32.油断
事態は急転した。
馬の嘶きとともに馬車が揺れ、そして止まる。
それはお気楽な旅の終了を告げていた。
馬車に乗っていた4人は反射的に飛び出し、そして草原の先から急速に近づいてくる何かを視覚する。それはまるで波が押し寄せてくるようだった。
銀色の大波。
「何あれ!?」
事態を把握出来ていなくとも緊急事態ということは本能で察知し、イリスは誰ともなく回答を求める。
「あれはー……っ! 魔犬の群れですー!」
リーゼはその正体を知っていた。それは魔族の一種であり頭数も多く獰猛な獣、魔犬。
魔犬というのは通称だ。真の名前はイービルハウンドという。その仰々しい名前に負けず劣らず、その体躯は普通の大型犬の倍近くあり、牙は鋭利で咬まれる箇所次第では即死すらあり得る。そしてそんな犬達が、集団で迫ってきていた。
リーゼが叫んでいる間にも統率の取れた群れはみるみる近づいてくる。風のような速度、しかもその数は100を優に超えるだろう。おそらくレオニス達の元に辿り着くまでに30秒と掛からない。
「敵ってこと!? どうするの!?」
「姉さん落ち着いて。とりあえず僕たちは精霊術の準備だ、レオニスさん達は僕達を守って!」
「分かった!」
冷静なクレビオスの指示にレオニス、アストライア、そしてミシェランダに騎乗したままのシャアラが頷く。もう魔犬の群れは目と鼻の先だ。
「レオニス、アストライア! 私がある程度蹴散らすから漏れたやつをお願い!」
二人の返事も待たずにシャアラはミシェランダの腹部を蹴り速攻を仕掛け――――ようとして気付く。犬どもは黒い体躯に、人工的な鎧を纏っていた。
「何よこれ!」
苦々しく言いながらも馬上で煌びやかな剣を抜き放ち構える。そこに丁度一匹が飛び掛かってきたのを、鎧の隙間を狙って一閃。魔犬の自重も手伝い両断されたが、しかしまたすぐに別の個体がシャアラの喉元を狙う。
一方イリスとクレビオスは絶望的な状況を眼前にしながら祈りの姿勢を取っていた。
その前方でレオニスとアストライアも剣を構える。100以上の群れをシャアラ一人で抑え切れるわけもなく、シャアラが次々と薙いでいくその横から漏れた個体が後方の5人へと襲い掛かる。
レオニスとアストライアはエルフ族の姉弟とリーゼを守るべく流れるように犬を切り伏せる。
時折刃と鎧がぶつかり火花が散り弾かれるが、その反動すらも利用し処理する。
不思議なことに、本来ならばうず高く積まれるはずの屍は残らない。ローズリーパーと同じように、死した魔獣から闇の粒子となって霧散していく。
「数が多すぎます!」
「それでもやるしかない!」
アストライアもレオニスも必死だった。そんな様子を見ながらも、イリスとクレビオスは祝詞を唱える。
「風の精に祈り奉る。渦巻き逆巻き、漆黒の猛獣らを天空高く舞い上げん――――【荘厳なる竜巻】」
「火の精に祈り奉る。大いなる風に乗りて、巻き込む全てを灰塵と化さん――――【煉獄の竜巻】」
その詠唱はほとんど同時だった。
イリスの精霊術によって発生した竜巻が不思議なことにレオニスとアストライア、そしてシャアラの周囲のイービルハウンドだけを天へと舞い上げ、次々と取り込みそれは瞬く間に黒銀の竜巻と化した――――のも束の間、その風にクレビオスの術によって発生した業火が引火し、内包する獣を瞬時に黒焦げにする。
そしてやがて竜巻は炎と影の粒を散らしながら消滅、しかしそれで全ての魔犬を始末出来たかといえばそうではなかった。
レオニス達の周囲の魔犬は跡形もなく消滅したが、遠巻きに様子を窺っていた狡猾な獣達がまだ30匹程残っている。
そしてその中に、1匹だけふた回りほど大きな個体が居る。
「はぁっ!」
それを視認したシャアラは一目散にミシェランダを走らせる。その大きな個体が群れのリーダーと判断し始末する気だった。
――――リーダーさえ斬れば、雑魚は逃げ出すはず!
