ナクフ商店
「これって・・・。」
トボトボと近付いた駄菓子屋さんを見て、ぼくは思わずギョッとした。
一言で言えば古い。しかも、ドラマや映画に出てくるような素敵な古さのようなものではなくて、埃っぽいというか、古っぽいというか、正直言ってちょっと汚い。店の壁には緑色のツタがびっしりと巻きついていて、元の壁の色が分からないほどだ。日除けカーテンも太陽の強い光に長い間当たっていたせいで、元々のオレンジ色に太陽の色が混じって、剥がれかけて文字の大きさがチグハグの『ナクフ商店』の白いロゴシールがポォッと浮かび上がっていた。ナクラなんて、ちょっと変わった苗字だから、多分『ナグラ』の点々と横棒が剥がれてしまったのだろう。店の前の植木鉢には名前のわからない小さな花が一輪だけ咲いていて、それよりも青々とした雑草の伸びの方が気になる。
店の扉をほんのちょっとだけカラカラと開けて、中を覗き込む。またぼくはギョッとした。埃っぽい店内には棚や小さな冷蔵庫はちゃんとあるけど、商品数はぼくたちがいつも行っている駄菓子屋の半分ほどで、商品のラインナップもチョコレートやお煎餅等ばかりで、目新しいものは何も無かった。違うお店に行こうかな。そう思って辺りを見渡したけど、周りは昔からあるような家ばっかりで、お店はこれしかないみたいだ。しょうがない、ここで何か買うしかないか。
「ねぇあんた。入るのか入らないのか、そんなとこに突っ立ってないで、さっさと決めてくれないかい。」
「ひゃあ。」
急に声を掛けられてびっくりして、声をした方を見てさらにびっくりした。店の扉の隙間からおばあちゃんがニュッと顔を出している。日焼けしたシワだらけの顔の中から、黒豆みたいな小さい目がぼくを覗き込んでいる。
「は、入ります。」
「そうかい。」
そう言うと、おばあちゃんはゆっくりとした足取りで向きを変え、お店の中へと戻っていく。腰が曲がっているから、ぼくのお兄ちゃんとあんまり変わらない。おばあちゃんに続くようにぼくも恐る恐る店に入った。お店の中は外から覗いた通り、埃っぽくて、薄暗くて、そして思ってたよりも狭い。
「買いたいものが決まったら言いな。」
そう言うとおばあちゃんは店の奥の小上がりにゆっくりとしたスピードで、あぁとかうっとかつぶやきながら腰を下ろした。なんかこのおばあちゃん、ちょっと怖い。さっさと飲み物を買って店を出よう。
「ねぇ、おばあちゃん。」
「わたしはあんたなんかの祖母じゃないよ。」
ぼくの呼びかけにおばあちゃんがピシャリと答えた。やっぱりこの人、少し怖い。
「フクコ。わたしにだって名前があるんだ。」
そう言うとおばあちゃんはポケットからタバコとマッチ箱を取り出して、ちょっと震える手でタバコを口に咥えて、面倒くさそうにマッチを動かして火をつけた。それをタバコに付けて、片方の手でマッチを振って火を消して、そのまま床にポロンと捨てた。落ちたマッチをサンダルで踏んで、2・3度床に擦り付ける。床にうっすらと黒い線ができた。
「じゃあ・・・、フクさん。」
ぼくがそう言うと、おばあちゃん・・・いやフクさんは、片目でこちらをジロリと覗いた。
「初対面の大人を名前で呼ぶなんて、ずいぶんと生意気なもんだ。」
フクさんはそう言いながら、タバコの煙をふぅと吐き出す。口元は少しだけ笑っていたけど、顔のシワはより深くなっていた。1年前にお兄ちゃんがパパのタバコをイタズラして、ママにこてんぱんに叱られたことがあった。その時は中学生でもお尻をぺんぺんされるんだと驚いたし、お兄ちゃんが泣いているのを久しぶりに見てびっくりしたのだけれど、タバコってどんなものなんだろうという方が気になって、半ベソをかいているお兄ちゃんに聞いたことがある。その時返ってきたのは『死ぬほど苦くてマズい』だった。だから、フクさんのシワが深くなったのは、たぶん苦くて辛いのだと思う。そんなに苦いのなら吸わなければいいのに。
