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秘密の王女と魔女の弟子

作者: 豊川颯希

「起きてください! 朝ですよ!」

「……」

 窓の外から、小鳥がチュンチュン鳴く声が聞こえている。ガラクタと呼んで差し支えない物がてんでばらばらに転がっている室内で、申し訳程度に置かれた寝台に横たわる部屋の主は、未だ夢の中にいた。ああこれは今日も揺するだけじゃ起きないな、と悟ったサリアは、すっとお玉とフライパンを構える。

 そして力いっぱい両者を打ち合わせた。のどかな森の中に、カンカンカンカンと硬質な音が響きわたる。騒音に驚いた野生動物が、草むらから飛び出していく音があちらこちらから聞こえた。

「うぐぅ……」

「はい気が付きましたねはい起きてさあさあさあ!!」

 寝汚い部屋の主も流石に目覚めたらしい。森に溶け込みそうな深緑の瞳がうっすら開かれるや否や、サリアは容赦なく掛け布団をはいだ。名残惜しげに伸ばされた手がパタリと落ちる。

「……もう少し静かに起こしてくれ……」

「そう思うのなら、ご自分で起きられるようになってください」

「音が……うるさい……近所迷惑に……」

「森の中の一軒家で、何を言っているのやら?」

 口でも勝てないと分かったのか、部屋の主は大人しく上半身を起こした。目元が些かとろんとしているが、ようやくきちんと覚醒する気になったようだ。

「……おはよう、サリア」

「はいおはようございます、エルネスト」


 サリアは、エノアール王国の王女として生まれた。母親は国王の側室どころか、貴族ですらない一介の平民だった。お忍びで街におりた国王が、見初めたらしい。王は、サリアを身籠った母をお城に引き取ったまではいいが、他の妃との関係をまるで考えていなかった。身の程を知らずに王の寵愛を得たどこの馬の骨とも分からない女に、他の妃たちは当然のごとく辛く当たった。後ろ楯もなく、王の寵愛だけが頼りだった母はサリアを産んでまもなく世を去った。もともと穏やかな気性の人で、生き馬の目を抜くような宮廷で生きていけるような人柄ではなかったと聞く。母が亡くなってようやく、王は王宮が残されたサリアにとって健やかに成長できる場所ではないことを悟った。王はごく一部の近臣を除いて死産だったというお触れを出し、サリアを信頼できる家臣に託した。それが、人里離れた森の中に暮らす賢者と呼ばれる魔女だ。サリアは慈しみ深い魔女の元でのびのびと育った。自分が王女であることも魔女から聞いて知っていたが、自分が魔女に引き取られた経緯から、誰にも言いふらすことはなかった。

 慎ましく魔女の元で成長していたサリアが、10になる頃のこと。

「お帰りなさい、お婆様……その子は?」

 近くの街に作った薬を卸してくる、と出かけた魔女を出迎えたサリアは、魔女の後ろにいた子供に首を傾げた。長い前髪で顔はほとんど見えず、着ているものはどう見ても大人のもので、サリアと同い年くらいに見える彼?にはサイズが合っていなかった。

「拾ったのさ、相当な魔力持ちでね」

「……」

 サリアには魔力がないので残念ながら分からないが、魔女いわく魔力持ちには相手に魔力がどの程度あるか分かるらしい。そろそろ弟子をとりたい、と常々魔女が溢していたのをサリアは思い出す。

 彼はじっと(髪で目が見えなかったため、恐らくだが)サリアを見たあと、ふいと顔を逸らせた。

「今日からうちの子になるんだ、仲良くしてやってくれ」

「分かりました。よろしくお願いします、……ええっと」

「……」

 名前が分からなくてまごついたサリアに、彼は黙ったままだった。魔女がのんびりと言う。

「その子は…………そうだね、エルネストだ」

「……」

「絶対今考えたでしょう、お婆様」

「でも悪くない名前だろう?」

「まずこの子に名前があるかどうか聞きましたか?」

「名前を聞いても、うんともすんとも答えないんだよ。なら、名付けちまった方が早い」

「もう、お婆様ったら」

 はあ、とサリアがため息をついた時、くうとかわいらしい音がした。ぱっと彼の方を向くと、彼は相変わらずこちらを見ていなかったが、髪の隙間から見えた耳が、ほんのり赤く染まっている。今のは彼のお腹の音だったようだ。

