番外編 初日の出
呉羽兄弟幼少期のifのお話です。
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「兄さん!」
「……朝っぱらから何騒いでるの……俺まだ眠いんだけど」
紫苑が傍に寄ってきた気がして、眠い目をこすりながら身体を起こす。思った通り、紫苑はすぐ近くにいた。まだ六時だというのに、眠さを一切感じさせないその瞳は輝いている。なにか嬉しいことでもあったのか、弧を描いている唇。それが大きく開かれた。
「初日の出、見に行こうよ」
「……そっか。年明けたんだ」
「カウントダウンもしたかったのに、兄さんすぐ寝ちゃったしね。だからさ、初日の出は、一緒に見に行こう?」
「お前寝てないの?」
「そうだけど?」
きょとんとしたような顔で言われては、小突きたくなる。「馬鹿」と零して指で額を弾いてやった。俺はベッドから降りて、目を丸くしている紫苑の腕を引く。
「いい? 日の出見て帰ってきたら、すぐ寝るんだよ。……というかそのカッコで行く気? これ着て」
「別に寒くないけど……まぁ、ありがとう」
「お前さぁ……まぁいいや。行くよ」
部屋を出て、階段を降りる。いつもなら起きている両親はまだ寝ているのか、リビングも廊下も電気が点いていなかった。きっと紫苑と一緒にカウントダウンをして、寝る時間が遅くなったからだろう。
先に外に出た俺は、扉を開けたまま紫苑が出てくるのを待つ。楽しそうな足取りで飛び出してきた紫苑の顔を伺ってみた。日の出を見るのがそんなに楽しみなのか、満面の笑みだ。たかが太陽を見て何が楽しいのか俺には分からない。
どこで日の出を見るつもりなのだろうと思っていたら、紫苑が俺を引っ張った。
「公園行こう。山の上なら綺麗に見えると思うんだ」
紫苑の言っている公園は、家から徒歩十分ほどのところにある。ちなみに山というのは、その公園にある滑り台だ。大きなプリンにも見えるから、プリン山と呼ぶ人もいる。もちろん、黄色でも茶色でもなく、ただの石の色だ。
紫苑はよく友達とその公園に行っているが、俺は小学生になってから行ったことがない。もちろん友達はいるけれど、学校が終わるといつも家で絵を描いているから、放課後に誰かと遊ぶなんてしないのだ。そのため、公園までの道のりもなんだか懐かしく思う。紫苑が小学生になる前までは、よく一緒に公園で遊んだ気がする。
そもそも最近は紫苑と話す機会も減っていたし、一緒にどこかへ行くこともなくなっていた。だからだろうか。紫苑が俺と初日の出を見たいと言ってくれたことが、少しだけ嬉しい。
「兄さんはさ、初日の出に何を願うの?」
「え? 初日の出にお願いなんてする?」
「友達が言ってたんだ。初日の出に願い事をすると叶うって」
「そんなわけないでしょ、流れ星じゃあるまいし」
「そっか……」
余計なことを言わなければ良かった、と思うくらい、紫苑は残念そうな顔をしていた。どう機嫌を直してやろうか悩んでいると、俺が何かを言うまでもなく、その顔は笑顔に戻る。
「けどさ、叶うかもしれないから、願い事するよ」
「そんなに叶えたいことがあるの?」
「うん。けどまだ言えないよ。願い事してからなら言っても良いけど」
「へえ、別に聞きたいとか思ってないけどね」
本当は、気になっている。悩み一つなさそうなこの弟が、いったい何を願おうというのか、想像もつかない。
冷たい風が吹いて、寒さに思わず手を握りしめる。紫苑が小さく唸ってから、手を繋いでいることを思い出した。
「あ、ごめん」
「大丈夫。兄さん寒いの?」
「寒いに決まってるでしょ。なんでお前手冷たいくせに寒くないの?」
「元気だから、かな」
無邪気な笑顔に、俺は思わず顔を逸らした。弟のこういう顔を見ていると嫌になる。なんでこんなに綺麗に笑えるのか不思議だ。
逸らした視線の先には、公園があった。もうこんなに歩いたのか、と思いながら敷地内に入る。滑り台の上に登って、俺達は空を見つめた。
ちょうど良い時間に来れたみたいだ。明るくなっていく空に、陽の光が差し込む。眩しいなと思って目を細めた。紫苑が願い事をすると言っていたことを思い出し、俺も一応願い事をしてみる。咄嗟に浮かんだ願いは、自分のことではなかった。
紫苑が持つ、原因不明の病のようなものだと言われた不思議な力。それがなくなりますように。そう願った。あれのせいでこれから紫苑に不幸なことが起こったら、嫌だと思ったのだ。弟には、いつまでも明るく元気でいてほしい。いつまでも、笑っていて欲しい。
瞼を伏せて祈り続けていたら、袖を引かれた。紫苑が微笑んでこちらを見上げてくる。
「兄さんは何を願ったの?」
「紫苑の頭が良くなりますようにって」
「なにそれ。確かに兄さんよりは馬鹿だけど馬鹿じゃない」
「そんなに怒らないでよ。……で、紫苑は?」
「……兄さんが、笑ってくれますように、って」
消え入るような声だった。それでも、静かだから俺の耳に届いている。きょとんとしてから、俺は苦笑した。
「俺はいつでも笑ってるよ? まぁそんなことはいいから早く帰ろう。風邪ひかれても困るし、早く寝てもらわないとね」
「風邪なんかひかないよ」
「あぁ、そうだった。馬鹿だもんね」
「うるさい」
後ろを歩く紫苑の顔を想像して、笑ってしまう。
ふと、気付いた。俺は、母さんといる時も父さんといる時も、無理に笑顔を作っている。完璧に繕っているつもりだった。けれどきっと、紫苑に気付かれていたのだろう。
紫苑が、作り笑顔を浮かべる俺をどう思っていたのか知らない。だが、よく思っていなかったのだと思う。だからあんな願い事をしたのか、と勝手に考えて、俺は振り返った。
すぐ傍にある小さな頭を雑に撫でる。動揺したらしい紫苑の手を引いて、再び歩き出した。