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メビウス・リング-1

 秋人はダラダラと滝のように冷や汗を流していた。


――や、ヤバい!コイツはかなりヤバい!


 完全に不意を突かれた秋人は、自身が予想以上に追い詰められている事を自覚し、なんとかこの窮地を脱する術はないかと頭の中で必死に探る。


「どうした秋山?あと五分しかないぞ?」


 唐突に『ソイツ』は秋人のすぐ側に現れ、嘲笑しながら秋人を見下ろしそう言うと、今度は秋人から離れていく。


――クソ、時間がない!


 あと五分で全てが終わってしまう。だが、手も足も出ない。

 秋人は勘を頼りに何度か腕を動かすが、それも無駄にしか思えなかった。


 そして無情にも時は流れ、遂にタイムリミットの五分が経過した。


 『ソイツ』はパンパンと手を叩いた。


「はい、そこまでー。後ろから解答用紙を回収しろー」


 『ソイツ』こと教師がそう告げると、静まり返っていた教室が息を吹き返したようにガヤガヤとした騒がしさを取り戻した。


 後ろから二番目の席の秋人はやってきたクラスメートに答案を渡す。


「うわっ、秋山ヤバいぞこれは」


 渡された答案を見て、友人は思わずそう言った。


「見ないでくれ……」

「こんだけ真っ白だと目が行くって。選択問題しか解いてないじゃん」

「じゃあ笑ってくれ……無様な俺を笑ってくれ……」

「はは、笑えねーってコレ」


 言葉とは裏腹に笑いながら、その友人は他の生徒の答案を集めながら去っていった。


 桜庭高校には中間試験というものが無い。ノートの提出と授業中の小テストの出来が半分、そして学期末のテストの成績の半分を足して学期の成績が評価される。

 そして桜庭高校は今、学期末テストへ向けて授業も一応の締め括りへと差し掛かっていた。


 秋人は授業にて総まとめの抜き打ち小テストを受けたのだが、その結果は採点されるまでもなく散々であった。


 秋人は予習復習をするタイプではなかったが、それでもこれまでは授業を聞いているだけで何とかなっていた。

 しかしここ最近は心身共に疲労が溜まり、授業に集中するどころか夢の世界に入り浸ってばかりだった為、このような結果になってしまったのだ。


――ヤバいな……能力者との戦いの弊害がこんな形で……


 小テストの時間の殆どを頭を抱えていた秋人は、さすがに現状に危機を覚えた。


 三十点未満の赤点を取れば、夏休みの補講と追試を義務付けられる。

 楽しい夏休みを過ごそう!などとは考えていないが、貴重な戦闘要員である自分が、仲間から離れ自由に動けない時間を作るのは得策ではないと、秋人はそう思った。

 実際は面倒だという気持ちも多分にあったが、そう思わせて自分を奮い立たせた。


 なんとしても赤点は避けなければならない。


 秋人は授業終了のチャイムが鳴るや直ぐに教科書を引っ張り出した。まずは小テストで出た問題の復習だ。

 しかし、


「……ま、全く理解出来ないだと!?」


 教科書を使っても問題が解けなかった。

 秋人は戸惑った。こんな経験は初めてだった。


 授業中、居眠りするのは能力を自覚する以前からであり特段珍しくなかった。しかし、これまでは次の授業を聞けば授業の内容に追い付けていた。

 今回は違う。連続して授業を聞いていなかった為、全く理解出来ないのだ。


――や、ヤバい!!本格的にヤバい!!


