第五話 菜の花と真実
なんだか、拍子抜けした気分だ。
あれだけ緊張していたのに事は簡単に進んでしまった。
ひょっとしたら、ルッソもお婆様も気付いているのか…。
抜け目ないあの男がこんな風に、騙せるわけがない。
そんな風に思えてならない。
しかし…。
「御嬢様。本日は午前早退をするように手続きをしてあります。」
「え!?」
ルッソの言葉に過剰なまでに驚いたアコだった。
ルッソは呆れたように溜め息をつきながら、「今日は奥様、御嬢様のお母様の命日ではありませんか!」
そんな大切な事すら忘れていた自分にハッとするよりも、ルッソに見透かされている様な感覚に冷や水を浴びせられたように冷たい汗をかいた。
「わ、わかっているわ。」
アコは全て打ち消すようにルッソを睨みつける様に言うとすぐに目をそらした。
その一瞬、なんだかルッソの目がニヤケたように見えた。
これからなんの警戒もなしに、この男の車に乗って大丈夫なのかと頭を不安が過った。
車の中では会話はなかった。
重苦しい空気だけが流れた。
15 時にヤナセと会わなきゃいけないのに、午前中で帰らなきゃいけないとは…。
一日休みになるよりチャンスはあるが
非常に難しい。
ヤナセには知恵を借りられないし。
本来は毎年、命日は休みだったがアコの成績と、休んだ分の日数やらなんやらで午前の授業は休んではいられない。
「…ですからね。」「御嬢様?」
「あ、何ですか?」
アコはルッソの声が聞こえていない様。
聞き返したが、ルッソは答えなかった。
「お気をつけて。では午後にお迎えに上がります。」
学園に何事もなくついた。
アコは黙って車を降りた。気まずさを殺しながら。
ルッソがアコの背中ごしに言う。
「御嬢様、後程お話があります。お手間は取らせませぬゆえ。」
アコはルッソの顔を一度も見ずに頷いた。
しっかりと聞いていなきゃいけない授業が頭に入ってこなかった。
15時の待ち合わせ前に迎えが来てしまう。アコは考え悩んでいた。
そんな時、教師はアコの名前を何度も呼んでいた。
気付いた時は既に皆の注目を浴びていたのだった。
「ベルナリオル…。」
新任教師のMr.ブロイスは呆れた顔をした。
「す、すみません!」
アコはペコペコと頭を下げた。
前なら笑いが起きたが、あの噂以来アコに皆、冷やかだった。
ファルだけが心配そうにアコを見つめる。
「ベルナリオル?君が色々と大変なのは解る。だがね…。まあ、いいか。うん。座りたまえ。」
優しく微笑み、アコを許した。
その後の授業も居心地のわるいまま終わり、午前の部は終了した。
ルッソがそろそろ迎えに来る。
アコは逃げるように図書室に走った。
そのすぐ後をファルが追いかけた。
アコは立ち止まり、振り向くとファルを睨んだ。
「そ、そんな顔をするなよ。ベルナリオル…。」
ファルは悲しそうな顔をした。
アコは少し心が痛んだ。なぜなら彼は本当に純粋に心配しているようだったからだ。
「ごめんなさい。ファル…。あなたに当たるつもりは、なかったの。ただ、皆の噂とか色々と…。」
アコが言いかけるとファルは優しく微笑み言った。
「話してくれないか?協力したいんだ。」
「時間がないの、きっとお迎えが来てる。15時に約束があるのに…。」
アコが俯く。
「彼かい?あ、まあ、いいんだ。とにかく、食堂のあの人だろ?着いてきなよ!俺が呼んでやるさ。」
「だけど、約束の時間は…。」
「急なら話しは別じゃないか?なぜ、自分から行かないんだ?まあ、それは俺の知る所じゃないか…。」
