ヒーハッハ坂
「ふぅ。」
まだまだ途中だけど思わず息を吐いた。小学校まで続く長い長い坂道を睨んで、ぼくはもう一回、今度はため息として息を吐いた。4年間毎日のように登って降りてを繰り返しているはずなのに、まだまだ体が慣れない。なんで小学校をわざわざ丘の上に建てたのだろう。小学校の校庭から見える、大きな絵のような町の全体の景色は大好きだけれど、毎朝この坂道を登るのはだいきらいーって訳ではないけどやっぱり苦手だ。
この坂道のことをぼくらは「ヒーヒーハッハ坂」と呼んでいる。PTA会長のヒグチさんが、この坂道を登ると必ず「ヒーハッハ。ヒーハッハ。」と息が上がるからだ。息子のヒグチくんはほっそりしているのに、お父さんのヒグチさんはブックリと大きい。大きいヒグチさんから聞こえるヒーハッハは、なんか口笛みたいな高くてヘンテコな音だから、とてもはっきりと覚えている。
パーカーの裏の毛がチクチクと背中を突っついている。背中にじめっと汗をかいているからだ。だから今日は寒くないんんだって。テレビでも言っていたし、ぼくも家を出る前にそう伝えたはずなのに。ママは「ダメダメ。朝はとっても寒いんだから。」と裏起毛のパーカーにさらに厚手のジャンパーを着せてきた。
ママの言う通り、朝の風はちょっぴり冷たいし痛い。でも、背中とランドセルの間には生暖かい空気がジーっとしているから、テレビのお天気お姉さんが言っていた、「例年通りの朝の冷たさ」という感覚とはちょっと違うんだよなぁと思う。お天気お姉さんもママも、昔は小学生でランドセルを背負っていたはずなのに。ぼくたちのこの感覚、大人は忘れちゃったのかな。まぁぼくも忘れているけど。ママに教えてもらったけど、「例年」というのは「いつも」ということみたいだ。ぼくは今年の冷たさが去年やその前のいつもと一緒か、答えられる自信はない。
「痛っ。」
坂道を駆け上がろうと、大きく踏み出そうとして失敗した。あっ、やっちゃったと思ったのと同時、いやそれよりもうんと早くにランドセルの金具がお尻にぶつかった。お尻をさすりながら、またため息が出てしまった。この何日間かため息ばっかり。そう思ってまたため息が出そうになって、思わず空気を食べるようにパクッと口を動かした。周りを歩く小学生の笑い声が聞こえる。ぼくのことを笑っているのかもしれない。そんな不安と、そんな不安を思うぼくのことが嫌になって、ため息が出る。今度は口を動かすのが間に合わなかった。
多分、今のぼくのお尻はほんのりと赤い。それはママやパパにお仕置きされたわけでも、尻もちをついたわけでもない。ぼくのお尻が赤い原因は昨日のトモヤのせいだ。
昨日の昼休みの喧嘩の後から、トモヤはなぜかぼくのお尻を事あるごとに叩いてきた。一緒にトイレに行った時、体育の授業のマラソンの時、帰りの用意をしてる時、帰り道、信号を待っている時。何度も何回も、とてもしつこくて、そしてとっても痛かった。
トモヤは怒っていなさそうだったし、ちょっと笑っていた気もする。だけれどなぜだか何度も叩かれた。男子グループには「なに、タケルなんか悪いことしたの?」とからかわれた。女子グループには「なんかお仕置きみたい。」と笑われた。ハカセは心配そうに真っ白な顔でこっちを見ていた。イツキはどんな顔をしていただろう、思い出せない。ミホちゃんはどんな顔をしていただろう、思い出したくない。
「よぉータケルー。」
いつもの元気でちょっとイタズラっ子みたいな声にヒャアッと驚いて、思わずお尻を押さえてしまった。
「バカ、もう叩かないって。」
トモヤはそう言って笑っている。頭も掻いていない。だけれど、本当かな、怒っていないかなと不安になる。
「そんな顔すんなって。」
トモヤがちょっと怒った顔をして手を上げた。
「ご、ごめんなさい!」
思わず謝って、またぼくはお尻に手をやる。近くを同じクラスメイトの女子グループが通りかかった。あーまたやってるー、と聞こえた。その中の1人がだから男子ってたんじゅーん、と笑っている。なんだよバカとそのグループを睨んだけど、急に振り返ってきたから思わず顔を下げた。そんなんじゃないってというぼくのつぶやきは、誰にも届かないでストンと地面に落ちてしまった。
「バカ、謝んなよ。オレがいじめてるみたいじゃん。」
トモヤが少し慌てている。
「ほ、本当に怒ってない?」
一応、やっぱり確認してみる。
「あぁ、怒ってないよ。」
トモヤが答える。ちょっとホッとした。
「あっ、でも昨日は少し怒ってたな。」
やっぱり。一気に嫌な気分になった。
「ご、ごめんなさい。」
「だから謝んなって、昨日は昨日。今日は今日。昨日はムシャクシャしてだけど、今日はムシャクシャしてないの。だからOK。本当にOKなの。」
「本当に?」
「本当。これだって書いてきたんだから、ほら。」
そう言って、トモヤはポケットの中から何かを取り出してぼくに投げてきた。急だし豪速球だから
、ぼくは慌てて、案の定取りこぼして、また慌てて拾い上げた。ポケットに無理やり入れたのだろう、ひどいくらいクシャクシャだ。紙が破けないようにゆっくりと丁寧に広げてみた。
「あっ。」
思わず声が出てしまった。トモヤがくれた紙はハカセが作ってくれたあの表だ。表の中にはトモヤらしい、ちょっと汚い、ひらがな多めの文字が並んでいる。
「な?怒ってないだろ。」
「う、うん。」
「よし、じゃあ分かったなら、学校まで競争ー!」
そういうとトモヤが学校に向かって全力で駆け出した。
「えっ、ちょっと待ってよ。」
急なことでびっくりしたけど、ぼくも置いてかれないように走り出す。
「早く来いよ、バーカ。」
「待てよー。」
さっきの女子グループを追い抜いた。ほら、やっぱりたんじゅーん、と笑っている。うるさいなぁと思って睨んでやろうと思ったけど、今は顔がにやけているから多分無理だ。
「あっ、ハカセだ。タケル、ゴールはハカセに変更な。」
トモヤは勝手にルールを変えた。トモヤが指さした先には、背中に「いっしようけんめい」とでも書いてあるかのように坂道を登るハカセがいた。肩には大きな手提げバックをかけている。今日は木曜日、たしかハカセは放課後のそろばん教室に通っている。学校が終わってからそろばん教室まで30分くらい時間があるから、図書室で時間を潰すのだろう。手提げバックの中は、ハカセが大切にしている大好きな恐竜の図鑑のはずだ。
トモヤに追いつくように、足に力を入れた。ランドセルの金具が、何度もお尻にぶつかってちょっと痛い。だけど、そんなの今はどうでもいい。
トモヤは足が早い。ぼくも追いつこうと手も足も一生懸命動かすけど、ドンドンと差がつく。
背中の汗が流れて気持ちが悪い。
明日はママに、「ジャンパーなんか要らないよ!」とちゃんと伝えよう。
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