図書室3
ミホちゃんは図書室のドアをゆっくりと閉めて、図書委員会のお姉さんに、こんにちはと、声をかけた。話しかけられたお姉さんは、ぼくたちを睨んでいた怖い顔が想像できないくらいにニコリと微笑んで、あの本今日返却されたから明日から借りられるよと、ミホちゃんに教えてあげていた。
「高倉さん、よく図書室にくるから。」
やったぁ楽しみと、その場でピョンピョンとジャンプしているミホちゃんのことを眺めているぼくに、ハカセがそっと教えてくれた。ハカセとミホちゃんは放課後のそろばん教室に一緒に通っている。多分ミホちゃんも、ハカセのように放課後のちょっとした待ち時間に図書室を使っているのだろう。
ミホちゃんはある程度ジャンプをして綺麗に整ったツインテールを何度か揺らした後、ぼくたちの方を見て、あぁそうだった忘れちゃってたというようにちょびっと舌を出した。
「多賀くん、そろばん教室遅れちゃうよ。」
「あぁ、ごめん。すぐ用意するね。」
ミホちゃんの呼びかけにいそいそと片付けを始めるハカセを見て、ハカセの名字が「羽賀」だったのを思い出した。羽賀セイヤ、略してハガセ。それをちょっといじってハカセ。トモヤは「だって頭いいから博士みたいじゃん。だからハカセ。」ってあだ名の由来をハカセに説明していたけど、それは嘘。ぼくの家でテレビゲームをしていた時に、トモヤが思いついて、ぼくが盛り上がって、それを次の日にトモヤがハカセに伝えた。ハカセ、まぁその時はセイヤくんだけど、ハカセはその話を聞いて、顔を少し赤くして笑っていた。「じゃあ決まり。」ってトモヤが言っていたけれど。もしあの顔が嫌がっていた顔だったら。ぼくはもう今更ごめんなさいは言えないかもしれない。
「準備できたよ。」
ぼくが昔のこと、本当はそんな昔じゃないけど、小学3年生の春のことを思い出していた間に、ハカセはいつの間か支度を済ませていた。背中にはランドセルを背負っていて、ランドセルの間から朱色に茶色を混ぜたような色のそろばんが見えた。おじいちゃんからもらったというそのそろばんは、ハカセにと〜っても似合っている。
「じゃあ行こうか。」
ハカセはそう言って図書室のドアに向かって歩いていった。だけど、しばらくしてあれっと後ろを振り向いた。ぼくもえっと声が出た。ハカセに早く行こうと声をかけたはずのミホちゃんが、一緒に図書室を出て行こうとしていない。それどころかぼくをジーッと見つめている。
「羽賀くん、先に行ってて。」
「「えーっ。」」
ミホちゃんの思ってもみない発言に、ぼくとハカセのびっくりした声が重なった。
「わたし、山下くんに話があるから。」
「えーっ。」
今度のびっくりした声をぼくだけだった。
「えっ、あっ、そう・・・。じゃあ・・・、ぼく先に行くね。」
ハカセはそう言うと、ゆっくりと図書室のドアを開けてゆっくりと外に出ていった。出る瞬間にぼくと顔が合ったけど、ごめんねなのか、がんばれなのか、それともなんだろうねなのか、どれとも分からない顔をしていた。
ドアがバタンと閉まって、トモヤがいなくなってから途端に静かになった図書室が、一段とまた静かになった。
「山下くん。」
「えっ?」
ミホちゃんがぼくを見つめる。図書室は静かなのに、ぼくの心臓はトモヤがいた時みたいにドキドキしている。
「聞きたいことがあるんだけど。」
「うん。」
ドキドキ。だけど、さっきのトモヤの時とは種類の違うドキドキだ。
「聞いてもいい?」
「うん。」
ドキドキ。
「山下くんって、後藤くんと喧嘩してるの?」
ドキン。
後藤。それがイツキの名字だと思い出した時に、また心臓が大きく鳴った。さっきまでのドキドキとは種類の違う、思い出したくないけど、さっきまでトモヤといた時の心臓の音だ。
「な、なんで。」
また声が震えてしまった。バカ、ミホちゃんの前だぞ。そう思って自分のお尻をこそっと抓ってみた。ただただ痛い。でも震えが止まらない。体じゃなくて、心のずっと奥の方が震えているみたいだ。
「だって、最近山下くんと後藤くん一緒にいないじゃん。後藤くんは羽賀くんと2人の時は楽しそうなのに。羽賀くんも、後藤くんと山下くんと1人ずつでは会うのに、3人では一緒にいないんだもん。」
そっか。ハカセはイツキと会ってたんだ。そりゃそうだ、ハカセはイツキと決闘しないんだもん。当たり前だし、分かりきったことだけど、ちょっと、ちょっとだけ悲しい。
「別に喧嘩なんてしてないよ。」
多分。『多分』はミホちゃんに聞こえないように言葉にはしなかった。
「うそだぁー。」
ミホちゃんはそう言うと、顔をグィっとぼくに近付けてきた。顔が近い。ぼくはまた、ちょっとだけドキドキした。
「だって山下くん、さっきのトモヤと同じ顔をしてるんだもん。」
「えっ。」
