フルムーン・サテライト-4
「はぁはぁはぁはぁ……!」
なかなか呼吸が整わない。吸っても吸っても酸素が体に行き届かず、吐いても吐いても二酸化炭素が排出されない。初めて経験するその感覚の異常に、秋人は自分が余りに大きなダメージを負っている事を自覚した。
秋人は地面に腰を下ろし、呼吸を荒げたまま右手を胸に当て鼓動を確認した。
生きている。
当然の事のようでありながら、今はそれが素晴らしい奇跡と途方もない程の幸運の上に成り立っている事をひしひしと感じた。
「心臓は動いてたか?」
不意に掛けられた声に秋人は視線だけ向ける。無論、声を掛けてきたのは姫乃だ。
集中砲火を浴びた姫乃も秋人と同じように血だらけで、脇を手で押さえ足を引き摺っていた。しかし血に濡れた口元は不敵に微笑んでいた。
「ああ、一応まだ動いてる。にしても、お互い酷い有様だな」
「全くだね。よいしょっと」
秋人は無理無く会話出来る程度までゆっくり間を置いて呼吸を整え、そして言葉を返した。
姫乃は自嘲的な秋人の台詞に微笑んで返し、秋人に寄りかかるようにして座った。
穴の空いた背中ではなく、右肩辺りに背凭れたので秋人は預けられた体重を大人しく受け止めた。
「いるか?」
上着のポケットから取り出した凸凹のタバコの箱を秋人に向け姫乃が聞く。
「知ってるだろ、未成年だ」
「そっか、確かにそうだな」
姫乃は潰れた箱を引っ込め、慣れた手つきでタバコを一本口で取り出し火を着けると、肺に満たした煙を口を横に広げ垂れ流すようにして吐き出した。
血だらけで豪快にタバコを吸うその様子に、『姫』という名がこれ程似合わない女はそういないだろうなと、秋人はそんな事を思った。
「誰か聞こえるか?」
そんな秋人を気にする様子もなく姫乃は耳の無線のスイッチを押し、仲間に連絡を試みる。
秋人も連絡を取らなくてはと思い、無線機は失っているので激痛を訴える砕けた右手でポケットから携帯を取り出したが、携帯の画面に二つ弾痕が刻まれているのを見て溜息を吐いた。
「真琴もチビも無事だってよ」
秋人の携帯の有様を見た姫乃が、無線からの仲間の報告を秋人に伝える。
「屋敷に残った仲間も無事だった……一応、その、ありがとな」
姫乃は突入の判断をしてくれた事に対し、迷ったが礼を言った。
秋人は鼻を鳴らして小さく笑い応え、その話をそれだけで切り上げた。
「コイツ等は後から来る『番犬』が回収するよ。見たところ女の子の方はまだ息があるね」
姫乃が倒れる敵二人を親指で差し告げる。
傷からして秋人が倒した男の方の生存は絶望的だろう。少女の方も、姫乃が加減したのではなく偶々運が良かっただけであり、まだ息があるだけで助かるかは五分五分といった状態だ。
どちらにしても秋人と姫乃は気に病まないし、心を痛める気もなかった。
「たぶん居たと思う諜報系能力者も仲間が探すけど……」
「恐らくもう撤退していて見付からないだろうな」
姫乃が言うまでもなくそれは秋人も既に諦めていた。そもそも敵の容姿も居場所も一切情報が無く、逃げたならば発見は不可能だ。
秋人は緩奈のような視覚の能力でなければ構わないと見切りを付ける事にしていた。
「さてと、俺の仲間もここに向かってるだろうし俺は行くな。死体がゴロゴロ転がる光景をアイツ等には見せたくない」
秋人はこんなにボロボロになってしまい、また緩奈に心配かけて叱られるなぁ、と憂鬱に考えながら、軽く寄りかかる姫乃を肩で押し別れを合図した。
「まさかとは思うけど置いてくつもりかい?」
「ん?そのつもりだが?」
当然とばかりに返す秋人に姫乃は深く溜息を吐いた。
「見ろ、この足の傷を。ケチャップでも零したように見えるかい?」
姫乃はソフト・ストリートの能力者に抉られた傷とフルムーン・サテライトの弾で傷付いた足を指差す。
