表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月光If(番外編+if劇場版)  作者: 藍染三月
完結後一年記念番外編
2/32

美術教師紫苑の話1

この章(完結後一年記念番外編)は、月光完結から一年経ったのを記念して書いたものです。本編最終話から数年後の、ifの話としてお楽しみいただけたら幸いです。

     ◆


 着慣れないジャケットを羽織って、僕はきつくネクタイを締める。姿見に写った服装は真面目そうで、好印象を与えられそうだった。だけど、第一ボタンまできっちりと留めるのは性に合わない。これくらい許されるだろうと思い、第一ボタンを外した後に結局ネクタイを緩めた。


 腕時計を確認すると、家を出る時間まではあと三十分ほどだ。既に朝食は終えたし、持っていく物も準備し終えている。取り敢えず自室を出て一階のリビングに戻ったら、卓上の冷めている朝食が目に付いた。一時間前に起こしてやったにもかかわらず、その朝食を食べるはずの彼は、まだ起きていないみたいだ。溜め息を吐いて二階に上がる。ノックもせずにドアノブを回して、遠慮なく引き開けた。


「ちょっと、僕も暇じゃないんだけど。いつまで寝てるの」


 苛立ちを孕んだ声を投げかけた先で、柔らかそうな布団が蠢く。顔が窺えないから、起きているのか寝ているのかさえ分からない。仕方なく室内に足を踏み入れた。床に散らばる絵の具や筆を、全てゴミ箱に突っ込んでやりたくなる。もちろん面倒だから手を伸ばしもせず、ベッドの前まで歩いていった。紫土が潜って寝ているにしては、膨らみが足りないような気がする。けれど動いているのは確かだから、そこに彼がいるのは間違いないと思う。


「次はもう起こしに来ないよ。これで最後だから――……っ!?」


 布団を引き剥がした途端、中から何かが飛び出してきて、それが勢いよく僕の腹部にぶつかった。警戒していなかったし、足に力を込める暇もなかったため、そのまま後ろに倒れ込む。


 上半身を起こして、僕にぶつかってきた物を掴みあげてみたら、それは猫だった。ぬいぐるみでも玩具でもない、本物だ。


「……は?」


 口を開けて小さく鳴いた猫は、僕の手に頬を擦り付けてくる。


 わけが分からないまま、人の手で毛ずくろいを始めた猫を凝視して固まっていた。少しして、立ち上がろうとした僕の耳に足音が届く。


「紫苑なにしてるの?」


「……あんたは部屋で何を飼ってるんだ?」


 猫をそっと床に下ろして、僕は立ち上がる。スーツについた毛を払いながら、開いている扉に寄りかかる紫土を睨んだ。歯ブラシを口に突っ込んだままの彼はしゃがんで、近寄ってきた猫を乱雑に撫でていた。


「これ、東雲が少しの間預かっててくれって言うからさ。数日間出張するんだってね。まぁ……こういうペットも悪くないな。お前よりは可愛い」


「僕と子猫を比べないでくれるかな」


「確かに。子猫に失礼だった」


「器用な芸披露してなくて良いからとっとと支度に戻れば? というか朝食食べた?」


 歯ブラシを咥えているというのに綺麗に話してくるものだから、苦笑してしまう。紫土は猫をベッドの上に戻し、廊下に向かい始める。


「食べてないよ。時間ないから」


「朝ごはんはオムライスね、とか頼んでおいて、ふざけてるのかお前。口に突っ込んでやろうか?」


「弁当箱に突っ込んだよ」


「弁当箱にって、それは僕が……」


 部屋を出た紫土を追いかけて、僕も紫土の部屋を後にする。後ろ手に扉を閉め、紫土の背を呪うように見てからハッとした。思わず歩みを止めてしまう。


 今日の予定と自分の持ち物を確認するのに必死で、彼の弁当を作り忘れていたのだ。今からでもちゃんとしたものを作ろうと思い、腕時計を確認する。残り二十分。作って詰めている暇はない。やってしまった、と内心で頭を抱え、僕は階段を足早に下りる。廊下を挟んでリビングの向かい側にある洗面所へ駆け込み、紫土の背に手を伸ばして、そのシャツを引っ張った。口を濯いでいた彼は、手の甲で口元を拭いつつ振り返ってくる。


