eclipse5
僕の手首を掴んで店を出ると、常磐が自身の指を僕の指に絡ませてくる。簡単には振り解けそうにない力に目を細めて舌を打った。
「手、離して。いい加減気持ち悪いんだよ。言い忘れたけど僕は女じゃないから、ちゃん付けもやめて欲しい」
「え……君男の子なの? その見た目で? うわ、それだとさっきの俺の発言なかなか気持ち悪いね。勿論デートって言うのは例えだから安心して」
笑って弁解しつつも、常磐が僕の手を離すつもりはないみたいだった。逃げると思われているのだろうか。浅葱といる時も手を繋いで歩くことなど滅多にない。人と触れ合うことがそもそも苦手な僕にとって、以前空にやられたみたいに手錠をかけられた方がマシだ。
太息を吐き出してから、僕を引っ張る背中を冷めた瞳で映す。駅構内だから人が多いが、僕が人混みに呑まれないよう手を引くあたり、こういうことに慣れているみたいだった。
「……あんたの言うデートって、要するに本当の蘇芳の情報を吐かせたいだけでしょ? 拷問でもするつもり? 何をされても僕は吐かないよ。朽葉と違って、口は軽くないんだ」
「朽葉は拷問なんてしなくてもポロッと吐いてくれるからね。紫苑ちゃんは、何したら吐いてくれるかな?」
「っだから……」
「紫苑ちゃんって呼んだ時の、その顔が見たいんだよ」
「……とっととあんたを薙ぎ倒したい」
喉から絞り出すように言った後、唇を噛んで脳を働かせる。蘇芳のことを僕が何も吐かなければ、結局こいつはなんの情報も得られず振り出しに戻るが、その際枯葉を脅しにいくだろう。とすれば、僕がここでこいつを倒して空か東雲と合流、拘束してもらい牢屋送りにしてもらったほうが良い。もし捕まえられなかった場合、枯葉を保護協会に閉じ込めておくしかない。これ以上常磐に、枯葉を揺さぶらせはしない。
駅からどんどん離れていく常磐が、ふと足を止めて振り向いた。
「ねぇ、建物内と外、どっちが良いかな?」
「……外」
「じゃあ中にしよう。カラオケなんか防音だし良いかもね」
「防犯カメラがない外の方が殺りやすいんだけど」
「我儘だなぁ、お姫様は」
結局、連れられて行ったのはカラオケ店だ。店員に案内されたのは一番端の個室。中に入ると、常磐が機械に近付いて音量を弄り始めた。
「紫苑ちゃん、なにか歌う? 君の声は綺麗だから、歌声も綺麗なんだろうね」
「……本題に入りなよ。前置きも余興もいらない」
僕が返したら、室内に流れていた音声が消される。僕はショルダーバックからバタフライナイフを取り出して、それを防犯カメラに向かって投げた。カメラを壊して落ちたナイフを「〈来い〉」と引き寄せる。柄を掴み直したら、機械から離れて立ち上がった常磐に切っ先を突きつけた。彼は恐怖心をおくびにも出さず、柔らかな笑みを保ち続けていた。
「君、歳はいくつ?」
「……は?」
「君の年齢を聞いているんだよ、紫苑ちゃん。何年生?」
「……高校、三年」
常磐が、そう、と口角を上げた。僕の年齢がなんだと言うのだろう。彼は丸腰でこちらはナイフを構えているというのに、危機感が一切感じられない。彼は扉に背中を預けて足を組んだ。
「河内蘇芳ちゃんがどこに住んでいるどんな子か、教えてくれないかな? 髪型、身長、体型、学校、なんだって良い。教えて」
「何も教える気はない」
「今の内に教えておいてくれれば、何もしないよ。それともめちゃくちゃに壊されたい?」
「壊されるのはお前の方だ」
これ以上話をしても無駄と判断し、逆手に握ったバタフライナイフを常磐へ突き出す。利き腕と思しき右手を抉ろうとしたのだが、彼が懐から何かを抜いたのを視認した直後咄嗟に身を引いた。足元でヒールが嫌な音を立てる。滑りかけた足をなんとか踏ん張って上体を反らした。常磐が僕の顔目掛けて放った拳にはカッターナイフが握られていた。反応が遅れていれば側頭部が裂かれていただろう。髪留めが少し削れたような気がする。