「ごめんなさい、玄関で話しすぎましたね。さあどうぞ、中へ」

「今日の晩御飯はなんだい?」

「シチューですよ」

「それは食いでがありそうだ」

 魔女とサリアが談笑している間も、彼は黙したままだった。



 食事を終え湯浴みをする、と魔女が席を外した時。

「お前、あの婆さんの何なんだ?」

 彼からサリアに話しかけてきた。サリアは皿を洗いながら、彼を見返す。本当のことはもちろん伏せて、慣れ親しんだ嘘を口にした。

「孫ですよ」

「本当か?」

「うーん、お婆様は長生きなのでひょっとしたら曾々々々々々……とにかくとてもくだった子孫かもしれませんね」

「お前からは、全く魔力を感じないが」

「魔力は、必ずしも遺伝するとは限りませんから」

「……」

 彼は完全には信じていないようだったが、ひとまず納得したようだった。

 代わってサリアがたずねる。

「あなたはお婆様に拾われたのでしょう? まさか勝手に連れてこられていないですよね?」

 サリアの言葉に、彼は苦い顔つきになる。これはまさかか、とサリアはちょっと不安になった。魔女は基本的に善人だが、ほんの少しだけ性格に難があるのだ。

「……あの婆さんの財布をすったんだ」

「お婆様の?」

 見た目はどこにでもいそうな老女の姿をしているが、魔女は色々規格外だ。もちろん、すんなりと財布を盗まれるような失態はおかさない。

「婆さんから離れて、路地裏で中身を確認しようとしたら」

「……したら?」

「財布がなかった」

 驚く彼が、財布を入れたはずの上着のポケットを探っていると。

「気味の悪い高笑いが聞こえて、……俺の影がグニャリと揺れたんだ」

 腰を抜かした彼の目が影に釘付けになると、影はどんどん大きくなり、彼にヒタヒタと近づいていく。慌てて彼は逃げ出したが、彼が動くと当然影もついてくる。袋小路に追い込まれ、影は彼を飲み込むかのように大きくなった。万事休すかと彼が諦めかけた時。

"良いねえ、お前さんの魔力。気に入った"

 影から現れ、元の小柄な老婆の姿に戻った魔女はそう言うと、彼に自分に拾われないかと誘ってきた。その時になってようやく、彼は魔女が途方もない魔力を持っていることに気付いた。

「"うちの子になれば食うには困らんよ?" ……そう言われたから、着いてきた」

 断ればどうなるか分からなかった、という恐怖もあったらしい。

 聞き終えたサリアは、額を押さえる。

「すみません」

「何がだ?」

「お婆様が、無駄にあなたを怪談染みた方法で追っかけ回したからです」

「無駄に……?」

「断言しますが、あなたのことを気に入ったのは、一目見てすぐです。その後あなたを追いかけ回したのは、完全におふざけです」

「……」

「全くもう、お婆様ったら! 私が怖がらなくなってきたからって、他の子で遊ぶなんて!」

 サリアは皿洗いを終えると、くるりと彼に向き直る。

「まあとりあえず、これからよろしくお願いしますね……えっと」

「……」

「名前がないのは不便ですね……お婆様の思い付いたエルネストが嫌なら……」

「……」

「……そうだ! 街で拾われたからマッチッチとかどうで「エルネストでいい」あら、そうですか?」

 こうして彼──エルネストは、魔女の弟子となった。




「お婆様がいないからって、怠け過ぎですよ。また影をけしかけてもらいますよ?」

「やめてくれ、あれ地味にトラウマだから」

「だったら、私が用いる手段のうちに起きてくださいね」

「今日はわりと早く起きた方だろ?」

「そうですね、よく冷えた井戸水を染み込ませた布巾用意してましたが、使いませんでしたし」

「……用途は聞かないし明日以降は準備しなくていい」

 少し遅い朝食をとったあと、エルネストは魔女の書き付けを見て顔をしかめる。ちなみに魔女は特殊な薬に必要な材料を集めるとかで、一週間ほど不在にしていた。

「何が書いてあったんですか?」

「魔物の核を3つ用意しとけってさ……人使いの荒い」

「それだけ、エルネストの実力をかってるってことですよ」

「物は言い様だな」

 皮肉を言いつつ、エルネストは自室に戻っていく。狩りの支度をするのだろう。サリアが見送ろうとした時、唐突にエルネストは立ち止まった。

「エルネスト?」

「森の結界のあたりを、うろうろしてる奴らがいる」

「お客様ですか?」

 魔女は作った薬を主に街の薬屋に卸しているが、たまに直接家にやってくる客もいる。

「いや、それにしては数が多い。10……20……」

 エルネストは目を閉じた。魔術で使役している使い魔の視覚を通じて、結界近くに現れた集団の様子を探っているのだろう。

「……33か。しかも、ほとんどが騎士だ」

「騎士? 近くの領主様の兵ですか?」

 エルネストは首を横に振る。

「紋章がない。どこの隊だ……? ん?」

 エルネストが口をつぐんだ。何かを聞き取るように、耳を傾けている。

 ややあって、エルネストは瞳を開いた。

「驚いた。俺の使い魔を見破ったばかりか、話しかけてきた魔術師がいる」

 魔女によれば、エルネストの実力はそこらの並みの魔術師をはるかにしのいでいるらしい。そんな彼の使い魔を見破るとは、相手は相当な使い手だ。

「その魔術師は何と?」

「自分は宮廷魔術師で、"森の賢者"殿に重要な話があると……王家の遣いか」

 エルネストの話を聞き、サリアははっとする。"森の賢者"は、王家における魔女の呼び名だ。エルネストも、魔女の弟子という立場から魔女が密かに王家に仕えていることは知っている。

「婆さんは不在だと伝えたが……火急かつ重大な用件で、すぐに相談したいらしい。 ……そうだな」

 エルネストは短く詠唱した。別の使い魔を呼び出す呪文だ。

「婆さんにも使い魔を通して、話を聞いてもらう」

 交渉の結果、集団の中から代表者を呼び出して、話を聞くことになった。



 魔女の家に招かれたのは、壮年の男だった。派手ではないが、上質な衣装を着ていて、かなり身分が高そうだ。

「呼び掛けに答えていただき、ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ師が不在で申し訳ない。師には、使い魔を通じて話が行くようにしてありますので」

「かたじけない、賢者の弟子殿」

 身分のわりに腰の低そうな男はエルネストに礼を言った後、表情を引き締めた。自然、エルネストも姿勢を正す。ちなみにサリアはお茶を出した後、部屋の隅に侍女よろしく控えていた。

「改めまして。わたくしは、エノアール王国に仕えておりますロイゼンと申します」

 エルネストの眉がピクリと動く。エノアールでロイゼンといえば、言わずと知れた公爵家だ。そんな大貴族が辺境の賢者の家にやって来たのだ。どれほど危急の用件なのか。エルネストの顔に緊張が走る。

