宮下と河内の話2
◇
萌葱に髪をセットしてもらって、春用のコートを羽織り、蘇芳ちゃんと一緒に待宵市に向かった。男の人にあげるプレゼントを一緒に選んで欲しい、というのが今回のお願いだ。多分、甲斐崎さんにあげるんだろうなと思い、私の頬が自然と緩む。
待宵の駅から出て、ニヤニヤしていたら、蘇芳ちゃんに袖を引かれた。
「なにニヤニヤしてんの? そんなに来週のデートが楽しみですかぁ?」
「そ、それは楽しみだけど! 蘇芳ちゃん、可愛いなって思ってたの!」
「当たり前のこと言わないでよ」
「照れた?」
「蹴るわよ」
冷たくあしらわれて、あははと笑う。駅からだいぶ歩いて、ラビットネストという名前の服屋さんに入った。女性物も男性物も売っているし、可愛いものからカッコいいものまで幅広く売られているお店だ。紫苑先輩のピアスとか、紫苑先輩が私にくれた髪留めとかはここの商品だということを、高校卒業前くらいに知った。それらが割とお高いものだということも知って、びっくりしたことを覚えている。
今の私は居待市のラビットネストで働いているから、自分の所の商品を売ろうとしているように見えたら申し訳ないけれど、単純に品揃えが良いと思ったからここに来た。店はアンティーク調の落ち着いた雰囲気だから、男女ともに入りやすいと思う。
メンズものの方に歩いていきながら、私は隣を歩く蘇芳ちゃんに訊ねてみた。
「服とアクセサリーと鞄、どれが良いかな? お財布とか腕時計もあるけど」
「んー……男ってどれをあげたら喜んでくれるのかしら」
「何をあげても喜ぶと思うよ?」
「そりゃあ、優しいから、多分お菓子だろうが喜んでくれると思うけれど……なんていうか、貰えたから嬉しいじゃなくて、貰えたものに喜んでほしいって言うか……」
その気持ちは、私も分かる。プレゼントという行為に喜んでほしい気持ちももちろんあるし、なにかをプレゼントしたいという気持ちに喜んでほしい気持ちもあるし、その物を気に入って喜んでほしいという気持ちもある。人にはよるだろうけど、女の子って、気持ちの面では結構欲張りかもしれない。
私は頭の中で甲斐崎さんを思い浮かべてみた。何をあげたら一番喜ぶだろうか。
「……アクセサリーはどうかな? 好きなんじゃない?」
「え、一番ないわーって思ってた。だったらストラップか腕時計にしようと思ったんだけど」
「そ、そっか。腕時計良いかもね。素敵な意味もあるし」
「意味?」
私よりも頭が良さそうな蘇芳ちゃんは、そういったことに興味はなかったのかもしれない。多分、花言葉とかも興味がなさそうだ。だけど今は、時計を贈る意味に興味を示していた。
紳士服がかけられている所を通り抜け、アクセサリーや時計が置かれている場所に二人で歩いていく。
「あなたと一緒の時間を過ごしたい、って意味があるの。……でも女の子から男の人に渡す時は、あなたの時間を束縛したいって意味になるとか聞いたから、そっちの方で受け取られちゃったら少し重いかも」
「……腕時計にするわ」
「い、いいの!?」
「縛り留めておきたいの。あたしの傍にじゃなくて、この世に」
切実な声柄に、少しだけ吃驚した。腕時計が並ぶガラスケースの中を、蘇芳ちゃんは真剣な面差しで見つめていた。その横顔を覗き見て、私は自分が誤解していたことに気が付く。
「……そっか、甲斐崎さんへのプレゼントじゃ、なかったんだね」
「え? ……朽葉、かぁ。そうね、せっかくだし、あいつにも何か買っていってあげるわ」
集中して固くなっていた表情が、ぱっと華やぐ。ガラスケースを指さして、「これとかどう?」と聞いてきてくれるから、私も「これはどうかな?」とか問いかけてみる。
二人で十数分悩んで、蘇芳ちゃんはようやく決めたみたいだった。黒いの革のベルトに、銀色を基調とした文字盤が付いている。文字盤の中心部はスケルトンになっていて、お洒落だ。縁には小さく兎のシルエットが描かれていて可愛い。店員を呼び、蘇芳ちゃんはそれを手に取る。
そのままレジに行こうとするも、蘇芳ちゃんはアクセサリーを見始めた。
「ねぇ、朽葉ってネックレス似合いそうよね」
「え? 確かに、そうだね。鎖骨が見える服着ること多そうだし、似合うかも」
「……付き合ってもないのにペアアクセとかあげたら、引かれる?」
私を見上げる瞳は、不安げだった。多分、蘇芳ちゃんは甲斐崎さんのことが好きだ。友達としてとかじゃなくて、男の人として好きなんだと思う。そんな恋心には気付いていないだろうけど。