「戦闘中、無様にアンタにしがみつくぐらいの重傷。オマケにエレベーターはアンタが破壊済み。これで置いてくか?普通」
「エレベーターは俺が壊した訳じゃないんだが……」
「そりゃ悪かった。じゃあアンタに非はないね。とっとと置いてってくれ」
姫乃はそう言ってシッシッと手で払うようにジェスチャーした。
秋人はどうせ仲間が直ぐ来るだろうにと思ったがそう言われては捨て置く事も出来ず、姫乃の拗ねた様子に深く嘆息してから一度立ち上がり姫乃の前で中腰になった。
背を向けたのではなく、向かい合って動く右腕を広げている。
「? なんだい?」
「さっさと掴まれ。この何でもない体勢も今は辛い」
意図が掴めなかった姫乃だが秋人が正面から抱き付けと言ってるのが分かり、みるみるうちに顔を朱に染めた。
「バっ!?バカかお前!?何で下に行く為にアタシがアンタに抱き付かなきゃならないんだよ!肩貸せ、肩!」
「却下だ。左肩と右脇は最初に撃ち抜かれたし、両手も傷が深い。背中もやられたから背負いたくもない。首に腕を回してしがみつくなら下まで連れてってやる」
姫乃は不意に秋人にしがみつく自分を想像した。
身長差が殆ど無い故に、ぶら下がる事は出来ない。駄々をこねる子供が親の足に抱き付くように、腰を足で挟むようにしがみつく事になる。
それは余りに無様で惨めで滑稽だ。
「出来るかっ!」
「それじゃあ仕方ないな、ここでお別れだ。お疲れ」
「ぐ……!!」
この場に置いていかれるのが嫌ならば従う他ない。
結局不満タラタラであるが仕方なく、姫乃は秋人にしがみつき下に降りることになった。
「先輩!」
オートロックでも内側からは扉は開く為、秋人と姫乃はエントランスから外に出た。そして姫乃を下ろすと丁度その時新平が声をかけ走ってきた。
「新平。無事なようで良かっ……その顔どうしたんだ?」
息を切らしてやってきた新平の声に振り向くと、新平の頬にクッキリと手の痕と分かる紅葉が出来ていた。秋人は姫乃の隣に腰掛けながら首を傾げる。
「ちょっと色々ありまして……それより秋人先輩が無事で良かった。ですが、酷い怪我ですね……早く帰って治療しましょう」
「おい、真琴はどうした?」
「あ、はい、ここにいます。帰ってから出してあげて下さい」
新平が秋人を労るのを座り込んでいた姫乃が口を挟むと、新平はポケットから瓶を取り出し姫乃に渡した。
新平が大袈裟なぐらい瓶に視線を向けない事を不審に思い、秋人と姫乃は渡された瓶を覗き込む。
「…………」
瓶の中には耳まで赤く染めながら睨み付ける、新平の上着で露わになった身を必死で隠す真琴がいた。
真琴より身長の小さい新平の上着は、その役目を果たすには些か力不足であった。
「えーっと……あー、なんだ、新平。余り関心しないな。こういうのは時と場合を選んで、気付かれないようにやってくれ」
「ち、違うんです!!」
すぐに瓶から目を離し呆れた様子で諭す秋人に、新平は必死で弁解を試みる。
一方、姫乃は満面の笑みを通り越し、いやらしいまでに歪めた表情でニヤニヤと瓶を見下ろしていた。
「やっぱりそっちのチビだった訳だ。アタシ達がボロクソになって戦ってる間、そっちも随分激しい戦闘をしてたみたいだねぇ」
「勘違いです……それより姫乃。心配で着くより先に能力の射程をこちらに伸ばしていたのですが、屋上から下まで何故か秋山さんの出す振動しか感知しませんでした。てっきり姫乃は屋上にいるのかと思いましたが……それに秋山さんの振動からは何やら重い物を持っていたように感じたのですが、はて、彼は手ぶらですね。何か知ってますか?姫乃」
「……どうしたんだい?今日はやけに饒舌じゃないか……」
間違い無く自分の痴態を知っている真琴に、姫乃は冷や汗を流した。
