恭之助 1 参ったね
雪野を探すため外に出歩いた恭之助はあまり乗り気では無かった。
今のご時世、女が食べる為に体を売る事は珍しくない。
食べるだけなら嫁に出れば済む話…というのは少し前の話で今は嫁に出ても充分に物が食べられるというわけでもない。
だから女が食べさせて貰えそうな家を探したり、覗き見たりすることは不思議でもなかった。
「まあ、屋根に上がってまで懐事情を調べようとするのには参るね」
(それとも…他に調べている事でもあるのか…)
「間諜の真似事とは思えないしねぇ」
(適当に時間でも潰して帰るとしようか)
その辺をぶらぶらと散歩…と言うには些か早歩きで、人目を避けて行く。
恭之助の見た目は身綺麗で、容姿も男には勿体ないくらい美しい。
よってまさか居候の身で、緑の物体を毎食食べているような生活をしているとは微塵も思われず、生活の苦しい女性達の身売りの標的となってしまうのである。
それが既婚していようとなかろうと、食べていくには仕方がないと半ば諦めている女達ばかり。
まあ、中には楽しんでそういう仕事をしている者もいるが…大抵は、我が子を養う為に体を張る女達が多い。
「情けない世の中だ…愛しい女も我が子も養えないとは」
(だから、雪野殿が真実そうであっても誰も責める事など出来はしまい。まして…幼い頃に両親を亡くし、年老いた祖父と二人では…)
「生きていくのも辛いというもの」
(だが、幼い頃は恵まれていたのだろうね。村の女達が雪野殿を養っていたのだから)
実際には全くそんなことはない。
食べるのには全く困らない世界で、両親はいなくとも愛情一杯に育ってきたのだから。
夕暮れ時までふらついて、そろそろ帰ろうかという時だった。
「あの女!!何処に行きやがった!!次に会ったら体がぼろ雑巾のようになるまで遊んでやる!!」
人のいない町外れで、そこそこの身成りをした男が顔を真っ赤にして憤慨している。
(やれやれ、猫にでも逃げられたかな?)
食べる為にとはいえ、女の方にも矜持がある。
理不尽な強要は望まぬだろう、よって逃げられる男もいる。
「あんな肌を出した変わった格好で誘いやがったくせに!!」
今だ男は怒りが収まらないのか、大声で女を威嚇すかのように歩いていった。
(ん?変わった格好?……やれやれ、当たりかな?)
男の様子からするに諦めてはいないようだ。
放って置いても構わないが、それでは自分が目覚めの悪い事になりそうだった。
(あの男より先に見つけるしかないね)
「面倒だねぇ」
そう呟きながらも恭之助の目は笑ってはいなかった。
冷たい風が夕暮れの美しい風景をかけていく。
畑に立つ木が、秋を強調するかのように鮮やかに色付き、葉がひらりひらりと落ちていた。
「やれやれ、あれで隠れているつもりなのかな」
落ち葉の先にはうずくまる人影がある。
(まあ、見つかって良かったってとこだねぇ)
なんて呑気に考えていたのは一瞬だった。
雪野が隠れているわけではないと感じ始めれば、今度は言われもない不安が巡ってくる。
駆け寄って見れば体のあちこちに傷を作り、涙目で倒れこんでいた。
「っ!!雪野殿!?雪野殿!!しっかりしなさい!!」
恭之助には珍しく動揺したように声を荒げると瞼が微かに動いたように思えた。
(だ…れ?…じじさま?)
うっすらと開いたぼやけた視界には先ほど男に迫られていた時と酷く酷似している。
「い、いやぁぁ!!やめて!!離してぇ!!」
「雪野殿!?落ち着きなさい!!」
混乱して泣き叫ぶ私を恭之助さんは優しくその腕の中に包み込んだ。
「大丈夫。もう、怖いものはない。落ち着いて私の顔を見なさい」
優しく囁かれ、恭之助さんの両手で頬を包み込んで顔を上げさせられた。
(…っ。ああ、そんな傷ついた顔をして)
「きょ…う、のすけ、さん?」
「少し落ち着いたかい?」
私が頷くと優しく本当に壊れ物でも扱うように、そっと背中を撫でられ、安心した私は恭之助さんの胸に顔を埋めた。
「男を取ろうとしたのかい?悪い事とは言わないが、人はきちんと見た方がいいね。傷付くのは雪野殿なのだよ?」
(……はっ?)
何を言われたのか理解出来なかった。
(男をとる?なんで説教されてるの?)
