涙の小瓶
小瓶を受け取った老人が優しい笑みを浮かべてこう言った。
これは良い涙ですね。
老人は、作業台に向かうと小瓶をライトに照らしてじっくりと観察した。
私はその様子をただ黙って見ていた。
時間は止まったまま。
あの日から私は、世界中でたった一人、あの場所に置いてきぼりのままなのだ。
老人が言った「良い涙」とはどういう意味なのだろうか。
私が流した涙は感動して流したものでもなく、歓喜によって流れたものでもない。
真逆の涙だ。
ライトの光を浴びてキラキラと光る私の涙は薄っすらと水色の輝きを放っていた。
こんにちは!
突然扉が開き、一人の少女が飛び込んできた。
ねぇ、おじいさん、私 とってもいい涙を持ってきたのよ!
少女の小さな手の中には私が持ってきた物より少し大きな小瓶が握られていた。
老人は私の涙が入った小瓶を作業台にそっと置くと、少女の背の高さに合わせてしゃがんだ。
どれどれ、ほう!
これはとても良い涙だ。
少女はその言葉を聞くと満面の笑みを浮かべた。
まだ頬には涙の痕が残っていて瞳も潤んでいる。
それでも少女は笑顔で老人との会話を楽しんでいた。
私は涙も枯れ果て、頭の中も心の中もカラカラに乾いている気分だ。
おじいさん、私ね、お空を飛べるようになったのよ!
ママは私くらいの歳ではまだ飛べなかったって!!
すごいでしょ!
少女はぴょんぴょんと飛び跳ねながら、その場でくるりと一周した。
回っている時に私の存在に気付いたのか、少女は驚いた様子でこちらを振り返った。
あら!お客さんがいたなんて!!
ごめんなさい。
私ったら…いつも注意力が足りないわよ!って、ママに叱られてるのに…。
反省した様子の中にも嬉しさが滲み出ている。
少女は私に向かって軽く頭を下げるとすぐに老人へと向き直った。
その場にいるのに、どこか遠くからこの光景を見ているかのように、老人と少女の会話がボヤけてくる。
私はこの場所でも、ひとり、取り残されている。
ふと自分の幼少時代を思い出す。
自分の家系は空を飛ぶことが出来なかった為、私は他の能力を磨くことに専念していた。
自分が飛べないと分かっていても、空を飛ぶ者達が羨ましくて、こっそりと空を飛ぶ練習をしていた記憶が蘇る。
ある日、ひとり隠れて飛ぶ練習をしている時に母親に見つかったことがある。
母は悲しそうな笑みを浮かべ、私を抱き寄せた。
ごめんね、私が飛べてたら…。
母はそう言って私を強く抱きしめた。
私はそれから一度も飛ぶ練習はしなかった。
母の悲しそうな顔を見たくなかったのもあるが、そもそも私には飛べる能力がなかったのだと理解したからだ。
私は誰でも出来るようなまじないを学び、どこにでもいるような普通の生活を送った。
ぼやっとした視界の中でキラキラとオレンジ色に光るものを見つけた。
柔らかい、暖かさを感じる光だ。
それの光のもとは、少女の流した涙だった。
老人が言っていたように、その涙がとても良い涙だということが、何の知識もない私でも感じ取る事が出来た。
ならば、老人が、私の涙が良いと言ったのはどういうことなのだろうか?
バタン!
私は扉の閉まる音で我に返る。
部屋を見渡すと、あの少女の姿はなくなっていた。
扉の閉まる音は少女がここを去ったという合図だ。
さて、さっきの続きを…
老人は少女から受け取った小瓶を戸棚にしまうと、棚にぶら下がっているノートに何かをメモした。
老人が再び私の涙を手にする。
久し振りに流した涙かね?
