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第五章 「あなたのいなくなった日に」



「でっ!?」「うわっ!?」「…………」

「くぅっ……って、なんでお前は『……』って、我関せず系の反応かい!」

「益体ないのう……主は」

「亮介!? 変なところ……さわらないでよ」

 涼子には似合わないと感じるほど、赤らめた表情で俺を見る。

「さ……さわる訳ないだろっ!」

 扇から突然発せられた光、そして視力が回復した瞬間に地面の接地感を失った。次の瞬間、目の前には薄汚い廊下の映像と衝撃、そして背中に思いっきり乗っかってきた涼子の身体。

(これで重いって言ったら更にひどい仕打ちが待ってるんだろうな)

 しばらくぎゃあぎゃあ騒いでいた俺と涼子は、周りの異質な雰囲気に気が付いた。

「なぁ、ここって、もしかしてさっきの……」

「そうじゃ、2年前じゃがの」いとも簡単に白鷺は言う。

「2年前」そう言って、俺達はつい先程までいた旧校舎の面影を思い出していた。

「ね、ねぇ! 時間は? 今が2年前なら、もちろんあの日にドンピシャなんでしょ?」

 今にも飛びつかんとする勢いの涼子を、白鷺はやんわりと遮る。

「過去に居ずる主達が進入するには、まだ半刻の猶予がある。蝟集の怨も儂らが手出しをしない限りは、時からはぐれた我々に仇を為すことは無いのじゃ」

 所々に斑点状の茶色いシミが広がる長い廊下、その目立たない片隅を選び、俺達は最後の作戦会議を開いた。


「で……じゃ、肝要なのは次の点じゃ」

 そう言うと、白鷺はマジマジと俺達を見つめて話し始める。

 要点は二つ。

 一つ目、ゆきをこの旧校舎から安全に出口へ誘導する。これは俺の仕事になった。

「よいな亮介、蝟集の怨は儂が手合わせる故、主は藍乃里ゆきを結界外へ導くのじゃ」

 二つ目、今の涼子を説得すること。

「判るな珠川涼子。今を生きる主の御魂が朧桜との契りを納得せぬ限り、この結界からは誰も脱することは出来ぬのじゃ」

 固唾を飲む音だけが、薄暗い廊下に響く。

「言い忘れたがのぉ、これだけは心に留め置くのじゃ。時の流れは何者にも……特に人如きには抗うことの許されぬ力じゃ」

 静かに言い放つ。

「だが主たちはその壮大な流れの極々一部を変えようとしておる。それは……様々な形で主達に障害となりて襲いかかろう」

「脅かすなよ」堪らず俺は言う。

「脅しならマシじゃろうなぁ、しかしこれは贖うことすら叶わぬ詮無きこと」

 そして俺達は白鷺の『そろそろじゃ』と言う合図で別れていった。

 ん? 持ち場へ駆けてゆこうとする涼子を白鷺は呼び止めた。二言三言を話し終えると何かを渡した後で、涼子はにかんだ笑顔を見せて別れを告げた。


 涼子とゆきが生物実験室へと入室した。

 辺りは暗くなり、逢魔が時の色を携えた景色が窓の外に表現される。

「どうして、2人とも助けてやれないんだ?」素朴な疑問だった。

「死は必ず生者に訪れるのじゃ……亮介。ならば死するべき定に従わない生者は、いったいどうなるのじゃろうの?」

(死するべき定に……従わない者の未来)

 答えを待つよりも暇を惜しんだのだろう、白鷺はソッと俺の耳元に答えを残した。

「死ぬることが出来ぬようになるのじゃ」

「死ね……なく!?」

「文字通り永遠と彷徨うことになるのぉ」

「それじゃ、二人とも助けると……」

「どちらかが彷徨う事になる、可能性としては藍乃里ゆき……かのっ」

 冷たい視線で俺を見つめる瞳、その視線がほんの少しだけ和らいだ。

「大丈夫じゃ、契りを破らぬ限りは儂がついておる故、彷徨う事もないが――シッ! そろそろ藍乃里ゆきが飛び出して来る頃じゃ。抜かるな」

 夕闇が早送りのように闇へと移り変わり、涼子達が入った実験室からは静寂を引き裂く悲鳴が高鳴った。

「亮介、いよいよじゃ! 珠川涼子は1階踊り場で必ず藍乃里ゆきを突き飛ばす。主は突き飛ばされた藍乃里ゆきを匿うのじゃ」

 白鷺の言葉に弾かれるまま、俺の鼓動はドクンと高鳴った。

 耳まで聞こえる鼓動はそのまま、遠い日々に生きている涼子達の駆ける足音と重なり、そして静寂は訪れる。

 忙しない息づかいもやがて、ひそひそ話に聞こえるほどに押し殺し、彼女たちは悲劇までの時間を刻々と流れる。

「にげるよ涼――子!?」「いやぁぁぁぁ!!」

「今じゃ! 亮介」

 俺は踊り場の角から手を伸ばして、身体のバランスを崩したゆきの腕を引き寄せた。

「うわぁ!?」

 引き寄せた顔は更なる恐怖に彩られていたが――。

(今はあんまり構ってられね―んだ、悪いなゆき)

 ゆきを保護した俺は白鷺へ合図を送る。

「白鷺! OKだ」

「主にしては上々な身のこなしじゃったな」

 懐から扇を取り出した白鷺は、鋭い顔つきで廊下の曲がり角を見つめている。

「ね、ねぇ、君って――」「ゆきっ、今は説明してる暇ね―んだ。悪い」

 気恥ずかしさと懐かしさで、俺は目も合わすことが出来なかった。

(せっかく……懐かしい出会いだったんだけどな……ゴメン)


「ハァハァハァ……かぉ……んあっ……あはぁ」

 以前見たヤツとは違う、そう、言うなら未完成って表現だろうか? 腰から下に臓腑をぶら下げ、一生懸命床をはいずり回っているヤツの姿。

 恐怖と同時に込み上げる嘔吐感。

「亮介、何をしておる! さっさと逃げるのじゃ」

「大丈夫なのか、お前は?」対峙する白鷺の背中に問う。

「信用がないのう、主達をこの場までつれてきたのは誰じゃったかの」

 そして振り向くことすらしない白鷺が言葉を続けた。

「行け、珠川涼子が苦慮しているやも知れん。儂に助力は無用なれど、涼子には必要やもしれんぞ」

 言っても聞かないのは何となくだが判ってる。

(お前も相当な頑固者っぽいからな)