つまり男女のあれやこれやを心を許してもいない相手と、見ず知らずの男とお金の為にしようとしていたのだと思われている。
途端に怒りが込み上げてきて恭之助さんを突き飛ばした。
「違います!!そんな軽い女でもお金に困って誰かの物を取るような泥棒みたいな事しません!!」
キッ!と睨み付けながらその目からは涙が溢れた。
(やっぱりそんなふうに見られていたんだ…)
そう思うと悲しいやら情けないやら…なんでこんな事になっているのかわけが分からなくて、悔しくて泣けてくる。
(ああ、言い方が悪かったかな…余計に傷付けてしまったようだね)
「なんで…なんで、人に道を聞こうと思っただけなのに!皆逃げてくし!変な男の人には突然買った!とか意味不明な事言われて襲われかけるし!!私が何をしたって言うのよ!!」
逆ギレ。
怒ってないと自分を保てない気がした。
(……う~ん?雪野殿は理解していないのかな?)
「雪野殿、こんな事は言いたくはないのだけど…」
「なによ!!」
(何なのよもう!!)
(まるで野良猫だねぇ)
「貴女のその格好は男を誘っているようにしか見えないよ?」
「……えっ!?」
(えぇ!?なによそれ!だって普通のTシャツとスカート!)
恭之助さんの私を見る目は真剣で嘘を言っているようには見えない。
「この格好…普通、じゃないの?」
「普通はそんなに肌を出していたらそういう仕事で男を誘っているのだろうと思うねぇ」
(……ショック!!)
(おやおや、全く知らないでそんな格好をしていたのかい?祖父殿か、それ以外の誰か身内の者が稼がせる為にこんな格好をさせたのか…)
「知らなかった…気を付けます」
落ち込んでしまった私を困ったような笑みで近付くと同じ目線でその場に座り込んだ。
「まあ、知らなかったのは仕方がない。これを羽織っていなさい。体に障るよ」
寒さで震えていた事に気づいていたのだろう。
恭之助さんの着ていた衣を肩に掛けられ、体だけじゃなく心まで温かくなった気がした。
「ありがとうございます」
「構わないよ。女性は体を大切にしないとね」
(な、なんか色んな意味が含まれているような…)
「さて、送って行こうか。そんな格好ではまた襲われ兼ねないしね?」
「……いえ、大丈夫です。ここに放って置いてください」
「私には理解出来ないねぇ。なんでこんな寒空の何もない場所に居たがるの?大丈夫、ちゃんと家まで送ってあげるよ?」
(帰る?何処に?…ここは…認めたくないけど、……日本じゃない。家なんてない!それに…帰ったって)
巨大な蓮の蕾が空に浮かぶテーマパークとかだったらどんなに良かっただろうか。
帰れない、帰っても誰もいない。
胸が苦しくてまた泣きそうだった。
「恭之助さんは気にせず帰ってください」
「そんな泣きそうな顔で言われてもね。私の事が信じられないかい?心配しなくとも雪野殿に手を出したりしないよ」
「そうじゃない!!そう、いうんじゃ…ないん、です」
(困ったねぇ。このまま置いて行ったら格好の餌食になるだろうし、帰って錦や可也斗に何を言われるか…)
「家に帰りたくないのかい?」
(男を取れなかったら、責められる…というのも充分に考えられるが…)
「帰りたいです!!でも、でも…家が何処にあるのかも分からないのに!!」
(……参ったね。まさかの迷子だったとは)
「やれやれ、迷子の子猫ちゃん。なら、一先ず東雲家の屋敷に戻ろうか。もう、日も落ちる、夜は危ないからね」
(……あの場所に、帰る?…無理だよ)
「どうぞ、お帰りください。私の事はお気になさらず」
(なんなのかな?この子は。本当に野良猫のようだねぇ)
「理由を聞いても?」
(…あの冷たい目で見られたくない!あの目は…嫌い)
「………」
視線を逸らして黙り込むと、私の肩を掴んで体に密着させるように力を入れてきた。
「言わなければこのままここで抱くよ?」
「……っ!!」
(なっなに考えてるのよこの人!!)
「雪野殿はそれで良いのかい?私は多いに構わないよ?大丈夫、優しく夢心地にさせてあげるから。それで、いくらかお金を持っていればしばらくは何とか生きて行けるだろう?」
体を引き寄せられ、頬を撫でられて恭之助さんの唇が私の唇に触れそうに――
「いやっ!」
体を捩って逃げようとすれば、冷たい地面に押し倒されて、恭之助さんの冷たい、冷めた目が私を見ていた。
(…怖い…どうして。そんな目で私を見るの…何も悪い事なんてしてない!)