15時は学食の片付けと次の日の仕込みまで終わり、ヤナセが帰れる時間なのだ。
職を追われるというのに意外に真面目だ。
食堂に着くと裏口から物怖じもせず、ファルが入っていった。
すぐに出て来るとアコに笑顔を見せた。
アコは何故か急いで視線を反らした。
「来るってさ。俺はこれで行くよ、何かあったらいつでも言って。それと事情はいつか話してくれよ。」
「あ、ありがとう。」
アコは少し小さくそう言った。
ファルが去っていった。いつも軽薄で不真面目に見えていた彼が自分の知るよりも、いい人だった。
そうして冷たくしていた態度も今は恥ずかしくさえ思えた。
そんな事を考えていると裏口の扉が開き、ヤナセが現れた。
なんだか妙に緊張するアコだった。
「アコ…。」
ヤナセはそれだけ言うと黙っていた。
アコは次の瞬間、咳を切るように話し始めたのだった。
「うん。」
「うんって何よ?それだけ?」
ヤナセはニヤリと笑った。あまり見せない表情にドキっとした。
「時間より早く僕に会いにきた。それは、今じゃなきゃいけない理由が出来た。違うかい?」
「それに君は単純だからすぐ解るよ。アハハ。」
心なしかヤナセが明るい。
「単純ってっ!」
ヤナセは手のひらをアコに向けて制すると一呼吸して言った。
「行こう!アコ!」
ヤナセのバイクの後ろに乗りながら、色々な事が頭を過る。
学園、お婆様、ルッソ、大騒ぎだろう。
ファルにも感謝しなきゃいけない。
アコとヤナセを追う者は居なかった。
運転するヤナセから時より笑い声が聞こえてきた。アコもなんだか、つられて笑う。
束縛としがらみからの開放が心を踊らせた。
何故か、箱の謎や父の死の真相なんかも一緒にわすれてしまいたい感じだった。
最初からそうだったのかもしれない。
暫く走ると、見なれない寂れた店の前にバイクは止まった。
ヤナセはちょっとだけ待つように告げると、中に入っていった。
店はバーか何かが潰れた建物だった。
それも数年前にとかじゃなく、数十年前と言ったほうがよい感じだ。
店の看板の跡すらない…。
暫く待つとヤナセが出てきた。
「中に。」
アコが唐突に言うヤナセを見ながら、身を後ろに引く仕草をするとヤナセは溜め息をついて両肩を上げるようにすると
「安心しろ。アコには間違えても何もしないから。」
その言葉にアコが一瞬過剰に反応する。
「ちょっと!失礼じゃない!」
ヤナセはいたずらっ子みたいに笑う。
店の中へ入った。
外から見るより中はずっと綺麗で広かった。
「これで家賃75ドルだ。」
ヤナセはそう言うと、アコにコーヒーを出した。
「ありがとう。え?あれ?ここで、生活を?」
「ああ、何も問題ない。キッチンもあるし、シャワーもある。寝るのはソファーだ。」
アコは少し焦ったように取り繕おうとした。
驚いた事が失礼だったのではないかと思ったからだ。
「ああ、次の借り手が見つかるまでの間だけの借り住まいだ。そのうち、日本にも帰るしな。」
「え?ヤナセ…。日本にって…。」
ヤナセはアコの言葉を聞いているかいないのか立ち上がり、カウンターの裏からノートを数冊だした。
「早速だけど、本題に入る。時間の無駄は避けたいからな。」
アコは少しだけ上の空になり気味になっていた。
「アコ?いいか?」
「ああ、ごめん。あのさ、ヤナセ。なんでヤナセは大事な事なのに話してくれないの?日本に帰っちゃっうって…。」
ヤナセは溜め息まじりに言う。
「じゃあ聞くが、君は僕の何か知っているのか?僕に何か聞いたか?君に関係ない事だろ?違うか?」
アコは勢いよく立ち上がった!