 だから俺はこの場に一言だけを残して涼子の本へ走ることにした。

「すまん!」ゆきの手は緊張から汗ばんではいたが……暖かかった。


― 1階廊下 ―


「ぎゃっ!」鈍い音というには大きい音。

「ったたたたたぁ、んっとにぃ、わたしってこんなに鈍くさくない」

 涼子の目の前で倒れてあたまを抱えている少女は、記憶にある昔の涼子本人だった。

「え……い、いやぁ……うそぉ」

 中学生の涼子は目に涙を溜めている。それはけっして痛いからだけではないのだろう。先程まで恐怖に引きつった顔を今度は、絶望の色で重ね塗りをしていた。

「いやぁぁぁぁぁぁ、なんなのよっ!」

 さすがに、極限状態で逃げてる時にぶつかったのが、自分と同じ顔をした人間だったらいい加減人生に絶望を憶えるだろう。

 でもさすがは昔の自分、見事な慌てふためきっぷりだと、涼子は半ば呆れ顔になった。

 どうしたら冷静になってくれるのだろうかと、少々心細くなってしまう。

(でも、頑張らなきゃ。わたしが成功しなきゃゆきは救えない)

 だからこのカビ臭くて湿気った空気でもいい、今は自分に勇気を持てるよう、大きく吸い込んだ。

 そして、

「よく聞いて! 昔のわたし!」今度はキョトンとした顔。

「昔の……わたし?」

「そう、驚かしてゴメン、わたしは……なんだかわたしばかりでごちゃごちゃだけど……わたしは未来から来たわたしなの、今は17歳なんだ」

「じゃ……なおのこと速く逃げなきゃ! 説明は後で良いから逃げようよっ!!」

 簡単で助かる……とは、いくら自分と言えど言葉に出して言えなかった。


 …………

 ……


 ゆっくりする暇は無かった。でも出来るだけ涼子は優しく、そして判りやすいように今までの経緯を語って聞かせた。

 そして、自らがやってしまったことを言葉に乗せ、自分へ伝える。

「わたしはね、ゆきを突き飛ばして助かった。もちろん、そんなつもりなんか無かったけど、そんなつもりも心のどこかにあったのかも知れないね」

 諭すように、涼子はゆっくりとした口調で語る。

「今になっちゃ判らないけど、ただ一つ変わらないモノがあるの。それはわたしが今日を境に後悔ばかりしていた。そして……」

 大きく息を吸い、意を決するように眉根を力強く動かした。

「大切な友達を友達とも思えなくなって、たくさん巻き込んで、そして気が付いた。わたしって本当にバカだったんだって」

 涙が瞼からこぼれ落ちそうだった。それでも涼子は泣く事すら許されないとばかりに我慢した。ふるえる肩を、嗚咽にむせびそうになる喉をねじ伏せて、涼子は涼子に伝える。

「だからわたしね、こんどはゆきに返したいんだ、バカな友達が奪っちゃった大親友の大切な時間をもう一度……」

 過去という時の流れにいる自分の肩に、涼子はそっと手を置いた。

「あの、未来のわたし……さん、その、ゆきは? 未来のゆきは……」

 涼子は首を横に振る。今日この日、自分の仕事はただ一つ。未来へと必死に逃げてくるもう1人のわたしに絶望を叩き付けること。

 そして、もう自分には未来がないんだと知らしめること。

 だけど、その代わり自分にはたくさんの友達がいて、みんなが自分を大切に扱ってくれたんだよって、伝える事。

 それが涼子に許された最後の戦いだった。

「私たちがゆきを突き飛ばしたから死んだよ。それも……普通の死に方じゃなかった」

 事も無げに、でも、しっかりと目を見つめて涼子は言う。風も無いのになぜだろう、余りにも荒涼とした大気の流れを一瞬感じた。

 もう時間がない。そう理解できた。

 だからゆきの死を、涼子は自分の見た全て、ありのままを昔の自分へ伝えた。

「そ……そんな、そんなのってない! じゃぁ、わたしはどうしたら……いいの?」

 今の自分よりは少しだけあどけない瞳、その中に恐怖の光が浮かんでいる。

「私の友達が約束してくれたの、ゆきを助けてくれるって。でもその代わりね、アンタは17歳まで……なんだよ」

「17歳……」余りにも早い自分の終わりを知った事で、絶望の色が浮かぶ。

「ぐすっ、でもわたしの友達がさ、ぜ~ったい悪いようにはしないし、怖いようにはしないって言うからさ、わたしを信じてよ」

 絶望を感じている若い自分に、涼子は精一杯の優しさで言葉を紡ぐ。

「アンタはわたしと違う楽しい2年間、後悔に染まらない思い出をたっぷりもらう2年間を、おもいっきり駆け抜けてよ!」

(おっかしいなぁ、笑ってても涙が出るんだなぁ)

 あどけなさを感じる程、目に涙を溜める顔は一生懸命に何かを考えている。

(やっぱり、微妙に違うけど自分なんだなぁ……)

 心の中で葛藤が終わったのか、笑おうと努力しながら涙をたっぷり流してる。

「ぐずっ! わかった、なんだか損な役回り……だね、私たちって」

「そうでもないって、最後に感動できる人生だったし、ほらっ、宮内先輩よりかっこいいヤツ見つけたし!」

「わたしのちかくにいるの? そいつ」いつもの、涼子の素顔がそこにあった。

 この笑顔に答える為、いや、答える事が今の自分の精一杯だと感じた涼子は、めい一杯の虚勢を演じた。

「ぐじっ……いるよっ! でも自分で見つけなよ」

「あははははっ、やっぱりあたしだ! 意地わるいや」

 涼子は未来の涼子をマジマジと見つめた。

「私は2年間をいっぱい、一生懸命生きるねっ」

「ありがとう、そしてごめん。突然こんなこといって……いやな未来人だよね」

 そして二人は泣きながら、笑いながら、かたく堅く抱き合った。普通の人生を送っていたら絶対に出来る事のない、過去の自分との邂逅(かいこう)

 それは唯一、自分の後悔と悲しみを理解してくれる人だった。

 ゆきを救えると言う意味が溶け込んだ大粒の涙が流れたその直後、大きな地鳴りとほぼ同時に、壁の崩れる音が鳴り響く。

 暗くなった廊下には、唯一昇降口から差し込む光だけが辺りを照らすが、立ち込める埃が雲となって涼子達の視界を遮っていた。

 耳鳴りのように響く残音、喉や鼻腔にまとわりつく埃。

「ふしゅぅぅぅ……あはっ……あっあっあっ」

 聞き慣れたくなくとも耳に残る不快な声。涼子達の背中に怖気が走る。

(な……どうして!?)

