蘇芳が紫苑の服を選ぶ話2(eclipse3.5)
泣きそうなのだと思われていたら恥ずかしくて、微笑を持ち上げたら、呉羽先輩に二着のジャケットを向けられた。
「ねぇ、あのワンピースの上に着るなら、どれが良いかな?」
「……あたし的にはどっちもナシです。なんでどっちも黒なんですか、大人っぽ過ぎますよ」
「持ち主の君が言うの?」
「呉羽先輩の顔立ちだと大人っぽくなりすぎちゃうって言ってるんです!! まったくもう、先にそのワンピース着てみちゃってて下さい、良さそうな上着選んでおくので!」
「え、着ろってコレ――ちょっ……」
文句を続けようとした呉羽先輩をカーテンの奥に押し込んで、あたしはクローゼットの中に手を伸ばす。普段あたしが合わせているのはジーンズ生地の半袖のジャケットだけれど、呉羽先輩は長袖を着ているところしか見たことがないし、季節的にも長袖の方が良いだろう。似たような色味ならきっとあのワンピースに合うと思い、ターコイズブルーのジャケットを手に取った。あんまり着ていない服だから少し心配になって鼻先へ近付ける。それほど変な匂いはしないようで、ほっと胸を撫で下ろしてから、振り返った。
カーテンの隙間から白く細い片腕だけが出ていて、一瞬肩を跳ねさせてしまった。
「……あの、呉羽先輩、お化け屋敷みたいなのでやめて下さい」
「あ、ごめん。上着、良いのあったなら貸してくれる?」
「上着ありましたけど……ワンピースのサイズ合わなかったですか? 普通に出てきてくれれば良いの、に」
カーテンを開くと、開けられると思っていなかったらしい呉羽先輩が目を見張っていた。吊り気味の目は見開かれると猫のようだ。あたしは彼の首から下に視点を移して、ワンピースの丈がやはり短いかもしれないなと思ってから、その腰の横に下ろされている左腕に息を呑まされた。
前腕部に綺麗に巻き付けられた包帯が、何を隠しているのか。もしかして呉羽先輩もあたしと同じなのかと思い、思わず詰めよろうとした。けれどカーテンを踏み付け、バランスが崩れる。
気付いた時には、呉羽先輩を押し倒す形であたしは倒れていた。暫し呆然として、彼の首元に顔を埋める。シャンプーの香りか、それとも家の香りだろうか、石鹸のような、それでいて微かに甘い良い匂いが鼻腔を擽る。好きな匂いだ。そう思って柔らかな髪に顔を埋めた。
「っ蘇芳」
思わず近付けてしまった鼻が呉羽先輩の耳に触れた直後、私の下で彼が微かに震える。そこでようやく、我に返った。今あたしは、彼の上で、彼に近付きすぎた。慌てて上半身を起こしたら、呉羽先輩が唇を噛み締めて床を睨み据えていた。怒らせてしまったかと思い、拍動が早まる。
「ご、ごめんなさいっ!! あの、その、怪我とか――あ、あたし重いですよねすみません!」
「慌てなくて良いよ、また転ばれても困るから落ち着いて」
ため息混じりに落とされて、顔から火が出そうだった。失態を晒してしまったことも恥ずかしいし、なにより呉羽先輩とこんなに密着してしまったことが恥ずかしい。彼の上からどうにかどくと、彼もゆっくりと立ち上がる。さらりと揺れた髪の隙間から、先程あたしが触れてしまった耳が微かに覗く。それを見て、動揺した。
「く、呉羽先輩、耳真っ赤ですけど大丈夫です――」
「気のせいじゃない?」
触れようと伸ばした手が届く前に、呉羽先輩は俯きながら右耳を押さえる。もしかして、恥ずかしかったのはあたしだけではなかったのかもしれないと思い至り、冷ました熱がまた頬に宿っていく。沈黙が気まずいものの、顔色の赤みを薄れさせないと彼の方を向くことが出来ない。恐る恐ると言った様子で彼を覗き見てみたら、彼は乱れてしまっていたワンピースの皺を伸ばしていた。
肩紐が左肩から落ちているおかげで、白磁のような胸元がちらと窺えてやけに色っぽい。晒されている肩や腕を見て寒そうだなと感じ、ジャケットのことを思い出す。慌ててそれを差し出した。
「ほんとに、すみません」
「大丈夫。上着ありがとう」
