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第一章 「必然の出会い」


 10年後の現在。

 白瀬市、私立誠綾学園高等部1階――すみっこ。

「廃部決定……ですね」

 綺麗な黒髪は最近のトリ―トメントが進化した結果なのだろうか? それとも若さ故の特権か。蛍光灯一本という薄明かりにもかかわらず光沢を発するほど素晴らしい髪の持ち主は、その美麗さににあわず憂鬱(ゆううつ)な面持ちだった。

 ブレザ―の上着から覗く大きめの学校指定リボンは緑色。今年の3月までは2学年を表す学年章を兼務していたが、今は4月の新学期なので最終学年を表している。

「廃部……かぁ」

 その正面にいる背の高い女の子は茶色のリボン、今現在2年生。

「3年まで持たなかったかぁ~」

 セミロングっぽい長さの癖っ毛を簡単なゴムひもで束ねている彼女は、乱暴に足を机に放り投げ、コンクリ―トで覆われた部室の天井へ視線を動かす。

 L字形の室内はただでさえ狭いのだが、そこに足二本がにょきっと伸びたので更に狭く感じる。

(あ……!)

「そうだ! ねぇ千恵、同好会って何人までOKだった?」

 おもむろに放り投げた足に反動をつけ、かけ声一発で床に落とす。勢いづいた身体は上半身ごともう1人の女の子に向かってゆく。

 現在最終学年に進級した宮住千恵は、いつも元気ハツラツの後輩、近衛 (このえのぞみ)の突然とした行動に目を丸くした。

 ……。

「自治会の規定では当校の生徒4名以上で構成し、担任か副担任、もしくは部を兼務する事のない教師の指導を恒常的に仰ぐ――となってます」

 去年まで3年生が4人、2年生は2人、1年生……1人。

 計6名の将来有望な部員を擁し、優しい顧問もいた。もちろん悪名高き3年生はすでにこの学舎(まなびや)を巣立ち、2人しかいなかった2年生はある事情から1人が退部してしまった。

 そして顧問も3年生と共に定年退職している。

 となると、今現在は3年の宮住千恵(みやずみちえ)が部長で近衛 望が副部長。そして顧問不在で更に人数も自治会規定を少しどころか思う存分満たしてない。

「廃部っきゃないねぇ」笑いながら望が言う。

「望はいいわよ、ここが潰れても兼務の空手部があるんだから。わたしなんか3年生だし運動音痴だし。ほんと路頭に迷いっぱなしね」

 疲れた風に、千恵は自嘲気味な笑顔で返す。

 確かに、望にしてみれば暇つぶしに行くところはたくさんある。べつに空手に限定されなくても友達は多い方なので遊ぶという意味では困らないかも知れない。

 だが……千恵が思ってるほど望にとってこの部活は、簡単に『ハイさようなら』と済ますことの出来ない場所だった。

「アタシだって潰れるのは勘弁さ。腕っ節でカタが付くんだったら自治会にのりこんでってやるけどね。でもそれじゃ、千恵の立場を悪くするだろ?」

 企み笑いのおまけ付きで望は言ってのける。

(もう……ただでさえ悪役っぽいのに、影付きの顔で笑わないでよぉ)

 と千恵は泣きそうになる顔をグッと堪えた。もちろんずり下がった眼鏡を人差し指でもとに戻せばいつも通りのまじめ顔。

 しばしの間、この1F階段下に設けられた用具入れ兼部室に沈黙が訪れる。

 ちなみに余談だが、もともとはちゃんとした部室が与えられていた部活動だった。それがなぜこんな所にいなければならないのかと言うと、凶暴な3年生が卒業したその日、その時間に、自治会が見計らったように強制撤去したのだった。

 残されたのはたった2人。

 1人は学園一の才女と謳われ、学舎の期待を一身に背負った少女。

 だがなぜか、彼女は悪名高きミステリアス研究会に入部した。もちろん誰もが最初はミス研に脅されているのだと宮住千恵を擁護した。しかし自ら進んでミス研活動に取り組んでいくその真摯な態度は、しだいに周りの理解を促進し、今では紛う事なく変人扱い。