 アイツがどうして目の前にいるのかが判らなかった。

「追いついたの? えっ!? だったらゆきはどこっ!」

 計画の失敗、絶望が涼子の心を覆った。ゆきや亮介、白鷺の安否が一瞬頭を過ぎる。

 だが、もう既に声すら出ない。二人の涼子は為す術もなくお互いの腕にしがみつき、万策尽きたとばかりにへたり込もうとした――。



 暗澹とした廊下を走る二つの足音は、俺ともう一人。腰が引けて上手く走れないゆきを俺は、手で引っ張りながら懸命に駆ける。

(そうでもなきゃ、いくら年齢が上とは言ってもゆきの前なんて走れないよな)

 陸上部のエースを先導している事に少しばかりの優越感を感じながら走る俺。そんな小さな心の余裕が芽生えたのも計画がすんなりと進んでいるからに他ならなかった。

「ゆきっ! もう少しだぞ」

「うんっ、がんばろうねっ!」

 心配させまいと、ゆきは俺に笑顔を見せる。

(よしっ! もう少しだ)

 昇降口はもうすぐだった。もう、どんな事があってもゆきは助かると……思ったその直後、俺は信じられない光景を目の当たりにする。

 心にすり込まれたおぞましい化け物。ヤツはどうしてなのか、俺達の直進方向にいて、いま涼子達に襲いかかろうとしていた。

 もう既に、考える暇はなさそうだった。

(ちぃっ、だけどなっ、これって俺の見せ場みたいなもんだろ!)

 俺は咄嗟にゆきの手を離した。

「ゆきっ、俺ちょっと野暮用だからここで休んで待ってろ!」

「えっ……えっ? えぇぇぇ!」

 言うが早いか、俺は全力の更に全力で駆ける。ゴールとなる先は、あの化け物。

 スタミナは無視し、歩幅を大きくとり、前のめりになりながら突っ走ってゆく。

 そして……。

「このやろぉ! 二匹も出てくんな!」

 ど根性の跳び蹴りは不意打ちに持ってこいだと自負していた。

(やれるっ!)当たる前から、思いっ切り手応えを感じる蹴り足。

 白鷺が相手をしているヤツよりは、幾分形の整った化け物だった。足もキッチリと2本持っていたが、腕だけは一本だった。

 俺はその一本腕という事実に勝機を見出していた。

 ヤツは俺の跳び蹴りをたった一本の腕で……防ごうとしている。

「バカがっ! 防げる訳なんて……ぐわぁぁぁぁぁぁ!」

 一本しかない腕の前腕部から、突然鋭い刃が立ち上がった。ふくらはぎから太腿までを一気に切り裂かれ、地面に叩き付けられた俺は真っ赤に染まる自分のズボンをしばし呆然と眺めていた。

(うわぁ……やべぇよ、こんなに血でたら、死……ぬ)

 ――胸が高鳴りを憶える。

 ヤツは骨と皮だけの顔を床に近づけ、俺の流した血を腐った長い舌で一なめした。

 ――心臓が警鐘を鳴らすかのごとく、幾つもの鼓動が鳴り響く。

 慟哭、それが俺の身体を震わせる。

 狂気、それが俺の心を(いざな)い始める。

「涼子……逃げろ」

「ダメだよ! 出るんだったら亮介も白鷺さんも――」

「早く……しろ、って、言ってんだ。だ……だめ、なんだ、俺……」

 自分に恐怖を感じつつも、俺は傷ついた足を見る。ドクドクと流れる血はもはや、止める術すら見いだせない程に溢れている。だが、俺は流れ出ているはずの血潮を今、脈々と身体の内に感じていた。

「俺……また、あん時、みたくなっちまいそうだ、だから、早く……逃げ、て、くれ」

 言い放った。もう既に涼子達の声は耳に入らない。あるのは不思議な高揚感。

 目の前で不思議そうに俺を伺っている化け物、そして涼子達、その俺以外の全てをバラバラに引き裂きたい衝動だけが、俺の心の中に染み込んで行く。

「ぐがぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 理性はほんの僅かなカケラを留め、その殆どが飛び散ってしまった。床に滴った血液を舐め取るヤツの頭を抑え、膨張する上腕筋を欲望の赴くままに床へとめり込ませた。

 心地よい振動と薄い殻の潰れる感触。それが手のひらを伝い、上腕部を通る神経を介して俺の大脳へリアルな感触を伝える。

 数度にわたり足先が痙攣する様は、霞のかかった知覚で辛うじて俺に伝わる。その動きはまるで昆虫を想像させるものだった。

 ヤツの怪物としての何かが終わったことを本能的に理解した俺は、意志とは無関係に涼子達を見つめる。

 朧気な視野に入る涼子達とゆき。

 そして、怪物の時とはまた違う興起を感じ、視界はゆっくりと赤色に滲みる。

 俺は一歩近づき、ゆきに睨みを効かせる。

 ゆきはこの世ならざるモノを見る表情で、俺の事を見つめるしかない。

 次の一歩、この歩みが地に着く頃、俺は確実にゆきの細い首をへし折っているだろう。それだけはしたくないのに、俺の心の底からそれを期待する声が沸き上がる。

 そして俺の目は……更に赤く光った。

 何のためらいもなく腕を振りかぶる。

 つられてゆきも目を瞑り、全てを受け入れようと諦めの表情を表した。

 そして俺は、ゆきの表情を見て、満足そうに笑っていた。

(やめろ……やめろっ! 止めろよ!!)

 助けに来た筈だった。少なくても涼子に対して白鷺はそうだった。

(うわっ、うわぁ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!)

 それは心の叫びだった。

(俺の身体なんだ! 動けよ……うごけっ!! ゆきだけは止めろ! やめてくれっ!)

 だが、身体は俺の思いにぴくりとも反応しない。

「亮介っ! わたしをつかってよ、心を静めるのにわたしをつかって良いよ」

 俺とゆきとの間に、涼子は自らの体を滑り込ませた。突然あらわれた涼子に、俺ならざる俺は一瞬腕を引っ込めた。

 ゆきを手に掛けようとしている俺以外の思考が心に入ってくる。涼子の姿を記憶の中に求めている。そして……思い出す。

 あのときバラバラに出来なかった柔らかそうな体。

 俺ならざる者に溢れる歓喜。

 歓喜は一瞬の隙を心に作る。そしてそれこそ俺の求めていた意識の隙だった。

「ぉぉぉぉおおおおおおお!」

(動く範囲なんて限られててもいい)

