不意に襲う浮遊感に止められた。
――と、と、飛んでるの!?
恐怖より先に驚愕が由貴を支配する。
人一人を背負いながら疾走し、更にジャンプして飛び上がるなど由貴からすれば理解の範疇を越えている。
しかし強化型能力者である秋人には、小柄な由貴の重さなど微々たる影響しか及ぼさなかった。
「秋山さん!前!壁!壁にぶつかります!!」
しかし何メートルも高々と跳躍出来る訳はなく、由貴を背負った秋人は真っ直ぐに倉庫の壁に突っ込もうとしている。
「腕を放すなよ」
大騒ぎする由貴に対して秋人は何事もないようにそう言葉を掛けると、壁面に四肢でくっ付くように衝撃を和らげる。そして二つ錘を壁に取り付け、それに左足と右手を引っ掛ける。
そのまま上に飛ぶと右手を掛けていた錘に右足を、上に伸ばした左手を新たに壁に取り付けた錘に引っ掛ける。
そしてそれとは左右逆の行為を更にもう一度繰り返し、壁を四つん這いに駆けるように四度の壁面での跳躍を行い、秋人は瞬く間に倉庫の屋根に飛び乗った。
「よし、ここを真っ直ぐに進……由貴?」
「うっ、うっ……」
首を絞める程の強さで腕を絡め、壁を登り終えた今なお力を緩めない由貴の様子に異変を感じ秋人が振り返ると、至近距離に涙を目一杯溜めた瞳があった。
「うっ、ふぇっ、こ、ここ、こわかったぁ……」
「す、すまん由貴、少し刺激が強かったな!」
思えば由貴は自分の身体能力の高さを知らなかったな、と秋人は思った。突然あんな無茶をされれば、いや、知っていたとしても五、六メートルはある壁を素手で登られては怖いだろうと反省した。
秋人はおぶられたまま自分の肩に顔を埋める由貴の頭をポンポンと撫で、悪いとは思うが余り構う時間的余裕が無いため先を見る。
――ここを真っ直ぐ行くだけだ
敵の能力は封殺した。角が無ければ角を曲がる癖は威力を発揮しない。
「そろそろ行くな?」
秋人は肩に顔を埋めたまま頷くという由貴の器用な返答を確認し、屋根の上を走り出した。
「わっわっわっ」
倉庫と倉庫の間を飛び越える度に声を上げる由貴を背負い、秋人は一直線に西へ進む。
――後は強化型の能力者か
秋人の思考は既にもう一人の敵能力者へと向いていた。
――近距離に特化した強化型の能力者……果たして巧くやり過ごせるだろうか……
戦うのではなく逃走を考えると狙撃型や遠隔操作型の能力者ならば良かったが、情報では敵は強化型だ。
近接戦闘は互いにリスクが高い。正面からは対峙したくないが、しかし悠長に隙を伺う時間も無い。秋人としては今は最もやり合いたくない相手であった。
――しかし仕方がないか
敵を選り好み出来る訳などないか、と秋人は心中で呟き諦めにも似た感覚を覚えた。
「キャッ!」
不意に由貴が悲鳴を上げる。
「秋山さん!?」
「どうした?」
秋人は何かあったのかと走りながら由貴の呼び掛けに答える。
「ど、どうしてまた下に降りたんですか?」
「っ!?」
秋人は直ぐに立ち止まり辺りを見渡した。
いつの間にか倉庫の屋根から飛び降り、自分が大通りを走っている事にそこで気が付いた。
「まさか、無意識でしたか……?」
「……ああ」
秋人は、砂漠では人は円を描いて歩いてしまうという由貴の例え話を思い出した。
由貴は似ていると言ったが、正に敵の能力はそれそのものだったのだと秋人達は気付かされた。
敵の能力は角など関係がなかったのだ。進路を反らす。単純にただそれだけであり、秋人達は角でしか方向を変えられなかった為、『角を曲がる癖』を植え付けられたと思い込んだのだった。
「倉庫の上も下も、角の有無も関係ない……西に進む事自体を邪魔されてるのか」
秋人は角が無ければ能力を発揮出来ないと思い込んでいた己の勘違いに舌打ちをする。
――この能力が展開されてる限り、進むのは不可能なのか?
