40.月下の戦い
渓谷の夜は深い。
真上にある月がかろうじてその道を照らし出してはいるものの、普通に歩くだけでも不安が首をもたげてくる。
闇は、恐怖の象徴だった。
魔族は闇から出で、死すると闇へを還っていく。それは精霊が霊脈に還っていくのと似ているのかもしれなかった。
リーゼは、なぜ魔族が生まれるのか分からないと言っていた。それはきっと精霊だって同じだろう。
もっとも、エルフ族でないレオニスには精霊の気持ちも、精霊に『気持ち』があるのかも分からないが。
それでも、よく分からないからこそ客観的に見ることが出来るのだとしたら、やはり精霊と魔族は似ている気がする。
そんなことを考えていたせいか、前を歩いていたエカレアが立ち止っていたことに気付かずに、レオニスはエカレアにぶつかってしまった。
エカレアの空色の髪が揺れ、シトラスのような香りが鼻孔に広がった。
「きゃっ……な、何をしているんだ貴様は!」
「す、すまない。ぼーっとしていた」
「まったく……まさか貴様、どうして私が貴様をここまで呼び出したのか、分からないわけではないだろうな?」
焚き火の前でリーゼとパラフェ共々お説教を受けた後、エカレアはレオニスだけを呼び出し渓谷の闇の中へと歩き出した。特に何の説明もなくここまで歩いてきたわけではあるが、さすがに鈍いレオニスであっても思い至るところはあった。
「分かっている。特訓、だろう」
レオニスが言うと、エカレアは頷く。
「さすがにそこまで腑抜けてはいなかったか。先日私と別れるときに、貴様は言ったな。『次に会ったときは必ずお前を倒す』と。予定とは違う再開になってしまったが、その覚悟は出来ているか?」
月光に照らされるエカレアの表情は真剣そのものだ。今は風もないし、あったとしても揺れる草木もない。あるのは岩壁と地面と、魔族と人族が一人ずつ。
お互いの息遣いだけがいやに鮮明に鼓膜に届いた。
「当たり前だ。今の俺は、もうお前に負けたりはしない」
エカレアは口角を上げた。その顔はどこか嬉しそうにも見える。
「貴様は本当に、口だけは減らないな。いいだろう、なら今ここで、私を倒してみろ」
「ああ、分かった」
簡単に頷いてみせる。それは根拠のない自身に思えるだろうし、虚勢を張っているようにも、見栄を張っているようにも見えるだろう。
それでもエカレアは、絶対に軽んじるようなことを言わない。弱者であろうと強者であろうと誠心誠意真っ直ぐに向き合う。それがエカレアという魔族だった。
「少し離れる。私が貴様の方を向いたら、いつ斬りかかっても構わん。私に一太刀でも浴びせれば、貴様の勝ちだ」
ルールと呼べるようなものじゃない。つまりレオニスが斬りかかったその時が、この実戦訓練の開始ということだった。他には特に何も言わずに、レオニスに背を向けて歩き出す。
10歩ほど歩いて、立ち止ると振り返る。その瞬間――――
レオニスは上段に構えていた剣を振り下ろした。
それは不意打ちだった。足音を殺してエカレアの後ろを付いて行ったレオニスは、攻撃出来る最高の機会をものにしたのだ。
しかし。
「甘い」
エカレアは一つの呼吸も乱すことなく、レオニスの剣を手で受け止めていた。青銀の小手のその掌に、レオニスの刃は握られていた。
――――バカな、今ので反応出来るというのか!?
俺の今の斬撃は完全にエカレアの意識の外に存在していたはずだ。それでもエカレアは反応してみせた。それはつまり、俺の剣の速さよりも、エカレアの反応速度の方が速いということだ。俺とエカレアの実力に、未だにそれだけの差があるというのか?
「何を驚いている。貴様まさか、今不意打ちに成功したのにどうして私がこの剣を止めているのかを、不思議に思っているのではあるまいな?」
冷や汗が頬を伝い、顎の先から落ちるのを感じる。
エカレアの言ったことは図星でしかない。しかしそれが図星ならなんだというのか。
「そうなら貴様は愚かだ。大多数の人族に漏れず愚者だ。今のは不意打ちなんかじゃない。何故なら私は、貴様がこういう手に出てくることを予想していたからな」
息が詰まる。そんな、まさか。
攻撃を、予想されていた? それなら確かにそれは不意打ちではない。ただの真っ直ぐな攻撃だ。しかし、どうして今の攻撃をエカレアが予測出来る?