「泣くほど嫌なら素直に屋敷に戻ろうね」
それでも私はふるふると泣きながら首を降った。
(何をそんなに固くなになっているのか…それとも考えたくはないが、本当に間諜の真似事をしていたのか?それならここに捨て置く方がいいか……だが)
恭之助の腕の中で震える雪野はどう見ても必死に抗う子猫のようだった。
(仕方がない。もう少し苛めてみようか)
首筋にざらりとした感じを覚え、体をビクリと震えさせた。
奇しくもその場所は、男に襲われた時に舐められた箇所と同じだった。
その事もあってか恐怖心は最高潮で、ギュッ!と目を瞑って体を硬直させた。
「本当に良いのかい?」
耳を甘噛されながら熱い吐息が体をゾクゾクと震えさせる。
「だって…目が」
「目がどうかしたのかい?」
「目が怖い、んだもの」
(……?どういう意味かな?)
「皆、私を見る目が…凄く冷たくて、敵みたいに…蔑んだ冷たい目、してた。屋根で何してたんだって…私、屋根なんか上がった覚えない!爺様の巻物見てただけのはずなのに!気が付いたら知らないところで寝てるし!可也斗に着物着ろってしつこく怒られるし!それは…仕方なかったけど。すっごくまずい緑の物体を食べさせられて、爺様思い出して…悲しく、なってくるし…うっ…ふえぇ、じじさまぁ…なんで私を置いて死んじゃったのぉ!!」
(……これは、珍しく大失敗してしまったね。本音が聞けたのは良いが)
「祖父殿は、亡くなられたのかい?」
「……三日前に」
(天涯孤独になってしまった…ということか)
「そうか、それは寂しい思いをしたね。その、朝餉の時は申し訳無い事をしてしまったようだね。彼らにも色々事情があってね、取り合えず見知らぬ人は疑ってしまうのだよ。許してあげなさい」
「……恭之助さんが一番怖かった」
(あ…今だね。それはそうか…)
「そ、それは申し訳無い。男に押し倒されて怖くないわけないねぇ」
「押し倒された事より…私を見る目が、冷たい目だった。私の事が嫌いなら、哀れむようなことしないでください」
(私が?…そんな目を?)
「そんなつもりは無かったのだよ。私は雪野殿を嫌ってはいないよ?それに、ふふ…雪野殿も嬉しいことを言ってくれるね?」
(……喜ぶようなこと言った覚えはない!!)
恭之助さんは楽しそうに、さっきとは違った優しい目を私に向けている。
「押し倒されるより、目が怖いだなんて…ねえ?こういう事を私にされるのは嫌じゃなかったと言っているようなものだよ?」
鎖骨の辺りを舐められた。
「ひゃあ!」
(何するのよ!!)
キッ!と睨み付ければ、恭之助さんはジッと私の鎖骨辺りをマジマジと見つめている。
(なっなに?)
(…これは、アレだねぇ。あの男に付けられたのだろうが…何かな、面白くないねぇ。それに…女性の肌に下手な傷を作るなんて男として最低野郎だな。ん?……私はさっきから何をイライラしているのか)
「雪野殿、少し我慢しなさいね」
「えっ?……っ!!」
また鎖骨を舐められた。
今度は舐めるというよりも吸われたという方がいいのか…同じ箇所を執拗に舐めたり吸ったり甘噛されたり擽られたりして、身体中がゾクゾクとしてくる。
(体が熱い…やだ…)
「も、やだぁ…」
根を上げて声を出すと、やっと鎖骨から口を離してくれた。
「これは…参ったね」
(?)
(そんな艶っぽい顔されると、本当にどうにかなってしまいそうだよ)
「言葉は選んで言った方がいいよ?男は直ぐに付け上がるからね」
「か、からかわないでください!!」
私が怒って恭之助さんを押し退けると、困った顔で離れてくれた。
(そんなつもりは無かったのだけどねぇ)
「さあ、今度は言うことを聞いて屋敷に帰ってもらうよ?大丈夫。錦には私から話すから雪野殿を悪いようにはしないよ」
「…はい」
(あ~なんだろ。野良猫を手懐けた気分だよ)
恭之助さんは軽々と私をお姫様抱っこすると、愉快そうに歩いていく。
「な、歩きます!!下ろして!!」
「また帰らないとか言い出しても困るからねぇ。大人しくしてなさい」
「恥ずかしすぎるぅ~下ろしてぇ~!!」
「はは、諦めなさい。それとも、諦めさせてあげようか?」
「え?…あ、結構です」
顔を近付けてくる恭之助さんの顔を避けて、再び赤く染まってしまった頬を手のひらで覆い隠した。
大人しく恭之助さんにお姫様抱っこされていると、歩くリズムが電車に乗っている時のようで、次第に睡魔が襲ってくる。
(あれ…なんか眠い…)
ふと、顔を上げると恭之助さんが笑っている、その笑顔を見ると何故だか安心できた。
意識を失う前に私もつられて笑ったような気がする。
(…本当に参ったね)
恭之助は腕の力を強めて足早に帰路についた。