 教科書が理解出来ないとなると勉強法が分からない。そもそも元々勉強しないので勉強法はこれ以外分からない。


 秋人はテスト中と同じぐらいに冷たい汗が頬を伝うのを感じた。


 ここは恥を忍んで誰かに教えを乞う他ないと秋人は確信した。


「どうしたの秋人?珍しく教科書なんて開いちゃって」


 そこにいつも通り秋人の下へやって来た春香が声を掛けてきた。


「い、いや、今の小テストの出来が不安でな」

「一緒一緒!私も全然出来なかったぁ」


 春香は特別頭が良い訳ではないが、真面目なのでいつもどの教科も平均点を悠に上回る得点を取る。

 秋人は抜き打ちだったとはいえ春香が自分と一緒という事はまずないと断言出来た。


――だが春香に勉強を見て貰う訳にはいかないな……


 秋人は以前春香に勉強を見て貰った事を思い出しそう思った。


 中学一年生の時、新たな環境故か秋人はその時も授業内容の理解に苦しんだ事があった。

 その秋人の窮地を救ったのが他でもない春香である。


 その時の秋人のテストの成績は、春香の教えのお陰ですこぶる良かった。

 厳しい訳でもなく、お手製の資料や問題も分かりやすく、当時は春香には教師としての素晴らしい才能があると秋人は思ったものだ。


 ではなぜ今回は春香に頼まないのか。


 それは春香が秋人の学力向上に全力を注いでしまうからだ。全力、つまり持てる全ての力をである。

 自分の勉強時間どころか寝る間も惜しんで資料や問題、テストまでの綿密なプランを作り上げた為、春香自身のテスト結果が今世紀稀に見る酷さだったのだ。

 春香ならばテスト前に特別な勉強をしなくてもそれなりの点数をマーク出来る筈であったが、試験中は秋人の手が動いているか気になって、ほぼ白紙で提出するという有り様であった。

 更に後悔するどころか秋人の成績が良かった事を心底喜んだのだから救いようがなかった。


 そんな事があって以来、秋人は絶対に春香に勉強を見て貰うよう頼む事はなかった。


「……何か手を打たなければ」

「え?なぁに秋人?」

「いや、こっちのことだ」


 思わず口から漏れた秋人の一言に首を傾げる春香であった。






 秋人は昼食を済ませてから緩奈の教室へと向かった。

 新平は一年生で一つ下なので頼れないし、春香以外で他人に構う余裕がある者となると緩奈ぐらいしか思い当たらなかったのだ。

 緩奈の成績を秋人は知らないので、何となくでの人選であった。


 教室の前に着くと、秋人は不意に目の合った近くにいた女生徒に声を掛けた。

 自分のクラスではない教室の雰囲気は独特のものがあり、秋人とて入るのが躊躇われたからだ。


「先崎緩奈はいるか?」

「緩奈ちゃん?うん、いるよ。呼んできたげる」

「ありがとう」


 厚意に感謝し、秋人はそのまま教室の後ろの扉から教室を眺め待った。

 女生徒はトテトテと急ぎ足で窓際の一番前の席に座って友達と話していた緩奈の肩を叩き、秋人を指差す。

 緩奈が視線を向けたので秋人は軽く手を挙げて応えた。


 思わぬ来客に驚いた様子であったが、緩奈は友達に断りを入れてから直ぐに秋人の下へやって来た。今回もクラス中の視線を集めてるが、秋人はそれに構っている場合ではなかったので無視する。