しかし狙いは良くともシャアラの考えは甘い。
そのリーダーらしき魔犬が遠吠えをする。するとたちまち残っている全ての魔犬が一斉にシャアラに向かって走り始めた。四方八方から、シャアラは狙われている。
「アストライア、ここを頼む!」
イリス達の安全を任せ、レオニスは駆け出す。シャアラまでの距離は30メートルほどだが、しかしこの時ばかりはとてつもない距離に感じた。
レオニスが半分ほど駆けたところで、シャアラは狂犬の牙に掛けられミシェランダから落馬。ミシェランダも暴れて後ろ足を蹴り上げたりしているが素早い魔犬たちにはかすりもしない。
「くそ! シャアラ!」
魔犬の群れがシャアラの華奢な身体に殺到する。
「いやああああ!」
今にも貪られてしまいそうな状況に悲鳴を上げるシャアラに、レオニスは自然と加速する。しかし犬が待ってくれるわけもない。シャアラがイリスから借りているエルフ族の布服が、瞬く間に引き裂かれる。まるで弄ばれるかのようにシャアラを地面を転がされ、すぐに日の光に裸体を晒すことになってしまった。
犬というよりもハイエナのようだった。
「はあっ!」
どうにか剥かれたシャアラの柔肌に獣の牙が突き立つ前に到達したレオニスは、もはや鎧など関係ないといった風に群がる獣たちを薙ぎ払う。
まとまっていた内の3匹が切れ端となり、残りは運よく致命傷を避け弾けとんだだけだ。すぐさま体勢を立て直す――――つもりだったようだがそれよりも早くレオニスが反応し、その頭蓋に剣を突き立てる。
そこまでは良かったが、しかし思いの外深く地面にまで刺さってしまった剣を抜くのに手こずり、そこに生まれた隙に背後からまた魔犬が飛び掛かる。
これにはさすがのレオニスも反応しきれず咬まれる覚悟をしたが、その直後、今まさにレオニスの腕を噛み砕こうとしていた顎がその軌道を変えた。
何事かと思い見てみれば、その獣の側頭部を貫くように矢が突き刺さっていた。
「レオニス、援護するよ!」
それはイリスの放った矢だった。レオニスはその腕前に感心しそうになってそんな余裕がないことを思い出す。まだ魔犬は残っている。次々襲い来る下っ端の魔犬を剣で切り伏せながら、
「シャアラ、大丈夫か!?」
一国の殿下が白日の下にその素肌を惜しげもなく晒しているのは決して大丈夫とは思えないが、しかしシャアラは、
「ええ……もう全裸にも慣れたわ……」
と暗く呟き地面に座り込んでいる。そこに四方から、懲りもせずに襲い掛かる魔犬達を、シャアラは地面に落ちていた愛用の剣を瞬時に拾ってそのまま閃かせる。ひと薙ぎで全方位を処理し身の安全を確保すると、シャアラはゆっくりと立ち上がった。
「レオニス、絶対こっち見ないでよね」
「努力はする!」
昨夜温泉に一緒に浸かっているのだから今更という気もするが、しかしシャアラの気持ち的に今はNGだった。
「あと、あのでかいのは私がやるから、レオニスは雑魚を始末しておいて」
「あ、ああ、分かった」
シャアラから滲み出る怒気に、レオニスは頷くことしか出来ない。
しかし魔犬もイリスの援護の甲斐もあってその数を残すところ10頭ほどに減らしていた。さすがの獣も全滅を恐れ始めたのか、勢いに任せて襲ってくることはなくなった。
しかし、獣のその判断はこちらとしてはありがたい。
これまでどうにか処理してきたが、動物相手では単純に数に任せた波状攻撃が一番厄介だった。
こうして立ち止ってくれれば、こちらも余裕を持って冷静に対処できる。
そう思ったその時だった。
「にゃぁぁああ!?」
馬車の方から悲鳴が聞こえた。
振り向いてみれば、その悲鳴の主はどうやらリーゼだった。
最後方に居たはずのリーゼが何故、そう思う暇もなく、現実は訪れる。
アストライアは歯噛みしていた。
気付けばリーゼは捕えられていた。
しかしそれは魔犬ではない。魔犬であるはずはない、だってアストライアやイリス達の周囲の魔犬は炎の竜巻が焼き尽くしたのだから。
だからそれは、アストライアの油断が招いた事態だ。
リーゼを捕まえているそれは、分かりやすく言って化け物だった。
二足で立ち、しかし人ではなく、白い体毛を全身に生やし、口はまるで狼のようで、目はウサギのように真っ赤で、腕も脚も太く、手足だけはまるで人間かのように五本指の、化け物。
その化け物は、片手でリーゼの細い身体を握っていた。
それくらいに大きい、身の丈3メートルはあろうという、化け物だった――――。




