シャンデリア・クリップ-3
叩き落とされた蝶は燃え尽きるよりも先にそのダメージで姿を消す。そして男の靴底で圧され火は飛散し、完全に消え失せてしまった。
無表情のまま男は再び緩奈へ向き直る。
最早男には何の不安要素もない。火は失われ、無力化した二人の敵に順にトドメを刺すだけだ。
「緩奈!起きて緩奈ぁぁあああ!!」
翔子が見えない壁を何度も殴り付けて叫ぶが、精根尽き果てた緩奈はピクリとも動かない。
男は翔子に微塵の関心も見せず、緩奈に歩み寄るとゆっくりと足を振り上げた。
火を踏み潰して時となんら心境の変化はない、冷ややかな視線で狙いを付ける。
そして、頭蓋を砕く一撃が振り下ろされようとした、その瞬間、
――バチンッ!!
「っ!?」
何かが弾けるような、凄まじい音が響き渡った。
咄嗟に男は辺りを見渡す。が、一見して何の変化も無い。
――何が起きた!?
全ての不安要素を排除したとの考えがあった為、この異常な出来事は男を酷く狼狽させた。
「……フード、なんか……被ってるからよ……」
「!?」
僅かに意識を保つ緩奈が、弱々しく微笑み呟いた。
「貴様か!一体何をした!?」
「フードなんか、被ってるから……だから私の蝶に気付かなかったのよ……」
「気付かなかっただと?」
気付かなかったどころか、最後の蝶は男の手によって叩き落とされている。
意味のないただの妄言かとも思えたが、だとしたら音の説明が付かない。
男は逡巡し、そして見落としていた一つの可能性に気付き目をカッと見開いた。
その様子を眺めていた緩奈が不敵に微笑する。
「そう……火を宿した蝶は、一匹じゃないわ……」
何匹も蝶が飛び立つのを見ておきながら、男はその可能性を少しも抱かなかった。
最後に叩き落とした真っ直ぐ飛んでいた蝶は、自分を引きつける囮だったのだと男は気付いた。
――上か!?
男は緩奈の言ったフードというキーワードからそう推測し、直ぐに視線を空へ向ける。そして真上の高い位置に火を宿した蝶がいるのを見付けた。
――まだ遠い!この女を殺せば何も問題はない!
火はまだ檻に影響を与える距離ではない。蝶が翔子のいる檻に辿り着くまでまだ時間がある。
直ぐに男はトドメを刺すべきだと判断し、直ぐに緩奈に視線を戻した。
「そして今、私なんか見てるから……だから何が起きたか気付かないのよ……」
「何!?」
緩奈に指摘され、男はまだ解決していない事が一つある事を思い出した。
あの音だ。
火を宿した蝶がいる事と音が鳴る事とは繋がらない。
蝶によって何かが引き起こされている筈であった。
男は再び緩奈から視線を外し振り返った。
そこで、何が起きたのかを理解し、状況が激変している事を知った。
「アンタには、ほんのちょこっとの容赦もしない。溜まりに溜まったツケを、屈辱と痛みで払って貰う」
振り返ったそこに、檻の外に、翔子が立っていたのだ。
真っ直ぐに睨み付け指差す翔子に、先程まで涙を流し絶望していた面影は最早ない。
――で、電線かっ!!
男は檻の側に垂れ下がった黒い電線を見て理解した。
火を宿した蝶は、電線を焼き切ったのだと。そしてあの音はその音だったのだと。
男の推測通り、燃える蝶に焼き切られた電線は火花を散らしながら垂れ下がり、緩奈の計算通り翔子の檻近くに置いてあった緩奈の荷物に火を付けた。
そして炎を手に入れた翔子は、明暗が曖昧になり強度を失った壁を突破したのだった。
「どうしたの?早くかかって来なよ。足掻いてくれなきゃ屈辱を与えられない」
翔子は男に対して伸ばした手を、二度クイッと曲げて挑発的なジェスチャーをした。
「貴様、ただ危機を脱しただけの分際で……!!」
男の頭に血が上る。
有利な状況になった訳でもないというのに、自分を格下と決めつけている翔子の言動に怒り心頭だった。
しかし元来慎重な性格の男は無策に戦おうとする自分を戒め、なんとか踏みとどまらせる。
「今の状況を対等だなんて勘違いしないでよ?私が出てきた時点で対等じゃない。実力差を存分に味わせてあげる」
男は歯を剥き出しにして、更に憤怒で顔を歪めた。
しかし、それでも飛びかかってこない男に翔子は溜め息を吐いた。
「聞こえなかったみたいだからもう一度言うね」