「どうしたの?」

「三割。これが何の数字か分かるか?」


 イチゴ牛乳のパックから伸びるストローをくわえながら緩奈が尋ね、秋人はそれに問いで返した。

 緩奈は頭を傾け、ほんの少しだけ間を置いた。


「さあ何かしら?誰かの打率か何か?」

「俺が今日の小テストで解答を書き込んだ問題の数だ。更に書き込んだのは全て選択問題。正解する確率は四択だったから二割五分だ」


 深く考えなかったのは正解だったと緩奈は思い、呆れた視線で秋人を貫く。


「期待値は約八点、明日への希望なんて欠片もない数字ね。もう言いたい事は分かったけど、一応最後まで聞いてあげる」

「助けてくれ」


 遠回りは意味が無いと判断し、打てば響くような切り返しで恥も外聞も捨てた秋人は率直に頼んだ。

 緩奈は(いさぎよ)いとも言えるその様子に一度大きく息を吐き、胸の下で腕を組んだ。


「助けてあげたいけど無理ね。今回は私もちょっと頑張らないと不味いの」

「そう、か……」


 秋人は明らかに肩を落とし俯いた。


「ちょ、ちょっとあからさまにしょんぼりしないでよ。悪い事しちゃったみたいじゃない」

「いや、すまん。……仕方ないな」

「駄目よ秋人」


 秋人の言った『仕方ない』に、緩奈が手伝えないのは仕方がない、とは別のニュアンスが含まれてる事を緩奈は聞き逃さなかった。


「自棄になってもカンニングは駄目」


 それは『不正行為に手を出すのもやむなし』というニュアンスであった。秋人は目を少しだけ大きくした。


「よく分かったな」

「分かるわよ」


 緩奈は当然だと微笑して秋人の問いに答えた。そして人差し指を立てて、一転して真剣な表情で緩奈は秋人に詰め寄る。


「いい?カンニングは駄目よ?見付かって停学になった人がいるのを知ってるでしょ?」

「無様に見付かるようなヘマはしない」

「秋人!」

「冗談だ。別の勉強法を探す事にするよ」


 能力を使えば難なく満点を取る事の出来る緩奈が真面目にやるのだし、それに秋人は不正をする気は元々なかった。

 声を少し荒げた緩奈を軽く宥め、秋人は緩奈のクラスの教室を後にした。






「あっ!秋人先輩!」


 自分の教室へと向かいながら秋人は正攻法の勉強法を考えていると、丁度通り過ぎようとしていた階段を新平が上ってきた。


「誰かに用か?」


 一年生の教室は一階と二階にあり、ここ三階に来ることは滅多に無いので、秋人は新平にそう尋ねた。


「はい。緩奈さんにテスト勉強を見て貰いたくて」


 新平は頷き、秋人と同じ考えであった事を告げた。秋人はそれに首を振った。


「それなら俺も今緩奈に会って来たが駄目だった」

「そうですか……不味いなぁ」


 それを聞いて先程秋人がしたように、新平はうなだれしょんぼりした。


「新平もヤバいのか?」

「由貴さんとテストの点数で賭けをしたのですが、同じ中学校だった人の話だと彼女、中学の時の試験では学年トップファイブの常連だったらしいんですよ。このままじゃ絶対に勝ち目がないんです」


 秋人達と出会う以前まで図書室に入り浸っていたのは、決して伊達(だて)ではなかったのだ。

 由貴は驚異的な頭脳の持ち主だったのかと秋人は素直に驚いた。

 それと同時に秋人は新平が賭けをする余裕があるぐらい、テスト自体には追い込まれていない事に裏切られた感があった。


「あっ!秋人くん!」


 そこに食堂で昼を過ごしていた翔子が階段を上ってやってきた。


「お昼休みに会えるなんて運命的だね!」

「そ、そうだな」

「えへへへへ」


 三年生の翔子の教室は四階なので、階段で話していれば会うのは必然的であった。

 しかしそんな事は気にしない翔子に同意を求めるように聞かれ、秋人は少し困ったが肯定的に答えた。翔子はそれに満足そうにしながら照れてモジモジしている。


「翔子さんはテストまでの予定はどうなっていますか?良ければ少しで良いので僕のテスト勉強を見て貰えないでしょうか」

「テスト勉強?」


 話し掛けられて初めて新平の存在を認識した翔子は、一体何を言っているのか分からないといった風に首を傾げた。


「事前にそんな事する訳ないじゃん」

「え?」

「あーいうのは、前日だけバババーっとやれば良いんだよ、バババーっと。それで半分は取れるよ」

「は、半分ですか?」

「うん。あ、一年生は知らないのかな?追試と補講がある赤点は三十点未満だよ」


 そんな事は新平とて知っている。が、ならば半分取れれば万々歳、という訳でもない事も知っていた。新平は翔子に勉強を見て貰うのを即座に諦めた。

 秋人は得意気に半分取れるという翔子に呆れるよりも、むしろそれで半分取れるのかと感心していた。

 さぞかし普段の授業を真面目に聞いているのだろうと思ったが、それは間違いである。

 翔子は普段、教科書の写真に落書きしたり携帯をいじったりと、殆ど授業に参加していない。それでも何とかなっているのは、前日に真琴が世話を焼くからであった。

 そんな事を知らない秋人は純粋に感心していた。


 何にしても、翔子も駄目となっては秋人は全く別の手を考えざるを得なくなった。







 放課後。

 今日から秋人はとりあえず図書室に入り浸る事に決めた。成績の良い由貴がそうしてるので、それにあやかろうという気持ちもあった。


――静かだな


 秋人は図書室に余り馴染みはなかったが、人も少なく静まり返っているここは勉強には打ってつけだとなかなか気に入った。

 秋人は誰もいない十人が同時に使える長机の端の席に座り、早速鞄から教科書を出して頬をパンパンと叩いて気合いを入れた。


「あ、秋山さん」

「ん?」


 そこに不意に声を掛けられ、秋人は視線を背後に向ける。

 そこには今日も図書室に来ていた由貴が立っていた。


「こ、こんにちわ」

「奇遇だな、由貴。テスト勉強か?」

「は、はい。あ、あの、隣の席に座っても良いですか?あ、いえ、だ、ダメなら構いませんので……すいません」


 未だに秋人と由貴の間には物理的ではなく精神的に距離がある。正確には物理的にも二人で話すには少し遠い距離があるのだが、見えない距離に比べてそれは大した問題ではない。

