eclipse11
挨拶には何も返さず、震え出しそうな手を彼に突き出す。とっとと小銭を持って立ち去って欲しかったのだが、僕の手からそれをそっと取って財布にしまっても、彼は僕から遠ざかろうとしなかった。
「ありがとう。せっかくだし、どこかでご飯でも食べない?」
「……いや、いい」
胃の中のものを吐きそうだというのに、食事など共に出来るわけがない。なぜそんなに、楽しそうに笑っていられるのだろう。僕の手を払って化物と呼んだくせに。僕と関わるのをやめたくせに。
あの一件ののち、学校ですれ違った彼が、ほかの友人と僕の話をしているのを聞いたことがある。もともと仲が良かったから僕について聞かれたのだろう、彼は「呉羽くん? あぁ、大人しそうに見えるけどそうじゃないんだ。だからちょっと怖くなっちゃって」と笑って話していた。
怖くなったのは、事実だと思う。能力という普通じゃないものを目の当たりにして恐れるのは当たり前だ。だけど彼を傷付けた訳では無いのに簡単に友達という肩書きを剥がして、孤立した僕を陰で笑える人間の方がよっぽど吐き気がする。国崎鴇に関する記憶が一気に蘇ってきて、頭がおかしくなりそうだった。
彼の顔を見ていられなくなり、背を向けて歩き出す。忘れよう、鴇になんて会っていない。そう自分に言い聞かせて立ち去ろうとしたのに、彼は僕の肩に手を置いて引き止めた。
「待って、せめてお茶でも飲もうよ。おれ、その、紫苑にずっと謝りたかった、し……」
「国崎、名前で呼ぶの、やめてくれない? 友達じゃないんだから」
「っごめん! 本当に、あの時は悪かったと思ってる! だから許してよ。そんな冷たいこと言わないで。おれ達、友達でしょ?」
「っ友達じゃない!」
一瞬触れた手が燃えているみたいに熱く感じた。それに触れたら焼き尽くされそうで、反射的に振り払っていた。
間違ってるのは僕じゃないと思いたいのに、かつての友を拒絶して、その手を叩いた自分の胸の中で罪悪感に似たものが込み上げる。もう、わけがわからなかった。何が正しいのかわからなかった。
いくら人の多い駅構内とはいえ、大きな声で会話をしていると流石に目立つ。周りから向けられる視線が針のようで、全身が震え出しそうだった。俯いた僕の手首を、鴇が握る。もう、振り払える気力は残っていなかった。
「ほ、ほら。紫苑顔色悪いし、どこか店で話そうよ。多分、誤解とか、色々あるだろうし。ね、行こう?」
連れられるままに、僕は駅前のファストフード店の扉を潜っていた。奥の窓際の席に連れて行かれ、半ば押し込まれるように僕が座ると、彼は荷物だけ置いて立ち上がる。
「何頼む? おれ、奢るよ」
「…………水で良い」
明るい声に目を向けることが出来ない。唇の隙間から零れた言葉はとても小さくて、彼に届く前に消えてしまいそうだった。それでも聞き取れたのか、彼はカウンターの方に向かっていく。
僕は心臓を押さえて俯いた。そこがとても、痛かった。嫌な光景と嫌な声ばかり頭の中で繰り返されて、自分の体温がどんどん下がっていくように感じていた。
帰りたい。
浅葱という『友達』に会いたいとは思ったけれど、昔友達だった赤の他人に会いたいとは思ってない。どうして偶然とはこうも、人の心を抉りに来るのだろう。彼と会話をしたところでなんの得にもならない。久しぶりの日常で肩の力を抜ける、なんてこともあるはずがない。これなら、戦いに巻き込まれる方がずっと良い。
戻ってきた鴇が、自分のハンバーガーとポテトと紙コップを手元に置いてから、僕に飲み物を差し出してくる。水、と頼んだのに、中身はオレンジジュースだった。
「水じゃ奢りにならないからさ」
「……そう」
「紫苑、なんだか暗くなったよね」
口に含んだオレンジジュースが、上手く喉を通らなくて咳き込みかけた。溢れる咳をなんとか堪えて唇を噛む。
思えば、僕が自分を殺し始めたのは鴇に拒絶されてからだ。人に話しかけるのをやめて、明るく振る舞うのもやめた。家の中で明るく笑って兄を元気付けようとすることにも、疲れてしまった。たまに帰ってくる父を引き留めようとするのも、嫌気が差してしまった。