翔子はニコリと一度微笑んでそう言ってから、直ぐに無表情で男を睨む。
「ビビってないで早く来いカス」
男の中で何かが弾けた。
「この雌豚がっ!望み通り葬ってくれる!!」
男は慎重になろうとする感情をかなぐり捨て、激情に従い一気に翔子へ突っ込んだ。
その動きは速く、一瞬で間合いを詰めると忌々しい翔子の顔面目掛け、全力で拳を振り切った。
しかしそのパンチは空を切る。
確かに男は速い。だがそれは一般人と比べての話だ。強化の殆どされていない緩奈相手に、慎重にならざるを得ない程度の身体能力だ。
能力者としてのレベルは、翔子が上だった。
結果、男の拳は上体を反らした翔子に髪の毛一本触れることが出来なかった。
「ほら、ここだよここ。ここに打ち込むんだよ」
「っ!!!」
翔子は顔を突き出し、自分の頬を指でトントンと突ついて見せる。
「死ねえっ!!」
男は再度全力で拳を放つ。
翔子は大振りの、しかも来る場所が分かっているテレフォンパンチを、横から腕を叩いて逸らした。
そして一閃。
「ぶひょっ!?」
手首から先が胴体にめり込むような強烈な一撃が放たれた。
「足りない。緩奈の痛みはこの程度じゃないよ」
翔子は伸ばした腕を引き戻すと同時に更に腰の捻りで加速した一撃を加え、そしてまた引き戻すと同時に一撃を加える。
繰り返される強烈かつ素早い打突に男は反応する事が出来ず、バブルヘッド人形のように頭をプラプラと揺らすしかない。
「くぅ、ぅうあああ!!」
男は翔子の攻撃の隙間を狙い、何とか蹴りを繰り出した。が、翔子は男の肩に両手を置き、逆立ちするようにしてそれをかわす。
そして重力に引かれる勢いを乗せて、男の顔面に膝をめり込ませた。
男は声にならない悲鳴を漏らし白目を剥いた。だが、
「まだ足りない。緩奈の受けた痛みには、まだまだ全然足りない」
更に一撃、顎を殴り付けると、翔子は崩れ落ちそうになる男のフードを掴んだ。
そして空いた手の親指を男の鼻に付け、人差し指を口の中に差し込んだ。
「面と向き合えば全然大した事無いね。発動、ラブ・プリズナー」
この瞬間、男の世界の中心が翔子になった。
男の今までの怒りは跡形もなく飛散し、心には翔子と同じ世界に生まれた喜びだけが残った。浴びせられた辛辣な言葉は快感に、殴られた事は愛の証にしか思えなくなった。
男の頭の中は翔子の事で満たされ、翔子と共に生きるこの世界はバラ色だった。
しかし男は操られてるのではない。自分の意志で翔子を愛し従っているのだ。当然効果が切れれば記憶は残る。忌まわしい自己嫌悪の記憶として。
だが翔子にはそんな事は関係なかった。
翔子はポケットからしわくちゃのレシートを取り出し、サラッと住所を書いた。『番犬』のアジトの住所である。
「はいこれ。ここに行って今日の事を洗いざらい吐いてきなさい」
「はい、喜んで!!」
男は両手で恭しくレシートを受け取った。その手は翔子がくれるレシートという素晴らしい贈り物に感極まり震えていた。
「あと西桜庭町への橋は使っちゃダメ。川は泳いで渡ること」
「もちろんですぅ!!」
「んー……何か足りないなぁ。じゃあ着くまで緩奈への謝罪を叫び続けること。はい、じゃあ行って」
「緩奈さんごめんなさいいいぃぃぃ!俺は何て愚かだったんだああぁぁぁぁ……」
寡黙だった男の姿は最早無い。
翔子に命令される喜びにうち震えながら、男は叫びながら一心不乱に全速力で西桜庭町へと走り去って行った。
去っていく男に視線を一瞬も向けず翔子は緩奈に駆け寄った。
「緩奈!しっかりして緩奈!」
「う、うぅ……」
抱き起こすと、緩奈は血に塗れた顔を痛みに歪めつつ、少しだけ瞼を開けた。
翔子は反応があった事に心底安堵した。
「翔子……」
「緩奈!終わったよ!直ぐに由貴を呼ぶから!」
緩奈を抱きながら翔子は携帯を取り出し、由貴にコールする。
「はぁ……まさか翔子の顔を見てホッとする日が来るとは思わなかったわ」
溜め息を吐いてから、ボロボロになりながらも緩奈はいつもの調子で悪態を付いた。
翔子は気持ちが一気に冷めるのを自覚した。
こんなに気持ちが瞬間冷凍されたのは小学生の頃、気になっていた男の子が鼻を一生懸命ほじっていたのを目撃した時以来だと冷静に思った。
