16.しがらみ
レオニスがローズリーパーの蔓に連れ去られた後、シャアラは地面にわずかながら残ったレオニスが引きずられた跡を辿りながら樹海を進んでいた。
辺りは相変わらず暗く薄気味悪い。普通の少女であれば怖気づいて歩みを進められないかもしれないが、さすがにシャアラの精神は剛健だった。気付きづらい痕跡を念入りに確かめながら、一歩一歩着実に進んでいく。
「レオニス、大丈夫かな……」
シャアラ自身も一人で地理の不確かな樹海を歩く羽目になり、危機的状況であるのにも関わらず、彼女の口から洩れるのはレオニスに対する心配だけだ。そしてシャアラは自分のそんな心境にもう気付いている。
――――私は、レオニスのことが好きだ。
昨晩あったばかりの男性にここまで惚れ込むなんて、自分がこんなに惚れっぽい性格だなんて思わなかった。本当の本当に、15歳の今のこれが初恋だ。だから今まで、恋愛がどういうものなのかすらよく分かっていなかった。
でもそれを、レオニスが教えてくれた。いきなり衝突して、最悪の出会い方だったのかもしれないけれど、あっという間に惹かれてしまった。
私はこれでも、自分の立場というものを分かっているつもりだ。
これでも王族で、国民にとっては希望のような象徴で。だから好き勝手に恋愛だとか結婚だとかは許されない。そういう風に教育されてきたし、そういうものだと諦観もしていた。
納得すらしていた。どうせ自分には好きな人など出来ないのだからそれでいいのだ、と。
しかし、幸か不幸か、出会ってしまったのだ。
私と彼を引き合わせたのが敵対する魔族というのが何とも皮肉な話だが、その点だけはお礼を言ってもいいとさえ思える。好きな人に出会わせてくれてありがとう、そう言ってやりたい。
恋愛という感情を知らなかった私でも、今持っている感情が恋愛であるとはっきりと知覚出来る。それくらいに、恋というものは鮮明で、鮮烈だ。
恋は素晴らしいと、誰かが言っていた。
しかし残念なことに今の私にはそうは思えない。
素晴らしいというのは、自由に恋を出来る人間の意見ではないか。
それともどんな恋であっても、それはすべからく素晴らしいのだろうか。
叶わない恋も、諦めなければならない恋も、悲痛な恋も、例えば、終わってしまった恋も。
そのどれもが素晴らしいというのなら。
恋を出来ること自体が幸せと、そういうことなのだろう。
私はレオニスが好きで、“好き”という感情を持てたこと自体が、幸せなこと。そう思えたら、それはどんな良いのだろう。
でも人は、私は、そんなに単純じゃない。
私は今、とても苦しい。
だって私は、彼を好きでも簡単に自分の立場を捨てることは出来ない。彼と自分の立場を天秤に掛けたとして、どちらかを選ぶことが出来ない。それは、王族という肩書きが、私の居場所そのものでもあるからだ。“シャアラ殿下”という呼び名を失うことが、私は怖い。
だから私は昨日あんなことをしておいて、今朝になって彼を突き放すようなことを言ってしまった。
『言ってしまった』というのは、きっと後悔をしているのだろう。昨日彼に衝動的にキスをしてしまったことに後悔し、そしてそれをなかったことにしようとしてまた後悔をする。後悔のしっぱなしだ。
私は本当に弱い。
自分の立場を守る為に、彼の立場を守る為に言ったはずだったのに。
私の心を守ることは出来なかった――――。
シャアラは唇を噛みしめる。
本当は王族なんてどうでもいい。私なんてどうなったっていい。
彼と一緒に居れるのなら。
そう思う反面で、沸々と湧き上がる恐怖に、抗うことが出来ない。
王族という立場を失って、それでもし彼と一緒になれなかったらもう私には何も残らない。
それに、そんな勝手を果たして兄は許すだろうか。下手をすればレオニスに危害を加えかねない。
王族の繁栄は国のそれに等しい。衰退もまた同じく。
であるなら、王族にとって危険な異分子は排除する――――そういう結論に至っても何らおかしくはない。
そんな思考の堂々巡り。まるでこの樹海の、木々が連なるだけの闇の風景は、今のシャアラの心を映しているようだった。
「まったく、らしくないわ……」
根本的な性格が明朗快活なだけに、今の自分のギャップ自体が彼女を苦しめる。
彼女は今、レオニスを探している。
だが、再びレオニスに会った時にどんな顔をすればいいのか、それが今は分からなくなってしまった。
離れた間に、余計なことを考えすぎてしまったな――――と、シャアラは自身を嘲るような笑みを浮かべる。
そこで、やっと気づく。
「あれ……跡が、ない?」
さっきまで追っていたレオニスが滑走した跡が、いつの間にか消えている。いや、消えたのではないだろう。思索に耽っているいる間に見失ったのだ。
「嘘……嘘、嘘よ……」
今まで止めずに動かしてきた足を止め、シャアラはその場に膝を着いてしまう。絶望が、シャアラの心を支配しようとしていた。そのせいで、気付くのが遅れた。
「――――っ!?」
もう遅かった。シャアラの右足首、左太腿、右肘、左手首に次々縄のような太さの何かが絡み付く。
「嫌っ! なにこれ!?」
シャアラは目視する。そして理解した。
ああ――――これがレオニスを連れて行ったのだ、と。
それは、植物の蔓のようだった。しかし何故か、蛇のように、まるで意思を持っているかのように蠢いている。
怖い、怖い、怖い怖い怖い、気持ち悪い――――っ!
その悲鳴はシャアラの心の中で叫ばれた。
次の瞬間、シャアラの華奢な身体は、深い森の奥へと、引き摺り込まれていった。




