6.第一歩
擦り傷、火傷、切り傷、打撲、痣。
地に伏すレオニスの身体には、数えきれないほどの傷が出来上がっている。
顔のすぐ近くに、土色というよりは灰色の地面がある。
レオニスは悔し涙を目に浮かべながら、滲む砂粒を見つめていた。
やがて、その無数の砂粒の一画に、滴が落ちる。
「ふん、その程度の実力で魔王さまに立ち向かおうとしたとは、勇敢も無謀も通り越してもはや滑稽だな」
エカレアの声が頭上から降り注ぎ、レオニスの感じる屈辱が増大する。
見るからにボロボロのレオニスに対し、エカレアは本人どころかその空色の鎧に一つの傷――――どころか汚れすら付いてはいなかった。
それでもまだレオニスは諦めてはいない。左手で砂を、右手で剣の柄を握り締める。
伸びきった足を曲げ地面に爪先を引っ掛ける。
脚に力を込め、地面を蹴ると同時に、左手の砂粒をエカレアの顔面に向けて投げ――――ようとしたとき。
「沈め」
その言葉をエカレアが何に対して、どのような意味で発したのかは分からなかったが、直後確かに砂を手から放つつもりだったレオニスの身体に上空から雷撃が降り注ぎ、それを受けたレオニスは再び地面へと落ちた。
* * * * *
時は遡り一刻前。
この世界における時間の単位は、地球における1時間=一刻で表されていた。
また一刻は六節から成り、一節=10分である。
というわけで一刻前。
魔王城、玉座の間。
「えーとですね、つまるところこのままでは勇者さまはいつまで経っても魔王さまを倒すことは出来ないということです」
特に辛辣な様子でもなく、普通のこと、現前とした事実としてフィナンジェは告げた。
事実報告。
その方がレオニスは辛かったが、しかし事実は事実として受け入れなければ、前に進めないということも分かっている。
だから口は挟まずに、目でフィナンジェに先を促す。
「そこで、私と魔王さまで会議、もとい話し合いを行い、現状の対策案を考えました」
「なるほど。本来であればこの男がやるべきことを魔王さまとフィナンジェでやったということか」
と、得心した様子のエカレアこそが辛辣だったが、これも本当のことなのでレオニスは何も言えない。
「ちょっとエカレア! あまり勇者さまを苛めないで! 勇者さまだってこれまで何もしてこなかったわけじゃない。少しずつ本当に少しずつだけど、勇者さまは私に近づけるようになっていった。そしてこの間はついに私に手を触れてくれたの」
怒り気味にエカレアを注意したかと思えば、今度は嬉しそうに先日の思い出を語る魔王。
しかし今度はフィナンジェが悪戯っぽい表情でレオニスを虐める。
「まあその結果、吹き飛ばされましたけどね」
「もう! フィナンジェまで!」
魔王の激昂に可愛らしく舌を出して笑みを浮かべるフィナンジェだったが、しかしすぐに真剣な表情に戻る。
「しかし魔王さま、勇者さまは弱者です。そこを認めて前提として話していかなくては、解決には至らないかと思います」
「う……」
まったくの正論にさしもの魔王も言葉を失ってしまった。
代わりに口を開いたのはさっきから散々な言われようの未来の勇者、レオニスだった。
「まったくもって、フィナンジェの言う通りだな。魔王、俺のことは弱者と思ってもらって構わない」
「勇者さま……でも……」
当のレオニスがそう言っても、魔王だけはやはり納得がいかなそうに俯いている。
その一方で。
「ふむ、まあ弱さを認められない愚者よりかは幾分まし、だな」
一人で納得したように頷きながら、エカレアが呟いた。
「わ、分かりました! 勇者さまは弱者……勇者さまは弱者……」
自分に言い聞かせるように唱える魔王に、それ以外の三人は顔を見合わせて苦笑する。
そしてまた滞った話を進行させるべく、フィナンジェがコホンと咳払いをしてまた話し始める。
