Prologue
素人による鈍足鈍亀更新ですが、お楽しみいただけたら幸いです。
「昔話をしましょうか。」
私の目の前で座っている青年が、重厚なソファーにもたれながらそんなことを呟いた。
あるホテルの一室。こぢんまりとしながらも品よく整えられたこの部屋は、宿泊だけでなく、有名人の取材等で使われることも多い。雑誌記者である私は、有名人の取材を行い記事にするのが仕事で。
そして今回の取材相手は、先ほど意味不明な言葉を発した目の前にいるこの男だったと、そういうわけである。
男は若い。25才という若々しさ。そして、見目が良い。背が高く、セットされた栗色の髪は整った顔立ちによく似合う。どことなく異国の雰囲気が漂うが、本人曰く親も祖父母も、高祖父母までは日本人とのこと。 彼の持つ雰囲気は自身の色素が薄いからか、あるいは長い間外国で暮らしていたからかもしれない。
「たまに日本の街を歩いていても、外国人と間違って話しかけられますよ。」とは、苦笑した彼の談である。
若くして世界最高峰の音楽の学舎を首席で卒業し、名声をほしいままにするピアニスト。それが彼だ。すらりとした指からは繊細かつ大胆な音が生み出され、聴く者全てを虜にする。あるコンクールにて審査員となった著名な音楽家は、彼の音をこう評した。
「最後の一瞬まで輝き感動を残して消える、まるで流星群のようだ。」と。
見た目が良い、ピアノの天才、そして久しぶりに日本でコンサートを行うという話題。この三拍子が揃えば雑誌として取材を行わないのは愚の骨頂。ということで、私が所属する会社も例に漏れず、今回取材を申し込んだのである。この辺りは他社も同じだろう。どこも話題には飢えている。もう既に大手を始め取材を嫌というほど受けているだろうに、所詮中堅どころの雑誌記者である私にも笑顔を見せている彼は頑張っていると思う。あとはそう、軽い世間話をしながらあらかじめ、ある程度まで打ち合わせたインタビューを行うはずだった。途中までは、その通りだったのだ。
なのに、どこでこうなった?
「……ああ、失礼しました。こんな切り出し方では意味が分からないですよね。」
よく姉たちにも叱られるんですよ、と彼は苦笑いを溢した。正直なところ、確かに意味が分からない。唐突に「昔話をしましょうか」、なんて。今話題のピアニストとはいえ、こちらには他の取材もある。そうそう彼ばかりに時間を取られるわけにはいかない。しかしそれ以上に、彼の『昔話』に私は興味が湧いた。
「……いいえいいえ。しかし、昔話とは? 先ほどの質問に関係しましたか。」
ついさっき質問したのは――――――『尊敬する人間は?』だ。
難しい質問ではない。『尊敬できる』とされる人間なんてごまんといる。それは歴史上の人物然り、親兄弟、親戚、数えれば切りがない。たいして尊敬していなくても、適当に答えることができる質問。これはその一つだ。
しかし彼は迷ったのだ。この何気ない質問で初めて言葉が詰まり、深く深く考え込んだ。そして切り出したのが、冒頭の言葉だった。
「ええ。私が尊敬するのは、今も昔もただ一人です。ただ、その人物がどういう人なのか、また何故尊敬するようになったのかを伝えるには、この話をしないといけないのです。私が尊敬する、世界最高のピアニストについて話すには。」
「世界最高のピアニスト……ですか。そう冠されるピアニストは私でも何名か挙げられます。貴方の師匠の一人、ミハイロ・ポポフ氏もその一人だ。」
「ええ、彼に師事できたことは非常に光栄だと思っています。……ですが、違います。」
「ほう、御師匠ではない。ではエリック・ミュラー氏? それともマルコ・アレッシオ氏でしょうか?」
私は自分が思いつく限り世界に名だたるピアニストを挙げていったが、彼は誰の名前を言おうと首を縦には振らなかった。そのうちに私が答えを挙げられなくなると、男はその顔に苦笑いを浮かべた。
「確かにポポフ氏を始め、貴方が挙げられたピアニストの方々は敬愛して止みません。しかし、私が一番尊敬するピアニストは、かの方々ではないのです。」
