02:コーヤ肉のソテー
ここからは暗黒星雲がよく見える。雲のくせにそれは動かずに、ここの空に居座っている。もしかしたらゆっくりと、他の雲みたいに、縮んだり分かれたりしているのかもしれない。ただ、それがとてもゆっくりだというだけで。
ぼくが生まれたときから浮かんでいるあの暗闇を、ぼくは眺めるのが好きだった。なにか嬉しいことや悲しいことがあったとき、この塔に来て、そのことを伝えるんだ。近所のネリーが転んだのを見ちゃった、とか、先生の調子がおかしくなっちゃって今日は勉強お休みなんだ、とか。もちろん、口には出さない。きっとあの星雲なら、声に出さなくてもぼくの言うことを分かってくれる気がする。
(おーい。ラムー!)
弟の声が脳内に響いた。遠くからぼくの名前を呼んでいる。ぼくがどこにいるのか、分からないようだ。内緒でこの塔に来たから、その情報を外に漏らさなかったから、当然のことだけど。
(返事しろよ。ごはんだってさ)
暗黒星雲を見上げた。じっとしていて、動いているようには見えない。ぼくは上空を眺めながら、もう少しだけ無言に徹してみた。空に黒い影が浮かんでいる。
(返事しろってば……今日はトートスの煮付けだぞ)
弟の声を受容して、誰かがごくっと喉を鳴らした。ひとりではなく複数の人間が、トートスを想起してよだれを垂らしている。
「分かった。いま行くよ」
ぼくは立ち上がった。塔のてっぺんは少し肌寒い。地面の熱が届かない。暗黒星雲のところは、もっと寒いのだろうな。そう思いながら手を伸ばした。もちろん届くことはない。なにもないところを掴んで、感触も味わえないまま。
「また来るよ」
空に向けて発言をして、塔を下りた。ぼくの発言に反応して、弟が(だれかと会っていたのか?)と不要な疑惑を向けてくる。この塔に通っていることは秘密にしていたので、ぼくはその疑念を晴らそうとはしなかった。確かに、ぼくはあの星雲に会っていたのだ。
誰かが遠くでくしゃみをした。脳内で音が響く。大丈夫、とその人が誰かに向けて声を出す。風邪だなんて珍しい。そう感想をいだきながら、その思いを外に出さないように気をつけて歩く。いちいち知らない人と会話なんてしていられない。
地面は温かい。今日はいつもよりも温かくて、一歩進むごとになんだか足の裏がくすぐったかった。ふぅとつい声を漏らしてしまう。しまったと思ってももう遅くて、その声が星全体を駆け巡った。複数の人がぼくの吐息の意味を探っている。これだからアウトプットは嫌になる。
(ラム、どうしたんだ?)
弟がいちいち訊いてきた。
「なんでもないよ」
弟だけでなく、他の人へ向けても発言をする。ほとんどの人がその発言によって、ぼくの吐息から興味を失くしてくれる。つい息を漏らしてしまうことだって、誰にだってあることだ。
あの暗黒星雲は低いところからは見えにくい。地面が空気を温めてしまって、空に少しだけ厚い膜ができているせいでもあった。だから、あの星雲のことを知らない人も少なくない。ぼくがあれを題材にアウトプットしたことはただの一度もない。話しかけることはあるけれど、他の人に、星雲のことを話すことは一度もなかったんだ。あれはぼくの、秘密のともだちなんだ。
(今日はトートスの他に、コーヤ肉のソテーもあるってさ)
弟がふいに言葉をかけてくる。コーヤ肉のソテーだって? 足の裏に力が入った。足を速める。
(いいなぁ、いいなぁ。わたしも食べに行っていい?)
ネリーが口を挟んできた。ネリーは、ぼくが彼女の転んだところを見たのを、知らない。ぼくがそのときぷいと振り返って、そのまま逃げ去ったからだ。
(こらこら。うちの家は鍋するんだぞ)
ネリーの父親がそう窘めた。知らない誰かが唾を飲み込んでいた。頭の中に、その音が浸み込んでくる。こういうとき、決まって唾を飲み込むのはひとりではなく複数だ。でもぼくは鍋よりもコーヤ肉がいい。
お腹が空いてきた。はらぺこの音がする。音が惑星全体に伝わる。くすくすと誰かが笑っていた。すこし恥ずかしくなる。ネリーも弟も笑っていた。
「そう笑うなよ」と言って、その直後にまた後悔する。ぼくの声が全体に拡がって、みんな、ぼくの恥ずかしい感情を読み取ってしまった。恥ずかしいことを知られるのは、もっと恥ずかしいことだ。
家に帰ると、温かいにおいが充満していた。コーヤ肉のソテーだ。ぼくはきっと満面の笑みでもしていたのだろう、テーブルについてぼくを待っていた弟が、苦笑いをしていた。表情はアウトプットの一種だけれど、視覚によるアウトプットだから、拡散範囲は家の中に留まる。だから恥ずかしいことはない。ぼくはさっそく席について、食器を手に取った。
「ラムはほんとにお肉が好きねぇ」
お母さんがそう言って、お父さんが和やかに笑った。弟もくすくす笑っている。ネリーが笑っているのも分かった。他の知らない人たちも、なぜだか笑っている。そのうちの数人は、ぼくの味覚情報をどうにか認識できないか、懲りずに試しているようだった。味わうことはインプットだから、そんなことできるはずないのに。
「肉が好きなんじゃないよ。コーヤ肉が好きなんだ」
「なにが違うんだよ」
「全然違うよ」
よく説明できないけれど。
どこかで誰かが、(明日はコーヤ肉にしようかしら)と呟いていた。それを聞いた他の人が、(そうしよう)と返している。ぼくは二人の会話に参加したかったけれど、他人にいきなり話しかけるのは失礼だから、控えることにした。アウトプットには礼儀と節度が必要だ。
いくつもの情報が脳内に流れてくるけど、コーヤ肉を前にしているぼくにとって、それは砂粒のような些細なものでしかなかった。においや食感を噛みしめると味が出てくる。その直接的で喜ばしい情報が、脳内を占拠して、ほかの介入を許さない。
「おかわり!」
大声が響く。恥ずかしくはなかった。
「はいはい」と、お母さんがぼくからお皿を受け取る。複数人がくすくすと笑っていたが、コーヤ肉の味が舌に残っている間は、それはなんともなかった。食卓のぬくもりが恥ずかしさを覆い隠してしまう。
(ママー、うちもコーヤ肉が食べたい!)
