eclipse14
原型を留めぬほどに壊れた人兎から、常磐の方へ視線を移して立ち上がる。常磐は僕の方ではなく浅葱を見ていた。それを捉えてすぐ、僕は浅葱の方に駆け出す。人兎の死体の方を思わず見ようとしていた彼女の腕を引いて、その顔を僕の胸元に埋めさせた。
「し、しおんせんぱ――」
動揺した声が衣服に呑まれてくぐもって聞こえていたが、それすらも金属音に掻き消される。浅葱の頭部を狙って叩きつけられた棍棒を、僕はナイフで押し止めた。
「その子が、紫苑ちゃんと会った日に『ウサギ』と遊んでいたお友達かな?」
「……浅葱に手を出すな。今のお前の相手は僕だろ」
「守りながら戦うのは苦手そうに見えたからさ」
「〈歪め〉」
圧しかかる重さを変化させると、棍棒が軽く浮いた。それに常磐が気付く前に力強く彼を突き飛ばす。彼がよろめいている隙に腕の中の浅葱を引っ張って僕の背後に回らせる。
「浅葱、出来るだけ離れてて。けどあいつからは目を逸らさないで。危険を感じたらすぐに呼んでほしい。君に向かう攻撃全てを見ていられるわけじゃないから」
「わ、わかり、まし……」
「俺の相手が君だって言うなら俺だけに集中してよ、紫苑ちゃん」
常磐の両足の傍から二本の棘が突き出される。僕だけでなく僕の背後にいる浅葱さえも共に貫いてしまえそうな大きさのそれが形成されていく。それを妨害するようにナイフを振るった。
「〈折れろ〉」
ナイフだけでは切り捨てられず、一本の棘を一先ず押さえ込み、もう一本を能力で折って砕く。「浅葱」と逃げるよう指示を出しているうちに、ナイフを握っている右手が突き飛ばされるみたいに後方へ押し出される。形成された棘は線路手前のフェンスに突き刺さっていた。
肩が外れそうなくらいの痛みを意識の外へ追いやると、僕の目の前に迫った常磐の攻撃を屈んで避け、彼の腹部をナイフで突き刺そうとして――手が止まってしまった。それは、この戦いを見ているであろう浅葱の顔が瞼の裏に映ったからだ。彼女は、生きた人間を傷付ける僕を見たらどう思うだろう。余計な感情が纏繞して生じた隙は、常磐の反撃に使われる。
髪を掴み上げられた僕の顔に細い針が向かい来る。顔を動かして避けようとしたが、避けきれずに右頬に鋭い痛みが走る。僕に近付いた常磐の顔を手の甲で払いのけ、彼から素早く距離を取った。
浅葱の目を気にしている余裕はない。彼女にどう思われようが今はここを切り抜けなければならない。だから僕は、すぐにケリをつけるべく、彼の瞳目がけてナイフを前へ押し出した。吃驚した顔が、反射的にだろう、こくりと傾く。僕の右手に握られているナイフは彼の横髪を数本切っただけに終わった。
一旦引いてもう一度繰り出そうとするも、その腕は常磐に掴まれ引き寄せられる。頬へ唾液を塗り付けられる不快感に鳥肌が立った。ナイフを握っている指先が微かに震える。
「しまっ……」
「<押し潰せ>」
能力を奪われたのを理解してすぐ次の行動に移ろうとしたが、それすらさせないほど早く常磐が僕に加わっている重力を操作する。頭を押さえつけられるみたいに片膝を突き、それでも常磐を見上げた。重りを付けられているような腕を動かしてナイフを持ち上げたが、その手に常磐の手が絡み付く。
「どこから壊してあげようかな」
悩むように僕を眺めつつ、ナイフを持っている右手首に力が加えられる。囁くように常磐が「〈折れろ〉」と呟いて僕の右手首を折り曲げた。地に落ちたナイフが常磐の手に渡り、彼は持っていた棍棒を虚空に消した。僕の顎を掴み上げると、刀身を頬に宛てがう。
「次は、どこをどうして欲しい? 素敵なピアスの付いた耳を根元から切り落してあげようか」
皮膚が切れるかどうかの力加減で、常磐がナイフを動かして僕の横髪を左耳にそっと掛ける。ピアスが触られた感覚に思わず彼を睨め上げていたら、浅葱の叫び声が耳を突き抜けた。
「っやめてください! その手を離して!」
