06:暗黒星雲
(ラム。重い。手伝って)
ネリーがそう話しかけてきたのは、ぼくが起きてすぐのことだった。朝だ。船がやってきてから三日目、弟が旅立つ日だった。
「ネリー、おはよう」
きっとぼくはあくびをしたのだろう。目覚めのあくび。その音がアウトプットとしてネリーに届いたんだ。
(おはよ。いま裏口のところにいるから)
重いと彼女は言っていた。おそらくなにかを運ぼうとしているのだろう。ぼくは寝床から起き上がって、衣服を整えた。家を出て隣へ向かう。今日も地面は温かい。いつまでも変わらない温かさ。
隣の家は目と鼻の先だ。足の裏の感触を噛み締めるよりも早く、ネリーの姿を見つけた。庭に入ったときもう一度「おはよう」と言った。起きたばかりで喉が閉じているのか、声がうまく出ない。それでも頭のほうへは届いただろうと思った。このまえの情報津波があってから、ぼくは、自分たちのこの伝達の機能についてよく考える。近くにいてもいなくても、声は届く。それなのになぜ、ぼくたちにはわざわざ耳がついているのだろう。
「これ、ラム」
ネリーが指差したのは、四角い物体だった。見覚えがある。一昨日、祭りのとき見かけた。昨日、アイさんにこれがなにか教えてもらった。
「交換留学生、ね。向こうの留学生のうちひとりが、私の家に泊まることになってるの。言葉が通じないと困るでしょ」
なぜこれがここにあるの、とぼくが訊くよりも先に、ネリーは言った。交換留学生。弟が向こうの星に行くように、向こうの星からこの星に来る人もいるんだ。
「でね、おかしいんだよ。昨日、その留学生と話したんだけど、歳を訊いてみたら、十七歳だって……。お母さんたちよりも年上だって」
「え、十七歳? それって、あの物知りのおじさんよりも」
「そう。おじさんの一歳年上。でも見てみるとね、私たちと同じくらいにしか見えないんだもの。笑っちゃうよね」
でも、ぼくもネリーもまだ三歳だ。
ネリーと一緒に翻訳機を家のなかに運んだ。確かに、重たい。これをネリーひとりで運ばせるのはおかしなことだった。でもネリーのお母さんもお父さんも、いまはたいへんに忙しくて、ネリーに気が回らないそうだ。ネリーも、もとからぼくに手伝ってもらうつもりで、ぼくが起きるのを待っていたらしい。
「やあやあ、この星の子だね。はじめまして」
運び終えて、庭に戻ると、そこに見知らぬ男の人がいた。白くて長い服を羽織っている。ヒゲが濃くて白かった。ぼくは、この前の、医務室にいた男の人のことを思い出す。
「えっと……」
ネリーが困ったようにぼくに顔を向ける。ぼくは、ネリーの肩を小突いてから、「はじめまして」と男に返事をした。男はにっこりと微笑んでいた。
「良い家だね。大気が薄いことを考慮しているのか、実に適切な高さをしている。この庭の広さは、人口密度の低さ、つまり配給される土地の自由度が表されている。実に裕福な星だ、この星は」
男は、微笑んだままヒゲを撫でた。白いヒゲが滑らかにほぐされていた。
「おっと、自己紹介が遅れてしまったね。未知の者と出会ったときは、互いの情報を交換する。そうすることでそこに交流が生まれ、新たな文化が生成されるのだよ。……私は、ルボルフだ。向こうの星で生き物の研究をしたり、教鞭を執ったりしている」
ルボルフというその男の人は、そう言って胸を張った。きっと偉い人なんだろう。そんな振る舞いだった。
「ぼく、ラムです」
ネリーは顔を伏せている。顔を上げる様子がなかったので、彼女を手で示して「ネリー」とだけ紹介した。ルボルフさんは仮面のように微笑んだままだ。
「ああ、きみがラムくんか。話は聞いていたよ」
その途端。訪れる嫌な感じ。ぞわぞわと、お腹の底になにか埋め込まれたみたいな、それがうごめいているような、嫌な感じが。ぼくは気分が悪くなった。なにがあったんだ。分からない。
「きみ、生まれつき情報伝達器官が劣っているそうだね。……かわいそうに」
かわいそう?
ネリーは顔を伏せたままだ。ルボルフさんの顔は仮面を被ったまま。なに。なに。頭が痺れてくる。(こっちだよ)(あら、こんにちは)(この件ですが……)(まだ足りないのではないでしょうか)(レポートは書けたの?)誰かのどこかの声が流れてくる。普段は意識しなくても良いはずのアウトプットたちが、ぼくの体を縛り付けて。
だめだ。こんなことだめだ。
(ラム……ラム……聞こえるか? ラム!)