「こういう時は普通苗字だろうに。あんた、店の看板ジロジロと見ていただろう。」
そう言われても困る。だって、フクさんの苗字は『ナグラ』なのか、『ナクフ』なのか、それとも他の苗字なのか、ちっとも分からない。それに、フクさんは、もし苗字を間違えたら、多分ピシャリと怒ってくる。
「ご、ごめんなさい・・・やっぱりフクさんで。」
「そうかい。まぁなんでもいいんだけどね。」
フクさんはそう言うと、つまらなそうに、またタバコの煙を吐き出す。だから、美味しくなくてつまらないのなら、タバコを吸わなければいいのに。店の棚にはお煎餅やチョコレートもあるのだから、そっちを食べた方が絶対に美味しいのに。
「で、買いたいものは決まったのかい?」
フクさんに言われて、ぼくは飲み物を買いにきたということを思い出した。途端に喉が、『おい、オレのこと忘れてただろ。』と怒ってヒリヒリと渇いた。
「フクさん、コーラある?」
「ない。」
ぼくの質問にフクさんはタバコの煙を吐き出しながら一言で答えた。
「じゃあ、オレンジジュースは?」
「ない。」
「ファンタは?」
「ない。」
「お茶とか水は?」
「そんなものは家で飲みな。」
何を聞いてもフクさんはピシャリと答える。言い方がピシャリなものだから、何か怒られている気がしてちょっと怖い。
「うんと、えぇと。」
怖いし、フクさんの店に何もないから、頭が混乱して言葉がうまく出ない。えぇと、他に飲み物は何があったっけ。
「・・・ラムネ。」
フクさんはタバコの煙を吐き出しながら、独り言のように呟いた。
「えっ?」
「ラムネでいいだろ。」
ぼくが少し困ったように聞き返すと、フクさんは少し怒ったようにそう言って、小さい冷蔵庫からラムネの瓶を取り出した。久しぶりにラムネの瓶を見た。確かこの前見たのは、去年のお盆に従兄弟の家に泊まりに行った時だ。従兄弟のタクはぼくよりも年下の小学1年生で、まだたまにひらがなを間違えたりするけれど、ぼくよりも泳ぎが上手いし、お兄ちゃんでも捕まえられない、セミやカマキリをすぐに捕まえられる。お兄ちゃんはタクのことを『田舎で育ったから虫とか泳ぎが得意なんだよ。』とか言うけど、ぼくは知っている。お兄ちゃんは虫が大の苦手だ。まぁ、ぼくも、絶対に、一生のお願いって言われても、セミやカマキリを触るなんて無理の無理の無理。
「100円。」
フクさんが急に右手を差し出してきたから最初は分からなかったけれど、意味がすぐに分かったから、慌てて100円を渡した。お金を受け取ったフクさんは、そのお金を一度ジロリと見つめて、乱暴にレジ代わりに使っている小さなザルに放り投げる。そして、慣れた手付きでラムネのラベルを剥がして、もっと慣れた手付きでビー玉を押し出した。カランと心地よい音が鳴って、瓶の中で泡が次々に弾けている。
「ほら。」
「ありがとう。」
ラムネを一口飲んでみた。飲む瞬間ほんのりとタバコの臭いがしたけど、すぐに口の中に甘さが広がる。「タケルくん、おいしいね!」と、日焼け顔のタクのニコニコ顔を思い出して、少し嬉しくなった。
「おいしい。」
「そうかい、別にわたしが作ったもんじゃないけどね。」
フクさんはそう言うと、残り少なくなったタバコを大きなガラスの灰皿にグニュと押し付けて火を消した。灰皿があるならマッチもそこに捨てればいいのに。せっかく嬉しくなった気持ちだったのに、フクさんのそんな感じにちょっとがっかりした。やっぱりフクさんはちょっと怖い。壁にかかってある時計に目をやる。時間は4時15分。ちょっとだけ早いけど、もうここを出よう。
「じゃあ、ぼく、行くね。」
「ちょっと待ちな。」
さようならをしてお店を出ようとするぼくに、フクさんが声をかけた。振り返ると、フクさんはラムネの空き瓶を入れるケースをひっくり返しにして、そこに座布団をひいていた。