「えーまあそういうわけで、3つの案を捻出したので、それを今から発表しようと思います」
ここにいる全員を一度、フィナンジェは見渡す。
「まず1つ目。これは単純な話になりますが、『勇者さまの強化』です。単純に勇者さまが魔王さまと同等かそれ以上の力を有することが出来れば、勇者さまが魔王さまを倒すということは現実的なものなるでしょう」
そこでエカレアが手を挙げる。
「なんですか、エカレアさん」
「一ついいだろうか」
「どうぞ」
フィナンジェに促され頷くと、エカレアが話し始める。
「この男を強化するというのは妥当な話だとは思うが、問題はそれをどういう方法で行うかということではないか? 私は実際戦ったことがないので何とも言えないところはあるが、この男はとても弱いのだろう? 生半可な方法では時間が無限にあっても足りないぞ」
「ふっふっふ、さっすがエカレアさん!」
なんかテンションの高いフィナンジェに、エカレアは少し引いた。
「ああすみません、私としたことが、取り乱しました。いえ、まさにエカレアさんの言う通りなんですよ。勇者さまを強化するには、普通の方法では埒が明かないと思うんです。まあ人族の鍛錬の方法というのを私は知らないわけですが……」
紅い魔族の視線を受け、レオニスが会話に加わる。
「人族で強くなるために鍛えている者は確かに少ないな。壊滅後再編されつつある王直属の騎士団、王城の兵士はそれなりに鍛錬を積んでいるとは思うが、その方法も単純な負荷鍛錬による筋力の増強か、人対人による模擬戦くらいだろう。その他に自己で鍛錬をしているとしたら自身の肉体強化に自惚れる酔狂か、戦いの中に死に場所を求める戦闘狂か、どちらにせよ変わり者の類だな」
「そういう勇者さまは、どうやってここに至るまでの力を得たのですか?」
フィナンジェに問われ、レオニスは考えるように視線を漂わせる。
弱者、と言われてはいるものの、レオニスは現在の魔王に代替わりしてから初めてこの魔王城に足を踏み入れた人族なのだ。それは実のところ人族的には快挙とも言える。ただそれを知っているのはレオニスしか居ないので称賛されることはない。
幼馴染みのユリアは、レオニスが魔王を討伐するべく旅立っているのを知ってはいるが、その進捗については聞いてこないし、レオニスから話したりもしない。自然的に二人の間でそのことは話題に出さない空気が出来上がっていた。
「俺は別に強くはないけどな。改めて言うことでもないが。しかし、それなりには鍛えてきたつもりだったんだ。魔王が現れた5年前のあの日から、俺は魔王を倒すことだけを考えて過ごしてきたのだから」
「しかし5年掛かってまだ弱者とは、人族もなかなか大変だな」
本気で同情しているようで、エカレアは悲痛な表情だった。
「それを言われると辛い。だがしかし、逆に魔族はどのようにして強くなるんだ?」
それはレオニスの純粋な問いだったが、しかしそれを聞いた魔族の3人は顔を見合わせて少し気まずそうな顔をする。
不思議そうにレオニスが見守っていると、口を開いたのは魔王・アールメリアだった。
「えっと、あの、勇者さま……」
「うん?」
「私たち魔族は基本的に“鍛える”ということをしないの。私たちは生まれながらに力を与えられている。魔力も身体能力も、戦い方だって知りながら生まれてくる。それでも更に上を目指して鍛錬する魔族も居るけど、本来それが必要ないくらいに魔族は元々強い」
それは反則じゃないか、とレオニスは思ったが、そもそも強くなる方法にルールなど存在しない。
あるのはこの世界の摂理だけで、その摂理がこの現状を認めているのだ。
人族は生まれながらの弱者で、魔族は生まれながらの強者である、と。
理不尽だと思う。
不公平だと思う。
だがレオニスは今更そんなことに怖気づくほど、レオニスは純粋ではなかった。