弟だ。弟の声だ。
(そいつの話を聞いちゃいけない。星からやってきた連中誰の話も聞いちゃいけないんだ。まるで考え方が違ったんだ。同じように見えて見えないところが決定的に違ったんだよ、ラム! あいつらは俺たちの知らなかった概念を持っている――ああ気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い)
ぼくは駆け出した。「おい、きみ!」ルボルフさんが太い声をぶつけてくる。つんのめりになりながら走り抜けた。弟の気持ち悪いという感情が、恐ろしいほどに伝わってきて、走り出さずにはいられなかった。ネリーが遅れて声を上げる。ルボルフさんがなにか悪態をついていた。
ぼくが駆け込んだのは家ではなくて、コーヤ肉の培養場でもなくて、いつものあの塔だった。廃れた扉をくぐって螺旋階段を駆け上る。一気に屋上まで辿り着いた。そこにはいつもの暗黒星雲が見えた。
(ラムのばか)
ネリーの声。悪いことをしたな、と思って、でも、息が切れて言葉が出なかった。
暗黒星雲はいつも通りそこにあった。塔の上からじゃないとよく見えない、暗くて遠い霧。でも、なんだか、いつもよりも明るくなっているような気がした。
船は今日が終わると同時に出発する。弟はこっそり悪態をつきながらも、順調に留学生としての準備を進めているようだ。もちろん、こっそりといっても、ぼくら星の人間には筒抜けなのだけど。
「ここにいたんだ」(ここにいたんだ)
ふいに、声が響いた。二重になって降りかかってくる。ぼくは咄嗟に振り返った。この感覚は、とても独特で、覚えている。直接的なアウトプットがこないものと思い込んでいるときに話しかけられたりすると起こる、一種の錯覚――ぼくの後ろにはアイさんがいた。両手を組んで、屋上に座るぼくを見下ろしている。垂れた髪が暗い空に馴染んでいた。
「なんで、ここが?」
「うん?」
「なんで……わかったの」
この塔にぼくが通っていることは、誰も知らない。このアウトプットに満ちた星のなかで、ぼくのほかに誰も。知らないはずなのに。
「この塔はなんだろうって、入ってみちゃった」
そう言うアイさんの表情は、普段より緩んで見えた。でもどこか、疲れているように見える。気のせいだろうか。ぼくはアイさんの視線がくすぐったくて、でも同時にぼくもアイさんからうまく視線を逸らすことができなくて。塔の上には、地面の熱は届かない。
「ここって、入っちゃいけないところだった?」
そう真正面から質問されては、そうだとは、言いにくい。ここはぼくの場所。そのはずだったのに、ここを独り占めするのもよくないかな、と思いつつある。ぼくはなにも答えられずに、変に意味のない声を垂れ流すしかなかった。
沈黙が訪れる。その沈黙は気持ちの良いものではなかった。情報津波に襲われたときの、あの空白の時間を思い起こす。沈黙というものは、あの空間が、異常でもなんともないのに訪れる、不気味な時間。ぼくは頭をひねり出した。
「あ、そうだ。アイさん」
ぼくはなんとか話題を見つけあげた。訊きたいことがあったんだ。
「なに?」
アイさんは、特に沈黙を苦に思わない人のようで、案外あっさりと返事をしてきた。ぼくはちょっとおどけて、おどける素振りを咄嗟に作って、そうじゃないんだと自分を苛む。
「アイさんって、なん歳?」
「うん? 十九歳」
「えっ」
「十九歳」
ネリーの言っていたことは本当だったんだ。向こうの星の人間は、ぼくらよりも、ずっと年上の人たちだったんだ。同じくらいの歳だと思っていたのに。ぼくは頭を抱えた。沈黙を破るための質問が、さらなる苦しみをぼくに仕向けている。
「ラムは?」
アイさんが訊き返してきた。話の流れで、ついでのように訊いてきた。その気軽さがぼくには苦だった。ぼくは三歳なのだ。
ぼくは答えようと口を開ける。唇がかじかんだ。
「さ、さん。三歳……」
小声でしか言えなかった。でもきっと、聞こえただろう。その不可思議な様子に、彼女はもう一度聞き返してくるかもしれない。もう一度答える勇気はなかった。
しかし、アイさんはもうぼくに顔を向けていなかった。ぼくではなく、空をキッと睨んでいる。怖い顔。怒っている?
「アイさん?」
「ラム、あれ、いつからあったの」
アイさんは、ゆっくりと指を持ち上げる。そのうちのひとつの指が、上空を指した。それを目で辿り、さらにその延長へ進んでゆく。……その先には暗黒星雲があった。
「え、あれは……ぼくが生まれる前から」
「ずっと?」
「うん」
アイさんが息をついた。あの暗黒星雲がどうしたというのだろう。ぼくはあの星雲に、よくおしゃべりをする。弟たちに聞かれたくないから、思うだけに留めていたけれど、ぼくにとってはおしゃべりだった。そのおしゃべり相手が、どうしたというのだろう。
暗黒星雲は、普段通りにそこにある。変わったことは――。
明るい! 光った!