彼がその手を引く。それを追いかけるように僕は前へ踏み込む。狭い室内のおかげで、パンプスの踵がソファの足に引っかかった。肩から床に倒れそうな僕の頭上でカッターナイフが光芒を散らす。片膝を突いた僕は、室内光を反射したそれをナイフで切り払った。
手応えは手の平を伝って微かに腕を震わせる。金属音が響き、常磐のカッターナイフは持ち手から折れて、使い物にならなくなっていた。頭上から落ちてきた刃が僕の脹脛を掠め、眉を顰める。彼は先の無くなった武器をさらりと床へ捨てたら、双肩を竦めた。
「本当は俺も、余計な犠牲を出したくないんだけどね」
「……なら、提案があるんだけど」
すっと立ち上がり、僕はやや後退した。足の傷は深くはないし、大きな負傷はしていないのに体が傾きかけて唇を噛んだ。不思議と滲みかけていた視界は、自身で与えた痛みによって鮮明になる。こちらがナイフを構え直している間に、常磐は薄く笑いながら呑気にソファへ座り始める。
「それは俺に得があるのかな? 言ってごらん」
敵意を仕舞い込んだ常磐の目の前で、僕はショルダーバッグにナイフを収めた。挑発めいた笑みに炯眼をぶつけて、ソファに左膝を突いた。常磐の右肩の奥、ソファの背凭れに左手を置き、彼の視線をこちらの双眼に縫い付けさせる。下げている右半身は彼の死角となっているはずだ。そっと、人知れずナイフを抜いた。
「さっきも言った通り、僕は蘇芳について何一つ話すつもりがない。だから、どこにいるか、会えるかさえ分からない蘇芳を探し続けるより、本物の蘇芳を諦めて偽物で我慢するのはどうかな」
「……それはつまり、紫苑ちゃんが『ウサギ』の代わりになんでもしてくれるってこと?」
「そうだね。簡単に言うなら、サンドバッグになってやるって言ってるんだよ。蘇芳に手を出さないと誓えば、好きなだけ殴れる道具が手に入る、って話」
自分で言いながら苦笑したくなる。紫土のおかげで慣れているとはいえ、自ら持ちかけるのは些か屈辱的にも思えた。けれど、もとより蘇芳の身代わりとしてここにいるのだ。予定が狂わなければ、こんな交渉をするまでもなく常磐のターゲットを蘇芳にすることが出来ていた。これはただの軌道修正に過ぎない。無論、修正出来る確率が低いことは理解している。出来なければ、これまで通り常磐を捕らえる方向で進めるだけだ。
僅かに動かされた常磐の右足が、ソファに乗り上げている僕の左脚にぶつかる。反射的にそちらへ目を向けてしまってからすぐ視点を戻したが、眼前に常磐の手が迫っていて身体が強張った。
「素敵な自己犠牲精神だと思うけど、ごめんね。その身を賭けられるほど大事に思われている『ウサギ』がさ――」
左耳に触れられて鳥肌が立つ。擽ったさに似た不快感で唇を噛み締めたのと、常磐が呟いたのはほぼ同時だった。「もっと憎くなった」。その言葉は辛うじて聞こえたものの、ピアスを強く引っ張られ、耳朶が裂かれた痛みのせいでひどく霞んでいた。
「なら、無意味な会話だったね」
捨てられたピアスが金属音を立てる。左耳は炙られたように熱い。けれど怯む様を覗かせることなく、素早く突き出したバタフライナイフで常磐の脇腹を刺そうとした。しかし既のところで常磐の両手が僕の手を押さえ込む。殺気を殺して、刃を影から突き出したつもりだった。けれど予測されていたみたいだ。力比べのように押し合って、押されているのは僕の方。元より力に自信はない。一旦退くという選択肢しか僕には用意されていなかった。
態勢を立て直すために身を引こうとしたのを読まれたのか、力を緩めた途端に強く押されてバランスを崩す。転倒はどうにかして防ごうとしたが、ヒールが滑ったことで床に背を打ち付けた。心做しか力の入りにくい腕にどうにか意識を注ぎ、上体を起こそうとした僕の腹部に常磐が圧しかかる。抵抗を示す前に首へ片手を押し付けられた。