「浅葱……」
「なに? 君、先に死にたいの?」
僕は後目で浅葱の様子を窺った。常磐の目が彼女の方に向く。危険な真似はしないでほしいのに、彼女は丸腰で、ただ拳を握りしめて常磐に向かい合おうとしていた。彼女に逃げろと叫ぼうとしたが、常磐が僕を視界から外したことで能力が解けている。今しかないと思い、僕は左腕を動かした。右手は折られて使い物にならない。左手はあの棍棒で打たれて多少負傷はしているが動かせる。
僕の顔の傍にあったナイフの刀身を握りしめてそれを常磐の手から引き抜いた。予想外だったようで常磐が間抜け面をこちらに振り向かせていた。
「え」
刃が表皮に沈んだおかげで、左手の平に痛みと汗が滲む。それに構わずナイフを構え直して彼の右目を抉る。瞼を裂いて眼窩をこじ開けるほど力強く放った刃は、一秒も経たないうちに折り曲げられていた。
左腕がねじ曲げられてナイフを取り落とす。常磐は穿たれた目を押さえてから「〈折れろ〉」と再び呟いた。膝を突いていた片足が外れて、支えをなくした僕は左肩から地面に倒れ込む。
「くっ……!」
「先輩!」
「大丈夫だよ、浅葱ちゃん。紫苑ちゃんを『ウサギ』の前に連れてって殺して、その後に君も殺してあげるから。最後には『ウサギ』もちゃんと殺すよ。みんな同じ痛みを味わえるって素敵じゃない?」
浅葱の方から革靴の音が響いた。彼女が一歩動いたのは、前にだろうか。それとも後ろへだろうか。頼むから、来ないで欲しい。このまま、どこか遠いところまで逃げてほしい。そんな弱気にも取れる僕の心が情けなく思えるくらい、浅葱は凛とした、それでいて微かに震えている言葉を常磐にぶつけていた。
「……やらせません。蘇芳ちゃんも、紫苑先輩も、あなたなんかに……!」
「じゃあ止めてみれば?」
「ぐ、ッ……!」
まだ折れていない右足にナイフが深く突き刺さった。刀身が見えないほど、柄が衣服に接触するほど沈んだ刃が、焼けた鉄みたいに熱く感じた。
「紫苑先輩っ!」
「あれ、あんまり痛くなかったかな? もっと苦しんで欲しいんだけど」
それ以上は沈められないだろうに、より力を加えられ、大きな穴を開けるようにナイフが捻られる。血管と筋肉が引き裂かれる度体が痙攣する。歪んだ眼で彼の手元を睨み付けていたら、場違いなくらい涼し気な音が鳴らされる。常磐の頭にぶつかって落ちた空き缶が、地面に転がった。
「やめてって、言ってるでしょ……!」
駅前のコンビニの傘立てから取ったのだろう、浅葱はビニール傘を両手で握りしめていた。
「っ駄目だ浅葱! 逃げ――っ、く……!」
常磐が僕の足からナイフを捻りながら引き抜いた。視界の端で彼が立ち上がる。浅葱は、逃げようとしない。
どうして逃げない? 彼女にとって現状は逃げ出したいほどのものであるはずだ。僕の能力を奪った常磐に、そんな傘一本で何も出来ないことは分かっているはずだ。両腕と片足を折られ、能力を使えない僕が助けに行けないことも、分かっているはずなのに。どうして。
「浅葱ちゃん、だっけ? 君、きっと争いとか嫌いで純粋な子なんだろうね。可愛いなぁ、先に殺ってあげようか」
「っ、行かせない……」
折れ曲がった指先の感覚はない。それでも、なんとか常磐のズボンの裾を掴めたようだ。常磐が足を止めた。
「一人一人殺すって、あんた言ってたよね。僕はまだ、死んでないよ」
「ふふ、怒らないでよ。あの子犬ちゃんは放っておいても害はなさそうだし、気絶するまでちゃんと君にも構ってあげるから――」
常磐の標的を再びこちらへ定めることが出来た。それに安堵して彼を見上げたら、彼は突然視界から消え失せる。代わりに黒い線が弾丸みたいに走っていく。
漆黒が走る先を追いかけてみたら、常磐が黒い蛇のようなものに首を絞め上げられていた。どこから飛んできたのか、降り立った人影が僕の視界を遮った。
「常磐ってお前のことであってるよね? 俺の弟に何してんの?」