「あんた、ラムネはここで飲んできな。」
「えっ。」
「瓶は回収しなくちゃいけないんだよ。ほら、座りな。」
そう言いながら、フクさんはさっきひいた座布団を叩く。ここに座れということだろう。でも、叩く音がポンポンじゃなくてバンバンだし、顔はやっぱり少し怒っているように見える。
「大丈夫だよ。瓶は後で返すから。」
「いいや、ダメだ。ここで飲んできな。」
またフクさんは座布団を叩く。
「だから返すって。」
「ダメだ。あんた、残りをあの公園で飲むんだろ。あんなとこに捨てられちゃ、わたしが迷惑するし、わたしが怒られるんだよ。」
そう言うとフクさんは、また座布団を叩いて、またタバコを取り出して、またマッチで火をつけた。そして、またマッチを床に捨てて、やっぱりまた踏みつけて消す。床の黒い線が2本になる。
「捨てないよ。そんなことしないよ。」
「いいや、ダメだ。飲んできな。」
ぼくは、そんなことしない。でも、フクさんは相変わらず座布団を叩いてぼくを座らせようとする。
「本当だよ、信じてよ。」
「いや、あんたみたいな悪ガキの言うことは信じられないね。」
ぼくが悪ガキ?そんなことパパにもママにも、先生にも言われたことはない。お兄ちゃんはたまにぼくのことをからかってくるし、イツキだってトモヤだって「バカ」は言ってくるけど、悪ガキなんて言われたことはない。
「ぼく、悪ガキなんかじゃないもん。」
「いいや、悪ガキ。」
「悪ガキじゃないよ。」
「いいや、とてつもなく悪ガキだね。」
「悪ガキじゃない。」
「いいや。違うね。」
「悪ガキじゃないもん。信じてよ。」
「信じられないね。」
なんでそんなこと言うの。ぼくはすごい悲しくなって、それよりすごく腹が立った。
「ぼく、悪ガキなんかじゃないもん!そんなこと言うな!」
ぼくはそう怒って、座布団を叩いた。でも、ぼくの力が弱くて、変な所を叩いてしまったのか、座布団はポフっとへんてこな音を立てて、床に転げ落ちてしまった。
フクさんはふうっとため息のようにタバコの煙を吐いて、ゆっくりとした動作で座布団を拾い上げる。そして、座布団をバンバンと叩いた。床のマッチの炭が付いてしまったたのか、少し黒い粉が舞った。あぁやっちゃった。そう思ったけど、どうしてもごめんなさいが言えなくて、ぼくはフクさんに叩かれている座布団を見つめた。
「ほら、やっぱり悪ガキじゃないか。」
「悪ガキじゃないもん。」
「悪ガキじゃない子は、座布団なんて落とさないんだよ。」
「・・・ごめんなさい。」
フクさんに謝ったけど、声が小さすぎて聞こえなかったようで、フクさんはまたふぅっとタバコの煙を吐いて、座布団をラムネのケースの上に戻している。
「あんた、自分のこと『悪ガキじゃない!』って言うけどね。」
フクさんは独り言のように呟いて、ぼくの方をチラッと見て、ぼくが下を向いて何も言い返してこないのを確認すると、また独り言のように話始めた。
「わたしはあんたが悪ガキなのは知ってる。」
「さっきも人様の座布団を叩き落としたしね。」
「ごめんなさい。」
さっきより少しだけ大きな声で言うことができた。フクさんは一度だけこちらを見て、別に謝ってほしくて言ってるわけじゃないけどね、とタバコの煙と一緒にゆっくりと静かにつぶやいた。
「だけど、わたしがあんたを悪ガキって言うのには、ちゃんと違う理由がある。」
フクさんは大きな灰皿にタバコを押し付けて、ゆっくりとぼくの方を覗き込んだ。
「あんた。今から決闘しようとしてるだろ。」
ドキン。もうフクさんは座布団も叩いていないし、タバコも吸っていない。それなのに、ぼくの胸の音がドキンドキンと鳴って、フクさんのお店は、今、1番うるさくなった。
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