老人の言葉に少し驚きながら、はいと答えた。
んん、良い涙だ。
この涙はきっと、いい薬になる。
その言葉を聞いて、なんとなく理解した。
老人が良い涙だと言ったのは、涙を流した理由などではない。
涙自体の事なのだろう。
かといって、私が流した涙が良質だと思ったのではない。
単純に、涙そのものの価値であり、涙を流した理由など関係ないのだ。
私は急に惨めな気持ちになり、なぜ涙を売りに来たのかと後悔した。
ずっと心の中で泣いていたね?
老人がポツリとつぶやいた。
私はしまった、という気持ちになり、同時に恥ずかしくなった。
老人は涙から、流した人間の本質を見抜くことが出きる。
その辺は占い師と同じようなもので、老人は更に、その涙を薬に変える事が出来る。
特殊な布でろ過され、調合された涙は飲み薬に。
ろ過することなく調合された涙は塗り薬となる。
基本的な作り方は昔学んだが、技術と能力が高くないとそれは完成しない。
空を飛ぶ能力と一緒だ。
老人には他の者にはない、特殊な能力があり、涙を薬に変える事が出来るのだ。
私とは違う。
きっとこの老人の親も、またその親もそうだったのだ。
能力は遺伝する。
だから、空を飛べない母から産まれた私は空を飛ぶことが出来ないのだ。
おいくらになりますか?
私は早くその場を去りたくて老人に尋ねた。
老人はにやりと私の顔を覗き、涙の入った小瓶を持って近付いてきた。
私が身構えると、老人は小瓶を私の方へと差し出した。
その時、自分の涙には価値がないと悟った。
老人が言った良い涙というのも、ただの慰めであって、その言葉には何の意味もなかったのだ。
恥ずかしさと、軽い憤りを感じた。
私が老人から小瓶を受け取ろうとすると、それはするりと私の手をすり抜けて床へと落下した。
パンッ!!
小瓶が弾ける音と共に、私の涙が散らばる。
不思議なことに、涙を包んでいた小瓶の破片はどこへも飛び散ることなく、まるで最初から涙だけがこぼれ落ちたかのようだった。
小瓶の破片などどこにも見つからない。
それは不思議なようで当たり前のようにも思えた。
私は涙が落ちた足元を見つめた。
そこには小瓶に詰まっていた涙よりも多くの雫が散らばっていた。
それを見ているうちに、ひとつ、またひとつと雫がこぼれ落ちていく。
その雫が自分の流した涙だと気付くのには時間がかからなかった。
私はなぜ自分が泣いているのか分からずに、ただ涙で出来た水たまりを眺めていた。
足元に出来た水たまりは、すぐに足首までの深さになっていた。
なぜ泣くのを我慢していたのかい?
老人が聞く。
私は分からないと答えた。
本当は分かっているんだよ。分かっているのに分からないフリをするから自分を見失うんだ。
老人は優しい口調で言う。
泣くことで自分を失ったりはしないよ。
老人が言う。
私は自分を失うのが嫌で泣くのをやめたのだろうか?
違う!
私は声を出して抗議した。
それは老人に向けてではなく、自分自身に言い聞かせるものだった。
足首まであった涙の水たまりは、腰までの深さになり、どんどん私を包んでいった。
涙に包まれた私の視界はぼやけている。
あの日取り残された時と同じだ。
母親がごめんね、と私を抱きしめた時の感触が蘇る。
ぼやっとした視界の中で老人の声が聞こえてきた。
なぜ泣くのを我慢していたんだい?
我慢していたのではない。
涙を流すような出来事が私にはなかっただけなのだ。
だから、我慢していたのではない。
では、なぜそんなに涙を流しているんだい?
