eclipse10
●〈視点・神屋敷菖蒲〉
聞き覚えのある声が、泣き叫んでいた。ぼくには関係ないと無視することも出来たけど、やっぱり聞いたことのある声が泣いていたら駆け付けないわけにはいかない。少し先の路地にいるようだったから慌てて駆け込んで、生徒手帳とペンを胸ポケットから取り出し、素早く狼を描いた。
狼は蘇芳さんの頭上を通り過ぎて、見知らぬ少女を殺そうとしている男に飛びかかる。しかし衝突する前に男は屈んで避け、蘇芳さんを連れて行くことを優先したみたいだった。慌てて追いかけようとしたものの、駆け出した足を引き止める。
「……今優先すべきはそっちじゃない」
落ち着いて、ショートカットの少女に目を向けた。彼女に刺さっていた柱はいつの間にか消えており、地面に倒れた彼女が苦しげな呼吸を繰り返していた。動けないほどの傷だろうに、彼女は男が去った方を睨み据えてどうにか立とうとしていた。
「っ動いちゃダメです。今追っても間に合いません」
少女が掠れた吐息で「くそっ」と零して倒れ伏す。気を失ってしまったかと思ったが、どうやらまだ意識はある。ぼくはブレザーのポケットから携帯電話を取り出すと、頼れそうな人に繋いだ。
「もしもし、空さんですか。ぼくの中学校から出て三日駅側に進んだ先の路地で、蘇芳さんが茶髪の男性に連れ去られました。その人は能力者と思われます。それと、一般人が巻き込まれて負傷しているので出来るだけ急いで。お願いしますね」
空さんの言葉は何も聞かずに言うだけ言って電話を切り、ぼくは彼女の傍に膝を突いた。うつ伏せになっていた彼女を仰向けにして、ポケットから取り出したハンカチで傷口を押さえる。
「もう少し、頑張ってください。助けは呼びましたから」
「ねぇ……なんなの。さっきのやつも、あなたも、何をした?」
掠れた声で問われているのは、多分能力についてだ。それを一般人に説明出来ないため、ぼくは「あまり喋らないでください」と躱すことしか出来なかった。辛そうに息をしながら、彼女は片腕を持ち上げて目元を隠す。
「ははっ……馬鹿みたいだね。わけもわからないやつに突っ込んで、警察来るって言っとけば逃げると思ったのになんか刺されてさ」
「……いいえ、立派だと思います」
「……助けたかった。姉さんの大切な人だから、わたしが、守らなきゃいけなかったのに……なんでこんな、無力なんだ……っ」
蘇芳さんの友人かと思っていたけれど、少し違うのだろうか。だが、彼女が蘇芳さんを助けたかったという気持ちはとても強く感じた。むしろ強くなかったら、明らかに怪しい男性の前に躍り出ようなんて考えないはずだ。もしぼくに能力がなかったなら、駆け付けなかった。ぼくはただの人間だから。
「お姉さんは、ヒーローみたいでしたよ」
「……そうだったら、よかったのにね」
彼女の口元が、己を嗤う。それ以降彼女は何も喋らなかったから、ぼくはひたすらその息が絶えていないか確認し続けた。早く、早くと願ってどれほど経った頃だろう。「菖蒲!」と、紫苑さんの声がした。
「紫苑さん! 空さんも! 早めに治療をお願いします!」
「わかってる。菖蒲君、下がって」
空さんが少女の目に触れやすくするため、ぼくはその場から退いた。それによって少女の姿をその目に留めた紫苑さんが息を飲んでいた。
「萌葱?」
その声が届いたからか、少女が空さんの手首を掴んで払う。動揺した空さんには目も向けず、萌葱と呼ばれた少女は血塗れの上半身を起こそうとした。
「どういう、ことですか。なんで紫苑さんが……あぁ、もしかして、そういう……」
「萌葱、どうして君が」
「鞄が、落ちてたんです。そこの道に。だからここに飛び込んで、縛られている河内さんを見かけて、助けなきゃって……ねぇ、紫苑さん」
