61.希望の光
シャアラを地面にそっと寝かせて、白髪の男に向き直ると、そいつは丁度起き上がるところだった。
俺が上空からの不意打ちで斬りつけた肩からは大量の血が流れ出しており、手で押さえてはいるが止まる傾向は一切ない。
道中リーゼから聞いた身体的特徴で見積もって、俺の無茶ブリに応えて翼を生やしてくれたオルフェラーガに乗って空を駆け、上空から飛び降りて着地と同時に斬撃を見舞ってやったのだが、正直ちょっとやりすぎてしまったかもしれない。
いやでも、かなり強いらしいので、もし戦闘になった場合を考えて先手で深手を負わせた方がいいと思ったのだ。
だがまあ、出来ることなら戦闘はしたくない。
だからとりあえず、声を掛けてみることにした。
「お前がバーバロイだな? すまん、ちょっとやりすぎてしまった」
一応頭を下げる俺に、バーバロイは歪んだ笑みを浮かべた。
「やりすぎたああ? いやあ、嬉しいよ。君が誰かは知らないが、これほど血を流したのは久しぶりだ。どうしてか、君の剣にはまったく殺気が乗っていなかったようだ。殺気があれば、僕は絶対に躱せる自信があるからなあ」
「そうなのか。殺気がないのは当たり前だ、俺はお前を殺す気が無いからな」
「はははっ! なんだ君は、面白いことを言うなあ? 戦場に立っていて、殺す気が無い? それは頭がおかしいだろう。戦場は、誰もかれもを、好きに殺していい場所だろう?」
なるほど、そういう認識なのか、こいつにとっては。
戦闘狂というのは、本当らしい。
「落ち着け。俺は出来れば殺したくないし、殺されたくもない。別にお前の価値観を否定するわけじゃないが、俺には俺の価値観があるんだ」
「はあ、そうかあ。じゃあなんだい? ここで井戸端会議でもしようって言うのかなあ?」
バーバロイはつまらなそうだ。笑みがいつの間にか消えていた。
「そうだ、話し合いをしよう」
「ふ、ふふっふふふふふ! いいよ、じゃあ存分に語らおうじゃないか! お互いの剣でなああ!」
はあ、やはりこうなるのか。戦いたくはなかったが仕方ない。
そう考えている内に、バーバロイは右手の剣を振りかざす。
反射的に剣を抜き、その剣を刀身で受け止める。大丈夫、ワッファルよりは遅い。
そう安堵したのは結果的に間違いだった。
「レオニス、ダメだよ! その剣は――――!」
叫んだのはイリスだった。そしてその声が俺の耳に届いたときにはもう遅い。
その現象は既に始まっていた。
バーバロイの剣から、突然水が溢れ出した。
水は俺の身体に向かって流れ出し、まるで重力など存在しないかのように顔の方にせり上がってくる。
冷たさを感じる。
俺の身体は瞬く間に、その巨大な水の玉に包み込まれていた。
見渡せば四方八方に水面がある。どうやらこの水の球体は宙に浮いている。それがどういった芸当なのかは皆目見当もつかないが、しかしながら、これは参った。
いや、参ったなどと冷静に言っている場合ではないくらいに、俺は今ピンチだ。なぜなら俺は泳げない。
俺の住む――――いや、もう無くなってしまったのだから住んでいたというべきか。とにかくザートの村の周辺には水辺という水辺がない。故に泳ぎというものを習得しようと思ったことすらない。
魔王を討伐するためにそれなりに修練は積んだが、しかしまさか陸上で溺れることになるとは露とも思っていなかったので泳ぐ方法など眼中には無かったのだ。
まずい。
俺はここに至るまでに、というかとっくに自分が弱いということを自覚している。
だから常に最悪の状況を想定している。そのおかげでこうして危機的状況であれそれなりに冷静な思考をすることが出来るが、さすがにこの状況は想定外だ。正直に言うと、打つ手が全然浮かばない。
これは、失敗した。
こんなことなら、最初の空からの不意打ちで仕留めておくべきだった。今思えば、あれが俺にとって最初で最後のチャンスだったのだ。
と、今更嘆いたところで仕方がないが、嘆かなかったところでも仕方はない。
もう俺は、いわば詰んでいる。
手を伸ばしても、外には手が届かないし。
水がまるで意思を持っているかのように俺の身体を押しとどめていて、身動きも取れそうにない。
外の光景を見る。目の前にはバーバロイが笑みを浮かべて立っている。女子ならともかく、男の恍惚とした表情など気持ち悪いだけだ。他に目を遣る。
アストライアもエカレアも、まだ地面に突っ伏している。何か動けない事情があるのだろう。腹から背中から出血しているようだ。傷が深そうで心配になる。他人の心配をしている場合ではないが。
イリスは何か叫んでいるようだが、水の中では聞こえない。ただ、必死なのが嬉しかった。クレビオスはそんなイリスを頑張って止めているようだ。それでいい。俺もイリスに傷ついてほしくはない。
パラフェもその近くにいる。多分あれは、魔獣達に指示を飛ばしている。だが魔獣達に動く気配は無い。当然だ、魔獣達だって怖いだろう。命が惜しいだろう。俺の為に散っていい命なんて無い。
一番近く、シャラアが横たえている――――かと思えば、シャアラは立ち上がろとしていた。あれだけ心をボロボロにしていたのに、俺の為に立ち上がろうとしている。でも上手く力が入らないのか、顔が苦しそうだ。シャアラ、立たなくていいんだ。俺のことなんて気にしなくていい。
俺は死にたくない。
まだやるべきことがある。叶えたい夢が、理想がある。
だからここで死ぬわけにはいかない。
でも、もし俺がここで死ぬことで仲間が助かるならそれでいい。
仲間が無事なら、俺の願いなど、どうだっていいんだ。
バーバロイが、楽しそうに剣を構えている。どうやらこの水球ごと俺を斬るつもりらしい。
死は、戦場に立った時から覚悟していた。
それでもやっぱり、怖いものだな、死ぬのは。
バーバロイが俺に剣を向ける。
振りかぶる。
息苦しさに意識が遠のく。
どうせなら斬られる前に意識を手放してしまいたかったが、それは叶いそうにない。それすら叶いそうにない。
バーバロイの剣先が、弧の軌道を描く。
そして。
「っ!?」
斬られる、と思った瞬間。突如俺を包む水球とバーバロイの間にまばゆい光が生じた。
眩しすぎて目を閉じてしまう。
それはバーバロイも同じだったのか、剣が水を斬り裂かない。
だというのに、何故か。
俺が目を開けるよりも先に。
俺が意識を手放すよりも先に。
水球が破裂した。
急に空気中に放り出される。
空の肺に、空気がなだれ込んで、その凄まじい勢いにむせる。
元からこんな匂いだったのか疑わしいほど、風に揺れる草花の匂いがする。
「まったく、レオニスはおバカさんなんですから。私を置いて死んだりしたら、私が世界を滅ぼしちゃうんですからね」
だって、と言う。
「レオニスが居なかったら、私にとってこの世界は何の意味もないんですから」
その声は、少しだけ懐かしく感じた。
その姿は、とても尊く感じた。
得も知れず、泣きたくなる。
肩に掛かるくらいの白銀の髪に、透き通るように白い肌、そして華奢な体躯に纏っているのは、少女の溌剌とした雰囲気には不釣り合いにも思える、タイトで布地が少なめの純白のドレスだった。目には16歳くらいの人間の少女に見える。瞳は血のように赤く、その部分だけがかろうじて魔族の様相を呈していた。
そんな少女が。
魔王・アールメリアが、俺に笑いかけていた。




