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第四章 「積年の期成……動く」


 放課後の静けさの中、この場所だけは活気づいていた。

 数日前までは何となくお客さんだった俺達、だが今は違う。

 この狭い場所にひきしめあっている6人からは、熱気に溢れた会話が弾んでいる。

(いや、5人か)

 ミス研部長こと宮住千恵は真剣な眼差しを崩すことなく、寡黙な態度で見つめていた。

 楽しそうに、でも真剣に研究課題を話し合う俺達の姿を頼もしく思っているのか、それとも別な懸案事項があるのか。

 眼鏡の奥で光っている瞳が何を思慮しているのか、俺には到底思いつかない。

「でっ、珠川の提案した学園の七不思議で異存はないわけ?」

 副部長の近衛望がピリッとした声で決を採る。

 俺はなんとも微妙な気分だった。副部長は七不思議って言い回しを使っていたが、涼子の腹づもりは二つ。

 第1の不思議と第7の不思議、これを暴くという研究内容だ。

 第7の不思議は知っての通り、あの朧桜に関すること。そして第1とは……どういう基準で涼子が選んだのかは判らないが、旧特殊学級棟に彷徨う壊れた人体模型。

 クラブ活動が終わった放課後、俺は部室を後にすると真っ直ぐ朧桜――いや、白鷺の元へ来ていた。

「久しいのぉ」

 俺の気配を察知したのか、白鷺は朧桜に頭をもたげ、顔を向けることもせずに語る。

 何となくだがその様相は、宿木に留まり安寧のひとときを感じる小鳥にも見えた。

「そうだな――って、いつも教室で会ってるだろ?」

 もういつもの――といえる光景になっていた。白鷺が朧桜に寄り沿うよう、芝生の上に膝を折って佇んでいる。

「そうじゃったの、で、なに用じゃ?」

 どことなく素っ気なさを感じずには居られないのだが、ココはひとつ気が付かないふりで攻めてみることにする。

「いや、俺さほらっ、最近ミス研に入ったんだ」

 白鷺は俺の存在など気にする風もなく、相変わらず朧桜へ頭をもたげる。

「でさ、一応研究ってことで、学校の七不思議が選ばれたんだ」

「7つめの謎が選ばれた――という事なのじゃな?」

(察しが良いのは大好きだ)

 だから俺はもう一つの気懸かりを言葉に乗せた。

「1番目とな」

 そこでようやく白鷺は振り返った。

「そうか、何故ヤツと同列に扱われるのかを問いたいところじゃが……お主らの相手となれば、少々厄介じゃぞ」

 ハの字になった眉は普段感情を表に出さない白鷺の心境を如実に物語っているようで、かなりハ―ドルが高いような気になってくる。

「厄介って……1番目の謎ってやつがか?」

 コクッと頷く白鷺は、再び朧桜へ視線を移すと言葉を続けた。

「のぉ、亮介。知り合ったのも何かの縁じゃ、一度しか言わぬから良く聞くのじゃ」

 視線は徐々に高みへと移動して行く。

「アレには関わるな。アレは人の負と腑が混濁した人外なる物ぞ」

「あ……いや」

 声の調子がいつもの凛とした響きだけではなく……微かに非難めいた色を携えていたように思えて、俺は言葉に詰まってしまった。

「主に忠告はした。それで、儂にはどうさせたいのじゃ?」

「あ、あぁ、いや、同じクラスの珠川涼子だが、部活にかこつけてお前を捜してる。細かいことは知らないけど、どうしてもかなえて欲しい望みがあるそうだ」

 で、ココまで言ったらどういう反応が返ってくるのだろうと、少しだけ気になった。

 少なくても俺は白鷺が、願いを叶える朧桜を守る立場だとしか知らない。だから正直、この話を持ってきたのも迷惑だったら止めさせようと思ってのことだった。

 涼子の真剣な気持ちもわかる。

 だけど――、

「主が思い悩むことなどあるまいにのぉ。珠川涼子に限らず、願いを持つものがきたのなら検分するのも儂の役目じゃ」

 あっさりと言いのけられた。

「ついでに……じゃ、時間の無駄じゃから珠川涼子とやらをつれてくるのじゃ」

 俺が気を回したって、結局は空回りになると知った日だった。

 ゆっくりと踵を返し、肩をガクッとたれ下げた俺の背中に追伸とばかりに白鷺は一言。

「主が困じているよりも……事態は重いのじゃ。心してかかるのじゃぞ」

 俺が振り返るよりもはやく……、声の主は霧散していた。



 小さな勉強机の上には数冊の本と写真立て。

 写真立ての中には仲のよさ気な少女が2人、ピ―スサインでガッチリと肩を組んでいる姿が映っていた。

「ゆきっ、もうすぐだよ。もうすぐ、仇が討てる。そしてもうすぐ……アンタを生き返らせてあげるよ」

 口元に浮かべる薄い微笑み。

 写真立てを両手で掴み、目を細めるのは珠川涼子。

「ごめんね、かなり遅れたよね、でも大丈夫。もうね、心配いらないんだよ」

 少女は二つのプラスチックケ―スから、錠剤をそれぞれ取り出した。

 水も用いずにクッと一息。

 一つは精神安定剤、そしてもう一つは……睡眠誘導剤。

「まっててね……ゆき、仇をとるから。大丈夫だよ、わたしじゃ勝てないけど、あの噂が本当なら……亮介は役にたつんだ」

(人殺しのバケモノには……人殺しをぶつけてやる)

「それに……ミス研の人たちだってあそこにいれば役にたつし、秀二だって頭がいいからきっと役にたつよきっと。だけど、美菜には来て欲しくなかった……かな」

 大事そうに写真立てを机に置き、涼子はベッドへ寝転がる。

 もうろうとした頭に入り込んでくるグチャグチャに変化した部屋の画像。それはいつものことだった。

 ゆきを置き去りにしたあの日以来、自発的に寝ることは諦めた涼子。

 薬が唯一の眠りを約束してくれる。

 だが、今はもう、それすらも侵食されていた。

 ベッドに寝ているはずなのに……ぐらぐらと身体が揺れる。本当の地震だったら生きては居まいと思うほど、身体が揺れる。

 いや、もしかすると本当に揺れているのかもしれない。涼子は、ふと瞼をひらき視線を天井から真横へと移し――、

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 メスのように鋭く尖った爪が二の腕に食い込み、うつろな瞳が涼子をジッと見つめる。