なにもかも、無駄に思えたから。普通に明るい性格でいたところで、友人に拒絶されて、兄には不愉快だと怒鳴られて、父には邪魔だと突き飛ばされて。それでも明るくいられるほど、呑気な性質は持ち合わせていなかった。
行く先々で振るわれるのが目に見えない刃だというのに、どう笑えば良かったのだろう。刃を刺してきた人間に、どう、笑えば良いのだろう。
僕は冷静な目をして手元だけを見つめた。
「覚えてる? 僕が孤立した後の話だけど、教室内で誰かが馬鹿なことを言った。みんなそれを笑ってて、先生もそれを笑ってて、僕も、おかしかったから笑ってしまった。そんな僕を見て君が友達と何を話したか、覚えてる?」
少し、嫌味を返すつもりだったのに。口を開けばベラベラと、余計なことばかり言い募ってしまう。鴇の手元しか見れないまま、その返事を待っていた。
「……わ、からないや。はは、もう何年も前のことだし」
「……そう。『よく独りぼっちで笑えるね』って、君は言ったんだよ」
「…………ごめん。でもそれじゃあ、おれのせいで笑えなくなったみたいじゃん。そんなの忘れて笑えば良いのに。そんなの、話題がなかったから、なんとなくしちゃったーみたいな話でしょ」
初めこそ申し訳なさそうにしていた彼が、「紫苑は気にしすぎだよ〜」なんて平然と笑う。友達と笑い合うみたいに、笑い話を交わしているみたいに。ストローを噛み締めたまま、僕は何も言えなかった。
飲み物を喉に流すことが出来ないくらい、食道がものを拒んでいた。がりがりとストローを噛んで、鴇の手だけをぼんやり眺める。彼はハンバーガーを食べながら、ポテトを僕の方に寄せてきた。
「食べて良いよ、こんな時間だしお腹空いてるでしょ」
「……いらない」
「そっか。……あのさ、おれ、何も知らなかったし、そういうすごい力があるって初めて知ったから、つい驚いて突き放しちゃっただけでさ。知ってたら、紫苑の手を払ったり、しなかったよ」
へぇ、と、ほぼ息に近い声で返す。とっとと食べ終えて立ち去ってくれれば良いのに、鴇は話しながら食べているから、全然食べ進められていないみたいだった。相槌の後に沈黙が降りたが、それも長くは続かなかった。
「おれもああいうすごい力があったらヒーローみたいになれたのかなぁ、なんて最近思うんだ」
ヒーロー? 人のことを化物と呼んでおいて、彼は何を言っているのだろう。今すぐ店を出ていきたくなり、窓に目をやる。誰か知人でも通りかかって助けてくれないだろうかなんて、柄にもなく考えてしまう。藍鉄で塗られた町並みと人影から、知り合いを探すのは難儀だった。
「ああいう力があったらさ、いつまでも、いじめられっ子じゃないだろうになぁ」
「…………」
「あの、紫苑さ。おれを虐めてた、三谷って覚えてるかな。あいつ、高校もたまたま一緒でさ……」
三谷。名前は覚えていないが、多分僕が負傷させてしまった五人組の内の一人だろう。あの時僕の胸倉を掴んできたやつな気がする。
物凄くどうでも良い情報に相槌すら打たず、ぼんやりと話だけを聞く。やがて彼が、意を決したように声を上げた。
「五万円、貸してくれないかな。あ、一万でも良いけど」
「……なにそれ」
「三谷に持ってこいって言われてて、けどそろそろおれも貯金がなくなるし……困ってたんだ。そのうち返すからさ、貸してくれない? ほら、ジュース奢ってあげたでしょ」
「……ほかを当たって」
僕をわざわざ引き止めて飲み物を奢った理由はそれか。苛立ちながら、僕はポケットから財布を取り出して五百円玉を彼に突き出す。このジュースがいくらかは知らないけれど、五百円以上ということはないだろう。しかし彼はそれを押し返してきた。
「え、良いんだよ奢りなんだから」
「奢った代わりに何万も貸せとか言ってるんでしょ? なら奢らなくて良い。そもそも僕が頼んだのは水だし」
「……じゃあさ、明日一緒にゲーセン来てくれないかな。三谷にそこに連れていかれるんだけど、紫苑がいれば怯えて逃げ出しそうだし!」
「人をなんだと思ってるわけ。いい加減にしてよ」
