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月光If(番外編+if劇場版)  作者: 藍染三月
完結後一年記念番外編
3/32

美術教師紫苑の話2

     ●


 ぼくと仲の良い友達は、美術とかつまらなそう、と言って他の選択授業を取ったけど、それに流されずに美術を選択したぼくは得をした気分だった。去年までの先生は少し厳しかったから雰囲気はあまり良くなかったけど、紫苑さんが先生だなんて、楽しいに決まってる。それに学校で何回も紫苑さんに会えるとか、それだけで学校に来る楽しみが増えた気分だ。


 絵の具と教科書とスケッチブックが入っている袋、それから筆箱を抱えて、階段を上る。三年生の教室は二階だから、四階まで行くのは少しだけ疲れる。だけど、今日は紫苑さんの授業を受けられるからか、足取りは軽快だった。一段飛ばしで階段を上って、四階の美術室の扉を開けた。まだ誰も来ていないみたいで、人の声はしない。代わりに、チョークの音が響いていた。


 教卓の向こうにある、紫苑さんの背中。その更に向こうの、黒板。白いチョークだけを使って、風景画が描かれていた。濃淡と細さを使い分けて、綺麗な桜並木が出来上がっている。


 すごい、と、ぼくの口から溜息が零れた。でも、そんなぼくが来たことにすら気付かないくらい集中している彼がおかしくて、笑いが込み上げてくる。


「紫苑先生、そろそろ三時間目になりますよ」


 紫苑さんの手の動きがピタリと止まる。さらさらの髪を揺らして振り返った彼は、ぼくをビックリしたように見てから、綺麗な顔で苦笑した。


「ごめん、気付かなかった。最初に来たのが君でよかったよ」


「ぼくじゃなかったら、先生を不審な目で見たかもしれませんね。ところでどこに座れば良いんですか?」


「ああ、座席表は黒板に――……書く予定だったんだけど、良いや。奇数クラスは窓際と真ん中の列の前の机。偶数クラスは真ん中の後ろと廊下側の机。その中だったら好きなところに座って良いから」


 説明しながら紫苑さんは、教卓から大きな画用紙を数枚取り出した。鋏で切って六等分し、それぞれに『奇数クラス』とか『偶数クラス』とか書いていった。セロハンテープを使ってそれらを筒状にすると、ぼくに差し出してくる。


「これ、今言ったテーブルに置いておいて」


「雑用係みたいにぼくを使わないで下さいよ。まぁ、紫苑さんからの頼みですからやりますけどね」


 ぼくは奇数クラスだから、真ん中の列の一番前にあるテーブルに自分の荷物を置いた。それから教卓上の筒を六つとも手にして、机を一つ一つ回っていく。


 ぼくにとって紫苑さんは、優しいお兄ちゃんみたいな人だ。お父さんみたい、と思ったこともあるけど、ぼくにとってのお父さんは『お父さん』しかいないから、その席は紫苑さんでも譲れない。お兄ちゃんみたいな紫苑さんは優しくて、色んなことをぼくに教えてくれた。勉強が苦手なのに、ぼくの教科書をぼく以上に読み込んで教えてくれたし、絵だって色々教えてくれた。


 絵の具とかクレヨンを使って綺麗な絵を描きたい、とぼくが紫苑さんに頼んだのは、中学生になる少し前のことだ。お母さんがぼくに優しくしてくれるようになって、でもやっぱり能力者のぼくを不安そうに見てて。大丈夫だよって伝えたかったから、絵を描いて見せたかったのだ。


 ぼくが描いた絵は実体化してしまう。しかしそれは、黒で描いた場合のみだということが分かった。黒色を使わなければ実体化しない絵を描けるのだ。それを知ってから、ぼくは紫苑さんにお願いして、黒色を使わないで綺麗に絵を描く方法を教えてもらった。おかげで今では、カラフルな絵を楽しく描けるようになった。


 紫苑さんとの出来事を思い返しているうちに、六つのテーブル全てに筒を置き終えて、ぼくは自分が確保しておいた席に着席する。教卓に立っている紫苑さんと向かい合い、ニコニコしながら彼を見ていると、彼が「あ」と口を開けた。スーツのポケットを漁り、一本の鉛筆を取り出した。