空さんが、どうしたら良いかと困ったように萌葱さんと紫苑さんを見ていた。紫苑さんに、うわ言じみたか細い声が投げかけられる。
「もしかして、姉さんもなにか関係していますか? 姉さんも、巻き込まれたりしますか? お願いだから、姉さんは、姉さんには何もしないで」
「……大丈夫。僕が、浅葱を守るから」
「紫苑さんも、死なないでください。姉さん、楽しみにしてたから。紫苑さんと、遊ぶんだって」
「分かってる」
紫苑さんの言葉を聞いて、萌葱さんの顔が柔らかくなる。ふっと綻んだ彼女の顔を見てから、紫苑さんが「空、記憶ごと戻して」と頼んだ。空さんは萌葱さんの目元に触れて、「〈戻れ〉」と状態を巻き戻す。
その様子を一瞥し、ぼくは紫苑さんに近付いた。
「彼女、もしかして浅葱さんの?」
「そうだよ、浅葱の妹だ」
「そうだったんですね……気付かなかった」
「菖蒲、ありがとう」
頭に手を置かれて、きょとんとした。お礼を言われるようなことをした覚えはない。首を傾げたら、紫苑さんが微笑した。
「君のおかげで、萌葱を助けられたよ」
「当然のことをしたまでですよ。蘇芳さんを拐った人は逃がしてしまいました。すみません」
「いや、仕方ない。どう探してどう助けるかは東雲とかと話し合って決める。菖蒲は心配しないで」
口ぶりからして詳細をぼくに話してくれる気はなさそうだった。ぼくも深くは踏み込まないことにして、こくんと首肯する。通りかかった空さんにも頭を撫でられて、ぼくはもう中学生なのになぁと複雑な気分になる。
「じゃあ、菖蒲君はその子の傍にいるか、その子を学校の保健室まで運んでやるかして。私と少年は保護協会に戻るから」
「分かりました! 紫苑さん、またお絵描き教えてくださいねっ。この前の、塗り潰さない描き方楽しかったです」
「点描のこと? また教えてあげるよ」
紫苑さんは勉強もお絵描きも、色んなことを教えてくれるから本当に好きだ。やった、と心の中で喜んで、紫苑さんと空さんを見送り、ぼくは萌葱さんの前に屈んだ。彼女をなんとか背負って、落ちていた二つの鞄を腕に引っ掛けて歩き始める。
ぼくの能力が、身体能力が強化されるという能力だったら良いのにと、この時すごく思った。
◆〈視点・呉羽紫苑〉
空の運転する車の中で、僕は爪を噛む。蘇芳なら拘束されても大人しく連れていかれるなんて有り得ないだろう。となると常磐に血を口にされて能力を奪われたと考えるのが妥当だ。だが何故気を付けなかった。油断でもしていたのか、それとも――知らなかったのか。
はっとして制服のブレザーのポケットに手を突っ込む。硬い長方形のそれを取り出して開き、メールが一件届いていることに気が付く。昨夜紫土から届いていたものだ。常磐の能力について記載されているそれがなぜ僕の携帯に、と考えるまでもなく失態に気が付く。
蘇芳と僕は、待宵に行く際に携帯電話を交換してそれきりだ。紫土はそのことを知らない。くそ、と小さく吐き捨ててから疑問が溢れ出す。
「……常磐は、一人だったのか」
「え? 菖蒲君の話を聞く限りそうじゃない?」
「昨日僕はあいつの片腕を潰した。腕一本だけで、それも一人で、蘇芳を拘束できるか? もし一人だったとしたなら、腕が治っている可能性が考えられる。それか、義手を創造したか。ただ、腕が治っていたなら協力者がいるかもしれない」
呟くようにぶつぶつと言っている僕の言葉を、空はすべて聞き留めているみたいだった。独り言のつもりだったから返事はいらなかったのだが、彼女は車を走らせながら「協力者、か」と零した。
「治癒出来る能力者ならサポート役として優れてるだろうね。常磐の身内に能力者はいないから友人か知人ってところかなぁ。けどそんな協力者がいるなら都合が良い」