「うーん……それでは、誰なんでしょうか……。もう結構な人数を言ったと思うんですよ、私。」
「ええ、現在世界最高とされるピアニストのほとんどを貴方は挙げられました。……申し訳ない。僕は貴方に意地悪をしました。」
私はその言葉に、なんとか名前をひねり出そうとしていた頭を上げた。
「意地悪? とは?」
彼は私の問いに、困ったような表情を浮かべた。それはまるで、小さなイタズラがばれたときの子どものようだった。
「その人は有名な人ではない。そして今はピアニストではありません。……音楽の世界から離れたんです。だから貴方が……いえ、世界中の人間が知らなくて、当然なんですよ。」
「……今現在、ピアニストじゃない。」
「はい。」
「……有名でもない。」
「はい。」
「……貴方しか、知らない。」
「もしかしたら他にもいるかもしれませんが、はい。」
「……どんな、ピアニストですか?」
ここにきて初めて、彼は笑み以外の表情を見せた。それは表現すると、『きょとんとした顔』というのがしっくりきた。
「……どうしましたか。」
予想外の反応に疑問を返すと、
「……いえ。今まで他の記者さんにもこうお話してきましたが、どの方もなあなあにして話を切り上げました。当然ですが、怒る方もいらっしゃった。……貴方だけですよ。」
どんな人ですか、なんて聞いてきたのは。
そう言うと彼はにっこりと笑った。それはもう、本当に嬉しそうに笑ったのだ。
「その人と出会ったのは私が小学1年生。地方のピアノコンクールでのことでした。」
「それは随分昔のことですね。」
私の相づちに彼は大きく頷いた。
「ええ。それまでの私は、なんというか……言葉は悪いですが何とも思い上がったクソガキで。コンクールでは優勝することが当然と、そのように思っていたのです。その人に出会って、そのピアノの音を聴いたとき、私は初めて二つの感情を覚えました。」
「二つの感情?」
「ええ。ーーーーーー『羨望』と『嫉妬』という、二つの感情をね。」
羨望と嫉妬。
それはなんとも彼に似合わない言葉だった。……いや、ある意味ではとても似合うのだ。彼は『嫉妬される』、そして『羨望を受ける』側の人間なのだから。しかしこれが逆となると、それは突然、全く似合わないものとなる。
彼が嫉妬する? 羨み望んでやまない? そんなことがありうるのか?
その疑問を感じ取ったのか、彼はそれまで浮かべていた笑みを消した。
「言ったでしょう。初めてその感情を知ったのだと。自分がいかに井の中の蛙だったのか、私はその時に思い知ったのですよ。」
そして今の私があるのです。彼はそう締めくくると、改めてその顔に笑みを浮かべた。それはどこか、試すような笑みだった。
「さて、お聞きしましょう。貴方は、私の話をお聞きになりますか?」
ここに来てやっと、私は合点がいった。彼が一番話したかったのはこの事なのだと。それに気付いたとき、背中がゾクゾクし、ある種の快感が私の身体を駆け抜けた。
それは興奮ーーーーーーそして歓喜だ。今から語られるであろう話はもちろん彼自身、それも彼の根底にも関わっているという確信。
そしてそれを他の誰でもなく、自分こそがその話を初めて聞けるのだという優越感。その事実が記者としての私をここまで興奮させている。
……これだから記者は止められない。
しかしその感情を今出すわけにはいかない。記者としての興奮を見て喜ぶ取材対象者なんぞいないし、その興奮を声なり行動なりで表せば、私はただの変質者として彼の脳裏に刻まれ、せっかくの特ダネを不意にしてしまうかもしれない。
だから私はテーブルに置いた珈琲を一口含み、その香りを楽しむがごとく深呼吸をして落ち着き、彼へ同じように笑ったのだ。それはチャンスを逃さないために。そして彼が尊敬してやまない、誰も知らないだろうピアニストへ思いを馳せて。
「では、教えていただけませんか? 貴方の尊敬するピアニストについて。」
私の問いに、彼もまたテーブルに置いた珈琲を一口飲み、その笑みを深くした。
「ええ。昔話をしましょうか。私が尊敬してやまない――――――あるピアニストとの、昔話を。」