「菖蒲、今日は鉛筆で好きなものを描いてもらう予定なんだけど、君はこれを使って」


 渡されたのは、明るい茶色の鉛筆だ。黒で描くと大変なことになるから、渡してくれたのだと思う。だけど、ぼく自身鉛筆を使わされることがあると分かっているから、ちゃんと黒じゃない鉛筆を持って来ている。


 返そうかとも思ったが、紫苑さんが貸してくれたから、せっかくだし使わせてもらうことにした。


「でも、よく持っていましたね。茶色い鉛筆なんて」


「僕がこの学校で美術の教材を買わされた時、美術セットに入っていた鉛筆がそれだったんだ。学生時代は一年しか使わなかったし、と思ってね。自分で使うつもりだったけど、菖蒲に貸してあげる」


 紫苑さんが使っていた鉛筆かぁ、と思いつつ、その鉛筆をじっと眺めてみる。芯の先は尖っていなくて、角がない。デッサンに使うつもりだったのだと思う。紫苑さんはデッサンをする時に、尖った鉛筆をあまり使わない。輪郭のハッキリした絵ではなく、陰影によって浮かび上がる風景を描く方が好きなのだと、紫苑さんは言っていた。


 描き方の好みはあるけど、苦手なものはないらしいし、人の絵を否定したりしないから、紫苑さんの教え方がぼくは好きだ。


 授業をするのが楽しみになって、ニヤけ顔を浮かべていたら、後ろの方から話し声が聞こえてくる。振り返ってみると、生徒が何人か美術室に入ってきた。


「奇数クラスはこっち、偶数クラスはそっちに座って。指定されてる机ならどこの席でも良いから」


 紫苑さんの涼しい声が、透き通るように響いて消えていく。授業まであと五分くらいだからか、生徒が少しずつ増えてきた。大抵みんな、美術室に入るなり黒板の方を見て、紫苑さんを見て、何かをこそこそと話す。多分、綺麗だとかカッコイイだとかそういうことを言って盛り上がってるんだろうな、とぼくは思うけど、紫苑さんはそんなこと考えもしないだろう。


 ぼくの左隣――廊下側の一番前に座った二人組の女子生徒が、やっぱり紫苑さんの外見について話してた。


「ねぇ、美術の先生若くない? 昨年なんて前髪後退してるおじさんだったのにさ」


「若いし、美人だし、ヤバイ。得した気分」


「ね! 美術の授業毎日受けたい」


 嬉しそうな声を聞いて、ぼくは内心で「分かる」と共感する。ぼくも、紫苑さんの授業毎日受けたい。


「あ、神屋敷くん、今年も美術選択だったんだ」


 ぼくの右隣に腰を下ろしたのは、同じクラスの門倉さんだ。出席番号が前後だし、昨年も同じクラスだったから、それなりに仲が良い。


「門倉さん、今年も一緒だね。見て、美術の先生綺麗でしょ」


 紫苑さんのことを自慢したくなって、こっそりと彼を指差す。門倉さんはポニーテールを揺らして紫苑さんの方に顔を向けた。びっくりしているのは、大きくなっていくその目を見ていればよく分かる。だけど、口元を抑えて瞳を潤ませるほど感動するとは思ってなくて、ぼくが動揺した。


「か、門倉さん?」


「かっこいい……推しが画面から出てきたみたい……え? 実在してるの? 触れるの? 話せるの?」


「落ち着いて?」


 普段大人しい門倉さんが、ブレザーのポケットからスマートフォンを取り出して、すごい速さで操作していく。表示した画面を僕に見せながら、控えめでいてどこか熱の入った声で語り出す。


「あのね神屋敷くん、PCゲームでこういうのがあるんだけどね、それのこのキャラクターがね!」


「う、うん。……へぇ! すごい! 綺麗だね! そっくり!」


「でしょ! 美術の先生、CGキャラみたい……!」


「それ褒め言葉か微妙なところだけどね!」


 画面に映っているのは、中性的な少年だ。髪型は少し違うけれど、髪の長さは紫苑さんと同じくらい。なにより、綺麗に見えるバランスを考えて作られているみたいなその顔が、紫苑さんに似ていた。