「なに? ……あ、邪魔だった? どうぞ、歯磨けば」


「もう磨いた」


「あっそ」


「ごめん」


 僕が悪いのだから謝るのは当然だ。だけど、やっぱり僕はこの兄のことがそこまで好きじゃなくて、顔を見て頭を下げるなんてことは出来なかった。どんな表情で見られているのか知りたくないし、僕の顔色も窺われたくないから、彼のシャツに皺を刻んでいる自身の手を、じっと見ることしか出来ない。


「……明日は、忘れずに作るよ」


「別に。俺も予定が狂ったからお前に謝りたい気分だし。謝らないけど」


「……は?」


 きょとんとして顔を上げたら、紫土はすぐにリビングへ向かってしまう。指先から布の感触は簡単に離れていった。


「弟の初授業だよ? 流石にそんな日くらいはさ、お兄ちゃんが朝食と弁当作ってやりたくなるよね。起きれなかったけどさ」


「……あんたの作るご飯とか、毒でも入ってそうで嫌だな」


「お前の弁当箱に納豆塗りたくって、はんぺん詰めるよ?」


「え、何? 明日はグリーンピースご飯が良いって?」


「耳鼻科か精神科に行っておいで」


 相変わらずお互い冷めた面をして、下らない言葉を飛ばし合う。僕はリビングの椅子の上に置いていた自身の鞄を手にして、そろそろ行こうかなと考える。遅れるよりは、早く着いた方が良い。


 どうせ紫土もすぐ家を出るだろうから、ニュースが流れていたテレビの電源を切る。テーブルに髪留めを何本も散らかして髪を弄っている紫土を一瞥した後、僕はリビングを出ようとした。軽く肩を引かれて足を止めると、頭に手の平が乗せられる。


「……あー、その、さ。まぁ、行って……みて、頑張りなよ。いっ……ぱい生徒いると思うけど、緊張し過ぎないようにね」


 珍しく歯切れの悪い言葉を落とされて、僕は首を捻りながら紫土の手を払う。振り返ると、紫土はもう僕に背を向けて、髪型を整えていた。僕のものよりも広い背中をじっと見てから、口端を緩める。


「……行ってくるよ」


「そ。行ってらっしゃい」


 さらりと返された挨拶が、少しだけ可笑しかった。まるでその台詞だけ、台本を準備していたかのような響きだった。


 廊下に出て、革靴を履き、玄関を開ける。ふわり、と、視界に一枚の花びらが舞い降りてきた。どこから飛んできたのか、桜の花弁が僕の鞄に乗った。それを人差し指と親指でそっと摘んで、顔の前に持ってきて眺める。涼しい春の風が、柔らかい花びらを揺らして、攫っていった。朝陽を扇いで空を泳いだそれは、雪のように視界から溶けてしまった。


「桜、か」


 自分の家の敷地内から歩道に進んで、駅を目指す。進んでいく道も点々と、桜色で彩られていた。少しだけ、彼女に会いたくなる。


 桜色の髪飾りを気に入ってくれた、一つ年下の彼女の顔が、しばらく頭から離れなかった。


 そういえば数年前、僕が卒業する時彼女から奪ったものも綺麗な桜色だったなと考えて、額を押さえた。あの日、寂しいと泣いた彼女を前にして、僕は一年も遅れた返事と共に、下らない上書きをした。今思い出してみても、下らない。


 涙の思い出として刻まれていたのであろうその行為を、僕の思い出で塗り潰してやりたかったのだ。きっと僕自身も、卒業して彼女と会える時間が少なくなることで寂しさを感じていたのだと思う。だからあの日の僕は、口付けと約束を交わした。


 彼女の恋が褪せるまで、僕は彼女と向き合い続けることを誓った。もちろん、見つめるだけじゃない。色褪せてしまわないよう、僕もその恋に、別の色を塗り重ねる。


 それはたとえば、藍色が良い。


 僕達を強く繋いだ、空の色だから。


     ◆


 職員室で他の教員と話してから、美術室に向かう。美術室は、四階にある。高校生の時、この美術室に行ったことは一年の間しかなかった。


 美術、音楽、書道の三つから好きなものを一つだけ選べる選択授業で、一年生の時は美術を選んだけれど、やはり僕には向いていない気がして別の教科にした。二年で音楽、三年で書道と、結局全部やった生徒なんて僕くらいしかいないんじゃないか、と思う。正直どれでも良かったし、どれもつまらなかったわけではないけど、楽しくはなかったし。