「我が国に危機が訪れておりまして、……どうか賢者殿の知恵を拝借したく」

「その危機とは?」

「王太子殿下をはじめとした高位高官の子息たちが、そろってある一人の男爵令嬢に懸想しておりまして」

「……はあ」

 あまりにも予想外の方向からやって来た問題に、エルネストはやや気の抜けた返事をする。

「皆婚約者のある身の上にもかかわらず、婚約者を放置して、一人の令嬢に構い、そういった行動を注意した婚約者たちを詰る始末で」

「それは……」

「皆将来国を背負う前途ある若者たちなのですが、このままその令嬢に執着するようでしたら、些か困ったことに」

「そう……でしょうね」

「何とか彼らの目を覚ませないかと、賢者殿の助言をうかがいたい次第でありまして」

「……師匠、どうします?」

 エルネストが、傍らの使い魔であるネズミを通して魔女に聞く。

"エルネスト、お前が対処しな"

「……は? 藪から棒に何だば……師匠」

 魔女の突然の指示に、思わず素の口調に戻りかけたエルネストは、ロイゼンを見て取り繕う。そんなエルネストを他所に、魔女は飄々と言った。

"その令嬢も子息たちも、お前と年が近い。情報を収集するなら、お前の方が有利さね"

「……王家直々に師匠に来た依頼でしょう? ここはやはり師匠がするべきでは?」

"アタシはアタシでやることがある"

「やること?」

"大結界の要石に魔力を補充しないとね。これはお前にはまだ無理だろう?"

 魔女の問いに、渋々ながらエルネストは頷いた。大結界は、エノアール王国を魔物から守る不可視の盾だ。術を発動するために必要な要石は国内各地にあり、数年に一度調整や原動力である魔力の供給を必要としていた。

"……ロイゼン公"

「はい、何でしょうか賢者殿」

"うちの弟子を手助けしてやってくれるかね?"

「ええ、もちろんです」

 話し合いの末、王太子をはじめとする子息たちと件の令嬢が通っている王立学園に、エルネストもロイゼン公の遠縁の子息という仮の身分で学園に潜入することになった。

「よろしくお願いいたします、弟子殿」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 潜入開始の日取りを決め、ロイゼン公は席を立った。その視線が、さりげなくサリアに向く。

「あなたは、……賢者殿の」

「孫です」

「ほう」

 サリアが微笑みながら答えると、ロイゼン公は人好きのする笑みを浮かべた。その瞳は、よく見ると冷静にサリアを観察している。彼は、サリアの正体を知る数少ない近臣の一人だ。

「賢者殿に、こんな麗しい孫娘殿がいたとは」

「まあ、お上手」

 ですね、とサリアが続けようとした瞬間、ロイゼン公とサリアの間に、エルネストが割って入った。サリアからは、エルネストがどんな表情をしているか分からない。

「お話中失礼。夜の森は魔物が活発になりますので、お早めに帰られた方が良いかと」

 エルネストの固い声音に、ロイゼン公はおやと目を見張ったあと、相好を崩した。

「ご忠告、痛み入ります。それでは、失礼」

 ロイゼン公を結界の外に送り出した後、家に帰ってきてもエルネストは不機嫌なままだった。そのまま真剣な顔つきで、エルネストはサリアに言う。

「いいか、サリア」

「はい?」

「ああいう身分の高いやつに絡まれたら、即刻逃げろ。後始末は俺がする」

「絡まれる、だなんて。ロイゼン様は社交辞令をおっしゃっただけですよ?」

「いいや、油断するな。ほんと身分の高い連中は、自分の権力が万能だと勘違いして、何でもやるからな」

「……領主様の所のジョニー坊っちゃんみたいに?」

「そうあそこの馬鹿ボンボンみたいに……サリアを献上しろってふざけたことをぬかすから底無し沼に転移させてじわじわ沈めて脅してようやく諦めさせたんだから「エルネスト」……あっ」

 サリアに名前を呼ばれて、エルネストの顔から血の気がざっと引く。無意識に後ずさったエルネストの手首をしっかり掴んで、サリアはにっこり笑った。

「そのお話、詳しく聞かせてください」

 笑顔のサリアに尋問され、エルネストはあっさり口を割った。ジョニーは、森の近くの村を含めた一帯を治める領主の末息子だ。村に来ていたサリアを見かけて以来、熱心に口説いてきて、一時期サリアも辟易していた。最近、姿を見るなり回れ右して脱兎のごとく逃げていくので、誰かが──魔女かエルネストが何かしたのではないかと予想していたのだが。

「私を守ってくれたのは、ありがとうございます。でも、私に関わることで私の意志を確かめず、何かをするのはやめてください。私が、ジョニー坊っちゃんに惹かれていたらどうするつもりだったんです?」