 門倉さんのスマートフォンの画面を見ながら二人で話していたら、チャイムが鳴る。鳴り終わってしんとすると、紫苑さんが普段通りの少し冷めた声で言った。


「――今立ってる人、席に着いて。授業始めるよ」


 静まった中でもひそひそ話や楽しそうな笑い声が止まない。紫苑さんは「少しだけ、話すより聞く方に徹してくれる?」と苦笑する。苦笑いでも綺麗だから、女子生徒の心とか簡単に掴めてしまいそうだ。


「さて……自己紹介から始めようか。はじめまして。選択授業、美術を選んでくれてありがとう。担当教師の、呉羽紫苑です」


 紫苑さんは、黒板に描かれていた桜並木の中心を黒板消しで消した。呉羽紫苑、という綺麗な字が空いたスペースに記される。


「え、ねぇ、呉羽先生すごくカッコよくない?」


「女の人みたい」


「綺麗……」


 誰々よりかっこいいだとか、誰より綺麗だとかそんな話も聞こえてくる。紫苑さんが黒板に背を向けたら、喋っていた子達はしんと口を噤んだ。


「今日はとりあえず、鉛筆を貸し出すから、好きなものを一枚の紙に描いてほしい。好きなキャラクターでも、この美術室にあるものでも、目の前にいる人でも、何だって良い。君たちそれぞれの絵の特徴を知っておきたいから、描きたいものを好きなように描いて、それを僕に見せてくれるかな」


 柔らかな口調だけど、顔つきは固い。険しいわけじゃないけれど、微笑みはしない。無表情に近いのは、いつも通りだ。教師だからといって、営業スマイルを振りまくつもりはないみたいだった。尤も、紫苑さんは顔が綺麗だから、無表情でも美しく見える。


「他の教科は問と答えがあって、正答が用意されているけれど、絵に正解はないんだ。下手だとか上手いだとか、そんなのを決めるのはそれぞれの価値観。もちろん僕も人間だから、この絵は上手いとか、上手くないとか思うけど、それは全部好みだからね。だから、君は上手いねと褒めることも、君は下手だねと貶すこともしない。君の絵のこういう部分が気に食わないから直せとか、そういうことも言わない。とりあえずみんなの絵の特徴を知って、それぞれの個性を良い方向に伸ばしていけるようアドバイスしていきたいと思ってる」


 紫苑さんの美貌に興味がなさそうだった生徒も、その言葉で嬉しそうになっていた。単純に美術が好きで選んだ子も、喜んでいる。教室内の雰囲気はとてもよかった。


「美術の授業なんて、自分の好きなように絵を描く息抜きだ、って思ってくれて構わないよ。その息抜きの中で、僕がたまに声をかけに行くから、僕の言葉に納得したらそのアドバイスを受け入れて描いてみて。受け入れなかったからって叱りはしないから。納得してもらえるようなアドバイスを、何度でも考えて教えていく。君たちの個性を潰さないように、それでいて君たち自身が誇れる絵を描けるように……って言っても、教師になりたてだから、上手くいかないこともあると思う。それでも、付いてきてくれると嬉しい、かな」


 今まで無表情だった紫苑さんが、唇を左右に引いた。瞳が優しげに細められる。綺麗すぎる微笑に、女子たちが小声で騒いでいる。それを気にした様子もなく、紫苑さんはそのまま、鉛筆に手の平を向けた。


「それじゃあ、早速描き始めて良いよ。描けた人から持ってきて良いけど、五十分になったら描き途中でも回収するから。ただ、僕が『そこまで』って声をかけるまでは、時間なんて気にしなくて良い。椅子を持って移動しても良いから、描きたいものと見つめ合ってて」


 その声を合図に、何人かが席を移動する。窓際の石膏像を描きに行く人もいれば、教室の風景を描こうとしている人、友達を描こうとしている人がいる。ぼくも窓際に移動して、石膏像を描き始めた。


 教卓前で、紫苑さんの困り声が聞こえた。


「……あのさ、なんでこっちをじっと見てるの。早くなにか描きなよ」


「呉羽先生綺麗なので、描きたいなって!」


「美術室にあるものでも、目の前にいる人でも良いって言ってましたし!」


 どうやら、絵のモデルにされているらしい。顔だけを振り向かせて紫苑さんを見てみたら、溜息を吐きながらも、「勝手にすれば」と動くのを控えていた。失敗したな、とか考えていそうな横顔を、ぼくはくすりと笑った。


 態度は冷たいけれど結局優しくしてくれる紫苑さんが、ぼくは本当に好きだ。


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