「貴様が私を倒そうとした時、まともに戦えば貴様に勝ち目はない。それは前回の、最初の訓練で分かっていた。そして、さすがに貴様もそれには気付いているだろうと私は踏んだ。となれば、貴様は十中八九姑息な手段を使ってでも私を倒しにくるだろう。というか、貴様に残された手段はそれくらいだ。なら、話は早い。私は貴様が仕掛けてきそうな不意打ちや騙し討ちをすべて予想して行動すればいい。最初の一撃は、絶対こう来ると予測していたんだ」
そうか。読まれていたということか。
戦い方だけじゃない。俺の思考のすべてが。
「だから、貴様は甘い。詰めがな」
会話は終わりだと言わんばかりにエカレアは空いていた右手でレオニスの腹を殴りつける。
内臓が絶叫し、胃液がせり上がるのを感じながらレオニスの身体は夜の闇に舞った。
エカレアから5メートルは吹き飛び、レオニスの身体は地面へと打ち付けられる。甲冑がガチャガチャと鳴って岩壁に反響する。
口いっぱいに広がる酸味を噛みしめながら、レオニスは遅れてやってきた激痛を堪える。
「どうした、終わりか?」
地面に転がるレオニスを、感情のない目でエカレアは見つめる。
それは生きるために他者を捕食する獰猛な獣と似たような目だ。悲しみもなければ怒りもないし、喜びだってあるわけがない。
いつもと違う地面からの目線の角度でエカレアを見上げながら、思う。
俺は、強くなれないのか。
城を後にしてからそんなに経っていないとはいえ、それなりに考えた結果の不意打ちだったのだ。それをこうも軽々と処理されてしまっては、もう打つ手がない。
エカレアの言う通りだ。俺はまともに戦えばエカレアには勝てない。しかし不意打ちもダメだった。ならどうすればいい。どうすれば、俺は勝てる。
勝たなきゃいけないんだ。ここで勝たなきゃ、俺はきっとこの先に待っているワッファルにも勝てない。
もっと、頭を使え。戦略を組み立てろ。好機を見い出せ。
何か、何か方法は。
記憶を探る。エカレアを倒す為のヒントを、見つけるために。
エカレアが俺を見ている。感情はない。ただ見下している。
こいつにも、何か弱点があるはずだ。
俺にもあるように、誰にでも弱点があるはずだ。
そして俺は、きっとそれを知っている。
記憶の多くの方へ手を伸ばす。
エカレアに出会ってからのすべての記憶を引っ張り出して精査する。
勝てないはずない。俺は、勇者になるんだ。
魔族だから勝てないなんて言い訳だ。魔族は強いから仕方ないなんて、死ぬ気になれない弱虫の言うことだ。俺は勝つ。どんな手を使ってでも。
この女を、絶対に。
その時、ふと頭の中がクリアになった。
今必要な記憶だけが脳裏に浮かび、俺が今するべきことを教えてくれる。
そうか。
エカレアは、アールメリアでもフィナンジェでも、リーゼでもない。エカレアは、エカレアだ。エカレアだからこそ、俺には勝ち目があるんだ。
こんな、地面に這いつくばっている場合じゃない。
世界を覆う影のせいでほとんど黒に近い色の土を押しのけ、レオニスは再び重力に逆らう。腹はまだ痛むが、痛みなどに構っていられない。勝てる戦いで、負けてやれない。
「ふん、まだ立つのか。しかし、最初の攻撃を防がれた時点で貴様にはもう――――ん、何をしている?」
話している途中、レオニスを見つめていたエカレアの表情が曇る。
レオニスは、甲冑を外そうとしていた。
「防御を捨て、機動力を上げるつもりか? ふん、それで勝てると思っているならおめでたいが。――――いやちょっと待て、衣服は脱がなくてもいいんじゃないか? どうして上半身裸になるんだ。なっ、まさか貴様、下も脱ぐ気なのか? な、何を考えているんだ! ここは戦場だぞ!?」
エカレアの言葉も視線も表情も、レオニスは無視していた。
防御力なんてどうでもいい、戦場だからなんだ。
俺は、勝つ為にこうしているんだ。
エカレアの目の前で、レオニスはすべての衣服を脱いで全裸になった。
なるほど、確かに外で全裸になるというのは開放的ではあるな。
シャアラが昂ぶるのも分からないでもない。しかし、俺は別に興奮する為にこうしているわけではないが。
エカレアに向けて歩き出す。
レオニスを見つめていたはずのエカレアはもう直視することが出来なくなっていた。
目を月に向けたり、地面に向けたり岩壁に向けたりと忙しい。
「ば、バカ! 来るんじゃない! 血迷ったか! 貴様、まさかここで私のことを――――そんなのダメだぁぁああああ!」