「え!? ひ、惹かれてたのか!?」

「言葉のあやです」

 絶望の表情から一転、胸を撫で下ろすエルネストに、サリアは言い聞かせる。

「それに、せっかくお婆様に習った魔術で、人を脅してはだめでしょう?」

「……はい」

 エルネストも勝手な行動をした自覚があったから、サリアに黙っていたのだろう。全て吐かされて項垂れるエルネストに、サリアは言った。

「お婆様みたいに、国に仕える立派な魔術師になるあなたが、些細なことのために道を踏み外してはいけません」

「些細なことじゃない! お前のことだぞ!」

 お小言に素直に頷くだろうと思っていたサリアは、エルネストの言葉に目を見開く。一方のエルネストは、つい出た自分の言葉に慌てていた。

「ほ、ほら、お前は……か、家族みたいなものだし? 変なやつに困らされてたら、ほっとけるわけないだろ?」

「……」

「サリア?」

 沈黙したサリアを不思議に思って名前を呼んだエルネストに、サリアはお礼を言った。

「……ありがとうございます、エルネスト」

「あ、ああ」

「でも、魔術の乱用は以後厳禁ですよ」

「分かってる」

「今度破ったら、お婆様に報告しますね?」

「分かったからやめてください」

 婆さんはほんと容赦ないから……と遠い目をするエルネストは気付かなかった。

 サリアがそんなエルネストを見て、複雑そうな表情を浮かべていたことに。




「はあ~もう帰りたい」

 使い魔の猫を通して、エルネストのくたびれた声が響いた。

 悲壮感漂うエルネストの声とは裏腹に、使い魔の黒猫、エルは寛いだ様子で腹を見せている。その体を撫でてやりながら、サリアは口を開いた。

「あらあら。もう問題は解決したのでしょう?」

 エルネストが、王立学園に生徒として潜入して3ヶ月。令嬢や子息たちを密かに探っていたエルネストは、令嬢が特殊な魔術を使っていることを突き止めた。

「たぶん、婆さんが使う影の魔術と同じだ。対象の影に自分の分身を潜ませて情報を収集し、王子や子息たちが好ましく思う理想の令嬢として振る舞っていたようだ」

 影の魔術は、とても古い魔術で伝承がほぼ途絶え、魔女以外に使い手がいない。そのため宮廷魔術師たちは、まさかそこらの令嬢が使用するとは予想だにしなかったらしい。

 そのことをエルネストがロイゼン公に報告すると、彼らの動きは素早かった。宮廷魔術師を秘密裏に派遣して令嬢が魔術を使用している痕跡を集め、同時進行で子息たちの説得を再度開始した。しかし、事を大事にしないよう内密に行われた説得にも王太子や子息たちは応じず、むしろより令嬢を盲信した。挙げ句の果てには、学園で行われた舞踏会で王太子は決められたロイゼン公爵令嬢との婚約を一方的に破棄し、男爵令嬢と婚約を結ぶこと宣言した上、子息たちと一緒になって公爵令嬢を糾弾し始めた。突然のことに周囲は騒然となったが、事前に父から事の子細を聞き、王太子たちの動きを把握していたロイゼン公爵令嬢は違った。子息たちの言い分を正々堂々真正面から論破し、男爵令嬢が影の魔術を駆使して子息たちを手玉に取っていたことを用意していた証拠と共に公衆の面前で明らかにしたのだ。結果、恋に酔い、身勝手な婚約破棄を行った第一王子は王太子の位を剥奪された。子息たちも跡継ぎの道を絶たれ、その実家も大いに影響を受けて、宮廷での権勢を削がれることとなった。元凶である男爵令嬢は、実家から勘当され、城の地下牢に収容されている。

「それがさあ、陛下がもう一つ頼みがあるって、明日謁見の間に来いって言うんだよ」

 俺は早く帰りたいのに、とエルネストはぶつくさ言う。

「……今回の件で、エルネストの実力を認めて宮廷魔術師に任命してくれるとか?」

「まさか! 勘弁してくれ」

「嫌なんですか?」

 宮廷魔術師は、国中の魔術師の中でも精鋭中の精鋭。潤沢な研究資金と、高い地位が約束されている。

 不思議そうにサリアが聞くと、エルネストは苦笑した。

「俺は、緊急事態の時はさておき、普段は婆さんみたいに薬を作ってるのがちょうどいい」

「学園で、珍しい魔術を見て喜んでたじゃないですか? 王都に残れば、そういう経験がもっとできるんじゃないですか?」

「あー、それな。最初はおもしろかったけど、まあやろうと思えば、俺一人でも再現できるし」

 それに、と付け加えかけたエルネストは、唐突に黙った。ゴロゴロ喉を鳴らすエルの顎を撫でてやりつつ、サリアはエルネストの言葉を待つ。

「なあ、サリア」

「はい?」

 しばらく経って、深刻そうな声でエルネストは聞いてきた。

「俺ってひもじそうに見えるか?」

「……ひもじそう?」

 サリアは、エルネストの姿を思い浮かべる。魔女に拾われてきた頃は、栄養不足でガリガリだった。そのせいか、ちょくちょく体調を崩しては寝込んでいたこともある。8年経った今のエルネストは、平均より高めの身長と、細身だが森で鍛えられた体を持っている健康優良児だ。どう考えても、ひもじそうには見えない。

「いいえ、見えませんが……どうしてそう思われたんです?」

「女子生徒に、クッキーを渡されかけたんだよ」

「まあ……受け取ったんですか?」

「いや、生焼けの匂いがしたから、受け取らなかった」

 孤児生活が長く、また森で五感が研ぎ澄まされているエルネストは、匂いで体に害のあるものとそうでないものの区別がつく。断った、という言葉を聞いて、サリアはほっとした。もちろん、生焼けのクッキーを食べずにすんだことについてでもあるが、それ以上に、別の理由がある。──そんな自分に、嫌気がさす。

