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番外編 呉羽兄弟のとある一日

呉羽兄弟の父の日ネタifです。

     ◆


 ケーキの作り方、なんて本を買って、材料も買って、実際に作り始めている自分に笑えてくる。一体僕は何がしたいのだろう。こんなのはきっとただの気まぐれだ。


 もう少しで完成するケーキにホイップクリームを絞り出していたら、玄関の方で扉の開閉音が聞こえてきた。それを耳にした途端、ケーキも材料も何もかも隠してしまいたい気分に陥る。


 予想外だった。今日は日曜日。いつもなら紫土が帰ってくるのは夕方の五時くらいだ。今はまだ二時だというのに。


 どうしようかと思い、絞り袋を手にしてケーキを睨みつけたまま固まっていたら、リビングの扉が開けられた。


「ただいま」


「……夜ご飯はまだ、作ってないよ」


「夜ご飯食べる時間じゃないしね」


 相変わらず、ただいまという言葉に返すべき挨拶は僕の口から発せられない。そのせいか紫土の声がワントーン低くなった気がしていた。


 僕が立っている場所からテーブルを挟んで正面にある椅子に、紫土が腰掛けた。こちらを一切見ない瞳を一瞥してから、僕は何事も無かったかのようにケーキ作りを再開する。


「それ、自分用? 大きくない?」


 同じリビングにいても言葉を交わすことなどあまりないというのに、今日に限って紫土は話しかけてくる。集中している中いきなり話しかけられて、手元が狂いそうだった。


「……自分のために作ってるわけじゃない」


「ふぅん……頑張って作ってるみたいだからあんまり言いたくないけどさ。……どうせ今日も帰って来ないと思うよ。帰って来たとしても、一口も食べてくれないんじゃない?」


 気付かれているのであろうことは分かっていた。それでも、嘲笑とは程遠い憐れみに似た声色が胸を刺す。


 縁取るように絞り出し終えたホイップクリームを台所へ片付けに行き、冷蔵庫から取り出した苺をケーキに乗せていく。


「……そうだね」


 適当に返した相槌は、どんな音を伴っていただろう。よく分からない感情が臓器を染め上げていて、吐き出しそうだった。


     ■


 掠れた声が耳朶を掠める。何も映されていないテレビの黒い画面に顔を向けながら、黒目だけを動かして紫苑の顔を伺った。


 紫苑は料理をする時、たまに左の横髪をピンで留めている。今日もピンをさしており、僅かに俯いている顔から表情を見て取ることは容易だった。俺の発言に傷付いたのか、唇は歪んだ三日月を象っている。じっと見なければ、それが噛み締められていることに気付けなかった。


 思えば、紫苑は毎年こういった日に、豪華な食事を作ったりしている。ケーキを作っているところを見るのは初めてだが、テーブルの上にケーキ作りの本が置かれているところを見る限り、それを見て作ったと思われるケーキはなかなか綺麗だった。


 しかしそのケーキも、例年通り食べられることはないのだろう。


 父が家に帰ってくることは稀だ。普段はどこでどう過ごしているのかすら、知らない。こんな状態になったのは俺も紫苑も幼い時だったから、親父の勤め先もどんな仕事をしているかも知らなかった。


 俺は親父の携帯の電話番号を、何かあった時のためにと祖母に教えてもらっているため、連絡を取ろうと思えば取れる。けれど俺達に興味なんて持っていないあいつにわざわざ電話など掛けないし、向こうも俺からの電話なんて受けたくないだろう。俺が母さんを突き落としたことを、親父は知らない。それでも、母の死に涙一つ流さなかった俺を軽蔑しているのは確かだ。


 苺をケーキに乗せていく紫苑を横目で見てから、小さく嘆息を零した。


 以前、珍しく帰って来た親父と紫苑が顔を合わせた時、「お帰り」と掛けた声を親父に無視されたにも関わらず、紫苑はまだ親父との繋がりを求めている。紫苑は聡いから、親父が俺達に無関心なことなんてとっくに分かっているはずだ。それでも、親父が帰って来た時や親父の誕生日、父の日などにご馳走を作ろうとしているのは、贖いのようだった。尤も、母さんのことを忘れた今となっては、習慣のようになっているだけかもしれないが。


 俺は席を立ってリビングを出た。家の外に出て、玄関の扉に背を預けると、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。親父の携帯電話の番号を押して、耳に当てる。


 なんで俺がこんなことをしているのだろう。その理由にはなかなか見当を付けられない。


 恐らく、親父のせいで紫苑があんな顔を浮かべるのを、見たくないからだ。紫苑を傷付けて良いのも苦しめて良いのも悲しませて良いのも、あいつと今も家族でいる俺だけ。家族としての繋がりを無関心で切り離した親父には許されない。


 そこまで考えて、ふっ、と息が零れた。自分の馬鹿げた思考回路に苦笑が漏れる。ようやく途切れたコール音の余韻が鼓膜へ溶け込む。『もしもし』。不機嫌そうな、少しざらついた低い声。親父はこんな声だったなと思い返しながら、赤と橙で塗りたくられた空を仰いだ。