「ヤナセ!そんな、酷いよ…。」
言葉に急速に力をうしないながら、涙声でアコは言う。
立ち去ろうとしたアコの手をヤナセが掴んだ。
「はなして!もう、やめよ。ありがとう!箱の事、父の事もあなたには関係ない事だったのに。何も知らない人に頼ってた。」
「いや、すまないアコ。少し言い過ぎた。僕が悪かった。」
ヤナセは俯きながらそう言って、アコの手を離した。
それから少し、沈黙の時間が流れた。
おもむろにヤナセが口を開く。
「今度、ゆっくり僕の話しでも聞いてくれ。アコが嫌じゃなければ。」
「あ、あうん。なんでも話して!ヤナセの事、沢山知りたい!」
アコは素直な気持ちを口に出した。
ヤナセはニッコリ微笑んだ。
「さて、君と会って居ない間、自分なりに調べた事を言うよ。」
「まず、江戸川範治の件だ。奴は今は、とても人と話せる状態じゃなかった。」
アコがびっくりしたように叫んだ。
「会ってきたの!」
「ああ、日本からきたファンです。ってね。」
少し顔を曇らせながら、ヤナセは続けた。
「寝たきり…。植物状態と言ったほうが正しいか。」
「え!?」
アコは驚いた。
「日本に帰る直前、突然に倒れたらしい。皮肉なものだ。奴の実の姉と色々と話したが、彼の発表した書籍は彼の研究成果で決して盗んだものではないそうだ。」
「まあ、どうあっても弟の不正は認めたくないのが当然だがな。」
「ペイトン教授に危害を及ぼしたのも恐らく、彼じゃない。」
「彼が大学から持ち帰った、誰かから貰ったプレゼントの中にあの茶葉があった。もっとも彼は封すら切ってもいない。」
「貰った時、すごく嬉しそうにしていたから、奥さんは印象深かったそうだ。遺品の中に眠っていたので、もしやと思って調べさせてもらった。」
「渡したのはクレアだそうだ。」
アコは言葉を失っていた。
「そして、もっと驚くべきは…。」
アコは息をのんでヤナセを見つめた。
「いいか、アコ、落ち着いて聞いてくはれ。」
アコは頷きながら不安そうにヤナセを見つめる。
「君の所の色男。ルッソ・テンプルトン・マードック。彼の素性を調べた。
本名、ルーデン・アイヒマン
ドイツ系のギリシャ人。
クレアはリビアナ・アイヒマン同じく、ルッソの妹。」
「え!そ、そんな…。兄妹って…。」
「二人共、孤児院出身だ。ジョン・ジャックス・ブルーノ…。本名、ジャーバス・アイヒマン?君の所の前の執事、彼が二人の実の父だ。」
アコは口を両手で押さえ、声も出せないようだ。
「大丈夫?続けるかい?」
ヤナセがいつになく優しく訊ねるとアコは大きく頷いた。
「どういう経緯かは知らない。親子が再会し、しかも二代にわたり、ベルナリオル家に執事として入った。そして奴等の父ジャーバスは引退し、息子のルッソがいや、ルーデンが執事となった。」
「狙いはベルナリオル家そのものを奪う事。しかし、それだけでは疑問が沢山残る。」
「君のお婆様に手を出していない、ジャーバスに至っては、寧ろ、危害と呼べるような行為をした事は見当たらない。」
ヤナセは眼鏡を指先で押し上げる。
「 確かに厳しい人だったけど、悪い人には…。」
アコはそう言って伏し目がちになった。
「あと、あくまで、僕の推測だが、アコの家の庭に菜の花は咲いていなかったかい?」
「え?なんで?確かに、庭に菜の栽培スペースがあったわ。マードックさんが食用油の原料や、料理に使うって…。」
「やはりね。西洋アブラナ、これに良く似た葉っぱを持つ毒草、イパナシュス。素人目では判別がし難い。」
「しかも菜の花と違って栽培も難しい。環境も土も違う所で栽培するとなると年中、様子を見て手をかけていたんでは?」
「うん、確かに、お婆様はマードックさんが菜の花が好きなんだと思ってくらい。」
アコは少し何か考えるように、上を見上げた。
「まあ、今回、僕が調べたのはこのくらいかな。それから、その箱。開けてみよう。」
「ヤナセ。なんだか一度に色々とありすぎて、頭が…。」
「あとにして、少し休むかい?」
ヤナセは微笑んだ。
「開けてみよう!謎が解けたんだね!」
アコは精一杯の元気をヤナセに見せた。