「都合が良い? どれほど負傷させてもあいつは治療されて戻ってくるのに、都合が良いって?」
「常磐を見付けられなかったとしても常磐の協力者は見付けられるかもしれないでしょ、向こうは顔も存在も気付かれてないと思っているんだから。見付けちゃえば常磐の居場所を掴んだも同然。もし協力者がいるなら学校内かもしれないから、そこは朽葉くんに聞いた方が早いね」
「枯葉は……まだ寝てるのかな」
僕が授業を終えて保護協会に行った時、東雲と空がいる部屋で枯葉はソファで寝ていた。泣き腫らしたような目元を見て、謝らないとと思ったのだが、それからすぐ空のところに菖蒲から連絡が入ったため、彼と会話は交わせなかった。
「そろそろ起きてるんじゃないかな。朽葉くんのこと責めたくなるかもしれないけど責めないでやってね……って言おうと思ったけどキミは責めないか」
「枯葉は失敗したかもしれないけど、僕だってそれは同じことだから」
「はは、君が責めないだろうからって言ってた紫土くんはさすが兄弟だね」
「責めないだろうからって……なにそれ」
紫土は昨日枯葉とも会ったのか。彼は浅葱のことを好みじゃないと言っていたが、多分枯葉のことも好ましく思わないと思う。ただ、善人を繕うのが得意な彼と枯葉が衝突することはないだろう。
紫土はまた余計なことを言ったんじゃないかとため息を吐いて外を眺めていれば空が笑う。
「紫土くん、キミが責めないだろうからって朽葉くんのこと殴ったんだよね。びっくりしちゃった。彼は弟に何されても気にしないと思ってたから」
「……は?」
耳を疑った。信じられない。紫土が何故枯葉を殴るんだ。紫土が怒るような話ではないだろう。空の言う通り、僕が何をされても怒るどころか、僕を馬鹿にして笑うのが彼だ。
わけがわからなくてルームミラーに映る空を見つめていたら、彼女が「あ」と焦り始めた。
「もしかして言っちゃいけなかったかな? んー、忘れて」
「忘れられないくらい衝撃的だったけど、なんで、としか思えないから一旦意識の外にやっておくよ」
「うん。キミはさ、キミが思ってる以上に、お兄さんに大切に思われてるんじゃないかな」
「……そんなわけないでしょ。あいつの中での僕は、多分まだ、弟に戻れてないから」
前に彼は、僕のことをハッキリと『ストレス発散の道具』だと言った。彼の中で僕は『弟』じゃない。都合の良いモノでしかない。偽物の世界がなくなって以前より関係がいくらか良好になったとはいえ、まだちゃんとした兄弟には戻れていないと思う。
でももし、彼が兄弟に戻ろうと思ってくれていたなら。もし、本当に大切に思ってくれていたなら。そんなことを考えていたら名称の分からない感情が肺からせり上がってきて吐き出しそうだった。
ちゃんとした兄弟とは、どんな形だっただろう。普通の家族とは、どんなものだっただろう。
なぜだか無性に、浅葱に会いたくなった。彼女の家で、彼女の家族と食事をしたくなる。
常磐の件を早めに片付けて、浅葱とのんびり過ごしたい。人恋しい、というやつなのだろうか。今は純粋な温もりが欲しかった。けど何が純粋か分からない。僕が紫土と保ってきた関係を思い返して、あぁと気付く。
頭がおかしいのは紫土ではなくて、彼の黒ずんだ目を洗おうとしなかった、僕の方だったのかもしれない。
待宵駅手前のゲートを名刺で開けて、空が車のまま駅の地下へ潜っていく。普段僕が改札機から向かうエレベーターの向こう側にも道があり、そこに駐車場があるのだ。空が車を止めたのを確認し、僕は後部座席から降りる。
「少年はまた四階へ行っといで。私は少し仕事の電話してから向かうから」
「分かった」