「くっ……」
「そういえば、初めて睡眠薬を使ってみたんだけど、あんまり効果はなさそうだね。入れるもの間違えちゃったかな」
「は……?」
「人に出されたものを警戒もせずに飲んじゃダメだよ、何が入れられてるか分からないんだから」
鋭い瞳と不釣り合いなほど撓る唇に、不快感が込み上げる。彼の指が動脈を探るように首筋へ擦り付けられ、寒気を覚えて下唇に歯を突き立てた。先程からやけに力が入らないのも、目の前が霞みかけるのも薬を盛られていたせいか、と舌を打ち鳴らしたくなる。
それでも薬による異変を彼に悟らせないよう、表情を揺らすことなく睨み続ける。彼は僕の首を掴んだまま、人差し指で輪郭をなぞりながら顎を押し上げてくる。首の皮が張り詰めるほど持ち上げられた顔の下で、冷たい指が喉を伝う感覚はまるでナイフを宛てがわれているようだ。やろうと思えば今すぐにでもこの喉を裂けるのだと、示されているみたいだった。
「まだ紫苑ちゃんの能力をちゃんと見てないな。使わないの?」
「使って、欲しいわけ?」
倒れた時に取り落としたナイフを右手で探り続け、それをようやく見つけられた。柄を握ってはみたもののそれを順手に握れたのか逆手に握ったかは分からず、右手を軽く浮かせて確かめる。
頸部をゆっくりと絞め付けてくる常磐の右腕を左手で引き剥がそうと掴むも、服に皺を刻めるだけで動かすことは叶わない。その腕にナイフを突き刺してやろうとした時、彼が頭上で笑声を響かせた。
「使ってよ」
この状況で僕が能力を使わなかったのは得がなかったからだ。しかし常磐の能力のせいか、喉が無理矢理こじ開けられるような感覚に襲われる。全身の血管に異物を流されるような不快感で体の熱が奪われていく。僕は命令を口にする前に右手を素早く動かして、逆手に持っていたバタフライナイフを彼の腕へ突き刺していた。
「いっ……」
「〈曲がれ〉!」
無理に放たれた掠れ声はやけにうるさい。常磐は刺された痛みで僕の首を離していたため、他の何かを捻ることなくその腕だけが雑巾のように捩じられていく。骨が折れる不快な音が響く中、ナイフを一瞬だけ手放して順手に持てるよう掴み直し、刃を引き抜いた。
流石に片腕が曲がる激痛にはポーカーフェイスを保てなかったようで、常磐は顔を歪めて自身の腕を睨むように見ていた。もう片方の腕も折ってやろうかと考えたが、僕の視界に彼の左腕はない。
歪めた腕から目を離し、起き上がる勢いのまま彼の胴体めがけて切っ先を突き出す。深く刺せるように柄を握り締めた両手は、今まで彼の背中側にあった左手だけで一纏めに掴まれる。刃が見えなくなるほど深く沈めるつもりで力を込めていたのに、その力は彼にとって微かな抵抗にもならなかったみたいだ。
赤子の手を捻るように容易く、彼は片手だけでこの両手首を拘束し、僕の頭上の床へ叩きつけた。
「……くっ」
「残念だけど、壊されるのはやっぱり君の方だったね」
気持ち悪いくらいに人の良さそうな笑い方をして、僕の手首が折れそうなほど力を込めてくる。肉を潰され骨を軋ませられて、ナイフを握りしめていた力が緩みかけた。柄を指で固く握り締め、僕は常磐を嘲笑する。
「これくらいで優勢になったつもり? あんたは今片腕しか使えない。能力で僕を傷付けることも出来ない。僕は今すぐあんたの首を折ってやっても良いんだよ」
「殺すなんて出来ないでしょ? 少なくとも身動きが取れない君よりは俺の方が優勢だよ。手なんてなくても傷付けられる」
常磐の髪が顔にかかるほど近付いて息を呑む。彼の吐息が耳朶に吹きかかって目を細めた。先程ピアスで裂かれた左耳に噛み付かれ、鎮まっていた痛みが滲み出す。歯で押し潰されていく耳朶はそのまま千切られてしまいそうだった。一頻り抉ると満足したのかすぐに唇は離されたが、零された唾液が耳を濡らして身震いした。