 食い込んだ爪先は涼子を大きく揺さぶり、揺さぶられる反動で二の腕に爪がズプズプと刺さって行く。

「ぃぃぃぃぃいいいい!!」

 痛みはない、でも刺さる感触は人一倍に感じる。

「ゴメンね……ゴメンねゆき、わたしばっかり眠ったらダメだよね……起きるから……起きるから許して」

 廊下を追ってきたバケモノが居る。幻覚と現実の狭間に見たモノは……ゆきの顔でこちらをにたにたと見つめていた。

「明日には……明日には仇を討ってあげるからぁ」

 涙目になりながら謝罪するその表情は、徐々に焦点を失いつつあった。

「ごれ……ん、ご、めん、ゆ……きぃ。あは……あはははははっ。いらいよぉ、んふっ、きゃはははは」

 ベッドから転がり落ち、絨毯の上を転がり始めた涼子の表情は、先程の絶望とは違い何故か恍惚とした表情に溺れていた。





「うわぁ……」ただ感嘆を漏らす者。

「こくっ」言葉すら無く固唾を飲む者。

「けっこう雰囲気でてるねぇ」この場の情景に相応しくない反応を返す者。

 今は時の流れに取り残された旧特殊学級棟。

 その目の前にきている俺達。両開きとはいえ通常の半分の大きさもない昇降口は、2人が並んで入るのがやっとなくらい狭い作りだった。

 それに、どうしてなのだろう。校舎は見た感じ縦長なのに、出入り口はココ一カ所、つまりは縦長の一番はじっこにしか出入り口が設けられていない。

 逃げ場の極端に少ない作りが、背筋に緊張という名の汗を一筋たれ落とさせた。

(さすがに学校の七不思議の第一、彷徨う人体模型のステ―ジと言ったところか)

 美菜も……俺の背中に隠れるように佇んでいる。

「怖いか?」来なくてもいいんだぞ――と言うには少々遅いか?

「怖くないよ……心配なだけかな」

(色んな意味で心配だよな。非日常に己を曝す心配に……社会的心配)

 どれも今までの美菜には未経験だろう。とくに、立ち入り禁止場所に許可もなく入るってのは、まじめなコイツにとってかなりの心労となっているはずだ。

 総勢6人が集まる中、5人が何らかの不安を表していると言うのにたった1人、場違いなほど楽しそうにしている人がいた。

「近衛先輩……楽しそうですね」わざとらしく言ってやった。

「あぁ、アタシほら、意外と好きなんだよね」

 頭の後ろで腕を組み、魅力的な胸元を大きく張ってみせる小悪魔的先輩。

「怖いからって顔真っ赤にしない!」

(あぁもう……典型的な色恋沙汰に疎いキャラだなぁ)

 自分の仕草に思春期の青年が、どういう反応になるか全く気が及ばない天然系だ。

「でもそのわりには先輩も、大がかりですよね?」

 頭にはヘッドライト、肘と膝にはパッド。制服の上には肩がけロ―プに水筒。パンパンに膨れ上がったウエストバッグには小物がてんこ盛りなんだろう。

「青年とは気合いの入れ方が違うからね」ウインクで返された。

 で、その横を見ると宮住部長が色々と最終チェックをしている。

(さすがは学園一の才女と誉れ高い部長さんだ)

 俺は安心という期待感を胸に部長へ近づいたんだ。

「教典は……こっち、ニンニクは、右のぽっけっ……と、そして聖水はぁ……」

(いや、そもそも日本のばけもんにニンニクとか聖水って効き目あんのか?)

 俺は意を決して尋ねてみた。

「部長……なんかお札とか、ほらっ、日本に籍を置いてるヤツにも効き目ありそうなのって無いんですか?」

 もちろん、効き目うんぬんはこの際どうでも良い。在るかどうかという事実が大事なんだが……。

「それなら、今年の初詣でお守り買ったんだけどなぁ――っと、あれ、どこだっけ?」

(うわぁ……ある意味差別してないかぁ……)冷や汗が俺のこめかみを伝う。

「あったっ!」そしてニコニコと俺にそれをさしだす。

「なにもないと心細いでしょ? あげるから首にさげてなさい」

「っと……ありがとうございます」

 にこっと微笑む若干大人の笑みが眩しかった。そして……、

「交通安全だけどねっ」ハツラツとした先輩の声が俺の耳と言わず脳内にも木霊した。


 感覚も疎らに、狭い昇降口の扉をゆっくりと押し開くと、とうぜん鍵が掛かっている。

 俺は一応とばかり二、三度ガチャガチャとさびが浮く真鍮製の丸いドアノブを回してみたが、往年の扉は侵入者を拒むかのように頑固としてノブを最後まで回そうとはしない。

(うわぁ……キれそう)

 木製の両開きドアに大きめな透明ガラス。どう見ても暴力に弱そうな扉だった。

(さすが往年……、役にたってね―な)

 と、嘲笑おうとした瞬間……真鍮製のドアノブが微妙に鈍く光を反射した。

 何となくだが「若造がぁ、なめんなっ!」ってかんじの声が聞こえてきそうだった。

(蹴破りてぇ……)

「どきなっ若造!」肩を掴まれ思いっきり後ろへ放り投げられた。

「ぐえっ!」「亮ちゃん!?」

 若干の浮遊感を満喫した俺は、今年一番の美菜の心配顔を拝むことに成功した。

「っぅぅ……」

「蹴り壊されたら後々面倒なんだ……青年」

 ニカッて笑うのはいいけど……もうちぃとばかし手加減をして欲しい。男の子はみんな物理的衝撃に強いのがデフォルトだと思わないでくれ。

「りょうすけぇ……」テケテケテケと猫なで声で寄ってくる涼子。

 そして彼女はにこやかに言葉を続ける。

「足ひっぱんなボケ!」

 近衛先輩が古ぼけた鍵穴に、髪留めのピンをねじ込んで……数十秒間に渡り、力の限りガキガキと格闘していたら甲高い……嫌な音が鳴った。

 一斉に……全員の顔が肌色から蒼白に変わるその訳は一つ。

 開いてしまった。

(カギの内部はもろにぶっ壊れたけどな)

「なっ、青年。見えないところを壊すんだよっ!」

 何となくだがこの人、近衛先輩は初めっから壊すつもり満タンでピンを差し込んでたんだろうと思う。


 そして、近衛先輩を先頭に、涼子と俺、美菜と部長、そしてしんがりに秀二って言うなんの捻りもない縦隊が形成された。

「何て言うか……湿気が多いな」

 木の床、木の壁、板のほとんどは変色し、湿気を含む木の朽ち果てた香りを充満させていた。

「流石に古いと言っても高校の施設だよな、意外と広いし――部屋数も多い」

 辺りを見回しながら秀二は思ったことをつらつらと述べていた。恐がりだけどそこは部長の手前、余裕あるところをみせたいんだろう。

 だが――無数にあるシミ。

(この放物線状に飛び散ったように見えるものは……何のシミなんだろうか?)

 廊下を数歩進んだところにあるそれは、天井にも……壁にも……まるでバケツか何かでぶちまけたかのように広がっていた。

「どうしたのよ、亮介?」

「!?」いつの間にか後ろに突っ立って、背中を小ずく涼子。

「涼……子? あっ……いや」俺は反射的に涼子だよな? と問いただしそうになった。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花って知ってる?」

 満面の笑み――が涼子の顔面に広がっていた。

「イヤ、知らんけど……」

「びくびくしてたら何でもお化けに見えちゃうぞって意味だよ、イヤだなぁ……亮介」

(それって……笑顔もそう見えるのか?)とだけ問いただしたかった。

「ねねっ、亮ちゃん」背中に小さな抵抗感を感じると、そこには美菜が居た。

「なんだ?」

「なんか、生活感……っていう訳じゃないけど、人の気配を感じないかな?」

(お前まで……いつの間にか霊感少女か?)