車内に残った空から視線を外し、地下に革靴の音を響かせる。名刺でエレベーターを開けて四階へ上がった。廊下を進んで右手側にある部屋に入ると、中には東雲と枯葉がいた。
東雲は机の上に資料をいくつも広げて誰かと電話をしている。枯葉はソファに座って水を飲んでいたが、僕の姿をその目に映すと立ち上がり、頭を下げてきた。
「っ呉羽! わりぃ……俺のせいで……」
「なんで君が謝るの。それは僕の台詞だよ。君と常磐を二人だけにしたこと、申し訳なく思ってる。ごめん」
枯葉は頭を上げて僕をじっと見た。なにか言いたげに大口を開いたが、結局何も言わないまま口を閉ざしてしまう。悔しげにも見える面様で座り直した彼の正面のソファへ、僕は腰掛けた。
「そうだ、枯葉。常磐の他にも同じ学校に能力者はいる? 常磐の知り合いとかでさ」
「いや……分かんねぇ」
「昨日常磐と戦った時、僕は彼の腕をめちゃくちゃに折ったんだけど、今日には戻っていたみたいでね。もしかしたら治癒系の能力者と協力しているかもしれない」
「また常磐に会ったのか!? 怪我は!?」
本気で心配しているような彼に少し面食らって、背もたれに体を沈めた。平気だと言うように首を左右に振る。
「僕が接触したわけじゃない。蘇芳が連れ去られるところを、菖蒲が見ていた」
「蘇芳が……連れて、かれたのか……」
「だから出来る限り彼女の居場所を早く見つけたい。協力者についての情報も欲しい。――東雲、電話終わった?」
耳に当てていた携帯電話を操作している彼に問うと、彼は「ええ」と頷いた。
「僕の携帯電話の位置情報はどうなってる?」
「三日市の中学校です。菖蒲くんに持たせている携帯電話とほぼ同じ位置にあるので、君の携帯電話は蘇芳さんの手元にはないでしょう」
仮に蘇芳が持っていてくれたとしても、常磐に捨てられていたかもしれないから、やはり携帯電話の位置情報はアテにならない。小さく舌を打って顎に手を添えた。なにか手はないか。悩んでいれば、枯葉が情報を出してくる。
「常磐がよく行動を共にしてるのは皆あいつと同学年だから、俺と接点はない。でも名前は分かる。林と間宮って男と、玉城って女だ。そいつらが能力者かどうかも分かんねぇけど……」
「分かりました、そちらの調査は私と空さん、早苗さんで行います。大人の方がそういう調査にはあたりやすい。それと、先程本部に連絡をして常盤くん捜索に何人か人手を借りれるかもしれない、という話になりました。朽葉くんはこのままこちらで待機していただきます。紫苑くんにはまた常磐が接触してくるかもしれないので気を付けてほしいのですが、もし接触した際は居場所を教えてください」
「分かった」
報告と相談を終え、僕は部屋を出る。今のところ僕が出来ることは囮くらいみたいだ。常磐の目的を聞く限りすぐには蘇芳を殺さないだろう。けれど傷付けはするかもしれない。早く見つけ出して助けたい。
無力な己の手を握りしめてエレベーターを下り、改札を抜けて電車に乗る。
数分後に到着した弓張駅で降りて、歩き始めた僕の背に誰かがぶつかった。駅でぶつかられることなんて間間あることだから、あまり気にせず先へ行こうとしたが、足元に小銭が散らばったため仕方なくそれを拾って振り返る。
「すみません、前見てなくて――……紫苑?」
どうぞと言って渡すつもりだった小銭を持ったまま全身が固まった。見覚えのある顔だ。気弱そうで、特徴のあまりない顔。かつて友人だった彼の名を口にするのに、どれほどの間を要しただろう。
「……鴇」
二度と会いたくなかった彼は、友達だった頃と同じように人懐っこそうな笑みを浮かべた。過去のことなど忘れたかのように、まるで、まだ友達であるかのように「久しぶりだね」と悪意なくぶつけられて、固まったままの体が頽れそうだった。