なにが、ヒーローだ。結局怯えさせるための化物としか思っていないくせに。金か能力を貸せだなんてふざけている。舌を打ちたいのを堪えていたら、鴇が大袈裟なため息を吐いた。
「本当、紫苑変わったね。友達が悩んでたら助けてくれるようなやつだったのに。そんなんだから独りぼっちなんじゃないの」
「……話はそれだけ?」
不快感が手に力を込めさせる。紙コップが軽く凹んで、ストローから少しだけオレンジジュースが溢れた。僕の苛立ちを見て取ったからか、鴇が両手を振った。
「あぁ、ごめんね。馬鹿にしたんじゃなくてさ。可哀想だなって思っただけで」
「僕には、君の方が可哀想に見えるけどね。わざわざ捨てた友人に縋らなきゃならないほど味方がいないんでしょ? 友達、もう一人もいないんだ? 頼れる相手がいないなんて可哀想――」
突然飛んできたものに思わず目を瞑る。前髪から冷たいものが流れて、飲み物をかけられたのだと気付いた時には苦笑が零れていた。テーブルに零れた雫と香りから、それが炭酸ジュースだと分かって、最悪だと漏らしたくなる。
「もういいよ、紫苑帰れば?」
無駄な時間を過ごして、無駄に心を削られて、無駄に汚れて。自分が馬鹿馬鹿しく思えた。眼窩に染みたジュースのせいで零れそうになっている涙を引っ込め、席を立つ。
「あぁ、帰るよ。でもその前に一つだけ聞きたい」
「なに、おれもう紫苑と話したくないんだけど」
自分から声をかけておいてなんなんだと思ったが、知りたいことがあったから続けた。
「僕の他に能力者を見たの?」
「え? ……あぁ、結構前のことだけど。三日駅で人とぶつかって転んで腕を擦りむいたんだけどさ、その人が腕に触ったら傷が治ったんだ。すごいと思った」
「どんな人だった? 外見の特徴とか性別とか、覚えてる限り教えて欲しい」
まさかとは思ったが、こんなところで有力な情報を得られるとは思っていなかった。自慢したい思い出だったのか饒舌に語っていた彼へ、テーブルに手を突いて詰め寄ると、楽しそうだった顔が歪む。
僕の前髪から雫が零れて、頬を伝ったそれがテーブルに落ちる。その間、彼は黙っていた。ようやく僕を見た彼と視線が交差する。その目を見ることは出来ず、頭を下げるように顔を俯かせたら、視界に彼の手の平が映りこんだ。
「一万円。それで教えてあげるよ。おれのことを馬鹿にしておいて、タダで教えてもらおうなんて思わないで」
「……確認だけど、それ以上は求めないよね?」
「どうせ財布に五万も入ってないでしょ? あ、じゃあ財布に入ってる札全部で良いよ。それ以上は求めないから」
「先に情報を話して」
苛立ったおかげで声音に殺意が混ざってしまう。感情を押し殺して財布を手にした。濡れた顔を手の甲で拭ってから、財布を開く。
「大学生くらいの女の人だったよ。身長は低め。紫苑より十センチくらい低いかな。タレ目で、可愛かった」
「名前までは分からないか」
「流石にね。そのくらいだよ、分かるのは。特徴っていう特徴はなかったし」
「そ。ありがと」
札を数枚取り出して差し出したら、鴇はそれを取らずに手の平だけ向けてくる。なんのつもりだ、と思っていたら「財布」と不機嫌そうに言われた。
「ちゃんとそれが全部か見せてよ」
「……ほら」
所持金の半分を抜いて渡したのだが、納得いかなかったようだ。仕方なく財布ごと渡して、札を抜き取った彼からそれを引ったくった。
とっとと立ち去りたかった為、僕は早足で店を出た。詰まっているような息を早く吐き出したいし、ずっと強ばっていた体を解したかった。オレンジジュースは半分以上入ったままテーブルに置き去りにしたが、好きに処分してくれたら良い。
店を出て向かったのは家の方ではなく駅の方だ。駅の外にあるトイレに半ば駆け込むように入って、個室の扉を開ける。嘔吐感がひどかったから両膝を地に突いた。
一滴も飲まないべきだったなと思って、ずっと堰き止められていた胃の中のそれがせり上がってくるのを感じた。
会いたくない奴に会ったくらいで吐きそうになるような弱さなど、赤の他人に向ける笑顔と共に捨てたつもりだったのに。