 というか、白鷺が居る時点で学園の七不思議がマズイ具合に肯定されている。

(それにアイツも肯定めいたことを言ってたからどっかに居るんだろうなぁ……)

「出たら庇ってな?」思わず真剣な目付きで頼んでみる。

「頼りないなぁ……りょうちゃんは」返されたのは呆れ顔でした。


 俺達は暫く進んだ先にあった階段を上り、二階へとやって来た。もともと三階までしかない作りのこの校舎は、廊下と教室だけの単純な作りだ。

「意外と……ふつうなんだな」率直な反応を声にのせる最後尾野郎。

「それなら怖くないだろ? 涼子の前にでも立ってやれよ」

「いや、振り返ったら誰も居なかったってオチは勘弁だから前は行かない」

(恐がりなヤツほど自分で勝手なスト―リ―を考えつくんだよなぁ)

「だったら後ろを気にしつつ歩くんだな」

 素直というかなんというか、秀二はご丁寧に青ざめた顔をゆっくりと後ろへ向けた。

「亮介……いや、亮ちゃん。俺……お前のまえを歩いていいかな?」

 前を向いた顔は、残念ながら見事な涙目だった。もちろん却下してやった――が、

「どうした?」

 前を歩く涼子がある教室の前で急に立ち止まった。

 そして。

「ココだよ」

 俺の顔を見ることもなく、涼子は真っ直ぐに教室へと視線を向ける。扉は曇りガラスになっていて中をうかがい知ることは出来ないが、壁に実験室とかかれた表札が取れかかりそうになりながらも懸命にくっついていた。

 でも……なんの実験なんだろうな?

 世の中には色んな実験がある。

「よぅっし、それじゃ入るか!」

 先頭をズカズカ歩いていた我が部の猛将近衛先輩は、みんなが止まっているのも知らずに10メ―トルほど行きすぎていた。

 慌てて戻ってきて咳払いを一つついたと思ったら、したり顔で言いのける。

「先頭は――、はいはい―っ、言いたいことは良く分かった青年」

 ジト目の俺と視線がランデブー。

「目線だけで通じ合えるとは……以外と俺達っていい関係になれるかも知れませんね」

「んっふっふっ、青年、後でメチャクチャの刑だな」

 笑顔で燃えるような瞳をたたえる近衛先輩。言うほど痛くなさそうな刑の名が、ある意味とても不気味だったのは言うまでもないだろう……と口に出かけた矢先だった。

「ん……と、なんだこれ?」俺の目の前で瞼をゴシゴシとこする先輩。

「ち、ちょっと先輩、ゴミですか?」

「いや、充血って……視界赤くなるっけ? あっれぇ?」

 不可思議な顔つきで、目をこするのを止めた後はしばしばと目を見開く。

「望、あなたの目が悪いって訳ではなさそうよ、どうやら……」

 普段よりもワント―ン低い声で部長が言う。

「じゃ……じゃぁこの夕日って……本物? つ―か部長にも見えてる?」

 言葉ではなく態度で肯定する部長は、おもむろに首かけのロザリオを握りしめた。

「みんな等間隔に広がって周囲を警戒してちょうだい。望と珠川さんはその教室に入れるかためして」

 声色に焦りは感じられない。こんな非常時には、思いもつかないほど安心感を与える声音だった。

「美菜、俺の後ろにいろよ」そっと真後ろにいる美菜に声をかける。

「う……うん、なんかちょっと雰囲気でてきたね」

 廊下まで染め上げる痛烈な茜の斜光に気を奪われながらも、俺は美菜の立ち位置をもう一度確認した――その時。

「あいたよ、こっちこっち!!」

 涼子がスッと入室する脇で、近衛先輩は俺達を手招きしている。

(ん……なんだ?)

 この突然とした夕日も怪しければ、ここの教室だけ解錠されているのも不自然すぎる。

 みんなが警戒しながら入って行くその光景を、俺は止めようもない夢の中の出来事に感じながら、胸騒ぎと共に見ているしかなかった。

「ほらっ、柴田君。ぼぉっとしてるのは危険よ」

 肩に乗せられる部長の温かい手が……虚無の中にいる俺を我に帰してくれた。


「気を付けて!」いつになく凛とした声で涼子は全員に注意を促した。

 突然の声に全員がビクッと肩をふるわせる。

「脅くじゃないか、珠川」

 秀二が、嗜める意味も含めた語調で涼子を責めるが、涼子は意に介しない。それどころか秀二に対し、普段では思いもよらない程に鋭い目つきでにらんできた。

「アンタ、ここの空気が読めないの? もう遊びじゃ生きて出られないんだよ」

 意味深な言葉が秀二にぶつけられる。だが、それは俺たちにも当てはまる事なのだと涼子の言葉を聞いたヤツなら誰もが思っただろう。

「なになに? 珠川、アンタ怖さで少し参っちゃったかい?」

 近衛先輩が涼子のを落ち着かせようと、手を取ろうとした時。

「さわるなっ!」

「いつっ!」

「もう、戦うしかないんだよ、みんな……。もう、逃げられないんだよ」

 いつの間にか、涼子は肩で息をしていた。

「もうね……ヤツの巣に入ったんだよ。あ―っはっはっはっはっ」

「涼子さん、恐怖に取り込まれないで」

 入室直後から周囲を調べることに没頭していた部長がゆっくりと涼子に歩んでくると、涼子の胸ぐらを掴んで平手打ちの一閃を放った。

 それは余りにも突然で、近衛先輩よりも鋭い挙動。涼子も驚きを隠せないのか大粒の瞳を更に見開く。

「涼子さん、ここには何があるの? あなたは……なにか目的があって私たちをここに連れてきたのね?」

 部長の厳しい視線は涼子を貫くがその直後、何かを察知したのかそのままゆっくりと視線をずらしてゆく。

「アレ……が、理由なの?」

 俺達は一斉に部長の視線、それが向かう先へ見直った。

 小刻みな息づかいが夕日に満ちた教室に響き渡る。粘着性の液体が滴る音が聞こえ、それは聞く者に不快感と恐怖感を与える。

 だがこの場所でただ一人、涼子だけは俺達とは違い、微かな感嘆を喉の奥から漏らしていた。まるで涼子だけは、永きに渡る空白を越えた再会、そう言っても不思議ではない様相だった。

「きたっ……ゆき、わたし来たよ」

 窓際に設置されていた薬品棚の下段から、ひときわ長くてところどころ炭化した腕が伸びてくる。両手の指から生えているのか……長く鋭い爪が近くの壁に突き刺さると、赤く腐敗がかった胸が飛び出てきた。