二人はそれ以上互いに不利を及ぼす無益な突っ込み合いはしない、不可侵条約を無言で結んだ。
「秋人!」
「秋人くん!」
新平の疑惑が晴れぬまま、そこに緩奈と翔子、由貴がやって来た。その様子からかなり急いで来たのが見て取れた。
秋人の負傷を能力で見ていた緩奈は、姫乃と真琴を前に姿を隠そうともしない程焦っていた。
「この馬鹿!また無茶して心配かけて!何でいっつも秋人は重傷なのよ!?」
「すまん……」
「うるさい!謝れば済むと思わないで!大体戦う度に負う傷が酷くなるってどういう事よ!?」
「す、すまん……」
秋人は緩奈に予想通りの辛辣な言葉を浴びせられた。檜山の時もそうだったが、この時ばかり秋人も頭が上がらない。
「ギャーギャー騒がないでよ馬糞女!傷に障るでしょ!!」
それを止めるべく切り込んだのは翔子だ。秋人にとっては救いのカットインだが、火に油を注ぎかねないその台詞に秋人の顔が引きつる。
「大丈夫秋人くん!?早く帰って治療しようね!」
しかし翔子は直ぐに秋人に向き合い緩奈の追随を許さなかった。
緩奈もそうだったが、触れると痛そうな傷なので翔子はどう労れば良いか分からず、壁のあるパントマイムをするように秋人の前で手をワサワサさせている。
先程まではその後ろで由貴もどう声を掛けて良いか分からずワサワサしてたが、今はまずは新平の様子を見る事にしていた。
余談だが秋人と姫乃は血塗れで嗅覚が利かなくなっていたので気付かなかったが、新平の服は下水の酷い汚臭が染み着いており、交互に労う緩奈と翔子、由貴の三人の顔を満遍なく引きつらせた。
「心配掛けてすまなかったな。さあ、帰るか」
何はともあれ、仲間が皆無事であった事に安堵した秋人は、皆揃ったところで長い戦いの夜から帰路に着く事にした。
「新平、動きたくないから瓶に入れてくれると助かる」
「はい、そのつもりです!」
「待て秋山」
新平が瓶を大きくした所で姫乃が呼び止めた。
「さすがに貴重な治療の能力者は前線には来ないが、力の応用で応急処置なら出来る能力者が今こっちに向かってると仲間から連絡が入った」
姫乃は耳の無線機をコンコンと叩いて示す。
「アタシの足もだけど、アンタの腕も相当酷い。下手したら動かなくなっちまうかもしれないし、それはアタシが後味が悪い。ついでだから治してから帰りな」
その姫乃の言葉に真琴が口を挟まない辺り、これは『番犬』が事前に想定していた事態なのだろうと秋人は推察した。
秋人はこの持ち掛けに由貴に一瞬視線を向け悩んだ。
治療される事自体には何の問題もないが、『番犬』に形はどうあれ借りは作りたくない。由貴の能力があるのだから、助けが必要不可欠な訳でもない。
だが由貴に触れさせるには体中に刻まれた傷痕はかなりエグい。姫乃の言う通り傷の深い腕など見た目も特に酷い。気持ち悪いと言って間違いない。
秋人はそんな傷を由貴に触れさせるのは少なからず抵抗があった。
秋人はここは大人しくに姫乃の申し出を受けようと、伏せていた視線を姫乃に戻した。しかし、
「け、結構です」
答えたのは秋人ではなく由貴だった。
視線を向けるといつの間にか近寄り膝を折った由貴が、座り込んでいた秋人の左腕、特に損傷の激しい部位に両手を添えた。
不思議と痛みは一切感じなかったが、秋人は驚いてビクリと肩を震わせてしまった。いつもとは逆の立場だ。
「わ、私が治します。気持ち悪くなんか、あ、ありません……!」
由貴は秋人の考えに気付いていた。そして、尻込みはしていたものの、秋人の傷を治してあげたいと心からそう思っていた。
「なんだい、応急処置を出来る能力者がいたのか。じゃあこっちの施しは必要ないみたいだね」