私は、少しだけ悩んだ。告白して渡したら良いのでは、と思ったけれど、彼のことなんて好きじゃないって否定されそうだ。考えて、私は微笑んでみる。
「友情の証、って渡したらどうかな? 特別感があって、素敵だよ」
「……そ、そうね。それなら、不審がられないし、ね」
蘇芳ちゃんが手に取ったのは、月のペアネックレスだ。片方は、三日月の背を兎が抱いている。もう片方は丸い月にウサギのシルエットが刻まれていた。三日月の空いている部分と、その丸い月を合わせればぴたりと嵌るように作られている。
見ていたら私まで、紫苑先輩とペアアクセを付けたくなってきた。けど、紫苑先輩がネックレスやブレスレットを付けるイメージはないし、私はピアスを開けるのが怖いし、ペアで付けられるものは無さそうだ。
少し残念に思っている私の横で、蘇芳ちゃんはそのネックレスも持ってレジに進んだ。私は、レジの端の方で待つことにした。
数分後に戻ってきた蘇芳ちゃんが、二つの袋を見ながら小さく笑う。
「ラビネスって、大抵駅から遠いからあんまり行かないんだけど、物も袋も可愛いわね」
「っでしょ! 可愛いよね! 私、平日は居待市のラビットネストで働いてるから良かったら来てね!」
「……暇だったら行ってやるわ」
「やった! 嬉しい! 蘇芳ちゃん好きっ!」
店を出ると同時に、私よりも背の低い蘇芳ちゃんに抱きついたら、「ちょっと……」と言われて引き剥がされた。自分の好きなものを気に入ってもらえると、嬉しくなる。引き剥がされても嬉しさは薄れず、私は蘇芳ちゃんの頭をひたすら撫でまくった。初めこそ、やめてよとか言っていた彼女も、だんだん大人しくなって、恥ずかしそうに唇を引き結んでいた。もう一人妹が出来たみたいで可愛くて、たくさん優しくしたくなる。
蘇芳ちゃんは、次の予定までまだ時間があるらしいから、二人で喫茶店に入ることにした。
□
ネームプレートに、河内夕翔、と書かれていることを確認して、私は扉をノックする。何を持ってくれば良いか分からなくて、結局物は何も持ってこなかった。あるのは胸の内の気持ちだけだ。
「どうぞ?」と扉の向こうから声がした。懐かしい、声だった。真面目そうで、けれど少し生意気そうで。それは確かに、私の大切な教え子の声だった。
彼が目を覚ましたと聞いてから、もうだいぶ経つ。忙しかったため、今になってようやく足を運べたけれど、声を聴いただけで泣きそうになっているなんてみっともない。
震える手で扉を開けて、中に入る。短く切られた髪が、窓から差し込んだ風に揺らされる。窓に向けていた顔がこちらに向いて、私ににこりと笑った。その眉が、困ったように下がっている。私は彼のベッドの横の椅子に腰を下ろして、微笑みかけた。
「久しぶりね、河内くん」
「お久しぶりです。……でも、すみません。俺、覚えていないんです。妹のことも忘れていたくらいで」
申し訳なさを隠すように頬を掻いて、彼は優しく笑ってくれた。数秒間、私は彼の言葉の意味が理解出来なかった。彼の言葉が耳を通って、ゆっくりと時間をかけ、ようやく脳に届いて理解する。分かってしまって、先程堪えた涙が、溢れてしまいそうになる。
唾を飲み、もう一度涙を堪えて、私は「そう」と呟いた。
「私、あなたが中学生だった頃の、家庭科の教師だったのよ。あなたは、とても優秀な生徒だった。私を教師としてじゃなくて、人として労わってくれたこともある。だから私は、そんなあなたの目が覚めるのを、何年も、ずっと、待っていたわ」
「そう、なんですか……。ありがとうございます。なんか、すみません」
「良いの。あなたが起きてくれただけで、良いのよ」
本当に伝えたかった言葉は、全部、胸に押しこんだ。溢れそうになる告白を、臓腑に押し付ける。それがひどく苦しくて、泣き出しそうなのも苦しくて、唇を噛み締める。俯いてしまった私に、彼の声が静かに届いた。
「良いんですよ? なんで忘れてるんだ、って責めてくれても。言いたい事全部吐き出しても、良いんですよ。俺は覚えてなくても、全部、受け止めますから。大切な思い出も、思い出せるかもしれないですし。だから、綾瀬先生、俺に――……あれ?」
私は、ここに来て名乗っただろうか? 名前を、彼に伝えただろうか? 思い返してみて首を左右に振る。それから、小さな嬉しさが溢れて、目の前が霞んだ。
「な、まえ……」
「ごめんなさい、俺、違うんです。覚えてないのに、なんか、名前が。すみません、人違いでしたら、本当にごめんなさい。えっと、ハンカチ……あ、俺、持ってないです。ごめんなさい」