昨日の出来事が浮かぶ。
昨日は朝から部屋の掃除をしていた。
なぜかその日は必要以上に細かい箇所を整理したくなり、棚の中で埃まみれになっているものを全て床に並べて眺めていた。
普段なら、汚れた様子と量の多さから中身を確認することなく処分していたのだが、その時は違った。
ひとつひとつ手に取り、丁寧に埃を落として中身をチェックした。
小さな箱には木の実が入っていた。
私は箱の中の木の実を窓辺に飾るとすぐに違う箱を手にした。
今度は少し重みのある大きな箱だ。
中を見ると、そこにはスノードームがキラキラと季節外れの雪を輝かせていた。
これもまた、ひとつひとつ、それぞれの雪景色を楽しむと窓辺に飾った。
残りがあと3つになったところで、箱の底にノートが寂しそうに存在している事に気付く。
スノードームからこぼれた雪解け水が所々ノートにシワを作っている。
涙のようだ。
そのノートは子供の頃から書いていた日記だった。
今まで探しても出てこなかったのは、大量の雪に埋れていたからだったのかと納得した。
ずっと探していた理由は日記を読み返したかったからではない。
この日記をほかの誰かに見られやしないかと不安でたまらなかったからだ。
雪の中から救助されたノートから、ほのかに懐かしい香りがした。
私は記憶を辿りながら、ノートをペラペラとめくる。
遭難していた私の過去は風になり、懐かしい香りと共に私を取り囲む。
日記には空を飛ぶにはどうしたら良いか?背を高くするには何を食べたら良いのだろうか?
そんな内容が書かれていた。
母親に抱きしめられた日のことも書いてあった。
私はいたたまれなくなりその先を読み進めることができなかった。
ノートを再び雪の下に隠そうとしたが、手が止まる。
このまま保管するか処分するかで悩んでいると、ひらりと一枚の紙切れがこぼれ落ちた。
ノートの切れ端だろうか?私はその紙をそっと拾い上げた。
するとそれは、炎が燃えるかのように一気に鮮やかな模様を写し出した。
その模様は複雑に交差した後、薄らと怪しげに文字を浮かび上がらせた。
それは魔法学校で書いた未来への私に向けた手紙だった。
小さな魔法ではなく、大きな力を使った魔法で守られた手紙。
20年後にならないと文字が映し出されないようにまじないをかけていた。
文字がすべて浮かび上がると、私の記憶の中で子供の頃の私が声を上げた。
ーーー20年後の私へ。
元気ですか?
何をしてますか?
私も空を飛べてますか?
魔法は沢山使えるようになってますか?
お友達は沢山いますか?
いっぱい笑ってますか?
夢は叶ってますか?
有名な魔法使いになっていますか?
好きな人は出来ましたか?
結婚して子供はいますか?
20年後を楽しみにしています。
頑張ってください。
10歳の私よりーーーー
その手紙には当時の気持ちが込められていた。
内容にではない、手紙にはもうひとつのまじないがかけられていたのだ。
それは手紙を読み終えると同時に、当時の気持ちが私の中に流れ込む仕組みだった。
私は子供の頃の方がずっと大人だったのかもしれない。
当時の私は、大人になると私が夢を失うことを予想していたのだろう。
それは自分自身を失うのと同じことだ。
私は自分を失うことを恐れていた。
次々とあの頃の感情が私を埋め尽くす。
まるで海底へと沈められたように重苦しく胸が痛んだ。
遭難していた雪景色から一転、私は深海へと引きずり込まれていた。
私の記憶が重くのしかかる。
本当は夢を叶えたかった。
ずっと憧れていた…自分が空飛ぶ姿を夢見ていたのだ。
あの時、真正面から向き合っていたらこんなことにはならなかっただろう。
結果的に空を飛ぶことができなくても、それでもきっと今とは違う強い人間になっていたはずだ。
自分の弱さを誰かのせいにして逃げていただけなのだ。
本当の気持ちに背を向けて、その気持ちに気付かないふりをしていた。
これは忘れかけていた気持ちではない。
故意に忘れようとしていた気持ちなのだ。
必死に自分の弱さを隠して、強い人間だと見せようとしていた。
結果どうだろう?