 腰、そして足首から下のないふくらはぎが出てくると、ようやくこの不思議な生き物の形がハッキリとしてきた。

 体の大きさから考えて、とうてい収まるはずのない場所から這いずり出てきたヤツは、つぎはぎだらけの皮膚を赤く糜爛させていた。

 無数にある縫合跡、そこから崩れ落ちた皮膚をボロ切れのように引きずり、一度大きく伸びをすると、両手と両足で四つんばいになる。

 今は俺の横にいる涼子の口から、想像もできない意外な言葉が漏れた。

「ゆき……の、なの、そ……そんな……」

 あまりの衝撃で茫然自失になってしまった俺は、横にいる涼子が漏らした懐かしい名前によって更なる驚きを憶えた。

 うつろな光で俺たちを見る瞳。それが収まっている顔は黒々としていたが、よく目をこらすと大きな顔の輪郭に、更に一回り小さい顔。

 まるで顔に別な顔を貼り付けたような感じだった。

「あ、えっ?」

 その顔は、汚れてほとんど面影を残していなかったが、紛れもなく見知った顔。それも懐かしいと思うべきなのだろうか。

 そこには……、

「ゆき……なのか?」

 ゆきの顔が貼り付けられていた。ところどころ破けているのか、それとも傷なのか。

 もう既に人なつっこいゆきの面影は殆ど残ってない。

 呆然とする俺とは対照的に、涼子はヤツに目を配りながらも俺に言葉をぶつける。

「ねぇ、亮介。私さ、アンタを調べさせてもらった」

「こ、この非常時になに言って……」「聞きなよっ!」

「アンタふつうの人じゃ持ってない力があるって聞いた。でも……それってめちゃくちゃ頭にこないとだめなんでしょ?」

(こいつ……もしかして俺のこと知ってんのか?)

 俺の表情を見て涼子は何かをつかみ取ったらしい。一歩、怪物に近づく。

「私のね……代わりにこいつをやっつけてよ、ゆきの仇なんだ」

「私の大切な友達の敵なんだ」

 ふと怪物を見ると、ヤツは腕を振りかぶっていた。

 このままだと、確実にあの鋭い爪が涼子の体を八つ裂きにするだろう。

「アンタだったら倒せるから、もし、その力が怒りを感じないと出ないなら、私がアイツに殺されるから……力をだしてくれる?」

 俺が涼子を掴む早さと、ヤツが涼子を引き裂くのと、どちらが早かっただろうか。

(いや、こんな時に負ける俺じゃねぇ!)

 とっさに、と――言うか反射的だった。

「バカヤロっ!」

 だからこそ、俺はヤツより早かったと思う。胸に抱いている涼子は少なくても、まっぷたつにはなってない。

「ぬぉぉぉぉぉおおおおおお」

 そして俺の目の前にいる不気味なヤツは、自分の爪をまじまじと見つめながら咆吼をあげた。

「みっ……みんな今だよ!」

 最後尾にいた美菜が勢いよく扉を開け、秀二に近衛先輩そして美菜と部長が外に飛び出した。

「行くぞっ、涼子!」

「ダメっ! アイツをやっつけてよ……私はいいからアイツを」

 俺の腕にしがみつき、涼子は懸命に求めてくる。

 ゆきの仇、そもそもどうして今頃になってゆきの名が出てくるのか判らなかった。それでもただ言える事は、今かなりの確率で俺達に危険が迫っている。

 そしてゆっくりと、辺りは暗くなり、闇が包み始めた。

「きたっ……」

 全てを知り尽くした風に涼子が言う。

「お前どれくらい知ってんだよ。それに今頃ゆきの名前なんかだしてどういうつもりだ」

 あくまでヤツとの間合いを計りつつ、俺は涼子を廊下まで引きずる。

「アイツがゆきを殺したんだ」

「でも! 警察は変質者の犯行だって結論づけたじゃないか」

「じゃ……こいつが変質者なのよ」

 冷たい返事は、ここで事の真偽を問う俺に対し、いらだっている風だった。

「っと!」

 5本の長い爪が俺のすぐそばまで迫った。

 空間を切り裂く異音。どれだけ鋭利な爪ならば、ここまでの音を出せるのだろうか。

 俺たち、いや、正確には涼子を抱えた俺はダッシュで廊下まで走った。正直、暴れる涼子を抱えるのはかなり走り辛い行為だった。

(だけどなっ! 俺が逃げなきゃ、みんな廊下で待ってる)

 後3歩目で廊下に足が着く。

「待たせた! 逃げるぞ」

 扉付近でチラッと見えた二人の影に俺は伝えた。

 それでも近衛先輩と美菜は暗くなった廊下で俺たちが出てくるのを待っている。

 だが、何か違和感がある。俺は涼子を廊下に引き摺りながらも、心に引っ掛かる何かを探っていた。だから思うように身体が動かない。

(チッ、今は考えるなっ俺!)

 だが思考は巡る。そう、たぶんこの違和感の原因は、ヤツが追ってこないと言う事実。(足首から先が無いから追ってこれない……のか? それとも……)

 思考に要した時間はほんの数秒だったと思う。だが答えは意外と早く帰ってきた。ヤツが余裕を見せる理由。それは涼子を引き摺る俺の足が廊下に出る直前で起こった。

「――マジかよ」

 背中からは 小刻みな息づかい、そして目の前には固く閉ざされてしまった扉。



「くっ……近衛先輩! 美菜っ!! とにかく逃げてくれ。そして助けを呼ぶんだ!!」

 扉の向こうにいるだろう仲間に向けて、俺は一生懸命に叫んだ。

(大丈夫、伝わったさ)

 後は俺たちが助け出されるまで生き残ればいいだけだった。

「くそっ!」

 扉を背にすると、ヤツの全体像が目に飛び込んでくる。

 改めて見ると、本当に不気味な化け物だった。

「なぁ、これが学校の七不思議の一番目なのか?」

「そう、そしてゆきの仇」

 俺は喉を一つ鳴らした。

 喧嘩には多少自信はある。だが、それはあくまで人間相手。

 にじり寄ってくるヤツに対して、有効な攻撃方法がどのくらいあるのか、いまいち疑問だったからだ。

「懐には飛び込めないな、ヤツのリ―チが長すぎる」

「私がおとりになるから……そのあいだ――」

「やめろ! お前がゆきに抱く昔年を……今度は俺に背負わせたいのか?」

 はっとした表情で俺を見る涼子。

「分かってくれたんだったらそれでいい」

 俺は溜息を交えながら言葉を紡いだ。

(だがそれにしても、どうすっか――つぅぅぅっ!)

 思考の淵につかった瞬間だった。化け物の爪が俺の胸に3本の切り込みを残した。

 一瞬の出来事に俺は体をひねったが、それが余計に傷を深くしてしまったらしい。

「だいじょうぶなの!?」

 実際の負傷よりも派手に見える傷に腰を抜かした涼子は、あわててハンカチを押し当てようとする。

 薄皮一枚とはいえ、横一線に切られた皮膚は見た目にも多く出血している。

(っていうか……俺もだんだん心配になってきた。大量出血で死なないだろうか?)