世界が不条理に溢れていることも、公平でないことも、レオニスは当の昔に知っているのだ。
この世界は誰一人として同じではない。
生まれた場所も。
育つ環境も。
積む経験も。
出会う人も。
紡ぐ感情も。
何一つとして、この世界は平等ではない。
人族と魔族の差異に始まったことではない。
人族と人族でさえまったく違う境遇に置かれている者がいるのだ。
それを知っているから、レオニスは卑屈になることはない。
「そうか、それは羨ましいな。それで、結局俺はどうすればいいんだ? 自分で答えを導けず情けなく思うが、強くなるために手段を選んでいられない。教えてほしい」
「ふふ、さすが勇者さまです。お強いですね」
そのフィナンジェの言葉は皮肉でなく本心だと、レオニスも感じた。
「では端的に言いましょう。魔族に勝ちたいのであれば、魔族に鍛えてもらえばいいのですよ。というわけでエカレアさん、貴女にお仕事ですよ」
「はぁっ!? まさか私にこの男の訓練をしろと言うのではないだろうな?」
「説明の必要がなくて助かります。そのまさかですよ♪ 訓練の内容はエカレアさんにお任せ致します」
「おい待て、それは丸投げと言うんじゃないのか!?」
「はい、そのまさかですよ♪」
「ふざけるな! 私が人族の訓練などするものか! これでも魔族としての矜持が私にもあるのだ。魔王さまやお前が人族と馴れ合うことにまで口出しはしないが、私はここで手を引かせてもらうぞ!」
完全に頭に血が上っているエカレアは絨毯の上に立ち上がり、退室しようと履き物に向かい――――しかし。
「へぇ、本当にそれでいいんですか? エカレアさん」
打って変わって冷たい響きになったフィナンジェの声に、背中を向けたままで固まった。
「魔王さま、いかが致しましょう?」
「うん、そうだね。協力してくれないならエカレアはもう魔王軍には置いておけない。追放ってことになるけど、でもその前に罰は与える必要があるよね」
魔王の声にも、フィナンジェと同じような冷気が込められている気がして、エカレアは背筋が凍った。
今は傍観者のレオニスでさえ寒気を感じるほど、この場の空気は凍てついている。
そのせいか身体の動きが悪かったが、なんとかぎこちなくもエカレアは3人の方へと身体の向きを直した。
「ま、魔王さまともあろうお方が脅迫ですか? こんなこと言いたくはないですが、少し卑怯なのではありませんか?」
アールメリアとエカレアの関係性を考えればエカレアの態度は不遜であり、言葉は失言でしかなかった。しかしそれを見過ごすくらいの寛大さを魔王は持ち合わせていたし、それを見過ごさなければならない状況であることも、賢い魔王には分かっている。
今大事なことは、エカレアを説得し、どうにか協力してもらうということだ。
「魔族が卑怯じゃないなんて、誰が決めたの? 残念だけど私には騎士道精神なんてないから。私にあるのは魔王道だけ。エカレア、あなたは騎士道と魔王道、どっちを行きたいの?」
珍しく魔王然としたアールメリアの言葉に、エカレアは考えるまでもなく、その場に跪く。
「私が信ずるのは魔王さまの思想、そしてお言葉だけです。このエカレア、魔王さまの命であれば、どんなことであれ身命を賭して遂行してみせます」
* * *
「あんなことを言ってしまった手前、私は確実にお前を強くしなければならん。だから立て。ここで挫けるなど、絶対に許さん」
魔王城西側の連絡橋を渡った先にある巨大な闘技場のど真ん中。
そこに広がる地面は何故か灰色で、赤色の空と相まって光景が禍々しい。
足元に転がる脆弱な人族に、それでも自身の任務を遂行せんと、エカレアは厳しい言葉を浴びせていた。
「なあ」
地に伏したまま、悔しさを噛みしめたままで、レオニスは顔の見えないエカレアに声を掛ける。
だがエカレアは返事をせず、レオニスを見下ろしている。