強いどころか、中身のない空っぽの人間になってしまった。
自分自身でさえ、自分の本音がわからなくなっていたんだ。
そう、私の時間はずっと止まったままなのだ。
幼い少年のまま…
私は声を出して泣いた。
自分に対しての怒りと憐みがふつふつと涙となってあふれ出ていった。
泣き疲れた頃には、部屋は真っ暗だった。
窓から見える空には星が輝いている。
小さな部屋なはずなのに、窓がとても遠く小さく感じた。
歩き出した私の足は雪に取られているのか、それとも波に押しやられているのだろうか。
とても重い。
やっとの思いで窓へと近寄ると、空を見上げた。
涙で滲んだその星空は更に輝きを増している。
子供のように鼻をすする私の手には、涙の入った小瓶が握られていた。
弱さを強さに変える魔法はないかと尋ねる。
すると、老人は私の涙が入った小瓶を得意げに見せた。
これだよ。
落ちたはずの小瓶はどこも破損しておらず、中には私の涙が入っていた。
ただ、その涙は今までとは違う姿をしている。
私の涙は青白く光る結晶に変わっていたのだ。
その光には迷いはなく、力強い光を放っていた。
私は自分の涙を受け取ろうとしたが、目の前にあるはずのその小瓶を手にすることは出来なかった。
お前さんはもう、これを持っているだろう?
老人は小瓶を持った手とは反対の指で私の胸をトントンと叩いた。
手が届かないのではない。
もうそれは私の中で形を変えて存在していたのだ。
私は老人に頭を下げると店を後にした。
空を見上げると虹が出ている。
お前も泣いていたのか?
そんなことを思いながらくすりと笑う。
虹を眺めていると、背後から声をかけられた。
子供の頃はよく遊んでいたが、空が飛べないと分かってからは距離を置いていた幼馴染だった。
久しぶりと笑顔で挨拶をする。
むかしみたいだ。
そいつが言った。
嬉しそうに笑みを浮かべながらそいつは私の隣に立つ。
虹を見ると2人でよく、あの虹を捕まえに行こう。と話していたよな。
私の視線の先にある虹を見上げながら言う。
その瞳は子供の頃のように輝いていた。
そんな話をしたか?
私は疑いの目をそいつに向ける。
したよ。
でも、すぐに専攻が変わったから違うクラスになったんだ。
それからはお前、全然話してくれなくなったよな。
彼は少し照れくさそうにつぶやいた。
その時彼は私のことをどう思っていたのだろうか…。
きっとあの頃の私のことだ、ひどい態度をとったに違いない。
私は空を飛ぶ者たちを羨ましくて疎ましく思っていたと、素直な気持ちを暴露した。
ただの妬みだ。
そして、羨ましかったんだ、と続けた。
すると、友人は笑った。
羨ましかったのはこっちの方だ。
俺、お前が使う魔法は出来なかったからな。
空が飛べるのはただの遺伝だ。
でも、お前の使っていた魔法は才能だからな。
私達は顔を見合わせると、声を出して笑った。
心の小瓶が大きくなったのを感じた。
泣いてもいいのだと、誰かに肩を叩かれたような気がした。
素直になることで心が成長するのだ、と。
人は皆、心の何処かに小瓶を隠し持っている。
涙した時にその小瓶へと涙を貯めるのだ。
それが溢れないように、みなこうやって涙を売りに来る。
また涙を流せるように。
小瓶の大きさや形はその人によって違う。
自分に合った小瓶があるのだ。
他の人と比べても何の意味もない。
それぞれが特別なのだ。
またのお越しをお待ちしております。
もし、涙を売りに来られない方がいらっしゃいましたら、笑うことをお勧めします。
たくさん笑えば涙の小瓶は大きくなります。
あなたの涙が笑顔の元となり、その笑顔が誰かを癒すことでしょう。
――店主より――