「うおっ!?」「うわっ!!」

 縦に走った閃光は俺たちの間に見事割り込んできた。化け物は左右に分かれた俺たちを交互に見やり、次の瞬間最悪とも思えるほどにおぞましい行為をやりやがった。

「り、り……りょぅ、こ、ちゃ……ん」

 俺が憶えているゆきの声はもっと可愛らしかった。もうほとんど記憶に残ってないとはいえ、こんなかすれた声じゃないと断言できる。

(でも、涼子にとっちゃ……)

「うわっうわっ!? うわぁぁぁぁぁ」

「あ……し、だけ……ししし、か、つか……う」

「りょうこっ! ちょいまちっ!!」

 半狂乱になった涼子がとっさに掴み掛かった。

 化け物は涼子を両手で捕まえようと腕を伸ばす。まるで俺の存在を無視したかのような動きの刹那に、一つだけチャンスが生まれた。

 ヤツは俺に、背中を向けた。

「いまだ!」

 渾身の一撃を後頭部にめり込ませ――た。その筈だった。

「んぅぅっ!?」

 俺の両膝が崩れ落ちた。生暖かくて粘りけのある感触が太ももから膝、そしてふくらはぎへと流れる。

 長い爪の一本が、俺の大腿部を穿っていた。

 ゆきの顔は無表情でこちらを見る。子供が飽きたおもちゃをどう処分しようかと思案している顔。そこに慈悲は……残念ながらありそうになかった。

 再びヤツは俺に面と向かい、鋭い爪を今度こそ俺の頭頂部に添える。痛みで顔を上げる事の出来ない俺を見上げる。

「くそっ!」

(刺された痛みで……足に力がはいらねぇ―)

 映画なんかで見て想像するよりも、かなりの激痛だった。

 痛みで目がかすむと言う状況を体験した俺。

(くそっ! なんでこんな事になった? どうしてだ? こんな訳の分からない場所で俺は死ななきゃならないのか?)

 鼻息も荒く、化け物は俺に近づく。

(なんだよっ! 俺を殺そうとしてるこいつは……何もんなんだよ! なんで何も知らないまま、死ななきゃならないんだ?)

 俺は憔悴しきった目で涼子を見た――と思う。でも、既に振り上げられた爪が視界の隅に映って……俺は気が遠くなった。

(死……ぬのか?)

 出血による意識の白濁――ではなかった。それは痛みではなく恐怖でもない、熱い慟哭が俺の底からわき上がり、

「うはぁ……んっ……ぐはっ」

 垂直に走るヤツの爪は空気を切り裂く。ゴツイ刃に似合わないほど鋭い音と共に俺の頭に突っ込んでくる。弱った俺にトドメを刺そうとする一撃――は、見事に肉を貫く。

 だが、その音は頭部から発せられたものではなかった。

 俺の意志とは無関係に差し出された前腕部により奏でられた音だった。

 そして……。

 骨まで食い込んだ爪により分断された筋繊維、その発達した膨張で赤茶けたヤツの武器は固定される。

 そして俺の中にいるもう一人の俺は……切られた腕をそのままに勢いよくヤツを壁まで吹っ飛ばした。

「ぐぉぉぉぉぉぉ!!」

「りょ、亮介……?」

(涼子が叫んでいるのは……俺が豹変したからか?)

 俺は――いや、俺の格好をした誰かは化け物から涼子へと視線を移す。すると一瞬の目眩を覚えた。浮遊を感じる俺の意識は、目眩と共にハッキリとしてくる。だが、身体は思うように動かない。ジッと突っ立って動こうともしない。

「はぁ……はぁ、はぁ、りょう、こか?」

 徐々に増してくる痛みは刺された太ももの痛み。そして胸、最後に腕と、痛みの感覚が元に戻ってくる。痛みが増すほど、身体の自由が回復するようだった。

「ぐぅぅぅっ……んぬぬぬぬっ」

 腕まで動かせるようになった代わりに、信じられないほどの激痛が俺の精神を侵し、頭は拍動性の頭痛が前後左右から襲ってくる。

(ぐぁ……どうしたんだよ、どうしてなんだ?)

 痛覚は今まで感じた事のない程だった。まるで身体に埋まっている神経束の存在を一本一本知らしめるかのように主張する。

「だ……だめだ」意識が痛みにより揺らいでゆく。

 揺れる、高波を受ける帆船のように揺すぶられる意識の中、俺はある事に気が付いた。

 助けようとしたはずの涼子に……今は別の感情を抱いている。

(涼子はきっと赤い花が似合う。こいつに赤い花を――いや、涼子で赤い花を咲かせてみたい。温かくて柔らかい涼子の身体を――食い千切るように……)

 ガクンと膝が崩れ、床を呆然と見つめる俺の身体。

 だが意識は違う。無理矢理俺の心にまとわりつく見えない熱風。暑さが、熱が、徐々に俺の心をぐちゃぐちゃに溶かしてゆく。

(熱い……とにかく熱い!)

「亮介……目が、赤い……よ?」

 恐怖の心地よい匂いが辺りに漂う。それは涼子が発散していた。

 心配そうに俺を覗いたその瞳。だが、俺にとってはそんな安っぽい気遣いよりも、この女が内面に隠し持った俺に対する恐怖心、その方がよっぽど俺の胸襟は小躍りする。

(臭いがするんだ……弱者がこびる時に出すあの人間臭さ。それが……ちっ!)

「ふぁっふぅ―!」

 だらんと突っ伏していた体を反らすと同時、ヤツは背筋を反り返らせる。反動を使い一気に跳躍すし、長い腕を利用したアウトレンジからの斬撃だった。

「当たる気がしねぇんだよ!」

 先ほどまでヤツに感じていた恐怖は、もう皆無だった。ヤツの鋭い動きですら緩慢に見えるほど、俺の動体視力は研ぎ澄まされている。

 襲いかかる爪は先程までと違い、いとも簡単に俺の手中に収まった。虚無の視線は俺を切り裂けなかった悔しさからか、恨めしそうに見つめている。

 だが、そんな視線も強いていうなら邪魔だという感覚だけ。俺の興味は涼子へ移り、それを横取りしようという化け物がもの凄く憎い存在に変わっていた。

(こんな腐った化け物を壊すより……もっと清潔で暖かいものを壊したい。そう取り返しの付かなくなるぐらい……メチャクチャにしたい)

 気怠そうに、だが手を抜く事はせず、俺はヤツを黒板へ叩き付けた。

 そしてゆっくりと、俺の意識は涼子を捉える。

(そう……あの日にそうしたように、今度は涼子の番なんだ。あの日のように……俺のありったけの気持ちをぶつけたいんだ)

 心の芯まで熱せられた俺の意識。もはや自分が誰で、何を考えているのかが曖昧になってきた。

「りょう……こ、にげ……ろ」(追いかけてやるさ……)

 思考が違った思いを告げる。

「なに……亮介どうしたの?」

 目の前にいる見慣れた少女は、俺の顔を青ざめた表情で見つめている。

「りょ……こ、にげて……くれ」浸食が強まる。

(薄皮一枚裂いただけで動きの鈍る女が……俺から逃げれるのかぁ?)