 全身の一部だけでも動かせるところがないか、俺は知覚を総動員した。

(あった!)左腕が微かに俺の意志に答えた。

 だが、徐々に右腕は涼子の首筋を目掛けて動いてゆく。だから俺には、もうこれしか選択肢がなかった。

「好きにさせてたまるかぁ!!」

 左腕を思いっきり振りかぶり、右の前腕部へ振り下ろした。

「亮介! あ……んた」涼子の悲痛な叫びが耳に木霊する。

 意識のどこかで、俺ならざる者も驚く。

 だが、もう遅い。俺の右腕から軽く、乾いた音が辺りに響く。

 俺は自分の意志とは無関係に動く視界の中、ゆきの無事を確認した。俺ならざる者はどこから音がしたのだろうと、目まぐるしく視線を動かしその原因を突き止めた。

 プラプラしている前腕部の付け根。

 そして咆吼。

 徐々に意識が俺を統合し始める。とたんに、右腕の痛みが再現された。足は自分の体重ですら支えられず、力なく両膝をついてしまう。

「何してんのよっ、アンタが傷つく事なんて無いんだよっ! わたしを……わたしを傷つけてよっ」

 瞳に浮かぶ涙を拭おうともせず、涼子は俺の折れた右腕をさすりながら、赤く染まった眼を直視する。

「亮介っ! アンタはいっつもわたしを庇ってくれたんだから、今度は気の済むまでわたしを好きにしてくれても良いんだよっ……なのに、どうして」

「そんな事……俺にできるかよっ」

 俺は涼子に笑った。痛みで顔が引きつっていたが、多分……笑えたはずだ。

「下がってろ……まだなんだ」

 涼子達の奥で、むくっと起き上がるヤツがいる。やっとの思いで我に返った俺を、潰れた顔面で覗くヤツが居る。俺が、いや、俺ならざる俺が息の根を止めたはずなのに……ヤツはまだ化け物としての動きを止めようとはしていなかった。

 俺はもう既に満身創痍だと言う事を自覚していた。疼く腕と足の激痛、それは贖いがたいほどに俺を襲う。

 だが、もう時間がない。

 俺は最後の力を振り絞って……やってみた。

 動きを止めたように、今度は俺が緋の呪いを操れるように強いイメージをもって、まだ沸々と(たぎ)り、収まりきらない呪いを内に招き入れる。

 涼子たちを押しのけ、その力をイメージによって解放する。

 脳の奥、そのまた奥から感じる衝動、それは邪念と怒り。全ては俺の表層意識に集中してくる。まるで抜け落ちた記憶の一部とばかりに組み合わさってくる。

 俺ならざる俺の思考、そして緋の呪いにも俺の思考が伝わる。

(シ……シンクロ、そんな感じなのか?)

 意識が飛びそうになる程の高揚感に包まれる。だがそれは今までに感じた投げやりな物とは違い、俺に鋭利な六感をもたらす。

 そしてそれは、手始めに俺に危険を知らしめた。化け物は俺の虚をついたつもりだっんだろう。唯一の武器、上腕にあるえげつない刃を振り下ろした。

 余りにもあっけない。あっけなさ過ぎて今まで感じていた恐怖感がすっぽりと抜け落ちる程の動き。円の軌道で振り下ろされる腕から生えた刃。

 鈍い光沢は俺の体を真っ向から斬り裂こうと襲ってくる。だが、俺は冷静にそれを右半身に体を捌くことで回避した。

 50cmはあろうかという、骨が結晶化した刃は誰も存在しない空間を無益に切り裂くだけに終わる。

 すぐ近くにヤツがいる。瞼も口も眉毛も潰れてない、だから表情までは解らない。でも化け物は今、確かに俺へ恐怖を感じている。

 返す手で、化け物は俺の股下から掬い上げるように刃を振り上げる。だから今度は、より解りやすく実力を知らしめた。

「怖い……だろ?」

 腕関節を片手で掴み、握り締める。化け物は辛うじて原型の残った口から、かん高い嗚咽を零す。締め付ければ締め付けるほど、その声は張りを増す。

 その声とも音とも付かない音色に反応し、俺の赤眼が仄かに光る。化け物の肩と二の腕をつかみ、ゆっくりと接合部を捻る。

 鈍さと乾きを憶える音が数回響き、最後に砕け、外れる音が感触と共に俺に伝わった。どす黒い液体が飛び散り、きつい腐敗臭が辺りに充満するのも構わずに、俺は化け物の腕を引きちぎった。

 俺は折れた右腕で、化け物から奪い去った上腕部を掲げる。腕もその重さでくの字に曲がったが、痛みよりも引きちぎる高揚感が心に広がる。それを俺は心のどこかで享受していた。俺の精神が緋呪と体を支配していても、この高揚感に飲み込まれたら俺自身も本気でヤバイんだと理解できた。

 それくらい、危うくも甘美な高揚感だった。

 俺は俺の目の前で……涼子達の目の前で、腕を千切られて身悶えする化け物に跨り、渾身の力を込めて殴り続けた。

 どす黒い返り血を浴びながら、折れた腕も気にすることなく殴り続ける。

 へこんだ身体へ続けざまに打撃を加え穴を穿つ。顔は徐々に潰れ、轢かれた蛙の様にぺしゃんこになってゆく。

 それでも、俺の身体は止めてくれない。

(えっ、止めて……くれない?)

 再び支配が逆転していると悟った瞬間だった。

 直ぐ近くで涼子達が叫んでいても俺は止まらない。目を瞑りたい光景なのに、俺は瞑ることも出来ない。

 これをきっと……地獄というのか?

(もう……止めてくれ)

 何度目の拳撃を放った時だったのだろうか? もう既に化け物の輪郭は無かった。在るのは飛び散った肉片だけ。

 俺はそれを叩き、執拗に握りつぶす。感触を楽しむかのように繰り返される行為を涙ながらに止めようとする俺。

 そんな人としての自覚を忘れた俺の背中に、じんわりと温かい感触が伝わった。

「亮介……ありがと、アンタのおかげでさ、わたしとゆきは外に逃げ出せたよ」

 腐敗臭にまみれた中で、柔らかくて温かい肉の感触がした。俺ならざる者は握りつぶそうとしていた肉片を捨て、あたらしいオモチャを手中に入れるべく振り向こうとする。

「亮介ありがとう、こんなになるまでわたしの甘えを受け入れてくれて」

 俺の赤眼に映る涼子の瞳には、先程までの恐怖や後悔とは違った、清涼感の溢れる涙が流れていた。そして涼子は向かい合う俺の胸、その深く暗澹とした牢獄に語り掛けるように言葉を続ける。