あたしからジャケットを受け取ると、彼はすぐそれを細い腕に通していく。巻き付けられている包帯が隠されても、あたしはその左腕から意識を逸らせなかった。
「これで良いと思う?」
「呉羽先輩って右利きですか?」
「……いきなりなんの質問?」
「え、あっ……」
「元々は左利きだよ。けど矯正されたから、今は右手を使うことが多いかな」
つまりどっちも使おうと思えば使えるということではないか。感嘆してから、あたしは顎に手を添える。利き手がどちらかという情報だけで左腕の傷がなんなのか推察することは出来ない。そもそも呉羽先輩は自傷行為なんてしなさそうだなと思ってから、あぁ、と思い当たってしまった。
「紫土さん、か」
「……なにか言った?」
「あっ、なんでもないです! えっと、あたしはその服装でバッチリだと思うんですけど、他になにか欲しいですかね? ストッキングありますけど、履きます?」
「いや、それはちょっと、抵抗が」
引き攣った笑みを返されて、あたしは悩みながら彼を見つめた。シンプルではあるものの清楚で可憐な風貌に仕上がったと思う。ニーソックスを渡そうかとも思ったが、どうも服装に似合わない。ストッキングが嫌ならやはりそのままが無難だろう。
呉羽先輩が動いたことでワンピースがふわりと揺れる。その短い裾を眺めてから、あたしははたと気付いた。
「あの、何も考えてなかったんですけど下着とかどうします……? やっぱり女の子物の方が良いんですかね……? 一緒に買いに行きましょうか……?」
「そこまでしなくて良いでしょ。それも流石に履きたくないし……見えないように振る舞うよ」
「それなら、良いんですけどね!?」
でも念の為にあたしの物を貸すか、と考えるも直ぐに冷静になり、顔が熱せられたように熱くなる。何を考えているのだろう、そんなこと恥ずかしくて出来るわけがない。先程ストッキングを断られたのはもしかして下着と同じような理由では、と勝手に予想してしまい、自身の発言を後悔して顔を覆いたくなった。
口元を覆うだけに止めていたら、呉羽先輩がカーテンにそっと手を掛ける。
「決まったみたいだし、元の服に着替える」
「あ、は、はい!」
あたしが慌てて後退すると、カーテンはすぐに閉められた。カーテンの向こうで立てられる衣服の音を聞きながら、あたしは床に散らばっていた服を一つ一つ片付け始めた。
呉羽先輩が着替え終えたら、この時間も終わりなのだろう。待宵でデートした日を思い起こして、また彼とあんな風に、二人きりで出掛けたいと思ってしまう。このままあたしも好きな服を選んで、着替え終えた彼の腕を取って、一緒に喫茶店にでも――。
そこまで想像したところで、首を左右に振った。今日こうして幸せな時間を得られたのに、それ以上を望むのはあまりに欲張りだ。今の妄想は、いつか素直に甘えられる時まで取っておきたい。
カーテンが開かれる。右手にワンピースとジャケットを下げている呉羽先輩に笑いかけ、あたしは彼の左腕にそっと手を絡ませた。
「あの、呉羽先輩」
「……なに?」
触られるのは好きではない、と言っていたから、きっと離れて欲しいのだろう。それはわかっているけれど、突き放そうとする素振りが見られないから、あたしはそのまま彼の片腕をぎゅっと抱いた。この布の下に、どれほどの痛みが染みているのだろう。軽く睫毛を伏せて、あたしは微笑した。
「もし、すごく痛くて辛いことがあって、けどそれを宮下センパイとかには言うことが出来なくて、だけど誰かを頼りたかったら、あたしのところに来て、良いですからね」
「……何の話?」
「あたし、救われて守られるだけは、嫌なので。あたしだって、呉羽先輩の力になりたいです。これでも、紫土さんのこともよく分かってるつもりですから」
見上げた先に、瞠られた瞳がある。透き通った射干玉みたいな双眼は、長い睫毛に影を落とされた。夕闇みたいに薄らと暗くて、だけど暖かい。美しい絵のような目顔に、呼吸が数拍止まっていた。