腰に下げた剣を引き抜いたエカレアは、前を見ることもせずにブンブンを振り回す。しかしそんな当てずっぽうが当たるわけもなく、レオニスは簡単に躱す。そして余裕の動作でエカレアの背後に回ると、鎧姿のエカレアを抱き締めた。腕を封じられ、エカレアの剣は動きを止めるが、その代わりに心臓がやけに騒いだ。
「ひっ……いやあ……」
エカレアの身体は強張っているのに、声は弱々しい。月明かりでも分かるほどに。耳まで赤くなっているのを見て、レオニスはそこに口を寄せた。
「ぅああっ!」
耳にキスをすると、エカレアは悲鳴をあげて身をよじる。本当にこういう経験がないのだな、とレオニスは思った。まるで処女だ。
「エカレア、好きだ」
「ひっ、な、何を言っている、貴様……」
「貴様などと呼ばないでくれ、レオニスと呼んでほしい」
それは本心でもあった。別に言うほどのことではないと流してきたが、やはり貴様と言われるのは気持ちのいいものではない。
「は、はあ? 誰が、呼ぶか――――ひゃんっ!」
反抗するエカレアの耳裏を舐めると、身体がびくんと跳ねる。
「もっと舐められたいか?」
「くっ、貴様――――きゃっ!?」
エカレアが反論しようとするのを耳を舐めることで黙らせる。耳を舐められるという感覚は実体験で知っているので、初心なエカレアにも効果的だとは思っていたが、思った以上に敏感に反応して、レオニスは少し楽しくなってしまった。
「お前がその気なら、いくらでも舐めてやるぞ?」
「ひ、卑怯な!」
「何を言っている。勝つ為のあらゆる手段を考えろと言ったのはお前だろ、エカレア。俺はそれを実践してるだけだ」
「しかしこれは――――ひゃあっ! ば、バカ舐めるな!」
「ならレオニスと呼ぶんだ」
エカレアは数瞬、心の中で葛藤し、
「れ、レオニス……」
屈服した。
その凛とした顔の目尻には涙が浮かんでいるが、レオニスの位置からでは見ることが出来ない。レオニスはただ、エカレアが自分の名前を初めて読んでくれたことに喜びを噛みしめるだけだった。
「エカレア」
「な、なんだレオニス」
「いや、やはりお前は可愛いな」
「な、何を言っている……そんな世辞を言って、何が狙いなんだお前は」
「俺の狙いだと? そんなの決まっているだろう。俺の狙いは――――」
不意にレオニスはエカレアから離れた。そして急な出来事に反応出来ずに立ち尽くすエカレアの背中に向けて、斬撃を放った。
エカレアは剣圧だけを感じた。吹いていないはずの風が、後ろからエカレアの紅潮する頬を撫でた。その斬撃はエカレアの肌も傷つけなければ、鎧も叩かなかった。ただ何となく違和感を感じエカレアが振り向くと、当然そこにはレオニスが全裸で立っていて反射的に目を逸らす。
逸らした先の地面に落ちていた、月光を浴びて空色を煌めかす大量の髪の毛を見たエカレアは、珍しく甲高い悲鳴を上げた。
* * *
髪の長さを失って以来地面にへたり込んだエカレアは、しばらくボロボロと涙をこぼしていたが、ひとしきり涙をこぼすと疲れたのか、レオニスの胸でほんの少しだけ眠った。
そして目覚めるや否や、自分の醜態に取り乱した後でどうにか我に返り、
「ふん、私の負けだな、レオニス」
そう言ってふんぞり返る。
「今更クールぶるな。さっきまで号泣していたくせに」
ここに来てようやく脱いだ服を回収し、それを着ながらのレオニスの容赦のない指摘に、エカレアはせっかく収まった顔の赤みを復活させた。エカレアらしくはあるものの、どこか険の取れた表情で怒りを露わにする。
「う、うるさい! 私だって女なんだ! 髪を切られたら泣くに決まってるだろう!」
エカレアの言葉通り、その綺麗に長く伸びていたはずの空色の髪は、肩口辺りでバッサリと切り揃えられていた。クールビューティに見えていたエカレアも、髪が短くなっただけで少し幼く見えるから不思議だ。 本人は酷くご立腹だが、しかしこれに関してはレオニスにも言い分がある。
「だって、お前が一太刀入れろと言うから。俺は女の肌を傷つけたくない」
「髪だって肌みたいなものだ!」
残念ながらレオニスにその価値観は分からなかった。
肌は傷つければ跡が残るが、髪は時が経てば伸びるのだからいいではないか、と本気で思っている。
「それに」
「それになんだ!」
と激昂するエカレアだが、しかし次のレオニスの言葉で黙ることになる。
「髪を短くしたらエカレアは可愛いだろうなと思ったからな。とても似合っているぞ」
真顔でそう言ってのけるレオニスに、エカレアは更に赤みを増して、その色は苺と比較しても大差ない。