「亮介、もう……いいんだよ」涼子は俺の強張った腰回りにゆっくりと腕を回した。

「亮介はもう、耐えなくても、我慢しなくても良いんだよ」

 胸に灯る、ちいさなちいさな哀切なる心。身も心も暗紅色に染まってしまった俺の元へと染み入る。

「わたしのせいで、亮介が受けた痛みを分けてちょうだい」

 か細い両手が俺の左腕をそっと持ち上げ、華奢な作りの首へと添える。赤膨れした俺の指が、柔らかい首筋に触れたのが合図だった。

 何かが、俺の何かが弾けた。それは怒りだったのかも知れない。

 俺ならざる者の真っ赤な怒りの感情ではなく、俺が持つ烈火の怒り。

 友の心を、魂を追いつめてしまった緋呪に対する怒り。そしてそれを受け入れてしまった自分自身に対する怒り。

「りょ……うこ、お、俺……こそ、すま、ん」

 グッタリと俺は倒れ込む。辛うじて涼子が支えてくれたおかげで床への直撃は免れた。

ゆっくりと涼子の手を借り、床へ寝かせられる俺。

「ゆ……きは、たすかっ、たか?」

 その問いに答える満面の笑みに、言葉はなかった。

「たすかった……のか、だった、ら、なくな……よ」

「嬉しいのよっ……バカッ!」

 涼子の胸に抱きしめられた視界の端に、今は懐かしくさえ思える長い髪が映った。

(白鷺……)

「なんじゃ、呑み込まれてはおらなんだのぅ、今回はよく耐えたのっ……亮介」

 たぶん白鷺の顔は微笑みを湛えていたんだと思う。ハッキリと認識する前に、残念ながら俺の意識は疲労と激痛により事切れてしまった。

 最後に耳に残ったのは、涼子の嗚咽と、

「主は身を挺し、守ったのじゃ……あっぱれな男振りじゃな」

 白鷺にしては豪華過ぎる誉め言葉だった。



「ありがとうって……伝えてくれるかな?」

 朧桜の袂に佇む影。

「急くのう珠川涼子、もう暫く待てぬのか?」

 己の膝で眠る亮介に視線を落とす白鷺。

「泣かれても面倒だから、今日は帰る。だいたいそういうの苦手だしね」

 涼子は先程濡らしてきたハンカチを、亮介の折れた右腕に宛がった。

「さてと、これで少しは腫れも引くよね。後は白鷺さんにまかせるよ」

 ハンカチを腫れた箇所に宛がうよう結びつけた涼子は、そっと亮介達から離れる。

 一連の動作を見つめていた白鷺は、手持ちぶさただったのだろうか、ゆったりとした手付きで亮介の頭を撫でていた。

「そうか、ならば主が現世に居られるのは数日と言うことを肝に銘じるのじゃ」

 雲の切れ間から顔を出した月は、お互いの顔を眩しいほどに照らし出す。

「ねぇ、白鷺さん」

「なんじゃ?」

「けっこうアンタってさ、優しい顔してるよね」

 この会話の流れのどこに……人の表情を評する部分が含まれていたのだろうと白鷺は少し面食らった。

「さっき言ったありがとうって言葉は、アンタにも言ったんだからね」

 ならば涼子は愛しい笑顔をできるようになったな、と白鷺は伝えたかった。

 だが、すでに後夜に入る月が照らす、薄紫の髪をもつ女性は答えなかった。

 ただゆっくりと瞳を瞑り、一拍の後に言葉を紡いだ。

「ならば儂は……主のことを(しか)とこの心に留めよう。今この朧桜の御前で、友の為に己の刻を投げ打ち、救うことを選びし高潔な魂の名を」

「んふっ、かなわないなぁ」

 微笑み、それは何かを成し遂げた人のみが作ることのできる表情だった。

 少女は踵を返し、夜の肌寒い帳へと身体を向ける。

「それでは……な」小さく、別れの言葉を漏らす白鷺。

 一歩、また一歩と涼子は歩み、己の僅かな時を進める。

 歩めば歩むほど、時間は進む。

 あと幾ばくの時間が涼子に残されているのか、それは白鷺にも判らない。涼子がゆきへと分け与えた残りの人生の分岐、それがいつなのか?

 知るのは多分……朧桜だけだろう。

 もう既に涼子の時は終演に向け刻まれ、その流れを止めることはできない。

 だから、ホンの少しだけ言葉が漏れた。

「――割り切れるものではないの……しくしくと胸の内が痛むのじゃ」

 ゆっくりと、寝ている亮介を起こさないように、白鷺は朧桜の幹に背中をもたれた。

「なぁ、亮介」

 小さな声は寝息を立てる亮介に向けられ、

「人は、いつの世も強いものじゃ……な」

 言葉に乗せた想いの丈は、物憂い雰囲気を湛えていた。



 いつもより静かな朝だった。

 普段なら朝にだらしない俺を、まったりと急かす美菜がいないことに起因している。

「今日は日直だから先に行ってるね」

 と言いだして、ご飯の準備も怠ることなく完璧な主婦業を全うして登校した。

 そして普段なら、いや、絶対この場所この時間には出現しない(やから)が俺んちの玄関前で突っ立って、薄い表情のままチャイムを押した。

 結果として今日、俺はいつもと違う雰囲気の中、学園までの数十分を登校している。

「暫くじゃの、腕の調子はどうじゃ?」

 階段から落ちて腕の骨を折った俺。それ以来、激痛と熱にうなされながら、しばらく学校を休んでいた。

「一応美菜に頼んで、包帯で吊って貰った」

 白鷺の不思議な治療のお陰で骨はくっついている。熱は引き、今は痛みしか感じない。

「大丈夫みたいだ」やせ我慢の結果を伝える。

(大丈夫な分けないわな……これ)背中には脂汗も流れていた。

「よかったの、丈夫に産んでもらったことをご両親に感謝するのじゃな」

 ばあさん臭い台詞を吐きながら、つらっと歩くその横顔は普段通り何も考えていないような無表情だった。

 作り物の完成された美しさがそこにあった。

「なぁ、今日はどうして俺んちに押しかけてきたんだ?」

「わざわざ迎えに行ってやったのじゃ……文句を言われる筋合いも無いがのぉ」

 事も無げに言い放たれる。

(なんだ、俺の怪我が心配って訳じゃないのか――って、それなら見舞いに来てるか)

 何となくだが悔しさが込み上げる。変に気を回した自分自身に対して。

「学園からわざわざ来るなんて、ずいぶんご苦労なこったと思ってさ」

 それを気取られない為にも、俺は思ってもいない憎まれ口を叩いた。

 歩く速度も、後ろへ流れゆく景色も、そして普段では一緒にいないはずの場所と時間を俺達は並んで過ごす。黙ってたら黙ったまんまの白鷺が横にいるからこそ、俺は逆に話しかける。美菜の時は俺が無口だが、なんだかこんな登校も面白いもんだと感じていた。

「この辺りは人の通りが多いのぉ」

 住宅地を抜けて商業区を歩いている時にでた台詞に、思わず聞き返してしまった。

「白鷺って、学校から出たことないのか?」

「暫くなかったのぉ……」

 それがどれくらいしばらくなのかは恐ろしくて聞けなかった。微妙な謎がいくつもまとわりついてる女だなぁ……と、心の中で呆れる俺。

 そしていつもの交差点に差し掛かり、いつも通り赤になる。暫く交通の流れをぼぉっと見つめると、街の雑音に紛れて聞き慣れた声が俺の耳に届く。

(あの声、だれだっけな……)