 今日、美術の授業があるのは三四時間目からだ。一二時間目は空いているから、職員室でほかの教師と雑談していても良いかもしれないけれど、僕は美術室でどこになにがあるのか再確認することにした。もちろん、前の美術教師から色々と聞いているから不安は少ない。あの美術教師、一年目しか美術を取っていなかった僕のことを覚えていたのはすごいと思う。二年目と三年目も取って欲しかったと残念そうに言っていたが、僕が美術教師になったことを純粋に喜んでいる様子もあった。


 高校の時に歩き慣れた廊下を進んで、見慣れた制服を着た生徒達とすれ違う。新しい教師はやはり目立つようで、視線は度々向けられるし、こそこそと話の種にされている気がするし、落ち着かない。小さく溜め息を吐いて階段を上ろうとしたら、スーツの袖を引っ張られた。振り向いた先で、茶色がかった髪がさらりと揺れた。


「紫苑さん、モテモテですね。……あ、紫苑先生って呼んだ方が良いですか?」


「……菖蒲、高校ここだったんだ? もちろん、先生は付けて」


 僕を嬉しそうに見上げている菖蒲は、長かった髪を肩口よりも短くしていた。三つ編みはどうしても外せないのか、左耳の後ろに向けて編み込みがされている。女子生徒よりも身長が低そうだな、なんて失礼なことを思いつつ、低い位置にある頭を撫でてやる。多分、一五〇センチ前半くらいしかないんじゃなかろうか。


 菖蒲は女の子みたいな童顔を綻ばせて、「えへへ」と笑った。


「紫苑さんがここに通ってたって、東雲さんから聞いたので! ここを受験することにして、合格しました! もう三年生ですけどね」


「そっか。君が中学生の時までしか、会ってなかったね」


「紫苑さん……紫苑先生、忙しそうでしたし。でも美術教師になったのは、ぼくがきっかけですか?」


 悪戯っ子みたいに目を細めて、菖蒲は上目遣いでこちらを窺う。頭を強く押し、下を向かせてやった。


「そうだね、君に絵を教えた数年間は楽しかったよ」


「ふふ、なんだか嬉しいです」


「良いから教室に戻って。そろそろ一時間目の授業が始まるんじゃない?」


「あ、ホントだ。教室戻りますね、紫苑先生! 後で会いましょうっ」


 ひらひらと、サイズの合っていないブレザーの袖を振り、菖蒲は階段を駆け上がる。敢えてサイズを合わせなかったのか、それとも採寸したのにサイズを間違われたのか、謎だ。だらしない、と怒られそうだけれど、怒られても菖蒲は気にしなさそうだった。


 ゆっくりと階段を上る中で、菖蒲の言葉を反芻してみた。後で会いましょう、ということは、彼は美術を選択しているのだろう。彼の授業風景を見たことがないから、真面目にやってくれることを願う。


 本鈴を聴きながら、僕は四階まで上がった。


 戸を開けて、誰もいない美術室に入る。絵の具の付いた四人掛けの木製テーブルや、椅子。窓際に並ぶ石膏像。喫茶店のカウンターみたいな形の教卓に立って、正面に見えるのは風景画だ。過去の生徒が描いたものだろう、風景画はいくつか壁に掛けられていた。


 後ろを向けば黒板があり、その右手側に、美術準備室へ繋がる扉がある。教卓の下は棚みたいになっていて、そこに画材がたくさん押し込まれていた。鉛筆が入っている箱を見つけ、それを卓上に置く。スケッチブックは美術を選択した時点で皆購入しているため、貸し出す必要があるものは鉛筆と消しゴムくらいだろう。もちろん、次からは持ってこいと言うけれど、最初だから持ってきていない生徒がいそうだ。


 準備することも確認することも思ったより少なくて、退屈になる。黒板に向かい合い、何気なく、白いチョークを手に取った。この学校の校門を潜った時に見た桜並木を瞼の裏に映す。あの道を、退屈しのぎに描き始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