「ッ……」
「君が思ってるよりも人の歯だって凶器になるんだ。俺を殺す覚悟がないなら、大人しく情報を吐いた方が良いと思うよ。じゃないと甘噛みじゃ済ませない」
「確かに人を殺す覚悟なんて持ち合わせていないけど、あんたに何をされるのも全て覚悟した上でここにいるんだ。殺せるものなら、下らない空言ばかり吐いていないでとっととやりなよ」
結び付いた視線の先で、常磐の嗤笑は深くなる。纏繞するような虹彩の動きを辿っていけば、自身の首元に行き着く。再び僕に近付いた彼は、喉頸に口唇を押し当てた。
「口だけと思われたのは心外だよ、紫苑ちゃん」
「っ、……」
肌に触れたまま動く唇の感触と、吹き零される囁きの熱が毒のようだ。鳥肌を立てて身動ぎしたら、唾液という毒が更に皮膚を侵す。大きく開けられたのであろう彼の口は、迷うことなく牙を剥いた。
首筋に突き立てられた歯は動脈を噛み切るつもりか、まるで鋭利な刃物で刺されているみたいに表皮から痛みが沈み込んでくる。切っ先を骨にまで至らせようとする力が、耳の傍で嫌な音を立てた。
「ぐ、ぁっ……!」
抵抗するべく首を動かしてみたが、それによって薄皮が裂けたような気さえもした。血が流れているかすら僕には見えない。首を力一杯噛んでいても、常磐の手の力は緩まなかった。
思わず両足をばたつかせるが、常磐の背の向こうにあるそれは何の攻撃も出来ず、ただ靴音を鳴らしただけに終わる。抉れた表皮を舐められた感覚に背筋が粟立ち、体内の何かが破かれたような錯覚に陥って、思わず声を上げていた。
「〈吹き飛べ〉!」
この体勢で常磐を浮かせても彼が落ちてきた時に痛みを受けるのは僕だと判断して浮かせはしなかったが、これ以上は耐えられない。しかとこの目に彼を映して、その体を吹き飛ばそうとした。
確かに声は出ていたと思う。常磐をどうしてやるか明確に定まっていた。だから能力が発動しないわけがなかった。それなのに、僕の叫びは冷たい空気に吸い込まれて溶けていく。
首に喰らい付いていた常磐がようやく上半身を起こして、僕を見下ろした。冷たい汗が額を伝っているのは、痛みのせいだろうか。乱れた呼吸を繰り返して呆然としている僕に、常磐は優しく微笑んだ。その裏に優しさなど、欠片もなかったのだろうが。
「大丈夫、そこまで深く切ってはないと思うよ」
「お、前……何を……」
「朽葉からは触れた時のことしか聞いてないんだよね? まぁあいつはこっちまでは知らないか……。相手の血を口にすると、能力を奪えるんだよ」
あぁ、と理解する。こいつの舌が僕の首筋を這った時に感じた、何かを剥ぎ取られたような喪失感。あれがきっと、能力を奪われた感覚。
「飛ばそうと出来るってことは、もしかして押し潰したりも出来るのかな? ちょっとやってみようか。えーと、〈押し潰せ〉」
「ぅ、ぐっ……」
常磐は僕の両手首から手を離した。けれど透明な何かに乗られているみたいに、僕の体は自由に動かせず、床に強く押し付けられていく。その僕の手からバタフライナイフを取った常磐は、それを部屋の隅へ放り投げた。
「紫苑ちゃん、いい加減教えてよ。河内蘇芳のこと」
「……あんたが僕を殺すとしても……彼女を売るような真似は、しない」
「〈曲がれ〉」
頭上で、耳を塞ぎたくなるような音がした。腕が溶かされるように熱くなる。右腕が指先から折れ曲がっていき、吐き気がした。自身が普段敵に味わわせている痛みはこれほどなのかと、咽喉から呻吟を絞り出した。まだ何もされていない左腕を、封じられる前に動かす。顔を掴むように奴の両目を潰しにかかった。自分の能力の弱点は僕が一番知っている。その目を潰してしまえばこれ以上常磐の思い通りにはならない。
揺らいだ視界の向こうで、僕の手が泳ぐ。常磐が唇を愉しそうに歪ませて何かを呟いた。僕の左腕は肘から折れて、力を失くしたようにだらりと床へ落ちた。