「ん、どうしたのじゃ? 早朝から訝しげな顔を作りおって」

「いやっ……」

 何かが心に引っ掛かる。何年も大事に紡いだ記憶の隙間から、こぼれた何かを捜すと言う感じだろうか。

「なんだろうな、何か俺、忘れてる気がする……」

「良くある事じゃ、空耳じゃろ」

 真っ直ぐ前をみつめる白鷺の瞳に……俺は普段なら感じない懐疑心を抱いた。

「今、空耳って言ったか?」

「さて……そんな事を儂は言うたか?」

 惚けているのか、それとも長年生きてる直感なのか、相変わらずその表情からは何も読み解けない。無反応に塗り固められた顔は、これ以上の言葉を放つ事はなく、静かに前方を見つめている。

 信号が替わり、俺の耳にはようやく動き出した街の喧噪だけが届く。

「往かぬのか?」

 白鷺の問いが耳に余韻を残す。だが俺は引っ掛かる心のわだかまりに足を引っ張られ、歩く事すらもどかしくなっていた。

 再び青信号が通り過ぎた。俺の思考は捜す宛のないパズルピースを探し続ける。

 通行人は青になっても歩み始めない俺達を訝しい目で見ていた。だが、そんな事は俺にとって大したことではなかった。それよりも……忘れてはいけない何かを忘れている。そんな気持ちに整理が付かない。

「なんかな、俺、忘れてるみたいなんだ。ポッカリって言うか、スッカリって言うかな」

「亮介、主は残心に何を求めておるのじゃ」

 溜息が言葉に交じる。ここに留まってから初めて、白鷺は表情を変えた。

「まったくもってしつこい男じゃの。主は朧桜にも(あがな)いよるのか、それとも、朧桜がその残心を留めたのか……」

 眉根を潜めた人間らしい表情で、俺の顔を見つめる。

「のぉ、亮介。主は知っておるか?」

 真っ直ぐ、前を見つめる視線は氷のように冷たい。

「人の御魂が現世を離れるにはの、記憶から消えねばならぬのじゃ」

「え――? 記憶から消えるってのは……」

 言葉が詰まる。

「忘れ去られると言う事……それだけじゃ」

「通常ならば永い年月を経て、悲しみが癒えるほどの時間をかけてゆるりと忘却されてゆくがの」

 突然とした会話の内容は、白鷺が何を伝えたいのかピンとこなかった。思考はいよいよ深みにはまり、俺の心は少しの苛立ちを憶えた。

「なぁ、もう少し分かりやすく言ってくれ」

 呆れた表情が白鷺の顔に形成される。

(こいつ……何を知ってんだ?)

 白鷺の視線が俺の瞳に刺さる事はもう無かった。

 耳に聞こえるのは車道を走る車のロ―ドノイズ。それも赤へと移り変わった信号の為、喧噪は一時の静寂を醸し出した。

「記憶は朧桜により消え失せても、居ったという名残はあるものじゃ。主の骨折り痕、調べてみるのも一興」

「え……?」

 俺は右腕を見つめる。今はぐるぐる巻きにされている腕。

 それを半信半疑で、痛む右腕を釣っている三角巾を外した。激痛が走るのも構わずに、厚みのある包帯を急ぐ手付きで取り払う。

 そして包帯の中にあった……いや、更に巻かれていたものをマジマジと見つめた。

「これ……は?」

 まだ赤く腫れている上腕に、赤いチェック柄のハンカチが巻かさっていた。俺はゆっくりとそれを剥がす。

(美菜に包帯を巻いて貰った時は、こんなの無かったはずだ……ん?)

 ヨレヨレでこ汚くなった布生地に、辛うじて読み取れる刺繍らしき文字。

 俺はそれを口ずさんだ。

「ゆきっぺから……りょう……こへ?」

 ――とても懐かしく感じる響き。

(俺は涼子なんて……知らない。いや……知らないはずだ)

 だが、心が俺の記憶を否定する。胸の奥深くに芽生える、切な過ぎるほどの気持ち。

「涼子、これが俺のわだかまってる原因なのか?」

 鼓動は早まる。もう少しで思い出せそうな感覚が強まる。

「涼子、ゆきと涼子……だめだ。いない、俺の記憶にいないぞ」

 俺の頭が否定すれば否定するほど、胸の奥が痛いほど締め付けられる。今、俺と亡失した記憶を結ぶのは、この()れた赤いチェック柄のハンカチと、涼子という名前だけ。

「こんなに懐かしいのにな……どうして頭ん中は空っぽなんだ」

 沸き起こる後悔と悔い。それは思い出せない事に起因しているのだろうか? この……少女の名前を。

「チクショウ……どうしてだ! こんなに大切だと思ってるのに思い出せないんだ!」

 悔し思いと共に、鉄錆の味が口の中に広がる。

「クソッ、涼子って……誰なんだよ」

 俺は左手を額に宛がった……そのとき、記憶を刺激する微かな香りがふわっと漂った。それは確か、薔薇の香りだっただろうか?

(そうだ……俺、この薔薇の匂いを知ってる。いや、薔薇って言ったら怒られたんだ。たしか、ローズって言いなさいよってな)

 まるで記憶を塞き止めてあった大きな壁が決壊するかの如く今、俺の中に赤い髪をもった軽快で活発な……少女の姿が現れた。

 その名は珠川涼子。俺の背中をいっつも蹴ってた、豪快で活発で足癖の悪いヤツだ。

 懐かしい、そんな感覚に囚われるのは、俺が記憶をなくしていたからだろうか? それとも、もう本当に懐かしいと思えるくらい、遠い存在になってしまったからだろうか。

「なぁ白鷺――」俺は今までの経緯を問い掛けようとした。

「ふふっ、主の(ともがら)も来たようじゃぞ」だが、白鷺はそれを易々とは許してくれない。

 静かになったこの場所に訪れるのは、微かに流れる人の声、歩く足音、そして……とても懐かしい軽快活発な少女の、元気な声だった。

 振り向く前に……小さな手でポンと背中を叩かれた。

「亮介ちゃん、おはよう! 久しぶりだね、右手は大丈夫かな」

 挨拶と共に俺を労ってくれるのは、空色の髪をした少女、藍乃里ゆきだった。

(そうか、朧桜に願うという事は……こういう事なのか)