ぼくは思わず立ち上がった。唾を飲み込む。喉の音がアウトプットとして星中に広がった。(どうしたんだ?)誰か知らない人が、ぼくの異様な感情を察知して疑問を声に出す。疑問の連鎖が起こっていった。心臓が早鐘を打っている。アイさんの手がぼくの腕に当たった。
「逃げるよ!」
手が腕をすべって、滑らかにぼくの手を取る。そのまま引っ張られて、足が引きずられて。
「走って!」
走って。アイさんの声は、アイさんに自覚はないかもしれないけれど、この星の全体に伝わっていく。頭ががんがん痛かった。この星の人々が、口々になにやら喚いている。アイさんの言葉に反響する。頭のなかが。
(ラム、どうしたんだ!)
いくつもの声のなかで、一際聞き取りやすい声。弟の声だ。
「分からない……アイさん、どう、いうことな、の」
走りながらだと言葉がつっかえる。階段を駆け下りるのは少し怖くもあった。でもアイさんは言葉を汲み取ってくれたようで、ぼくの手を引き続けながら答えてくれた。
「あの暗黒星雲――あれは生き物。きっといままで眠ってたんだろうね。大きな船が来たせいかな、目覚めちゃった。目覚めて、動き出しちゃった」
走りながらだというのに、アイさんの言葉はスムーズだ。淀みなく流れる言葉を、頑張って受け止めた。でも分からない。あれが生き物? そんなわけないじゃないか。ぼくが生まれる前から、ずっと、ずっと眠っていたというのか?
そんなわけない、と言おうとして、ふと口を噤む。時間の流れなんてものは、ぼくの器では測れるものではないんだ。三歳と十九歳に、どれだけの間があるのかなんて、ぼくには測れないんだ。
(おい……あれ……)(なんだあれは)(ママ! お空が光ってる!)
塔の上からじゃないと見えなかったはずの暗黒星雲が、いまは地上から見えているらしい。背中に光を感じる。前方に影がのびていた。明らかに光っている。
「どこへ行くの、どうして逃げるんだよ」
「あの光が届かないところ。あの星雲の反対側に――あっ」
足がとまる。ぶつかった。走っていた人。ぶつかった。
ぼくはようやく、周囲の様子を目で捉えた。アイさんも、いまになるまで気付かなかったのかもしれない。
惑い。喚き。叫び。走る。人々が走る。どの星の人かもなにも関係ない。みんながあの光の届かないところへと、走って、走って。喉の奥を苦いものが通る。ぼくはアイさんの顔を見た。青ざめている。
「――こんなはずじゃなかったのに」
ぼそっと呟いた声は、隣にいるぼくでもやっと聞き取れるものだった。
背後から轟音が走る。
頭のなかは、混沌としすぎていて、むしろ静かだ。暗闇のように、すべてが混ざり合わさってできた黒色みたいに、頭のなかは健康状態にあった。
ぼくらの傍を、男の人が走り去った。「あ、ルボルフ教授だ」ぼくは呟くが、アイさんは青ざめたまま動こうとしない。ルボルフさんはぼくたちに目もくれない。自分のことで必死になっているのが、よく分かった。
「おい! アイじゃないか!」
ぐいとぼくの手が引っ張られる。アイさんの肩が引っ張られて、それにつらなったらしい。アイさんの手は固く、ぼくの手を握り締めている。ぼくは一昨日の、ショックのせいで体が動かなくなったときのことを思い出した。
「おい、大丈夫か。ここは危険だ。見ろこの光。毎時二〇〇〇ミリロルフだ。毎時二〇〇〇ミリロルフだぞ! 体が壊れてしまう! この星を出るんだ。ほら、ラムくん。きみもだ。この星は終わりだ」
アイさんは動かない。
「おい、アイ! 船がもう出――」
閃光が見えた。きっとあの星雲から飛び出た光だ。放射的に明るく光っていたのと他に、まるで光線のような、いや、光線そのものが、飛び出てきたんだ。男の耳を掠める。顔の側面が抉れた。血液が遅れて噴き出す。においはよく分からなかった。鼻が利かなくなったのか。絶叫が響く。苦痛に悶えるその顔を見て、ぼくは、この男の人があの医務室で会った人だと思い出した。男が蹲る。
逃げないと。死ぬ。死ぬんだ。ぞくぞくと体に湧き上がる。ぼくは逃げようと足を踏み出した。アイさんの手がほどけなくて、前に進まない。
「アイ!」
男が荒げた声で叫ぶ。大声が耳に痛かった。男は蹲ったまま顔をうずめて叫ぶ。「アイ!」だけれど声は彼女には届かない。人形のようにアイさんの体は凍っていた。握られた手がほどけない。(ラム、ラム! ラムどこにいるの!)女の人の声。お母さんだと思って、でも、もしかしたらネリーかもしれないと思った。よく分からない。分からない。
星は光に包まれている。この星は終わりだ。男のさっきの言葉が、頭のなかでぐるぐると廻っていた。この星は終わりだ。終わりなんだ。
また光線が見えた。それはアイさんの傍を通り過ぎて、腕を伸ばしたぼくの体に突き当たった。
なにもかも熱くなって、なにもかも活発に感じて、それでもなにも分からなかった。
なにも。