「しかも、それが一回じゃないんだ」

 菓子だったり、軽食だったり、様々な女子生徒から差し出され、その都度エルネストは角が立たないよう苦労しながら断った。

「何かもう、一度でも受け取ったら以後ずっと受け取らないといけない気がして」

「……なるほど」

「学園では、なるべく目立たないようにしてたんだけどな」

「……」

「サリア?」

「何です?」

「いや、お前ひょっとして……機嫌悪い?」

「いいえ」

「そ、そうか。……まあとりあえず、こんな生活とはおさらばだ!」

「……少しも、惜しくないんですか?」

「ああ」

 即答したエルネストは、なんてことないかのように続けた。

「お前の作った飯が恋しい」

 頭を撫でる振りをして、サリアはエルの目をそれとなく塞ぐ。万が一にも、この頬の熱さを知られないように。エルネストにばれないよう、細心の注意をはらって、深呼吸する。これからつむぐ言葉に、余計な重さを持たせたくなかった。

「あなたの好物のシチューを作って、……待ってますから」

「うん。……それじゃあ」

 使い魔の役目を終えたエルは、撫でられて満足したのかとっとと部屋を出ていく。残されたサリアは、頬に手をあてた。まだ熱い。

 どのくらい、そうしていただろう。

「サリア」

「はい、何でしょうお婆様?」

 振り向いたサリアに、魔女は一通の手紙を渡す。受け取ったサリアの表情が、すっと消えた。

 魔女が部屋を出たあと、サリアは封筒をひっくり返す。何度ももらった見慣れた無地の封筒に、はじめて柄が──王家の紋章が押されていた。




「お帰りなさ、い……」

「……ただいま」

 エルネストが王都から帰宅する日の夜。玄関の呼び鈴がなり、出迎えたサリアの目に映ったのは、憮然とした表情のエルネストと、その後ろに立つ少女だった。その子を見て、ああこの子が例の男爵令嬢か、と瞬時に理解する。

 亜麻色のふわふわとカールした髪に、ぱっちりとした水色の瞳。一目見ただけで庇護欲をそそりそうな、小動物めいた可愛さを持つ美少女だ。

 瞬時によそ行きの笑顔に切り替えると、サリアは言った。

「もう一人いらっしゃるのなら、もっとシチューを用意しましたのに」

 ちゃんと連絡をください、と文句を言うサリアにエルネストが返事をする前に、少女が口を開いた。その目は興味深くサリアとエルネストを交互に見ている。

「へー、ふうん。……そういうこと」

 一人で納得した様子でうんうん頷くと、少女はいきなりエルネストの腕にしがみついた。腕は即座にエルネストに振り払われていたが、気にした様子はない。あら、と思わず溢したサリアに、彼女はぱっと笑みを向ける。

「はじめまして、ミーナって言います! エルネストさんの妹弟子として、これからお世話になります! よろしくお願いします!」

「サリア、こいつが例の男爵令嬢だ。おいミーナ、言っとくがサリアはお前の性根の悪さを知ってるから、猫被っても無意味だ。というか道中散々俺のこと呼び捨てといて、今更さん付けするな気色悪い」

「ミーナさんとおっしゃるんですね。私はサリアといいます。こちらこそ、よろしくお願いしますね」

 ミーナはチッと舌打ちした。小動物的な愛らしさはどこへやら、ふてぶてしい態度が板についている。

「つーまんないの。ちょっと引っ掻き回してやろうと思ったのに」

「お前そんなだから、王都を追放されるんだぞ」

「あんたのお説教は聞きあきたから」

「何だと!」

「まあまあ二人とも、お話はその辺りにして、夕食にしましょう」

 サリアに促されて、二人はようやく家に入った。

 食事を終え、慣れない長旅で疲れていたのか目をこすっていたミーナを先に寝かせたあと、サリアはエルネストに事の経緯を聞いた。

「陛下の頼みっていうのが、ミーナを魔女に弟子入りさせることだったんだ」

 影の魔術を扱う魔術師は貴重だ。同じ術を使う魔女のもとで修行させ魔術師として育て上げると同時に、監視するのが狙いらしい。

「陛下直々の頼みじゃなきゃ、あんな跳ねっ返りの面倒なんざごめんこうむる」

「まあまあそう言わず、妹ができたみたいじゃありませんか」

「影の魔術を易々扱い、王子や上位貴族の子息たちを引っ掻き回したやつだぞ?」

「共に切磋琢磨する仲間ができて、よかったですね」

「……何か、お前と話してると悩んでいるのが馬鹿らしくなってくるな」

「お褒めに預かり、光栄です」

 何とも言えない顔をしているエルネストの視線を、サリアは素知らぬ振りで流した。そのまま自分の部屋に戻ろうとしたサリアを、エルネストは呼び止める。

「サリア」

「はい?」

「土産だ」

「……お土産、ですか?」

 驚くサリアの手の平に、簡素な包みが置かれた。手の中におさまる大きさで、そんなに重くはない。

「開けてもいいですか?」

「ああ」

 なぜか明後日の方向を向いているエルネストに許しをもらい、サリアは包みを開いた。

「まあ……」

 出てきたのは、ガラスで出来た花があしらわれた髪飾りだった。光の加減で、虹色の光沢を帯びているようにも見える。光に透かしてその輝きに目を奪われているサリアに、エルネストは早口で捲し立てた。