 涼子の願いは叶い、ゆきはこの世界で再び生を受ける。だが、今ある全ては朧桜の作りだした未来。その世界では、涼子の全ては朧になる。

 だが今は違う。

 涼子が命を賭して戦った記憶が俺の中で甦った。俺は今、藍乃里ゆきがいなかった時の記憶と、いた時の記憶を混在させながら生きている。だからこそ、今のゆきは必然的に涼子を思い出させる。なくした記憶はゆきを手がかりに、どんどん俺の頭に戻ってくる。

 取り返す事の出来ない存在だからこそ、懐かしいと思える記憶。

(きっとアイツだったら……肩に手をポンなんて生ぬるいことしないな。蹴りが来るか、じゃなきゃお決まりの膝カックンだな)

 俺は色んな思いをグッと堪え、気持ちを切り替えて挨拶を返した。

「おはよう、ゆき」

「おはようっ――て、亮介ちゃん朝から何気に感動系?」

 涼子と違って背丈の大きくないゆきは可愛い系の少女。それがあちゃ~って感じで俺を心配そうに見つめている。

「おいおい、朝から感動系ってどういう挨拶だよ?」

「だって目に涙溜めて……ほらっ、何て言ったっけあの犬? あっ! チワワの目だぁ」

(はぁ、チワワって……俺に似てるかぁ?)

「いや、なに言ってんだよ……」

「ほらほらっ、いつまでもめそめそはダメだよ。信号だって青になったんだから辛くても歩いてゆこうよっ!」

(行く気が起きないんだ。涼子の事を思い出した今となっては)

「ゴメンゆき、俺やっぱり寝ぼけてる。先いっててくれ」

 死んだはずのゆきと一緒に遊んだ記憶。そしてゆきが居ない時間の流れの中で、涼子を励ました時の記憶。

 その二つは否応なしに俺の目頭を熱くする。

 一つは嬉しいから、そしてもう一つは……悲しいから。

 だから俺は、溢れるモノを零さない為、空を見上げた。

「ダメだよ、亮介ちゃんが遅刻しちゃったらボクが寝付けないよ――って、ん? 空の上には亮介ちゃんの気になる何かがあるのかなぁ」

 斜めでもいいから上を向いていないと、俺は瞳に溜まった悲しみを落としそうだった。あれだけ一生懸命頑張った少女のことを、俺はなにも語ってあげられない――いや、語るどころかそれすら俺は忘れていた。

 そんな自分が溜まらなくイヤになってくる。

「あわ……っ!」

 ゆきの動きが止まる。

(確かアレは……ゆきと涼子が惚れた、両手に花って言う幸せな先輩だっけ)

 進むことの許された横断歩道、その先には小さな感嘆符をゆきの口から漏らさせた人物が歩いていた。

「あは……っ、なつか……しぃ」

 それは思わず出た台詞だったのだろう。いくら2年分の記憶があるとはいえ、それは朧桜が涼子の願いを叶えただけであり、本当の意味でゆきが生きた2年間が戻った訳ではない。

 記憶はごまかせても……心まではごまかすことは出来ない。

「うわわわわわっ! や……ヤバイよ亮介ちゃん、ゆきっぺピンチっ!」

 可愛らしい仕草で髪をぺたぺた直したり、スカートに埃が付いてないか忙しなくチェックするゆき。

(っていうか、俺にもそれくらいの気を使えっ)

 と、思うほどに気を使ってる。

「行けよ、そろそろ信号変わるぞ。お前なら走っていけば追いつくからさ」

「行けないよ、ボクみたいなちんちくりんは分を弁えてるからね」

 赤信号が青へと変わる僅かな時間、俺が歩みを始めてもモジモジとしてばっかりで、ゆきは一向に歩こうとはしなかった。

「なぁ、ほらっ、行けよ」

「いいよぉ、ボクはもう少し……あと一回赤信号を見てから行くからっ」

 顔を真っ赤にしてゆきは俯く。俺はそんなゆきの態度を見て、涼子もあの先輩に恋をしていた事を思い出していた。

(一人の恋心じゃないんだ……よな)

 そう思うと、俺はつい感情が熱くなってしまった。

「ゆきっ! 今日できることが明日できるとは限らないんだ。想像力を働かせろよ、つまりそのっ、たとえばお前が生きる為に誰かが……えっと……」

(チクショウ! お前がそんなんじゃ……人生って時間を分けてくれた涼子に申し訳ないんだよ)

 俺は真剣に考えた。気の利いた台詞を言えない自分が途轍もない程に恨めしかった。

 悔やんでも仕方ないとわかっている。だから一生懸命……気持ちを切り替えて脳をフル回転させた。

 何とか、涼子の気持ちを、涼子がゆきに託した気持ちを伝えたくて。

 ドンドン先輩の後ろ姿は小さくなってゆく。

「確かに……お前にとっては今日、今すぐに勇気を出さなくても良いことなのは俺も知ってるよ」

(でも……でもなっ!)

 胸に澄んだ空気をたっぷりと吸い込んだ。

「どっかで涼子が見てるんだって! だから……アイツに後悔させないでくれ!」

 胸から先に……一歩、二歩と前に押し出されるゆき。

 信号は点滅を始めていた。

「んもぅ、判ったよ亮介ちゃん。そんなに真剣な声出されると……ボクもなんだか行かなきゃって気分になっちゃったよ」

 振り返ることはない。今、ゆきはようやく大好きな先輩へ向かう決心をしたのだ。

「当たり前だ、ゆきの今っていう時間は、もうお前一人のものじゃないんだ」

 肩を少しだけふるわせて、クスッと笑いを漏らした。

「今日はなんだか凄味と不思議をミックスしてるね、亮介ちゃん」

 ウンウンと頷くゆき。

「それじゃ行くよ。でもそのかわりぃ、隣にいる女の子を今度ちゃんと紹介してねっ、ボクもお友達になりたいしさっ!」

 軽妙な笑顔でリズムよく振り返るゆき。

 だから俺も、そんな事くらい容易いご用だとばかりに、白鷺の方を向いた。

「あぁ、この子は……」

 俺は今まですっかり存在を忘れていた白鷺を紹介しようと――、

「あれっ?」

「ボケボケ亮介ちゃんは間に合ってるよ―っ」

 横を向いた先、そこに白鷺は疎か、人っ子一人いなかった。一緒に歩いていた筈の白鷺は、得意の霧隠れを決め込んでいる。

「じゃ……だれを?」

 慌てて俺はゆきに説明を求めたが、ゆきはそんな事お構いなしに言葉を続けていた。

「ごめんねっ、話の流れで挨拶しそこなっちゃって!」

 白鷺の姿は朝の霞に溶け込んで、ココにいるのは俺と……、

「わた……し?」

 俺の右隣に……少女はいた。

「そう! きみだよっ」

 ゆきは俺達に歩み寄る。

 信号機は、己の責務を果たそうと今、静かに点滅を続ける。

 点滅が増えるたびに、ゆきは少女に近づいてくる。

「なんかさっ、不思議だよっ! ボクたち初めてっぽくないねって、それはボクだけか」

 そして今、ゆきは少女の手を……とった。

「やっぱりなんか、初めましてっぽくないなぁ……あははははっ!」

 握られた手と……握ったゆきの顔を交互に、とても不思議そうに見つめる少女。

「な・ま・えっ……そろそろ教えて欲しいなぁ」

「えっ……あ」

 そして……少女は俺に助けを求めるようにその赤毛を揺らした。

「わたし……」

 だから俺は、その赤毛の少女に頷いた。いいんじゃないか……と。

(だって……それくらい神様だって朧桜だって、許してくれるだろ?)