 この問題に気苦労を重ねていた秋人は解決するきっかけになるかも知れないと思い、焦って秋人が断れるように変な気配りをする由貴に秋人は軽く微笑んだ。


「丁度慣れない場所に一人は落ち着かないと思ってたんだ。良かったら座ってくれ」

「は、はい!ふつつか者ですが宜しくお願いします!」


 隣の椅子を引いて了承した秋人に、由貴は深々と頭を下げ変わった挨拶をしてから席に座った。


 それから一時間程、二人はそれぞれ自学に励んだ。

 初めの数分こそお互い気まずい空気があったが、図書室という話さずに済む空間も手伝い気付けば違和感はなくなっていた。

 初めてのデートに映画館が選ばれるのと同じ要領である。


「んなぁー……ふぅ」


 それまでずっと集中していた秋人はペンを置き、天に腕を突き上げ一度大きく伸びをする。

 勉強ははかどったかと言われれば否だ。だが確実に進歩はしてるし、普段しない事をしているだけに充足感はあった。


「ん?……なんだ?」


 ふと横を見るとポカンとした表情で由貴が顔をしげしげと見ていたので、秋人は腕を掲げたままの微妙な体勢で由貴に尋ねた。


「え?あ、な、なんでもないです!」

「?」


 由貴は自分がじっと見詰めてしまっていた事に言われて気付き、慌てて視線を机の教科書に戻した。


 由貴は秋人を機械的な人間だと思っていた。感情の起伏を表情に出さなかったり、無駄のない行動をする秋人はとても冷たい人間だと、そう思っていた。

 しかし実際は違ったとこれまで共に過ごした日々から由貴は感じた。

 優しく微笑む事もするし、冗談を言ったりもする。激情に任せ、無茶な戦いに身を投じる事もあった。


 由貴は関わりの深い翔子や緩奈、新平の話から秋人を慕っている事をひしひしと感じていた。いつも無茶ばかりする秋人への小言を、言うことを聞かない我が子に対するそれのように聞かされる事もあった。


 秋人も普通の学生なのだと、由貴は以前の自分の考えが可笑しく思ったりしていた。


 しかし、そう思ってはいたが、間抜けな声を出して伸びをする普通の人間らしい秋人を目の前にして、由貴は思わず見入ってしまったのだった。


――し、失礼です!ロボットみたいだなんて思ってたのも酷いのに、顔を珍しがってじっと見ちゃうなんて失礼です!


 由貴は自分の行動を戒め、再び勉強に没入しようと新たな教科書を鞄から取り出した。


「由貴」

「は、はい!」


 秋人に名を呼ばれ、怒らせてしまったかと由貴は反省しながら視線を秋人に移した。


「そ、それは三年の教科書じゃないか?」


 しかし秋人は怒るのではなく、驚いた表情で由貴の取り出した教科書を指差していた。

 由貴はホッと安心するとはい、と答えて頷き、自分の持つ教科書の『3』と書かれている表紙を秋人に向けた。


「な、何で由貴が三年の勉強を?」


 由貴は一年生だ。三年の教科書を持っているのも不可思議だが、それ以上に三年の勉強をしていたのは謎だった。


「私、友達がいなかったから時間だけは有り余ってましたので……」


 つまり、暇な時間を使ってスケールの段違いに大きい予習をしていたという事である。


「ここ、分かるか?」


 秋人は自身の前にあるノートを由貴との間まで滑らせ、先程必死になって解いた問題を指差し尋ねる。


「えっと……はい、ここはもうやりましたから分かります」

「す、凄いな……」


 秋人は中学トップクラスの実力を目の当たりにし、目を見開いて賛辞の呟きを漏らした。


「あの……」

「ん?なんだ?」


 由貴はチラリチラリと秋人の顔を見てから、申し訳なさそうにノートを指差す。


「間違ってます、ここ……あとここも……」

「…………」

「……すいません」


 図書室で過ごした一時間は完全に無駄だったと、秋人はそう確信した。


「あ、あの、迷惑でなければ、わ、私がテスト勉強のお手伝いをしましょうか?」


 図書室で過ごした一時間は決して無駄ではなかったと、秋人はそう確信した。


 秋人は是非とも頼むとお願いし、今日はもう遅いので明日から由貴に面倒を見て貰う事となった。


 後輩の世話になるという世間的な屈辱よりも、秋人はテスト対策に目処が立った安堵に包まれていた。

 そして、新平の勝ちは万に一つもないだろうと心の中で合掌するのであった。

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