「その、あまり高いものじゃないけど、王都にいたとき、露店見かけて、お前に似合うかなと思ってつい買ったんだ。趣味に合わなかったら……」

「エルネスト」

「うん?」

「嬉しいです。ありがとうございます」

「そ、そうか」

 サリアは、髪飾りを丁寧に包み直した。お礼を言われて、はにかむように笑うエルネストの顔を、そっと瞳に刻みつける。

 嬉しい。この大きさなら、持っていける。

「大切にしますね、エルネスト」




「まだ、起きていたのですか?」

「……あんたもね」

 ミーナが魔女の弟子となって3ヶ月。昼間は魔女と兄弟子にしごかれ、夜はぐったりと泥のように眠っていた彼女も、少し余裕が出てきたらしい。

 深夜、目がさえて眠れずにいたサリアが一階におりると、ミーナの姿があった。

「ホットミルク、よかったら飲みます?」

「……うん」

 サリアは手早く準備すると、マグカップをミーナに渡す。

「ありがと」

「いいえ」

 しばらく、会話が途切れる。

「あんたはさ、あたしが嫌じゃないの?」

 ミーナの問いに、サリアは首を傾げる。

「ミーナさんが嫌? どうしてですか?」

「どうって、……ほら、あたしは魔術を悪用して男を誑かすような悪女だよ? エルネストの側にいて不快じゃない?」

「……ミーナさん、魔術の悪用はやめた方がいいですよ」

「……」

「お婆様は元よりエルネストも魔術の扱いについては結構厳しいですからね、ああ見えて悪用しようものなら容赦ない折檻が」

「待ってあたしの予想した答えと違う!」

 ミーナはばっとサリアの方を向く。

「あんたエルネストのこと好きでしょ!? それなのに、あたしみたいなのがうろちょろして不安にならないの!?」

「はい、なりません」

「う、嘘よ!」

「本当です」

 サリアは、ホットミルクを一口飲んだ。

「ミーナさんは誤解しているようですが、私とエルネストはそんな関係じゃありませんよ」

「や、今はそうかもしれないけどいずれとか……」

「なりませんね」

 だから、どうぞミーナさんのお好きになさってください、とサリアが続けると、ミーナはカップを置いて頭を抱えた。マジか……あいつ……と沈痛な面持ちになったミーナに、サリアは聞く。

「ミーナさんは、どうしてそんなこと聞くんですか?」

 うんうん唸っていたミーナは、ぴたりと体の動きを止めた。ミーナはマグカップを見下ろす。サリアは辛抱強くミーナが話し始めるのを待った。

「……普通さ、人間ってなかなか変わらないじゃん?」

「だから、私がミーナさんがまた魔術を悪用して、エルネストを誑かすんじゃないか疑うと思ったんですか?」

 こくりとミーナは頷く。

「あたし、男爵家に引き取られる前は孤児院にいてさ。自分に魔力があるって分かった時から、このやり方でのしあがってきて」

「はい」

「男爵とも、お互い利用しあってさ。男爵は私の魔力と王太子妃を出したっていう実績がほしかったんだ。……エルネストに気付かれるまで、失敗なんかしたことなかった。たくさんの令息をたらしこんだし、その婚約者の令嬢たちを悲しませた」