 小さく、ゆっくりと頷く少女。

 彼女は恐る恐る、言葉を紡ぐ。

「わたし……りょう……こ。珠川……涼子」

「そっかぁ、涼子ちゃんかぁ! 珠川って名字もなんか可愛いねっ!」

 朧桜が記憶を奪っても……二人の絆までは奪えない。

 どこにいても、どんな困難が二人を襲って引き裂こうとも、きっとこの二人は……また出会ってしまうだろう。

 今が、そうであるように。

「これからよろしくね涼子ちゃん……ってマジやばいっ! それじゃボク、先輩おっかけるよっ!! じゃ、またねっ! ばいばいっ!」

 最後の点滅が終わり……、信号は赤へと変わる。

 ゆきは走り慣れた綺麗なフォ―ムで、横断歩道を通り過ぎた。

「ゆきの背中……押したか?」

 もう会えないと思っていた人に尋ねる。

「押せたよ、わたしも必死だったモン!」

 ゆきの背中を二人で見つめながら会話をする俺達。

「これ、ありがとな」

 左手を大事にくるんでいたハンカチを、俺は持ち主に返そうとした。

「もし迷惑じゃなければとっといてよ。わたしがいたんだって……証拠として! あっ、でも洗濯はしてよ。それに薔薇の香水もわすれないでよねっ!」

 にこやかに笑う涼子の顔。俺にとっては切ないはずなのに、何故だか少女の雰囲気に呑み込まれて、笑えないシーンの筈なのに笑えてくる。

「寂しくないか?」

 にこやかな表情の涼子へ、俺は聞かずには居られなかった。

「寂しくない訳ないけどさっ、いいんだよ。これでわたしはようやく、ぐっすり眠れるんだからっ! まっ、見えてるなんて思ってなかったから、かなり焦ったけどね」

 朝日に輝く笑顔を惜しげもなく披露する。

「さぁって、今まで不健康だったからなぁ~っ、あの桜が花を咲かせるまで、じっくりと寝させて貰うよ」

「だから亮介も」――そして涼子は左手をそっと俺の首筋に回し、優しく引きつける。

 信号は三度赤へと変わってゆく。

「ゴメンね、たくさん嘘ついちゃったけど、ゆるして……くれるかな」

 優しく導く涼子の腕。声は既に俺の耳元で聞こえていた。

 その動きへ素直に追従すると、かがむ形で俺は涼子の顔に近づく。そして――頬に柔らかな感触が触れた。

「ご褒美だぁ!」

 刹那のふれあいは永遠に残る。

 記憶なんて言う限りのあるものじゃなく、思い出という刻に縛られるものじゃなく。

 魂がふれあい、暖かさで満たされた……永遠の感覚。

(でも、でもなっ……)

 もう二度と会うことは無いんだと思ったら、急に俺の心に切なさが芽生える。こんな風にかなしむことは予想できた筈だった。

「バカだな……俺」

 泣くことは許されるのだろうか。今この瞬間にも抜けて行く記憶の中に……少女の笑顔だけは輝いている。

(バカやって……ついこの前も背中をけられたんだ。おいおい、ついこの前じゃないか)

 …………。

 ……。

「っくしょぉぉぉ!!」

 涼子の願いが叶って、嬉しいはずだった。

 ゆきが元気でいてくれて、とても嬉しいはずだった。

「でも何で……お前がこんなに辛い思いをしなきゃならないんだよ?」

 溢れる涙は止められない。

 気が付けば抱きしめていた。柔らかく、か細い肩を。

「ありがとう、りょう、すけ。とても――あったかい……よ。なんか、いつぶりなんだろうなぁ、こんなに暖かいの」

 悩んで自分を責め続けた毎日に、暖かさなんて安らぎは訪れなかった筈だ。

 今ようやく、涼子はそんな月並みの幸せを手に入れた。

「それじゃ、もう行かなきゃ」

 はにかみながら、俺の腕を解く涼子。

「わたしはさ、亮介たちのことをずっと忘れないよ。だってた~っくさん思い出もらったんだもの。ゆきがいる2年分の思い出をねっ、朧桜からこの心の中に受け取ったんだっ」

 へへへっ、と笑う顔。

「わたしはあの桜にいるからさ。だからもしねっ、何かの拍子に寂しくなったら話し掛けに来てよ!」

 何度この笑顔に助けられただろう。

 辛いという感情は、この優しい心に対して失礼なのかも知れないが、俺は残念だが笑って別れる事はできそうにない。

(だってコイツは……コイツがやり遂げたことは、誰にも真似の出来ないことなんだ)

 親でもない、兄弟でもない……親友の死に自責の念を抱いて、そしてついには未来までも代えた。

(そんな……すごいヤツなんだ)

「俺は友達たくさん作るからな、毎日うるさいって怒鳴りたくなるくらい連れてってやるから覚悟しとけ」

 目をつむりながら涼子は俺の言葉を受け止める。

「最後まで……ありがとね亮介。あんたなら心配しなくても友達たくさん作れるよっ!」

 朝日に照らされ、たくさんの桜が涼子を包み込むように螺旋をえがき、ゆっくりと天から降り注ぐ様は、舞いを観ているようだった。

「迎えだよ、それじゃ……ね!」

 涼子の身体から白光が溢れ出し、桜はゆらりゆらりと弛む。

「さようならっ……りょうすけ、アンタとっても……」

 風、無数の風が一つにまとまり、亮介の身体を通り過ぎた。

「うわっ!?」

 無数の光玉は舞い散る桜が作る道を無数に抜けて、蒼穹の彼方へと飛び立って行く。

 小さな奇跡がこの街で起こった。

 それは、小さな小さな後悔から始まり、大きな優しさに包まれた奇跡だった。

 だれも彼女の優しさを知るものはいない。

 俺も、いつまで憶えてるかはわからない……。

 でも、彼女は確かに言っていた。


『ゆきがいる2年間分の思い出がさ、たくさんこの心の中に満たされてるんだっ』

 それが笑顔だったから、俺はそれだけが救いだった。

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