「謝らないで。良いの。覚えてなくても、良いのよ。名前、呼んでくれてありがとう。私、綾瀬早苗って言うの」
「……じゃあ、綾瀬先生で、合ってましたね。良かった」
嬉しそうに、彼が笑いかけてくれる。それだけで、私はもう、満足だった。彼が起きてくれて、彼が私に声をかけてくれて、彼がまた、私に優しくしてくれて。これ以上、何を求められるのだろう。
私は、すっと席を立った。きょとんとしている彼に、小さく手を振る。
「会えて、良かったわ。もう、帰るわね」
「また、来ますか?」
もう、来るつもりなんてなかった。これで最後にして、彼に抱いていた気持ちを全部忘れて、私は私の人生を歩き始めようと思った。だけど、少し寂しげな彼に、踵を向け続けられそうになかった。
「……どう、かしら」
「綾瀬先生さえ良ければ、また、来てくれませんか。俺、もっと綾瀬先生と話したいです。なんだろう……なんか、綾瀬先生といると、安心する、っていうか。それに、俺のことをずっと覚えててくれて、俺が目を覚ましたことを知って会いに来てくれて、嬉しかったですし。それなのに俺は貴方のことを何も知らないなんて、嫌です。もっと、綾瀬先生のことを知りたい。もっと俺と綾瀬先生の話を、聞きたいです。……実は俺、今のところ見舞いに来てくれたのって、妹だけなんです。だから、すごく嬉しくて」
なかなか、声を出せなかった。嬉しい申し出で、だけどこれ以上会う中で気持ちを堪えきれる気がしなくて。会い続けて良いのか、上手く判断が出来なかった。
私が黙っている間、彼はそんなふうに言葉を続けてくれた。それを聞いていたら、断るに断れなくなる。揺らいでいた心が、一方にしか行けなくなる。
私は彼のベッドに手を付いて、その顎を軽く掴んだ。頬に口付けを落としてから離れると、彼は目を見張っていた。
「私ね、あなたのことが好きなの。あなたが中学生の頃からずっと。ずっと、伝えたくて待っていたの。気持ち悪いでしょう? たかが教師なのに」
「……そんなことないです。なんですか、それ。なんで、俺なんか。俺、何年眠ってたと思ってるんですか。綾瀬先生綺麗なのに、なんで、ずっと俺なんかに」
「あなたが良かったの。あなたが、私のことをちゃんと見てくれたような気がしたから。あなただけが真っ直ぐに、私に気持ちをぶつけてくれたような気がしたから。でも、もう良いのよ。これ以上は迷惑になる。だから、ごめんなさい。私はもう――」
「もう、嫌になりましたか? 俺、眠る前と変わりましたか? 貴方のことを忘れていたから、嫌になりましたか?」
彼の両目が、真っ直ぐに私の双眸を刺し貫く。目を逸らせなかった。彼の訴えからも逃げてしまうような気がして、その場から動けなかった。
嫌になるわけがない。彼は何も変わっていない。変わっていたとしても、その変化を愛せるくらいに、私の想いは重い。それでも迷うのは、彼の重りにはなりたくないからだ。彼自身にも、自分が重りになっているのではと思って欲しくないからだ。
潔く別れたかった。けれどそれは、心の表面での願い。奥底では、別れたくない気持ちが泳いでいる。そんな胸中を知ってか知らずか、彼は真っ直ぐな目のまま、強い語調で想いを伝えてくる。
「俺、分からないです。綾瀬先生のこと、なにも知らないんです。けど、何年も貴方の時間を奪ってしまったのに、ここで終わりなんて嫌です。綾瀬先生が嫌じゃなければ、何度でも来てください。迷惑なんかじゃない。こんなに俺のことを大切に思ってくれた人に、離れていかれるのは嫌だ。……なんて言ったら、迷惑ですか」
彼の目が、泣き出しそうに見えた。もしかしたら、私が泣いてしまいそうなのかもしれない。私は首を左右に振って、彼から離れる。
「……そんなことないわ。今日はもう、帰るわね。また会いましょう。また、来るから。退院したとか、何かあったら、ここに電話して」
胸ポケットからメモ帳を取り出し、そこに自分の電話番号を書き記す。その1枚を束から外して、彼に差し出した。彼はそれを受け取り、嬉しそうに破顔する。
「待っていますね、綾瀬先生」
柔らかな笑みを最後に見て、私は病室を後にした。部屋から出てしまうと、気が抜けて倒れそうになる。病室の扉に寄りかかって、目頭を押さえた。
「……離れたくないわよ、私だって」
独り言ではなくて、彼にちゃんと、そう伝えられたら良かったのに。