「はい」

「気付いたら色んな人から嫌われてて、嫌われるのが当たり前になってて、だから」

 ぽつぽつと、水滴がカップに落ちる。

「だから、あんたにも同じように嫌われるって思ってたのに……そんなことがないのが、変な、気がして」

「変じゃないですよ」

 サリアは、ミーナの隣に座ると、優しくその背を撫でた。

「あなたは、ここに来てから魔術を悪用していませんし、誰かを惑わしてもいません。ミーナさんが私に嫌われる理由は、ひとつもないんです」

「そうだけど、……そうかもしれないけど、普通、そうじゃないことの方が珍しいじゃん。あんた、変わってるね」

「よく言われます……それに」

「それに?」

「……あなたがもし、悪女と言うなら……」

「何? もう一回お願い」

 サリアの声が小さくて、ミーナは聞き返す。

「いえ、何でもありません」

 サリアは首を振り、にっこり笑った。つられてミーナも不器用に笑う。

「不思議。今のあんたの顔、ちょっとだけ殿下に似てた」

 サリアは一瞬だけ目を見張ると、すぐに笑顔を作った。

「まあ、そうなんですか?」

「うん。ちょっと思い込みは激しかったけど、顔は良かったんだ……変だね、血は繋がってないのに」

 ミーナはホットミルクをすすると、サリアを見た。

「サリア、さ」

「はい?」

「エルネストのこと、前向きに考えないの?」

「前向き、とは?」

「エルネストと、恋人とかそういう関係になるってこと」

「ないですね」

「即答!? 何で?」

「何で、と言われましても……」

「好みじゃないの? あたしも殿下たちの攻略大詰めじゃなかったら、粉かけようと思ってたし、見た目は悪くないと思うけど。学園でも、結構な数の女子に言い寄られてたよ」

「ああ、それは本人から聞きました」

「本人から聞いた!?」

 サリアは、ミーナにクッキーの件について手短に説明する。

「あの馬鹿……朴念仁ヘタレ」

 再び沈痛な面持ちになったミーナに、サリアは言った。

「だから、ミーナさんがエルネストと付き合うことになっても、全然構いませんよ?」

「いやあたしが構うよ……あいつの矢印でかすぎるし。あんなん振り向かせるの考えただけで無理」

 ないない、とミーナは手を振った。

「そこを何とか挑戦してみるのは?」

「いや、さすがのあたしも引き際は心得てるっていうか……」

「それは残念です」

「サリア、何だかエルネストに対して頑なだね」

「エルネストは、弟みたいなものですから……幸せになってほしいんです」

「そう……」

 きっぱりと言い切ったサリアに、ミーナは頷くしかなかった。



 ミーナが来てから半年後。

「行ってくる、サリア」

「はい、いってらっしゃいエルネスト」

「魔物の核10個とか無理だって……」

「一人あたり5個なら楽勝だろ」

「賢者の元で英才教育受けたあんたと学園で平凡に育ったあたしを同じ頭数にしないで」

「とっとと行ってきな」

「お婆ちゃんもひどいー! サリア!」

「がんばってくださいね、ミーナさん」

「サリアまでー!」

「ほら行くぞ、ミーナ」

 エルネストと半泣きになりながら引きずられていったミーナが見えなくなったあと、サリアはほっと息をついた。普段通りに、こなせていたと思う。

「……別れを言わずとも、よろしいのですか?」

「ええ、賢者殿。後は任せます……これまで、大儀でした」

 魔女の口調に、サリアは本来の身分に戻る。

「王宮へ、向かいましょう」




「サリア。よくぞ、戻ってくれた。半年以上も待たせてしまって、すまなかった」

「いいえ、陛下」

「そんな、よそよそしい呼び方はやめておくれ」

「はい、……お父様」

 美しく着飾ったサリアは、王女としてエノアール王国の謁見の間にいた。国王とサリアの他には、ロイゼン公が控えている。

 王太子失脚事件の際、共倒れとなって勢力を失った家の中には、王妃の実家や他の妃の実家も含まれていた。それらの家は、事件が絡む前から徐々に勢力を弱められていた。そうでもなければ、たかだか跡継ぎが暴走しただけで、王宮での権勢まで陰る訳がない。

 そうした家の力を削いでいたのは、理由の全てではないにしろ、サリアを王女に戻したいという王の意向が働いていた。

 王はサリアを魔女に預けてから、じかに会うことこそなかったものの、魔女に手紙を託していた。手紙は、常にいつか、共に暮らしたいと言う言葉でしめられていた。サリアの安全上、手紙は読み終わると破棄され、サリアから返事を書くこともできなかったが、サリアはいつかこの日が来ることを分かっていた。それほど、王の本気が感じられる手紙だった。

「サリア。長く苦しい生活をしいて、申し訳なかった。これからは、王女として、何不自由ない生活を送れることを約束しよう」

「ありがたきお言葉に存じます」

 サリアは、お辞儀をした。まだ礼儀を学び始めたばかりで少々拙いものだったが、王は微笑ましげに破顔した。

「やはり親子だな。──ミリアに、よく似ている」

 王はどこか遠くを見るように、目を細めた。




「殿下、お休みなさいませ」

「ありがとうございます。お休みなさい」

 侍女が下がり、一人きりになったのを確認すると、サリアは寝台から起き上がった。ガウンを羽織り、そっと鏡台に歩み寄る。

 サリアが王宮に来て一月が経過した。サリアの正式なお披露目は、一年後に決定した。残り一年で、サリアは王女教育を終えなければならない。一応、魔女に最低限のことは教わっていたので、何とか期限までには間に合いそうだ。

 ──しかし。

"殿下の所作は既にほぼ及第点ですわ!"

"ええ、とても辺境にいたとは思えません!"