由貴の能力は応急処置どころか深い傷以外は全て完治出来るのだが、姫乃はその稀少性を知っているだけに勘違いした。
しかし敢えて訂正する必要は全くないので、秋人達全員がそれを流した。
「そういうことみたいだな。よし、それじゃあ帰るとしようか。お別れだ姫乃。じゃあな」
「ああ、じゃあな秋山」
窮地を共に切り抜けた仲ではあるが、秋人と姫乃は仲間ではない。次会う時は敵同士かもしれない。
願わくば、もう出会わない事こそが望ましい二人は『また』などという言葉を使わず、惜しむこともせずそう別れを告げた。
そして秋人は仲間と共に西桜庭町を後にし、東桜庭町へと帰っていった。
「お疲れ様でした、姫乃」
「アンタもね、真琴」
秋人達全員を瓶に入れ去っていく新平の後姿が見えなくなってから、頃合を見て真琴が姫乃に声を掛けた。
「……姫乃。率直な意見を聞かせてください。どう思いましたか?」
そして真琴は少し迷ったが我慢出来ず、恐らく同じ考えである姫乃に端的に尋ねた。
「そうだねぇ……」
質問の意図を理解した姫乃は、そう言って少し逡巡し間を置いた。
「アタシは……正直、失敗したと思ったよ……後悔したんだ。本能的に、直感的に、アタシは秋山を敵に回すような取り引きをした事を、心底後悔した……」
姫乃も言葉にするのを躊躇したが、認めたくはなかったがそう言い、秋人と人質を取るような形で接触した事を今更ながら悔やんでいる事を真琴に話した。
姫乃は自身の冷静な部分がそれを否定するのを自覚していた。
秋人は強い。これは揺ぎ無い事実であり、認めざるを得ないと姫乃は思った。
しかし、あくまで秋人はどこの組織にも属さない、ただの野良だ。素性も知れていて、『番犬』が危険と見なせば、造作も無く排除できるだろう。人質がいるならば尚更それは簡単だ。
しかし、それでも姫乃の本能的な部分が秋人を危惧した。
扱いを誤れば、いつか秋人は『番犬』の喉を食い千切る。それこそ造作も無く。
そんな有り得ない、直感的な漠然とした不安を姫乃は口にしていた。
そして不意に姫乃の脳裏に秋人の見せた冷徹な感情に染まった瞳が蘇り、彼女は再び背中に冷気が走る感覚を覚えた。
「和臣は敵の縄張りにいた都合の良い野良犬に鞭を振るったつもりでいるけど……秋山は野犬なんて可愛いもんじゃなかったよ」
「そう、ですか……」
姫乃は無理矢理に口角を上げなんとか冗談めかしてそう言ったが、それには無理があった。
頬を伝う冷たい汗がそれを物語っている。
「その様子じゃチビもチワワって訳じゃなさそうだね。まぁ『空間を創造する能力者』なんだからそれもそうか」
姫乃が手元の瓶の中にいる真琴に視線を落とす。
新平の能力、ホール・ニュー・ワールドのような『空間を創造する能力』は、由貴のボディ・メンテナンスのような『治療を施す能力』と同等に稀少で、能力者集団の間では重宝される事が多い。
むしろ能力の応用で補える場合のある『治療を施す能力』と違い、唯一無二の能力だけに『空間を創造する能力者』はそれ以上に貴重な存在であった。
しかし、そんなことは真琴には関係がなかった。
能力者としてではなく、戦士として真琴は新平のあり方に驚かされていた。
「しかし何故でしょう。私は彼を敵とはどうしても思えませんでした……」
自分の気持ちでありながらそれが真琴には解せなかった。
胸中に渦巻く恐怖に震える新平に、真琴はどうしても敵意を抱けなかった。
「全く、厄介な奴等が現れたもんだ」
真琴は咎められるかと思いながら発した台詞を、意外にも姫乃が同意した事に目を丸く見開いた。
下劣な敵に怒り震える秋人に、姫乃も敵意を抱けなかった。むしろ、あの場では共感すらしていた。
「「はぁ……」」
溜まらず、どうしたものかと吐いた溜息が二つ重なり、静まり返った西桜庭町の町に静かに消えた。