ちょっと離れたところに住んでいる、女の子がそう言っていた。
(だめだめ、あんな高いもの)
そうだ。そういえばこの肉は高級なものだった。市場ですぐに見つかる肉だけれど、ほかの肉よりもずっと高いんだって、このまえネリーが言っていた。
「お母さん」
「うん、どうしたの」
食卓に並ぶ肉は、どれもコーヤ肉だ。トートスの煮付けをつまみながら、よく焼かれたコーヤ肉を口に運ぶ。普通の安い肉は、一切混ざっていない。この前コーヤ肉を食べたときは、他の肉が半分くらい混ざっていた。高いから。
「今日はなんで、コーヤ肉なの」
ぼくの質問のあと、一瞬の空白ができた。情報の停滞だ。みんな口を閉じて。脳内に流れる人々のアウトプットが、途切れたように思えた。
(えー。うっそー。ラムってば知らないのー?)
その空白に最初に色を注ぎ込んだのは、お隣のネリーだった。
「ほんとに、知らなかったのか?」
弟がそれに続く。
「なにを」
ぼくは本当に思い当たるものがなかったので、素直に訊くしかなかった。脳内で笑い声が歩く。脳のしわくちゃしたところに足跡が付けられたみたいで、気持ち悪い。
「なんなんだ」
ぼくだけが知らない。そんな孤独が胸を締め付けた。ぼくだけが知らない。悲しいと感じることは、感じるだけなら表に出ないものだから、きっと誰もぼくの気持ちに気付かない。複数人が笑い続けていた。ある人はぼくに対してではなく、娯楽映像を観て笑っているようだった。それでもその笑い声が不快だった。
「そう落ち込むなよ」
弟がそう言った。ぼくの感情は流れ出ないはずなのに、なぜ分かったんだろう。
(船がね、来るのだよ)
物知りのおじさんが口を挟んだ。
「船?」
「おいおい。ほんとに知らなかったのか」
お父さんがぼくの顔を覗き込む。ぼくはコーヤ肉を口に入れたいと思っていたが、なんとなくそれは憚られた。手の居心地が良くない。
「遠くの星から、交流船が来るのよ」
「交流船?」
「そう。星間の、交流のための船。たいへんなことなのよ。お母さんも生まれて初めてのことなんだから」
ぼくは頃合を見計らってコーヤ肉を口に入れた。それを咎める人はいなかった。噛む。なぜだか罪悪感が湧き上がってくる。
「それでな、おれ、交換留学生に選ばれたんだ」
ぼくは急いで口の中のものを飲み込んだ。弟の言葉がよく分からなかった。疑問を口に出すために、口のなかを空ける必要があったのだ。
「とっくに知っていると思い込んで、おまえには言い忘れていたんだろうな」
お父さんの口調を耳にして、これが本当のことなのだと実感する。そういえばそんなアウトプットが脳内に流れてきたことがあるような気がする。
「相手の星から数人、ここからも数人、お互いに留学し合うのよ」
(文化交流、そして技術の融合にたいへん役立つ企画であるのだね)
さきほどのおじさんがまた口を挟んできた。
(ラムくん、きみの弟さんは、この星の未来を担う重要な役割に選ばれたのだよ)
弟が照れた顔をする。
「コーヤ肉は、そのお祝い」
ぼくは皿の上を眺めた。コーヤ肉がたくさん。奮発して、弟を祝っていたんだ。そんなことに、ぼくだけが知らなかったなんて。
「そっか」
ぼくがお皿を見下ろしているから、お父さんにはぼくが落ち込んでいるように見えたらしい。お父さんがぼくの肩に手を載せた。お父さんは、弟とは違ってぼくの感情を読み取れないようだ。
「まあ、少し長いお別れになるかな」
お父さんがぽんぽんと肩を叩く。ぼくはコーヤ肉を見つめたまま。
「ごちそうさま」
席を立った。お父さんの手が離れる。
「もういいのか。あんなに美味しそうに食ってたのに」
弟に言われた通り、ぼくはまだ食べ足りない。けれど、今日はもうこれ以上食べる気にはなれなかった。
「おまえが食べなよ」
そう言って、自分の部屋に行った。
(ラム、悲しいの?)
ネリーが訊いてくる。ぼくは答えずに、寝床に身を投げた。
脳裡にあの暗黒星雲が蘇ってくる。そこからおかしな形の人間が、船に乗ってやってくる。そんな想像をした。
おやすみ。口には出さないで、脳内だけで呟く。いくつものアウトプットの中に、自分の内なる言葉が混じって消えた。
(おやすみ)
弟が、今の声を聞いていないはずの弟が、そう話しかけてきた。