 力がみなぎる。腕、足、腹、首。全ての血管に大量の気が満たされ、筋繊維の一本一本が異常なまでに膨張を遂げようとする。俺はその波動のように猛り狂うエネルギ―に翻弄されながら……だんだんと体の支配権を奪われてゆく。

 そして、涼子が俺のことをあの化け物と変わらない目で見るには、そんなに時間を要しなかった。

「りょ……すけ、あっ、ちだ……よ」

 俺のほうが怖いのだろうか、涼子はあの化け物より俺に釘付けだ。

 だからこそ、俺はさらなる表情の変化を見たくて、涼子を軽く突き飛ばした。

 軽い……あまりに軽い涼子の体は壁に激突し、力無く崩れ落ちる。短いスカ―トがたくし上がり、露わになる涼子の太腿が何とも言えないほど柔らかそうで……今にも握りつぶしたい衝動に駆られる。

「んあっ!?」

 視界に割り込んできた灰色の爪は俺の顔面を引き裂こうと空気の層を裂ききった。

「ぐぅっ!?」

 もともと足首よりしたの無い化け物は、爪ごと腕を掴んでやればもう殆ど動きが出来ない。だが、遊びを邪魔されたもう一人の俺には、怒りという負の感情が渦巻いていた。

 くぐもり、乾いた音が同時に響いた。そして皮が引き裂かれた時に鳴る悲鳴にも似た擦過音。

 もう一人の俺は……化け物の腕を引きちぎり、そしてその引きちぎった爪でヤツの胴体を突き刺し、そのままの勢いで壁に串ざした。

「あっ……あっ、うはぁ……えっ……あがっ」

 じたばたじたばた間接を動かすその仕草は、どことなく末期間近の昆虫を思い出す。

 いつからだろう、怒りの思念は喜びの思念に取って代わっていた。そして、もう一人の俺は大切な事を思い出す。

 そう、尻餅をついて壁にもたれかかっている涼子の事だ。

 どうする事も出来ない俺の心は、ただ涼子に言うしかない。

「に……げて、く……れ、り、りょ、こ」

 だが言葉とは裏腹に、顔面の筋肉はオモチャを得た子供のように笑みを作りはじめた。

 俺が発した精一杯の言葉は、既に涼子にとっては恐怖というスパイスにしかならないだろう。真っ白にさせた涼子の顔をみて、俺は熱せられながらずぶずぶと底なしの深い沼へ埋まってゆく。

 深く暗い底に沈む。俺はたぶん、涼子を助けられないだろう。

 幼かったあの日のように、俺が目覚めたんだ。

(治ったと思ったのになぁ。あぁ、もう疲れたよ……美菜。ゴメンな)

 俺の視線は涼子をなめ回す。まるで、己の力と欲望を満たす場所を見定めるかのようにしつこく。

 そしてゆっくりと、涼子の首に手がかかった。学生服の裾がみえる。

(俺の腕だろそれ! やめ、やめろよ……何で俺が、俺が涼子に手を出さないといけないんだよ。

(くそっ!)

 手のひらに、よく知った少女のスベスベした肌の手触りを感じる。

 瞳は絶望を表しているが、どこか諦めた感じにも見える。俺も既に、自分の意志には逆らえそうもなくなって、ゆっくりと思考を止めようとしたその時。

「あれほど近づくなといったじゃろう、飲み込まれおって」

 俺という形をした意志が沈む深い闇、そこに何者かの手が伸びてきて強引に引きずり出された。

 いや、何者なんて疎遠な言葉では言い表せない。この声は俺にとって、とても心地の良い響きを宿しているアイツの……声だ。

(助かった……白鷺)

 微かに映る視界に現れたのは、凛とした隙のない顔。ゆっくりと歩むその動きは重厚でどこか圧倒される雰囲気をまとう。

 そして涼子と俺の間に割り込むと、懐から取り出した扇の背骨で、俺の眉間を強かに打ちつけた。

「ぐぅっ!」

「これで緋呪も退散してゆくじゃろ、まんまと呑み込まれおって……アホゥが」

 高貴な京紫を湛えた瞳は……あきれた顔で俺を覗き込む。

「じゃが、よく耐えたのも事実じゃ。人にしては強いな」

 そして己が打ちつけた眉間に和紙をあてがった。

「これを持って待つのじゃ」

 眉間に宛がわれた和紙を持たされた俺の心は、徐々に冷静さを取り戻してゆく。

 そして白鷺は涼子に向き直った。

「珠川涼子……主は何を望むのじゃ」清流のように静かな声が流れる。

 だが涼子は答えようとはしない。突然と現れた同級生に敵意すら抱いている顔つきだ。

「なんじゃ、主が捜していると亮介から聞いて、わざわざ儂から逢うてやれば……ほころぶどころか険しい(かんばせ)になるとはな」

「だ……誰がアンタなんかと会いたいっていったのよ!」

 ふぅっ……と白鷺は大げさな溜息をついた。

「望みを朧桜に届けたいのじゃろ? 儂を介さんとなにも始まらぬぞ。まぁこれ以上は説く気にもなれぬがな」

 と言って、白鷺は壁に串刺しになっているヤツを一瞥した。

「久しいな『蝟集の怨』か」

 ガッチャガッチャと悶えているヤツの前に立ちはだかる。

「コイツがなにもんなのか知ってんのか?」

「主たちと同じ……人魂じゃ。もっとも生き死にの違いはあるがな」

 沈痛な面持ちで、いきなりこめかみを押さえる白鷺。

「主たちは……こやつと儂を一括りで扱っていたのじゃったな」

(あっ……そうだな、学園の七不思議ってヤツでな)