トモヤの名前が出て、それがミホちゃんから出て、それに、トモヤがミホちゃんから『竹内くん』じゃなくて『トモヤ』と呼ばれていることにびっくりして思わず声が出た。トモヤだって。しかも呼び捨てじゃん。
「トモヤもさっきから怒ってたもん。放課後に野球の練習試合のこと聞こうとしたら、『うるせぇなぁー。女が見にくんなよっ。』って怒鳴るし、さっきも後藤くんと山下くんのこと聞こうとしたら『喧嘩じゃねぇよ、バーカ。』って言ってきてさぁ。」
「そ、そうなんだ。」
ミホちゃんはトモヤの口調を真似しながら口を尖らせている。そのトモヤの真似が、似てるけどちょっと変で、ぼくは少し笑ってしまった。
「あー山下くん、わたしのことバカにしてる。」
「ごめん、バカにしてなんかしてないよ。でも、ぼ・・・オレ、本当にイツキと喧嘩してないよ。」
「うそだぁー。だって山下くん、最近後藤くんと仲良くないじゃん。わたしだけじゃなくてシホも心配してるんだからね。ちゃんと説明してくれないとわたし納得しないからね。納得しないと、わたし、そろばん教室に行かないから。あーぁ。山下くんのせいで遅刻だぁ。山下くんのせいで、わたし、先生に怒られちゃうなぁー。」
ミホちゃんはそう言うと、窓の方をチラリと見た後、怒ったような顔をしてぼくを見つめてきた。ミホちゃんはぼくより背が低いから、見つめられるとミホちゃんの顔がぼくの目に全部、そして大きく入るから、恥ずかしくて仕方がない。
「うそじゃないって。」
「じゃあ説明してよ。」
「説明って言っても…。」
「あー、またごまかそうとしてるー。」
「わ、分かったよ。」
もう言うしかない。でも決闘って言ったら、多分ミホちゃんは怒るかも。多分、いや絶対に。
「ねぇ、早く。」
「分かったよ。」
「早く。」
「言うよ。言うから。」
「あーぁ。先生怒ると怖いんだよなぁ。わたし泣いちゃうかも。」
「わ、分かったから!ぼ・・・オ、オレ、イツキと決闘するんだ!」
「えっ?」
あぁ、言っちゃった。ぼくはその場からいなくなりたくてギュッと目をつぶった。
「山下くん。」
あぁ、怒られる。
「ねぇ、山下くん。」
怒られる。
「ごめん、山下くん。」
怒られる・・・かも。
「ねぇ、山下くん。」
あれ?
「山下くん。・・・けっとうって何?」
「えっ?」
ぼくはそっと目を開けた。ミホちゃんは怒ってなかった。そのかわり、チンプンカンプンって顔をしている。
もしかして。
「高倉さん、決闘って知らないの?」
「うん。喧嘩とは違うの?」
ミホちゃんは本当に知らないみたいだ。
「うん。喧嘩とはぜんぜん違う。」
多分。『多分』はまたミホちゃんには聞こえないようにした。
「そうなんだぁー。なんだ喧嘩じゃないんだー。じゃあ、安心したぁ。シホもこれで安心できるよ。そっかそっか。そうなんだぁー。へぇー。そっかそっか。あっ!もうこんな時間。じゃあ、わたしそろばん教室行くね。先生に本当に怒られちゃうかもだから。」
ミホちゃんは1人で納得して、1人で安心して、1人で窓の方に目をやって、1人で焦って、1人で図書室を出て行ってしまった。出て行く時に、図書委員会のお姉さんには本、明日借りに来まーすと、笑って伝えて、ぼくにはじゃあ、けっとうっていうの頑張ってねと、言い残して。
ドアがパタンと閉まって、また図書室が静かになった。
「あーぁぁ。」
思わずため息が出てしまった。『けっとう頑張ってね。』だってさ。ぼくはお腹の奥のぼくに話しかけた。頑張りたくないのにね。お腹の奥のぼくがぼくに答える。じゃあ止めればいいのに。もう一度ぼくはお腹の奥のぼくに話しかけた。
「バカみたい。」
お腹の奥のぼくの答えを待たずに、ぼくがぼくに答えてやった。本当にバカ。
「あぁ、もう!」
ぼくはぼくが嫌になって、どうしよくもなくなって、思わず大きな声を出してイスを蹴ってしまった。図書室にぼくの声と、木製のイスの軋む高い音が響く。
「うるさい!」
あっ、やっちゃった。ぼくはひゃっと首を引っ込めて図書委員会のお姉さんに目をやる。でも、お姉さんは怒鳴っていなくて、びっくりした顔でぼくの方を見つめている。あれ?ぼくはお姉さんの見つめている方、つまり僕の後ろの席を振り返った。
後ろの席には、いつから居たのだろう、ショートカットで眼鏡をかけている女の子が座っていた。確か同じクラスの鈴木さんだ。でも、いつもの鈴木さんと違って顔が怖い。
「もう、決闘なんてバカみたい!もう知らない!ミホも山下くんも本当バカ!」
鈴木さんはそう叫ぶと、机に置いてあったランドセルを力任せに引っ張りながら、図書室からドタドタと出て行った。
バターンと、今日聞いたどの音よりも大きな音でドアが閉まる。
その音を聞いて、ぼくはあぁーと気が付いた。
鈴木さんが、ミホちゃんと凄い仲良しで、名前がシホだったことに。
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