この状況下に置いて、この能力は穴のない無敵の能力なのではないか。秋人にその考えが頭をよぎった。
「ど、どうして、秋山さんより私が先に異常に気付いたんでしょうか?」
秋人は由貴を見る。射抜くように見詰める由貴の視線と秋人の視線がぶつかる。
「今まで、私よりいつも先に秋山さんが異常に気が付いてました。私が何かおかしいって言う時、秋山さんはそれより早く気付いて立ち止まってました」
確かにその通りだった。由貴よりも鋭敏に気を張っていたと言えばそれまでだが、秋人の方がいつも先に異常に気付いていた。
「なぜ、今の一度は私が先に気付いたのでしょう?」
否、気を張っていたと考える方がこの事態の説明がつかない。既にもう一人の能力者について考えていたとは言え、気を緩めた訳ではない。そもそも何が起こるか全く分からない一番初めの攻撃も秋人が先に気付いた。
完全に油断していたとしても秋人が由貴に遅れを取ることは無い。
なぜ由貴が秋人より先に異常に気付いたのか。
――いや違う。異常に気付いたのがただ早かったんじゃない
屋根から降りた衝撃にすら気付かなかった秋人と違い、由貴は悲鳴を上げた。それはすなわち、敵の能力が発揮されてる最中、角ならば無意識に曲がるその時点で異常を察知したという事だ。
敵の能力は無意識に行動する癖を刷り込ませる能力。気付く事など出来ない。
つまり、秋人が敵の能力の影響を受けている中、由貴は敵の能力の呪縛から解き放たれていたという事である。
ハッとした秋人に由貴が頷く。
「私も秋山さんと同じ様に西へ、全く同じ方向に全く同じスピードで向かっていたのに、私は能力の影響を受けなかった。なぜでしょう?」
西へ進むという事に関して条件は同じ。だというのに由貴は西へ進みながらにして敵の能力から外れていた。
秋人は今一度敵の能力を完全に把握する必要があると思考に没入する。
角を無意識に曲がる癖を刷り込む。最初に考えたこれは間違いだ。だから角の無い倉庫の上を進むのは無意味だった。
進路を無意味に反らさせる。これが正解だ。
そして問題は、能力を発動する相手をどうやって決定しているのか、だ。
これが分かれば、先程までのように曲がる事を想定して進路を取るのではなく、敵の能力を潜り抜け、それこそ一直線に目的地へ辿り着ける。
そして由貴が能力の影響を受けなかった事が、それを暴くヒントになる筈だと秋人は考えた。
根本的に考えれば目的地に進む全ての者を感知すると思うが、目的地へ進んでいた由貴が能力の影響を受けなかった事からその考えは除外される。
「由貴、屋根の上を走っていた時、どうしていた?」
秋人は未だにおぶったままの由貴を振り返り尋ねる。
立ち止まっているのだから降ろしても良いのだが、秋人は能力をすり抜けた状態を少しでも保持したかったのだ。
「えっと、怖かったのでじっとしがみついてました」
こうやって、と由貴は一度ギュッと秋人にしがみついて見せる。
――視覚じゃないか
由貴は鼻から上を秋人の肩からヒョッコリと出し、秋人と視線を交わしてる。屋根の上を走っていた時も同じようにして前を確認していたのだろう。
見る見ないの差は二人にはなかった。
他の感覚に差があったとも思えない。そして歩く、走る、飛ぶ、とどの行動にも干渉して来ている事から、行動に敵の能力が発動する引き金があるとも思えない。
「行動じゃないとしたら……由貴、走っている間何を考えていた?」
「何を、ですか?」
何を考えていたかと言われても、それを言葉にするのはなかなか難しい。由貴は少しばかり考える。
「えっと、怖かったのと振り落とされないように必死だったので、殆ど何も考えてなかったと思います……」
「早く着いて欲しいとかは思わなかったか?」
由貴は少し考えてから首を振る。
「そんな余裕もなかったです。またジャンプだ、あっまたジャンプだ、ってそればっかりでした」
「それだ」
合点がいったと微笑む秋人に由貴は首を傾げた。
「あの、これが敵の能力に何か関係あるんですか?」
「意志だ」
秋人は端的に結論から答える。
「敵の能力は二十三番倉庫へ向かおうとする意志に反応して発動してる。だから由貴には何もなく、俺にだけ発動したんだ」
二十三番倉庫に向かう者ではなく、向かおうと考えている者にだけ能力が発動する。そう考えれば由貴が対象から外れた事の辻褄が合う。
秋人は仮定の上に築き上げた不明瞭な憶測ではない今回の推理は、かなり信憑性が高いと感じた。
「じゃあ、二十三番倉庫に行くためには、意図せず、散策して偶然辿り着くように向かわなくちゃいけないんですか?」
由貴は言いながら思う。そんな事は不可能だ、と。
既に二人は二十三番倉庫を意識してしまっている。偶然通りがかる事など出来よう筈がない。
偶然を装ったところで意志に反応する能力は誤魔化せない。
敵の能力のカラクリが分かったところで実践出来なければ何の意味もない。
「いや、もっと簡単にこの能力をすり抜ける方法がある。行くぞ由貴」
しかし秋人は既に能力をすり抜ける方法が思い付いていた。秋人は由貴を背中から降ろし、自信満々に手を引いて西へ歩き出した。
二十三番倉庫に行こうとすれば進路を反らされるのならば、
「目指すは二十二番倉庫だ」
二十三番倉庫を目指さない。それこそが敵の能力をすり抜けた簡単な方法だ。
残り時間五分。持ち時間の大半を消化してしまったが、二人は無意識下に生み出された迷宮を突破した。
何十センチというヒゲを生やした女性もいますが、一般的に考えて、ということでお願いします。