能力を見た時から察してはいたが、自分の前に立ったのが紫土なのだとはっきり分かった。硝子が砕けた時の音が夜闇に消えていく。その音の発生源は多分紫土の影だ。常磐は僕の能力を使って影を折ったみたいで、苦しげながらも絞められている時とは違う声音を吐き出していた。
「はっ……一人一人殺るつもりだったんだからもう少し待ってよ」
「お前の事情とか知らないな。悪いけど、紫苑を泣かせて良いのは俺だけなんだよ」
「流石にコレは分が悪いなぁ。『ウサギ』にも会いたくなってきたし……ここは一旦引こうかな」
「は? 俺はまだお前の両腕折ってないし首も抉れてないんだ。もう少し付き合ってくれない?」
紫土の影が蠢いて、数匹の蛇を常磐に向かわせる。常磐はそれを歪めてから、どうやら立ち去ったみたいだ。足音が遠ざかっていった。
満足していない様子だった紫土は彼を追うのだろう、と思ったが、影を消してその場に残っていた。
「紫苑先輩! 大丈夫ですか!? って大丈夫じゃないですよね……どうしよう……」
「大丈夫だよ。死なないから、大丈夫。ありがとう」
駆け寄ってきた浅葱の泣き出しそうな顔を見たら、強がりたくなった。傍に座り込んだ浅葱へ微笑を向ける。ほっとしたのか、浅葱は嬉しそうに目元を細めて、それから結局涙を零し始めていた。この手じゃ涙を拭ってやれることすら出来ないな、と考えていたら、溜息が降ってくる。
「で、紫苑なにしてんの? 殺されそうなスリルでも楽しんでた?」
「ふざけたこと言わないでよ。……なんで来たの」
「それはどういう質問?」
聞き返さずとも彼なら分かっているだろうに。まるで僕がどんな言葉で返すのか楽しんでるみたいだった。
「僕を助けるなんて、あんたらしくないと思ったんだ」
「そう? 俺は俺以外の奴がお前を苦しめて楽しんでたらムカつくよ」
「『ウサギ』が高校生だとかいう嘘の情報流して僕を殺させようとしてたくせに何言ってるんだ」
「いつの話をしてるのさ。今は、お前を死なせたくないからね」
それはきっと本心なのだろう。兄らしい彼を前にするとやはり調子が狂う。どんな表情を作れば良いのか分からず、結果的に仏頂面で地面を睨んでしまう。
「……あっそう」
「というか、その口はお礼とか言えないのかな?」
「…………助かったよ」
「それはお礼とは言わないでしょ」
「ありがとう、これで満足?」
「なんだよその棒読み。別にいいけど……。で、大丈夫?」
「触るな」
屈んだ紫土が僕の方に手を伸ばしてきたため、触れられる前に口で突き放す。彼はその手を止めたが、引き攣った笑みを浮かべて「はあ?」と疑問符に苛立ちを滲ませた。
「別に傷口抉ろうとしたわけじゃないんだけど。なに、そんなに抉られたかった? じゃあちょっとだけね」
「いっ、た……!」
「お、お兄さん!?」
散々抉られた片足に爪が突き立てられ、思わず呻く。紫土の行動は、ずっと涙を拭っていた浅葱が思わず反応してしまうくらい衝撃的だったみたいだ。負傷している弟の傷を抉る兄なんて普通いないし驚きもするか。
「ま、俺がお前も浅葱さんも守ってやるから、安心して休んでなよ」
「あんたに何されるか分からないから安心出来ないよね」
いつもの癖で冷たく返してから後悔する。助けてくれただけでなく、浅葱まで守ってくれるという彼を頼っておけば良いのに、これでは機嫌を損ねて立ち去らせてしまいそうだった。
紫土の手が視界に伸びてきて思わず目を細めた。痛めつけられるかと思ったが、彼は優しく頭を撫でてきた。
「別に、何もしないよ。だから大人しくしてて」
僕がまだ幼かったなら、優しい彼に飛びつき、ありがとう兄さん、なんて言ったのだと思う。今の僕はどうしようもないくらいどこかが曲がっていて、大人ぶった子供の皮を剥ぐことが出来なかったから、地面に頬を擦り付け瞼を落とすことしか出来なかった。