「……なんか由貴呼ぶ必要がない気がしてきた」
潤んでいた瞳を半分の細さにし、翔子は緩奈を横目でジトーっと見た。
「はぁ……」
「なんの溜め息それ?何かムカつくから私もう帰って良い?」
結局、二人は由貴が来るまでいつもの調子でやり取りをするのだった。
翌日、アジトで秋人は新平に昨晩の停電の話をしていた。
「あら、今日も二人は早いのね」
そこにいつもの様子で緩奈と由貴がやって来た。
「緩奈と由貴の家は昨日停電になったか?」
「お風呂に入ってたから大変だったわ」
「は、はい。大変でした」
緩奈はサラリと追求し辛いような嘘の回答をした。
昨日の一件を秋人に話せば、仕方なかったし無事だったとはいえ自責の念を抱くと考え、緩奈達三人は黙っている事にしたのだ。
「私お茶を淹れるわね」
「お、お手伝いします」
緩奈はいつものようにせっせとお茶の準備を始め、嘘に慣れてない由貴も会話には参加せずそれに加わった。
「おー!今日も良い香りー!」
少しして良いタイミングで翔子がコンテナにやって来て、秋人の隣にぽふっと座った。
「はい、秋人」
「ああ、ありがとう」
「ど、どうぞ新平くん」
「ありがとうございます」
緩奈は秋人、由貴は新平の前に紅茶を置いた。
その間、翔子は今日も焼いてきたクッキーを鞄をゴソゴソして取り出し、机に広げていた。
「……はい」
「……ん」
そして緩奈が翔子の前に紅茶を置いた。
昨日までお茶を淹れる淹れないで口論になっていた二人が、さも当然の如くお茶を受け渡したのだ。
――ば、馬鹿なっ!!
――有り得ない!一体何がっ!?
その様子を見た秋人と新平は目を見開き狼狽えた。
秋人と新平は由貴が渡すと思っていたし、最悪それでも口論は起こるのではないかと危惧していた。
しかし衝撃はそれでは収まらなかった。
「これ……」
クッキーをかじる音だけが響くなぜか居づらいコンテナの空気を無視し、翔子が茶色の平らな紙袋を緩奈に差し出した。
緩奈はそれが雑誌だと直ぐ分かった。しかし翔子がなぜこれを自分に渡すのかが分からなかった。
「何これ?」
「昨日のアレ、焼け……ダメになったでしょ?」
「それでわざわざ?」
キョトンとした表情で尋ねる緩奈に、翔子は視線を逸らしながらも頷いて肯定した。
「……ありがとう」
緩奈は雑誌を受け取りながら翔子にお礼を言った。
即座に秋人と新平が立ち上がる。
――攻撃か!?敵能力者の攻撃なのかこれは!?
――偽者!?いや、二人同時ということはマインドコントロール、或いは幻覚!!
秋人と新平は周囲に警戒を払い、いつでも対処出来るように身構えた。
明らかに挙動不審だが、大体何を考えているか察している緩奈は二人には構わず、早速紙袋の中をちょっとだけ覗き込んだ。
『月刊マミー』
「ハッ!こんな事だろうと思ったわ!!不誠実だと一瞬でもその考えを恥じた事をむしろ恥じるわ!!」
緩奈は立ち上がると『母親は子供と一緒に成長する』や『最新、子育てグッズカタログ』などの優しげな文字が表紙に並ぶ雑誌を力一杯机に叩きつけた。
「あっヒドい!仕方ないじゃん!家に似たようなタイトルはそれしかなかったんだから!!」
翔子もムッとして立ち上がると緩奈の行動を理不尽ながらも咎めた。
「家から持ってくるという考えがまず浅はかだわ!!大体だとしたらこの雑誌貴女のじゃないでしょ!?」
「いちいち煩いの!黙って受け取れば良いじゃん!!いらないなら返してよ!」
「返すぐらいなら貰うわよ!いえ、反射的に反発したけどいらないから返すわ!」
「返されるとムカつくからそこは貰ってよ!!」
和やかな雰囲気から一転、いつも通りの口論を二人は展開した。
ニコニコと二人を眺めていた由貴は、二人を宥めなくてはとアワアワし出す。
ポカンとそれを見ていた秋人と新平だが、今日は安堵の溜息を吐いてソファに座り、お茶を啜ってクッキーをかじった。
「平和だな。新平」
「まったくですね」
やはりこうでなくては調子が狂うと、昨日までとは正反対の感想を二人は抱いていた。
「秋人からも何か言って頂戴!!」
「秋人くんも私と同じ考えだよね!?」
秋人は、今日はもう少し眺めていても悪くないと、そう思うのだった。