「紫土だけど……って言っても分かんないかな? あんたの息子だよ」


『名前で分かる』


 分かるのか、と僅か目を見張った。けれど紫土なんて名前、そうそう耳にしないからそれもそうか、と思う。


「今日帰って来て」


『……それだけか? 切るぞ』


「紫苑が、あんたにケーキ作ってるんだ。帰って来て、会って、褒めてやって、食べてやってよ」


『お前が食べたら良いだろう。そんなどうでも良いことの為に割く時間はない』


「どうでも良いことって――」


 親父は、言うだけ言って電話を切った。舌を打って、背にした扉に手を叩き付ける。


「ふざけんなよ……」


 結局、自分が嫌な思いをしただけに終わった。親父は帰って来ない。やはり今まで通り、あのケーキも食べられない。


 翌朝、いつもより不機嫌そうな顔をしている紫苑を見ることになるのだろう。


 あーあ、と吐き出して、家に入った。


     ◆


 ケーキを冷蔵庫に仕舞って、夕食も作り終え、ソファに寝転んで目を伏せる。眠いわけでも寝たいわけでもないが、することのない退屈さから目を伏せたかった。


 秒針の音が響いてくる。リビングの扉が開けられる音は、一切聞こえてこない。


 今日も父は帰って来ない。


 ほぼ確信してしまっているのに、それでも、扉の音に上半身と瞼を持ち上げてしまった。


「お――」


 咄嗟に口から飛び出した言葉を止められないまま「……かえり」と小さな声で続けた。


 ソファの上でゆっくりと瞬きをした僕と、リビングの扉の前に立っている紫土の目が合う。お互い驚いたような顔をしていたのは数秒の間だけだ。気が付けば感情のこもっていない視線が交差していた。


「親父だと思った?」


「……泥棒かと思ったんだ」


「ふうん。寝惚けてたでしょ」


 僕の方まで歩いてくると、頭をぐっと押してくる。乱雑に撫で始めたその手を払い、紫土を睨み上げた。


「そっちこそ寝惚けてるよね」


「まさか。夜ご飯は?」


「カレー」


「お前もう食べたの?」


「まだだけど。食欲ないからいらない」


 席を立って台所に行き、カレー鍋を火にかけて温め始める。先ほど作り終えたばかりだから、温めるのにそれほど時間はかからなかった。皿にご飯を盛り付けていたら、顔を顰めてしまうほど強く肩を引かれた。


 危うく落としかけた皿を強く掴んだまま紫土の方を振り仰ぐと、こちらを見下ろす冷たい目に思わず息を飲んだ。


「風邪移さないで欲しいから、とっとと寝れば」


 何のことだろうと眉を寄せてから、食欲がないという一言だけで誤解をされたことに気が付く。僕の手から皿を奪った彼に否定の言葉を放つ気持ちにはなれず、今の彼の視線からただ逃れたくて、無言のまま早足で歩き出した。


 廊下に飛び出し、つい扉を勢い良く閉めてしまってから、むしゃくしゃして額を押さえた。


 温度のない目を向けられるのも、無味乾燥な声を向けられるのも、慣れているはずなのに。何故だか今日は、いつもと少しだけ、何かが違った。いつも以上に、向き合っていたくなかった。


「……はぁ」


 そんな彼から逃げるように出てきた自分へ嘆声を零し、階段を上がる。


 自分の部屋のベッドに横になり、瞼を閉じた。



 はっと目を開いた時には、もう十二時を回っていた。眠くはなかったというのに気付けば眠ってしまっていたから、疲れていたのかもしれない。


 紫土は食べ終えた食器をちゃんと洗っただろうか。少し気になって、一階へ向かった。リビングの前まで来ると、奥から水音が響いてくる。扉を開けてみれば、流しで洗い物をしている紫土の背中が見えた。


「……なんでこんな時間に皿洗い?」


 僕が起きてきたことに気が付かないくらい集中していたようで、声をかけた時の彼の双肩が跳ね上がったように見えた。けれど見間違いだったのか、水を止めて振り向いた顔に動揺の痕はなく、彼は無感情に笑う。


「起きるの遅い。さっき、親父が出てったばかりなんだ」


「え?」


「ケーキ。食べるだけ食べて、美味しかったって言って出てったよ。帰って来た親父にケーキ出してやったんだから、感謝してもらいたいね」


 父が帰って来たなんて、信じられない。そう思いながら聞けば聞くほど、紫土の言葉は嘘にしか聞こえなかった。事実、ほんの少し早口で紡がれたのは嘘だろう。彼の口の端にホイップクリームが付いているのを見て、笑ってしまいそうになる。


 らしくもない真似をして、いつも通りに振る舞おうとしている彼を見ていたら、唇が震えた。駄目だ、笑うな。自身に言い聞かせるよう胸中で唱える。笑いを堪えているせいか、喉が熱を帯び、息が苦しくなる。


 僕はいつも通りの仏頂面のまま、紫土に一歩近付いた。


「……洗い物、後はやっておく」


「ん、じゃあ任せる。おやすみ」


 すんなりと場所を明け渡して去っていく背中に、ありがとう、と呟いてみたけれど、唇がその形に動いただけかもしれない。声を出せた自信は無かった。


     ■


 苦しい。


 カレーを少なめにしたものの、ホールケーキ一台は流石に辛かった。あの量の甘い物を食べ切った自分に拍手を送りたい。


「……ははっ」


 部屋の中に足を踏み入れてしまえば、仮面を剥がせる。お陰で、部屋の空気を吸ってすぐに笑ってしまった。


 喉から溢れる嘲笑は、俺自身に向けているものなのか、それとも紫苑に向けているものだろうか。恐らく両方だ。


 俺の嘘を聞いたあの顔を見れば、嘘だと気付かれたことくらい分かる。だと言うのに瞳が泣き出しそうに歪んでいたのが可笑しかった。それを見た時に微笑みたくなった俺も、可笑しかった。


 睡魔に襲われた脳が、どこかしらの螺子を外してしまったみたいだ。


 なんて思いながら、部屋の電気を点ける。開けっ放しだったカーテンを閉めようとして、窓に映った自分と目が合った。


 らしくないことをすると、らしくない失敗をする。頭がおかしい人間みたいに、乾いた笑いを室内に響かせてしまった。

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