「ふ、ふん! まあ、しばらくは短くてもいいか」
褒められて悪い気はしなかったのか、エカレアは短くなった髪を一束つまんで指でしごいている。
「それがいい。あとで誰かにちゃんと整えてもらおう。さすがに俺の剣で斬っただけでは、雑だからな」
「うむ、そうだな。しかし、あんな手で私に勝つとは。最初から考えていたのか?」
本気で感心したように言うエカレアに、レオニスは左右に首を振る。
「いや、戦っているときに思いついたんだ。いろいろと思い出して」
「いろいろ?」
「ああ、まずは城に居たとき、リーゼが言ったんだ。エカレアなら男の身体を見て目を背けるかもしれない、みたいなことをな」
それは城の寝台の上でのことだ。自分も大分恥ずかしかったのが、エカレアも同じと知って安心したので覚えていた。
「あの猫、余計なことを……」
エカレアの表情が不味い食べ物を食べたように歪む。
「勿論それだけではないが。最近人の裸を見ることが多かったからな」
「は?」
意味が分からないといった様子のエカレアに、レオニスは進んで補足説明をする。
「あ、いや、別にいやらしいことをしていたわけではないぞ。戦いの中で全裸の女性を目撃することが多かっただけだ」
温泉のことを別にして。それもほとんどシャアラだが。
「なるほど、人族には裸で戦うという風習があるのだな……」
なにかエカレアの中で酷い誤解が生まれていたが、これ以上の説明はレオニスも面倒だし、話したとしてもややこしくなりそうだったので、そのままにしておくことにした。
「まあ、とりあえず私の特訓は合格だ。だがしかし、今みたいな戦い方が誰にでも通用すると思うな」
「当たり前だ。あれはエカレアが相手だったから取れた戦法だ。大事なのは相手によって最適な戦い方を考え、それを実行すること、だろ?」
レオニスを見定めるようにしてエカレアは一つ頷く。
「一応分かっているようだな。ならもう私が言うことはない。明日ワッファルを倒し、そして魔王さまをその手に掛けるがいい」
最後は投げ捨てるように言う。最初は反対していたエカレアだったが、ここに来てようやく少し、レオニスのことを認めてくれたのかもしれない。と思いつつも、エカレアのそんな意思にレオニスは躊躇なく背くのだが。
「あ、俺魔王を倒すのはやめたんだ」
エカレアは一瞬、事実を錯覚した。
時間が止まったのかとレオニスは思ってしまったが、それはただ目の前のエカレアが呼吸するのを忘れていただけだった。
「どうした?」
エカレアの目は見開かれたままフリーズしている。
少しの間レオニスが待っていると、ようやくエカレアの体内時計が動き出す。
「き、ききききききき」
「ききき?」
「貴様ぁっ!」
早くも“貴様”が復活した。
「どういうことだそれはどういうことだ! レオニス貴様は確かに魔王さまを討つと言ったはずだ! だから私は貴様を強くすると言ったんだ! 不本意ではあったが、それがお前と魔王さまの希望であり願望であり切望するものであったから、私は! それなのにお前は、今になって、私に勝利したその後で、それをやめると、そう言うのか!? 答えろ、レオニス!」
その叫びは一片も余すことなく渓谷に反響する。重なって響いて、まるで折り重なって海岸に押し寄せる波のように、レオニスの心を水浸しにする。
エカレアの言うことは分かる、怒っていることも、その理由も。
身勝手なことを言っている。重々承知だ。
魔王にその命を奪うと宣言し、望ませ、期待させ。
その眷属のことは悲しませ、望まぬ結末を迎えるための手伝いをしてもらい。
そうまでして、俺はここに来てその全てを覆すと言っている。
その結果、別に自分が幸せになれなくてもいい。
全ての魔族に恨まれ、全ての人族に見放され、全てのエルフ族に蔑まれてもいい。
それでもいい。
言ってしまえば、俺は誰の幸せも望んでいない。
ただ自己中心的に、自分本位に、自分の望んだ未来へと進んで、自分の望む景色を見たいだけだ。
だから、いくら今責められようとも、俺は自分の意思を曲げたりはしない。
俺の意思を曲げることが出来るのは、俺だけだ。
「ああ、俺は」
なんの迷いもない。これが俺の感情の、最新版だ。
「絶対に魔王を殺したりはしない」
エカレアはレオニスの胸ぐらを掴んで引き寄せると、目を見つめ、そして枯らしたはずの涙をまた、零した。
そして吐き出す言葉は、
「お前は、本当に情けない男だ」
だが。
「ありがとう、レオニス」
その時に見せたエカレアの優しい微笑みを、レオニスは一生忘れることはない、