「ありがとう。けど大丈夫だよ。紫土のことは僕がちゃんと、自分だけで受け止めないといけないから。紫土が僕と向き合うなら、僕だって紫土に向き合って返したい」
「そう、です、よね」
「それでも蘇芳が僕に何かしたいなら、たまに他愛のない話をしてくれたり、一緒にケーキを食べに行ってくれたり……そのくらいのことをしてくれたらそれだけで充分嬉しいよ。だから喫茶店とか、またいつでも誘って。この前行ったお店のケーキ、美味しかった」
冷たく流されるかもしれない、と思っていたけれど、優しい返事に俯いた。あたしにしか出来ないことを呉羽先輩に出来たら、と思っていたから、優しく断られても複雑な気持ちになる。けれど、それでも頼って欲しいというのはただの我儘だ。呉羽先輩に迷惑をかけたいわけではない為、それを飲み込んで、首肯する。
あたしが不満げにしているのは、俯いていても伝わってしまっただろうか。下を向いたままの頭に手が置かれて、肩が跳ねた。顔を持ち上げると、呉羽先輩が「そろそろ離れて」と控えめに紡いだ。
渋々といった様子であたしが離れたら、彼はワンピースとジャケットを両手で一着ずつ摘む。
「これ、持ち帰って良いかな?」
「あっ、いえ! アイロン掛けておくので、明日の朝取りに来てくれると嬉しいです! コレに合う靴も用意しておきますね!」
「あ、そうか。ありがとう」
ワンピースとジャケットを受け取り、部屋の端の方に避けてから、あたしは室内をぐるりと見回した。扉の傍に置かれていた鞄を呉羽先輩が手に取ったのを見て、少し寂しくなる。だけど今日は二人の時間を充分楽しめた。この先に待ち受けているのはきっと、優しい時間ではないのだろうけれど。
もし今回呉羽先輩や東雲さん達が何とかしてくれたとしても、あたしもちゃんと償わなければならない。それは分かっているし、その覚悟もしている。いや、ちゃんとした覚悟は、今ようやく出来たところだ。
大切な人と他愛のない時間を過ごせて、あたしは幸せな気分に浸れた。どれほど痛い償いをすることになっても、もう、大丈夫。
ふ、と息を零し、あたしは自室の扉を開けた。
「玄関まで送りますね」
「蘇芳、携帯、交換しておこう」
「あ、そうですよね!」
暗い赤色の携帯電話を差し出し、黒い携帯電話を受け取る。携帯にお守りでも付けておけば良かったなと少しだけ後悔した。ストラップも何もついていないけれど、どうか呉羽先輩を守ってくれたらと思う。
そこでふと良い案が浮かんで、あたしは小さく笑った。鞄も貸すのだから、それにはお守りになりそうなものを付けたい。
階段をゆっくり下って、廊下を少し進むとすぐに玄関が見える。靴を履いている彼に、ぎゅっと抱きついてみた。腕の中から微かな動揺が伝わり、それすらもなんだか嬉しくて口元が緩んだ。
「蘇芳」
「呉羽先輩、危ない真似はしないで下さいね。念には念をってことでコレは明日も言いますけど、死んだら許しませんから」
「善処はするよ」
その言葉に嘘はないのだと思う。けれどあたしには分かる。呉羽先輩はきっと、あたしの命と自分の命が天秤に掛けられた時、簡単に自分の命を捨てるのだろう。河内蘇芳が死ぬことで他の人間には手を出さないと言われたら、きっと、自分が死ぬ方を選んでしまう。
だからどうか、と願う。折れそうなくらい華奢な体を強く抱きしめて、懇願を注ぎ込む。あたしの為を思うなら、どうか生きていて。
軽く肩を押されて、あたしはそれを合図にそっと離れた。笑顔を作って彼を見上げたけれど、そこにはどれほどの不安が流露してしまっていただろう。呉羽先輩の気遣うような微笑みが、季節外れの淡雪のように綺麗でも、それは優しく溶けてくれない。とどまることを知らない不安で胸が痛んだ。
「それじゃあ、また明日」
「はい。また明日、です」
控えめに振られた手に、あたしも小さく振り返す。閉まった扉の向こうは窺えない。
明日、大きな犠牲が出ることなく全てが収まってくれたなら。
大切な人達が誰も苦しまずに済むことを祈って、あたしは階段を上り始めた。