観客の居ない寂しげな闘技場に、勇者になろうとする男の声が響く。
「俺はなんで、弱いのだと思う?」
「ふん、人族だからであろう」
適当に思えるエカレアの言葉だが、しかしそれはエカレアにとって、いや、全ての魔族にとっての真実であった。魔族にとって、人族が弱いというのはもはや常識のようなものなのだ。
ほとんどの人族は、襲えば逃げまどうだけで立ち向かうこともしない。その誇りのなさこそが、エカレアが人族という種を見下す理由だった。
「しかし人族は、これまで幾度となく魔王を打ち破ってきた。ならばきっと、俺にもそれと同じことが出来るはずだ」
「……確かに、何故かこれまで歴代の魔王さまは必ず脆弱な人族の中に現れる勇者によって屠られてきた。どうしてそのようなことが起きるのか、それは私にも分からない。脆弱な人族に魔族の王たる魔王が敗れるなど、本来ならあり得ないことだ。だがしかし、それを貴様が出来るかどうかはまた別の話だろう」
「いや、出来る。やってみせる。だから頼む、俺を強くしてくれ」
「本当に、諦めの悪さだけは最強だな。言われなくとも、それが今私に与えられている仕事だからな。貴様が弱音を吐こうが死にたくなろうが、私は貴様を強くする。安心しろ」
「恩に着る。俺は死んでも魔王を倒したいんだ」
レオニスの愚直さにエカレアは溜め息を吐くと、しゃがみ込んでその男の身体に手を翳した。
「少し、痺れるぞ」
その直後、確かにレオニスの身体に電流が走った。しかし痛みはそれほどなく、むしろ体中の痛みが引いていく気がした。
「《エレクトロリジェネ》という治癒の魔術だ。これで粗方の傷は治るはずだ」
エカレアの言葉を信じ電流に身を任せていると、本当に電気にほぐされるように痛みが消えていく。最初は麻痺しているのかと思ったレオニスだったが、確かに傷は癒えているようで素直に驚愕した。
「ふう、こんなものか」
エカレアが翳していた手を下ろすと電流が消え、そして身体の痛みも綺麗に消えていた。
「本当に魔術というものはすごいな」
「感心している場合か。貴様を苦しめている雷も、同じ魔術なのだぞ」
「すまん。それでもすごいものはすごい」
まるで子供のようなレオニスの物言いに、エカレアは苦笑した。
「やっぱり、笑えばお前も美人だな」
「は!? 急に何を言う! 私が美人だなどと、そのような戯言を! いいか、私はそう簡単には籠絡されたりしないからな!」
そう言って慌てて立ち上がりそっぽを向いた直後、「まったく、おかしな男だ……」と呟いたエカレアの頬がほんのり朱に染まっていることに、未だ地面と仲良く添い寝しているレオニスは気付かない。
「ほら、さっさと起きろ」
いつまでも倒れたままのレオニスに見兼ねたエカレアが手を差し出す。
「あ、ああすまん。訓練の続きだな」
更なる厳しさの訓練を覚悟し、差し出された手を握り立ち上がるレオニスだったが、しかしエカレアは首を振った。
「いや、今回はもう終わりだ」
「え?」
「今回は貴様の実力を測りたかっただけだからもう充分だ。私は自室で次回からの訓練方法を考える。貴様にも部屋が用意されている頃だろう。ゆっくり睡眠でも取るがいい」
口調こそ厳しいが、エカレアの言葉には優しさが含まれていた。
エカレアは人族を脆弱と思っている。だからこそ、こうして一人でそれに抗おうとしているレオニスには、密かに好感を持っているのだ。
ただそれを表に出せるほど、エカレアは素直じゃなかった。
「エカレア」
不意に名前を呼ばれ、エカレアは振り向く。
「本当に、恩に着る」
頭を下げるレオニスのことを、エカレアは少しの間見つめ、そして踵を返した。
その口許は、ほんの少しだけ緩んでいた。
読んでくださっている皆様に感謝申し上げます。
ありがとうございます。
2019.8.12 雨宮終




