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17.朝焼けの記憶

 それは幼少の頃の記憶。

 小さな村の中、大好きだった母親は女手一つでレオニスと、幼馴染みであるユリアを育ててくれた。

 レオニスの父親は早くに亡くなってしまい、ユリアの両親はユリアを村に残してどこかへ居なくなってしまったのだ。

 ユリアは両親の親戚筋に引き取られるという話になっていたが、レオニスとユリアは非常に仲が良く、離れたくはなかった。そんな望みを、母がユリアを引き取ることで叶えてくれた。


 今思えば、きっと母は無理をしていた。

 女手一つでは、きっとレオニス一人だって重荷であったろうに。母ががんばって稼いでも、それは三人分の生活費にすぐに消えてしまう。そんな生活はお世辞にも豊かとは言えなかったが、それでも母が自分に向ける表情はいつも笑顔だった。

 そう思って記憶を深く手繰っても、母は笑顔以外の表情を、見せたことはなかっただろう。レオニスとユリアに気を遣わせまいとそう振る舞っていたのだろうか。そこまで考えて、気付く。


 いや――――あった。母の笑顔以外の表情を見たことが。

 それはあの、業火の夜。


 三人で暮らし始めて十年近くが経って、その頃にはレオニスとユリアは十四歳になり、一通りの家事を手伝えるようになっていた。母は機織り(はたおり)の仕事をしていて衣服を作って売ることで生計を立てていた。だからレオニスとユリアは率先して家事のほとんどをこなし、母親の負担をなるべく減らそうとしていた。


 大人になればレオニスも外に働きに出れる。そうすれば経済面でも母を助けることが出来る。そんな希望を抱いていた頃だった。


 母の仕事が一段落し、レオニスとユリアで作った夕飯がそれほど広くはなかった家のダイニングテーブルに並んでいた。それを見た母は長い黒髪を揺らし驚いた表情で言う。



「えー! どうしたのこれ、なんかすごいじゃん! レオもユリアも、今日は力入り過ぎじゃない?」



「えへへ、忘れてないですよね? 今日はセーナさんのお誕生日ですよ」



 レオニスの隣で笑顔のユリアが言う。セーナというのがレオニスの母の名だった。



「うーんまあ、それは知ってるんだけどね……別に気を遣ってくれなくてもよかったのになー」



 そう言いつつもセーナは笑顔で嬉しそうなのが、レオニス達も嬉しかった。



「母さんに気を遣うわけないだろう。俺達がやりたくてやってるんだ。母さん、誕生日おめでとう」



「セーナさん、おめでとうございます」



 セーナは感極まったように目を閉じる。涙を堪えているようだった。



「そかそか、うん。ありがと! あたしはあなたたちみたいな子供が居て本当に幸せよ!」



 二人まとめてハグする母親は温かい。温もりという意味でもそうだが、何より心が常に柔らかな日差しのように、優しく、明るく、温かいのだ。

 だからレオニスもユリアもセーナのことが大好きだった。これからもずっと三人で暮らして行きたいと、三人ともが思っていた。



「じゃあ、食べよ! あたしお腹ペコペコだしね!」



 セーナの号令でそれぞれの所定の席に着く。レオニスとユリアは隣り合って、その反対側にセーナが座る。

 三人揃って『いただきます』をし、いつになく豪勢な料理の数々に舌鼓を打つ。



「わーすごい! お肉だお肉、鶏も牛もある! どうしたのこれ、お金足りた?」



「鶏は俺がエデル兄さんに教わって狩ってきたんだ」



 エデルというのはレオニスより五つ年上の、隣の家に住む青年だった。代々が狩人の家系で、エデルも最近ようやく独り立ちをして喜んでいた。



「へえ! すごいじゃん! そっかぁ、エデルくんにも今度お礼言っておかないとね」



「ふふ、そうですね。エデルさんもセーナにおめでとうって言っておいてって、言ってました」



「そして牛の肉は、ユリアがめちゃめちゃ値切った」



「マジか!」



「あはは、ちょっとセーナさんの真似をしてみました」



「あらー、ユリアも大人になったのね! あたしは嬉しいよ!」



「果たしてそれを大人になったと言っていいのかどうか……」



 レオニスのぼやきに、セーナは呆れたように首を振った。



「もう、レオはすぐにそうやって水を差すんだから」



「うふふ」



 セーナがレオニスの態度に文句を言い、それを見たユリアが笑う。

 それは何ら変わることのないいつもの日常。

 レオニスはこんな日々が悠久に続いていくと、なんの根拠もなくそう思っていた。


 しかし――――。



「ん? なんか外が騒がしくない?」



 食事が終わり、レオニスとユリアが流し台で食器を洗っていると、テーブルでお茶を飲んでいたセーナがそんなことを言う。レオニスとユリアが作業の手を止めて耳を澄ますと、確かに何やら音が聞こえる。