「さすがに心外じゃのぉ……」

 言うと再び、白鷺は扇子を懐から取り出した。

「で……どうするのじゃ? 珠川涼子、主の願いはこやつの滅か? それとも残心の中に囚われておる……ゆきとやらの魂帰りか?」

 直球ど真ん中に投げつけた白鷺の言葉は、少なくても涼子の心を素直にする効果はあったようだった。

「できるの……白鷺さん」戸惑いがちな視線を一身に受け止める冷静な微笑み。

「限りある者達に成し得ぬ事を言うほど、性根は腐っておらぬが――まぁよい」

 白鷺が言う蝟集の怨へ向き直る。

「因果なものだな……珠川涼子。いや、珠川の氏が災いしたか」

 桜色の扇が爆ぜるように開かれ、白鷺は身もだえするヤツの側に近づき、そっと扇で仰ぎ始めた。

「なに……してんだ?」

「白鷺さん危ないよ!」

 だが白鷺はあの不思議な扇子の威力を遣う気はないらしい。ただ、普段よりはどことなく穏やかな瞳の色をたたえながら、そっと扇でヤツを仰ぐだけだった。

「狂おしいのであろう……」扇を仰ぎ、

「寂しいのであろう……」左手をヤツの頬へとそえる。

 先程までの猛々しい呻きも、激しい痙攣もすんなりと身を潜める。

 ヤツはただ不思議な感情を湛えた瞳で、白鷺をジッと見つめる。

「主らの怨を受す者はもう現世(うつしよ)にはおらぬ。どうじゃ、これを期に新たな輪廻へと御霊を流さぬか?」

 静かに、でも意志の宿った声だった。うっすらとした微笑みも、柔らかい雰囲気を身にまとっている。

「主らが欲する忌み(いみうじ)は、朧桜が内に招く故な」

 白鷺の言葉が終わったとたん、ボタッと何かが落ちた。壁に刺さった爪が抜かれ、小さな小さな光の玉が無数にヤツの体からあふれ出した。

 まるで肉がそぎ落とされるように、ヤツの体を形成した臓器がずり落ち、床に触れる前に消えてゆく。

「あ……あ、たた……か、い」女性の声が漏れる。

「おかぁさ……ん……だ」小さな子供の声

 形作っていたモノ、その一つ一つが意志でも持ち合わせていたかのように、声が漏れては臓腑が落ち、そこから淡い光の玉が天へと昇ってゆく。

「たくさんの人……達」

 俺の隣にいる涼子は瞬きもせず涙をながし、光の昇ってゆく先を見つめている。

 白鷺の周りを慈しむかのように飛翔する光。説明など無くても……俺にはそれが人の魂だって理解できた。

 白鷺の不思議な力、いや、慈悲なんだろうか……。それが彼らを導いたのか。

「あぁぁぁぁ……」

 肉もそぎ落ち、眼球も抜け落ちた窪みの筈なのに……もの悲しい雰囲気を訴えかける。

 もう既に、上半身の骨格だけになってしまったヤツの身体を見て俺は、こいつが芯なのだと知った。

「永きに渡る悲しみの怨はもう滅せられたのじゃ」

 骨は声に弾かれたように一瞬ビクッと震え、胸の肋骨部分から小さく弱い光の玉がそっと白鷺の目の前に浮かび上がった。

 ゆっくりと、人の――古めかしくも気品のある女性の姿を形取る。

「人外の御方、わたくしで最後です……お手数をお掛け致しました」

 白鷺を真っ直ぐな目で見つめ、白鷺はそれに答えるかのように小さく頷く。

「人を……たくさんの人を殺めました。そのようなわたくしが空へと導かれるゆえはありませぬでしょう。人外の御方、どうかせめての罪滅ぼしに、わたくしをもう一度光の届かぬ場所へおやりくださいませ」

 瞳を瞑り、今にも消えかかりそうな女性の声を白鷺は静かに聞く。

 それが己の役目だと言わんばかりに。

「わたくしが辱めに耐えいれば、他の方を巻き込みもしなかったでしょうに……恥じ入るばかりにございます」

「背負い込まずともよいじゃろ。顛末は儂が知り得るくらいじゃ、主の信ずる神へも仏へも既に十分と伝わっておる筈じゃ」

 だがそれでも、女の人は頑なに首を横に振り続け、空へ昇ることを拒んでいる。

 真っ直ぐな瞳のまま、白鷺は扇子を懐から取り出す。

「主は朧桜に何を望むのじゃ……」

 頭上に掲げた扇をスパッと広げる。

「人外の方……まさか貴女様は」

「早急に言わぬか、主が望む彼の地よりは、良い所に渡してやろうと言うておるのじゃ」

 はにかんだ顔は素っ気なくものを言うも、俺には伝わるホンの少しの優しさ。

「はい、なんでも宜しいのでしょうか?」

 言葉も無く頷く。

「ならばわたくしは……父と母に今生のお別れを致したく、貴女様に願い奉ります」

「委細承知した……頑固者め」

 女性の霊はこちらに視線を移すと、恥ずかしそうに笑った。

「儂は朧桜に代わり問う。望みを叶えた暁に、主は何を朧桜へ奉る」

「この……限りある魂の命脈が尽きるまで、朧桜へ奉ります」

「主の至情……確と諒した」

 頭上に掲げた扇子を緩やかに振ると、扇の面から桜の花びらが舞い降りてくる。

「娘、しかとご両親の放心に帰するのだぞ」

 花びらは一枚二枚と、女性の姿を覆い隠してゆく程にたくさん降り注いでいた。まさに桜吹雪にでも遭遇したような……若紫の息吹だった。

 そして、白鷺は大きく振りかぶった扇子をゆったりと振り落とし、一陣の風を女性に向けて放った。

「あっ……」

 涼子も俺も一緒の感覚だった。風で舞い散った桜が乱れるその場所に、すでに女性の面影はなかった。

「仕舞いじゃ……な」

 踵を返す白鷺の長く艶のある髪は、月明かりに照らされて青紫の光沢を放つ。優しくたゆんだ髪の束は、弧という芸術を俺達に見せてくれた。



 月の残光だけが辺りを照らし、清涼とした空気が辺りを満たす場所。

 そこに……今は枝振りだけとなった大樹が落ち着く。

 そう、ここは白鷺が閑居(かんきょ)にて朧桜の鎮守する場。今日は天候も良く、草の葉一枚一枚がハッキリと認識できるほどに明るかった。

「さて……忠告したにも関わらず『蝟集の怨』に近づいたどこぞのアホウは放っておくとしてもじゃ、珠川涼子。主がどうして亮介を(けしか)けたのかを質しておきたい故な」

 大きな朧桜の幹に肩をもたれかけ、白鷺の視線は涼子を射竦める。だが当の涼子は黙秘を続けていた。

「時が惜しい故なぁ、主が語らぬのなら儂が話すかのぉ」

 ぎょっとした顔で白鷺を見つめる涼子。

「ゆきと言うのじゃったか? 珠川涼子。主は戯れに藍乃里ゆきを旧校舎に連れ行き、そこで蝟集の怨に襲われた」

 そうじゃな、と白鷺は涼子の反応を待つ、だがそれにも無反応を通す姿に時間の無駄と悟ったのか、白鷺の話は進んだ。

「蝟集の怨に取り込まれた者は、またそやつの一部となり人を襲う。つまり主は藍乃里ゆきの仇を討つ為に亮介を誘ったのじゃ」

 そして一息つく。

「何故に亮介の秘めたる膂力を知ったかは謎じゃが……」

 静かに……白鷺の目が細まる。

「良かったの、仇討ちが……成功して」

 先程まで見せていた優しさなどどこへやら、今この目の前にいる白鷺は、含みを込めた薄笑いを涼子に向けていた。

「あ……アンタに何が判るのよっ、私だって……」

「いや、儂は誉めておるのじゃ珠川涼子。主は仇を討つために亮介を始めとし、全ての者を利用したのぉ? その心があっぱれじゃと儂は言うておるのじゃ」

「――」

 一瞬、涼子の視線を感じた。

「――利用……したかも。でも! でもさ!」

「異な事を……、主は仇敵(あだかたき)を討ち取らんが為に、今日、この日の為に駒を用意しておいたのじゃ。柴田亮介、五月雨美菜、守松秀二、主が立ち直ったと思い、喜びに満ちた心を主は駒と見定めた」