 教師役の貴婦人たちの言葉を思い出し、サリアは苦く笑った。

 鏡台に置いてある宝石箱を、音がしないよう細心の注意をはらって開く。色とりどりの宝飾品を丁寧によけ、底板を外した。そこに隠されていた包みを開き、中の物を取り出す。

 サリアははあ、と感嘆のため息をついた。

 魔女の家から持ってきたのは、餞別として魔女から渡された細工付きの宝石箱と、この髪飾りだけだった。

「きれい。……本当に、きれい」

 何の変哲もない、ありふれた髪飾り。価値なら、宝石箱に入っている他の宝飾品の方が、はるかに高いだろう。だがこれは、サリアにとって唯一だ。

 唯一の、想いの縁だ。

 ──できることなら、あのまま、あの場所で──。

 サリアがぼうっと髪飾りに魅入っていると、カタン、と物音がした。

 咄嗟に、サリアは宝石箱に髪飾りをしまう。

「……誰?」

 答えの代わりに、にゃあんという鳴き声が返ってきた。

「猫?」

 サリアがバルコニーへ続く扉を開くと、ちょうど扉の前に猫が鎮座していた。見覚えのある配色に、サリアは動揺する。

「エ、ル?」

 サリアが固まっていると、猫の影がぐにゃりと歪んだ。

「うえっ……猫の視界目が回って気持ち悪……婆さんもミーナも何で平気な顔していられるんだ……?」

 影は徐々に形を変え、ついにはひとりの青年が現れた。サリアは、息を飲む。

「……エルネスト」

 這いつくばってえずいている彼に反射で近寄りかけて、こらえる。サリアは拳を握りしめた。もう、そんな間柄ではない。

「ったく、かっこつかねえな……よう、サリア」

 ようやく吐き気がおさまったらしいエルネストは立ち上がると、呪文を唱えた。

「何を」

「防音魔術。誰かにこられちゃまずいからな」

 不法侵入だし、とへらりと笑うエルネストに、サリアは固い声音で告げた。

「どうしてここに来たかは分かりませんが、今すぐ帰りなさい。まだ、間に合います」

「嫌だ」

「私が誰だか、分かっているのですか?」

「お姫様なんだってな。婆さんから聞いた」

「それなら、あなたと私は軽々しく会える立場ではないことも、分かるでしょう?」

「分かってる。……それが、嫌なんだ」

「え?」

「俺はお前が誰であろうとも、変わらずお前の側にいたい」

 言葉をなくすサリアに、エルネストは言いつのる。

「だから、どこまでも追いかける。今日は、それを宣言しに来た。……王女様になったくらいで、俺との縁が切れたと思うなよ?」

「……」

 サリアは、つい伸ばしかけた手をぎゅっと握りしめた。すっと深呼吸して、エルネストをじっと見つめる。

「あなたのその想いは、まやかしです」

「まやかし?」

「あなたの食事には、ずっと特殊な薬──俗に言う惚れ薬がまぜられていたんです」

 魔女の作る惚れ薬は、サリアに対して親愛を抱かせるもの。魔女がサリアを守るため、エルネストを二人目の守護者とするための薬だ。

「ずっと、黙っていて……あなたを利用していて、ごめんなさい」

 罵声を浴びせても仕方のない状況なのに、エルネストは黙っている。サリアは震える声で続けた。

「でも、これで分かったでしょう? あなたの私に対する執着は、薬の効果です。賢者殿なら、すぐに解くことができます」

 言いながら、サリアは違和感を覚えた。予定では、サリアが去ってすぐ、魔女がエルネストの薬の効果を打ち消すことになっていた。なのに、エルネストは薬のせいで、王宮に危険をおかしてサリアに会いに来てしまった。どうして、魔女は解かなかったのか。修行の一環で、エルネスト自身に解かせるつもりなのだろうか。

 サリアはエルネストを見上げる。深緑の瞳は、まっすぐサリアに向けられていた。その瞳がサリアを映すのも、今日が最後だろう。サリアが別れを告げようと口を開く前に、エルネストは言った。

「あー、そのことか。それなら知ってた」

「…………え?」

 エルネストの告白に、サリアは狼狽えた。

「そんなはずはありません! お婆様の惚れ薬は、無味無臭で、気付けるはずが」

「ああ、最初は分からなかった」

 サリアの言葉に、エルネストは頷く。

「でも、お前が森に迷い込んできたエルに"黒々毛玉ちゃん"って壊滅的なネーミングセンスで名付けようとした時、同意しかけて、おかしいと思ったんだ」

「……………………え?」

 壊滅的なネーミングセンス? いや、今はそこではなくて。

 サリアが混乱している間にも、エルネストは昔を思い返すように遠くを見た。

「婆さんに魔術を教わりながら、いろいろ調べた。一年くらい経って、ようやく完全な解毒薬が作れるようになったんだ。それまでは、不完全な解毒薬でよく体調崩してたっけ」

 確かに、エルネストは拾われて一年経つまでは、よく寝込んでいて、病弱だと思っていたが、それがまさかそんな理由だったとは。

「まあそのうち、わざわざ解毒薬飲むのが面倒になって、飲むのやめたけど」

「な、何でですか?」

「惚れ薬はさ、対象に端から惚れてたら効果はないんだとよ」

 サリアがそれを理解するのに、少々時間がかかった。

「な、な……」

 はくはくと口を開閉させるサリアをエルネストは見下ろした。

「まあそんなわけで、正真正銘俺はお前に惚れてるんだけど。お前は俺のこと、どう思ってる?」

「……私は……」

 サリアはエルネストから視線を外す。サリアが言いあぐねていると、エルネストがしゃがんだ。慌ててサリアが目で追うと、エルがあの髪飾りを咥えてエルネストに渡していた。受け取ったエルネストの口元が弧をえがく。

「エル!?」

「……答えは、エルが教えてくれたな」

「ま、待ってくださいそれは! 間違えて荷物に紛れていたもので」

「じゃあ今から俺が放り投げてもいいか?」

 そのまま立ち上がって腕を振りかぶるエルネストに、サリアは飛び付いた。

「やめて! 返してください! 返して!」

「そんなに取り乱すお前、はじめて見た」

 髪飾りを取り戻したサリアは、エルネストをキッと睨み付ける。その目尻には、涙が浮かんでいた。

「ごめん。……ちょっといじめすぎたな」

 エルネストは頬をかいた。

「そんなに俺のこと、好きか?」

「大好きです! ……誰よりも」

「そ、そうか」

「でも、私は王女です。身分が違いすぎます。それに、私はあなたを利用していました」

 だから、とサリアは髪飾りを胸元に抱く。思い出は、もう十分にもらったから。

「あなたは、私のことなんか忘れて、幸せになってください。それが、私の願いです」

「……なんかって何だよ。馬鹿だな、サリア」

 エルネストは、サリアを抱きしめた。サリアは逃れようとするが、エルネストの体はびくともしない。

「利用されたくらいで嫌うなら、もっと前に愛想はつきてる」

「……」

「お前が幸せじゃないと、俺はお前がびっくりするくらい不幸せになるぞ?」

「脅しのつもりですか? 私は不幸せになるなんて、一言も言ってないですよ」

「いーや、お前は分かってない。お前の顔、鏡で見せてやろうか?」

「私の、顔?」

 笑顔を浮かべているつもりだった。エルネストが体を離したので、自由になった手を頬にあてると、不器用に強ばっている。

「あれ……?」

「お前がお前自身のこと大事にしないなら、俺がする」

「……エルネスト」

「一緒に生きていける道を、絶対に見つけるから」

 そうしてさしのべられた手を、サリアは取った。そのぬくもりに泣きそうになりながら、サリアは聞く。

「本当に、あなたを望んでいいんですか?」

「言っただろ? お前が何になったって、どこに行ったって、必ず追いかける……好きだ、サリア」



 ひとつの噂が、一部の貴族の間で囁かれた。十数年前、死産したと思われた王女が、実は生きていた、というものだ。しかし実際に王女としてお披露目された者はなく、所詮噂は噂かと、すぐ人々の話題に上がることはなくなったという。

10/19 誤字修正しました。

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