 もう日付が変わるまであと二刻という時間だ。普段ならこの村は静まり返っているはずである。



「ちょっと見てくるね」



 そう言って立ち上がり、セーナは家から外へのドアを開く。

 そして戦慄を覚えた。


 セーナの目に映った光景は、かつて見たことのない凄惨な地獄だった。村のあちこちに火の手が上がり、顔の知っている村人が逃げまどい、それを追うのは。


 なんだあれは。


 セーナはそう思った。

 セーナはまだ三十代前半で、生まれた時から今まで、魔王の居ない平和な日々が当たり前にあって。だから、勿論魔人や魔獣など、見たこともなかったのだ。


 魔人は手から村に炎を放ち、魔獣は建物を壊したり、村人を捕食していた。



「レオ! ユリア! 逃げるよ!」



 セーナは咄嗟にそう叫んでいた。しかしセーナが何故そんなに焦っているのかを、まだレオニスとユリアは理解が出来ていない。それでも片付けている途中の食器をそのままにドアへと近付き、外の様子を見て立ち尽くす。



「早くっ!!」



 こんなに険しい表情をする母親を、レオニスは初めて見た。そしてそのことが、異常事態なのだと認識させた。



 三人で住み慣れた家を飛び出し、村の中を走る。

 そこいらに魔獣がはびこっていた。逃げ場などないと、本気で思っていた。何度も魔獣に追われ、路地に追い詰められ、それでも母は諦めなかった。近くに置いてあった植木鉢を魔獣の鼻っ面に投げ、それが命中し魔獣が怯んだすきに二人の手を引いて逃げた。

 それでも魔獣はまだ追ってくる。死に物狂いで走った。レオニスはこの時ほど死を身近に感じたことはなかった。途中、狩りを教えてくれたエデルを見かけたが、その時には身体の半分を魔獣に食われていた。

 酷い衝撃を受けたが、深く悲しんでいる暇もなかったし、現実感も希薄だった。

 夢なんじゃないかと思った。夢だったらいいのにと思った。


 村の端にある井戸の近くに木材を保管している納屋がある。普段なら歩いてすぐのそこまで村をぐるりと迂回して走り、ようやく辿り着いた。

 その中にレオニスとユリアを隠すと、



「二人とも、ここから絶対出ちゃダメ」



 そう言ったセーナの声は、とても落ち着いていた。まるで何かを覚悟したようなそんな声だと、レオニスは思った。その瞬間、セーナが扉を閉めた。



「え、セーナさん?」



 ユリアが困惑した声を上げる。

 それから扉越しにセーナの声が聞こえた。



「あたし、二人のお母さんになれて本当に良かったよ。ユリアには、本当はお母さんて呼んでほしかったっていう気持ちはあるけど、でもユリアの敬語は可愛いから好きだった」



「何言ってるんですか? セーナさん!」



「レオには、不便な思いをさせちゃったかなって、ずっと思ってた。でも本当に頼りになる息子で、あんたはあたしの自慢の息子だよ。だから一個お願いしてもいいかな」



「母さん?」



「レオ、あんたは生きて、世界を平和にして。あんたなら出来る、なにせあたしの息子だもん。あ、もう一個あった、ちゃんとユリアを幸せにしてあげなよ」



 その顔は、絶対に笑っていいただろう。

 その時レオニスは理解した。母が死ぬ気だということを。



「待ってくれ母さん! 約束する、俺が世界を平和にする! だから、母さんも生きろよ!」



「お、母さん……お母さんっ!」



 レオニスとユリアの悲鳴が、狭い納屋の中に響く。

 扉には閂が掛けられているようで、開けようとしてもびくともしなかった。



「ありがとう、レオ。ありがとう、ユリア。大好きだよ」



 それが、レオニスの聞いた母親の最後の言葉だった。



 それからしばらくして、泣きつかれた二人が息をひそめる納屋の、木の扉がミシミシと音を立て、そして崩れ落ちた。そこに居たのは黒い狼のような魔獣。レオニスはユリアを抱き締めて庇った。

 数秒唸り声を上げたその魔狼が四足で地面を蹴る音が聞こえ、レオニスが牙による痛みを覚悟した、その時。

 何か空気が変わるのを感じた。



 痛覚が働かず、レオニスは恐る恐る閉じていた目を開き、納屋の外へと目を向けた。

 そこには地獄があるのに、地獄の住人だけが居なくなっていた。

 ユリアを伴って外へ出ると、遠くに鮮やかな朝焼けが見えた。

 その何時もと変わらない空の色味に。


 レオニスの頬にまた、枯れたはずの雫が伝った。




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