 涼子は反論しようとするが、白鷺の凍り付くような視線に遮られ、喉まで出かけた言葉を呑み込んだ。

「それから、お主と亮介達との間には偽りの関係が続いたのじゃな。まぁあのアホゥはそうと思っておらんじゃろうがのぉ」

 ふぅっ、と一呼吸置くように星を見上げる白鷺。

「じゃが宮住千恵と近衛望の出現は主の計画を早める切っ掛けとなったな。故に亮介の下調べも不十分の内に相対したという訳じゃ……相違ないな?」

「はははははっ、普段無口なぶん、いざとなったら結構うっさいんだね」

 乾いた声。それは本当に涼子が出してるのかと疑ってしまうほど飢渇した声だった。

「でもさ……それがなんなの?」

「別に……良いじゃん、わたしはさぁ、自分から大親友って思ってた女の子を突き飛ばして逃げた、おんな……なんだから」

 涼子は月明かりから目をそらすよう、地面へと顔を落とした。

「大親友だって突き飛ばしたんだ! いまさら友達だからって――そんなことなんて気にしていられ――」

「うるせえっ! 黙れっ!!」

 俺の目の前に在るのは小さな背中、そしてその背中は春先の夜風に耐えるかのように、微かな震えを帯びていた。

「!? り……りょう、すけ?」

 消えてしまいそうな背中を……俺はそっと抱きしめた。

「なんだか知らんけど、たくさんのこと背負ってたんだな」

「や、ちょっ……やめてってば!」

 さっきから見ていた小さな背中、そこにホンの少しの小さな光玉を見つけた。

 とても心配そうに、とても不安そうにふわりふわりと背中をさするような動きを見せているそれは――白鷺が言っていた見えざるモノ。

(それがさ、何となく見知ったヤツに思えたんだよ)

 だから多分、そいつがしたいだろうと思ってることを、俺が代わりにやった。

 ただそれだけだったんだが、顎に突然の衝撃。

「気安くさわるなぁ!!」

 地を這うようなアッパーが俺の顎を穿つ。思わぬ衝撃で倒れそうになった俺を更なる衝撃が襲った。

 次の衝撃は俺の心に届く。それは涙に濡れた顔……だった。

 いや、それは滝のようと形容した方がいいのかも知れない。

「やめ……だめだか……ら、こんな……わたし、うけいれ……られ……な、い」

 困惑と後悔が混ざった表情。だけど――久しぶりになにか暖かいモノに触れたと言いたげに潤む瞳が……胸の中から俺を見上げている。

 俺に抱きついてきた涼子の、睨む瞳もしかめっ面も、全て涙がじゃまをしている。

(とってもにくったらしいヤツなんだが……悔しいくらいお前は憎めない)

 俺はしゃくり上げる背中をポンポンと叩き、白鷺に告げた。

「白鷺っ! 俺はもういいし、たぶん美菜は俺以上にお人好しだ。秀二はああ見えて女に凄く弱いし、だからそれで良いんじゃないのか?」

「…………」いつも白鷺が見せる、何かを探るような深い目付きが俺の瞳に忍び寄る。

「いいんだよ、誰もなにも悪くないんだ。そしてもう終わったんだ」

 一拍の静寂がながれ、風が2人の間にあるわだかまりと言う空気を連れ去った。

「珠川涼子、二度(ふたたび)命を永らえたのじゃ、あるがままを得心し、現世を全うするのじゃ。それが主の側にとっての――」

「待ってっ!」

「……」

「まってよ、アンタって……ホント雰囲気どおり融通がきかないねっ!」

 止め処もなく流れたのは涙なのか、それとも心にわだかまっていた己の禍なのか。

 満ちゆく月明かりに浮かぶ涼子の素顔、俺も今になって思い出した。珠川涼子はこんな顔をして笑う子だったんだ。

「ねぇ! アンタにお願いがあるんだっ!」

 抱擁していた腕を解き放つ。

「ごめん、順番が逆になっちゃったよ。ホント……迷惑ばかりかけて、ごめん」

 俺を振り向き謝罪の言葉をつむぐ涼子。俺はその仕草に……どうしようもない程の焦燥を感じてしまう。

「わたし」――涼子は真っ直ぐに白鷺を見つめる。

「ゆきに……わたしがうばっちゃった時間を返したい」

「それが、わたしの願い……だよ」

 キュッと俺の腕を握る涼子の力を……袖越しに感じた。それはとても、とても小さくて華奢な力だと知った。

「なぁ、待てよ。お前も知ってるんだろ? 白鷺に頼むって事はもう――」

「主は……」低く凛とした響きの声が、透徹な月の光に照らされた空へ張り詰めた静けさを作り出す。

「朧桜に何を望むのじゃ……」

 白肌の手には薄桜色の扇。

 無という表情が俺達の前に毅然と存在したように見えたのは……月明かりのせいだろうか? 桜を纏う女性は、人では形成することなど出来ない流麗な輪郭に、人では到達できないほどに厳酷な決断を漂わせていた。

「わたし! ゆきに……わたしがうばっちゃった時間を返したい」

 もう、何からも逃げないと決意した笑顔も又、夜空からの白光に照らされている。

「委細承知した……未熟者め」

 俺には涼子を止められる経験も……覚悟もなかった。

 そして白鷺の目は伏せられて、桜の色を湛えた扇は重厚な音と共に半円の花びらを咲かせる。

「儂は朧桜に代わり問う。望みを叶えた暁に、主は何を朧桜へ奉る」

 白鷺は流れる手付きで涼子に扇面を向ける。その仕草はまるで、この扇に誓えと言うかのごとく。

 涼子はやんわりと、でも少しだけ恥ずかしそうに俺の袖を解きはなった。

 とても恥ずかしそうに。

(……お前がそんなんじゃ俺まで恥ずかしくなるだろ、バカ)

 涼子は何かを決意した瞳で月を見上げた。弱い風が涼子の前髪をサラサラとなでつけ、彼女は気持ちよさそうに目をつむってそれを受け入れる。

 そして、おもむろに俺を振り返り『ぶいっ』を勢いよく向ける。

(……それも違うだろ、虚勢はりやがって)

「白鷺……さん、わたしの命……、朧桜にあげるよ」

 声が終わると同時……扇が力強い光を放った。

「主の至情……確と諒した」

 残光に心が引き摺られ、意識が遠退くのを憶えていた。

 でも、不思議と怖くはなかった。それは多分、白鷺の最後の言葉が凄く優しい韻を伴っていたからだ。

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