 学園創設以来の天才は、その学園の手によって封殺された。

 2人目もこれまた類い希な運動センスを天より授かったまさに天才。学園、いや、日本の期待を一身に背負う事も出来た空手界期待の新星も又、何故かミス研に……。

 自治会は宮住千恵で犯した過ちを繰り返したのだった。

 このある意味学園の双璧は、なぜか学園一力のない場所に居て、自治会や理事会が苛立つほどなんの力も発揮していなかった。

 当然、学園運営サイドとしては己の才能を遺憾なく発揮できる部活動に専念し、学園の名を日本へ――いや、世界へととどろかせて欲しいと考えるのは無理のない話である。

 手ぐすね引いて見てきた2年間がようやく過ぎ去り、そしてチャンスはやって来た。

 凶悪なミス研の3年は去り、なんの手を下さなくとも2人を自由に出来るチャンスが到来したのである。

 当然……自治会としても浮き足立っている。さすがに宮住千恵の自治会長入りは本人が3年だから無理だとしても、弁論部当たりに潜り込ませればそれなりに活躍をしてくれるだろう。

 それに、近衛 望はまだ2年生。空手と言わず運動部ならどこだってつぶしがきく。

 いや、いっそのこと複数兼任させたっていい。

 今まで我慢していたんだ、バチはあたらないだろう――とは自治会長の言葉だ。

 いつもは何かと衝突する生徒代表の自治会と学園運営側の理事会がついにこの春、手を組んだのである。だがしかし、それぞれの想いは思いも寄らぬ方向へ錯綜するのが世の恒である。

「おっ! 新米部長さんは何かひらめいたかぁ~」

 小粒な瞳に今、光が宿った。

「こほん、わがミス研は……新入生入学と同時に新入部員獲得作戦を発動します」

「そのまんまで余りに心配なんだけど……一応どんなアイデア?」

「あわてないで望、詳細は明日にでもプリントしてきます」

 千恵は黒く大きなシステム手帳に、何やら獲得作戦の詳細を書き込み始めている。

 こうなると望の出番は無い。手持ちぶさたになった彼女は、ふとポケットに忍ばせていた最近自分の中で流行しているあるモノを取り出した。

(知恵の輪ね……望ったら珍しい)

 二つの輪っかが微妙にくっついている、単純だが奥の深い知恵の輪。それを大柄な望がチマチマと、まるで手編み棒のように動かしている様を千恵は微笑ましく目に留めた。

(外れたら、次はわたしに入れさせて貰おうかしら)

 自分が部長になって、望と行う初めての共同作業。

(それが知恵の輪なんてちょっと意外だったわね)

 だからこそ、外れてくれる事を祈ながら、千恵はシステム手帳に再度視線を落とした。

(頑張ってね、望)

 その淡い期待を微笑みという便せんに包んだ直後だった。硬質な何かが弾け飛ぶ、かん高い音が用具入れ兼部室の中に響き渡る。

「やりぃ、外れた! こいつもへなちょこだなぁ」喜々とした嬌声は望の口から。

「外れたのね」に、しては随分と不自然な音だと千恵は思った。

「こんなモン楽勝よっ!」ニコニコと満面の笑みで、望は外れた輪を両手にかざす。

「それじゃ、次はわたしに貸し……て?」

「えっ、なに言ってんの千恵、こんなモン二度も使えないだろ?」

 両手にもった知恵の輪だったモノの片鱗。それは虚しくも折れ曲がり、もう片方は欠けていた。

 だったモノは何ともいい知れない無常観を醸し出し、千恵を責める。

「次はもうちょっとヘビーなヤツを買ってこないとなぁ」

 千恵の望んだ淡い共同作業は、望の馬鹿力の前に轟沈した。

「まったく……あきれるわね、望。それは外れたんじゃなくて壊れた……なのよ」

「なにさ、要は輪っかをはずしゃいいんだろ? 説明書にもそう書いてたんだ」

 そして千恵は呆れた顔から、ふと何かを思いついた顔に変化する。そしてゆっくりと目の前で何かを言いたそうにしている大柄な女の子の手を優しく握った。

「望、またあなたの凶暴な力が必要になるはずです。どうかこのミス研に、悪魔へ魅入られし力をかして下さい」

 温かい手で握られている望は、何となく馬鹿にされているのかとも思ったが、卒業生達の色に染まっていたミス研が、今を境に千恵の色に染まりつつあるんだなと感じていた。

(しめしめ、この目付きはまちがいなく本気の千恵だ。この『なんちゃら作戦』が上々に仕上がったら……また一年間楽しめるぞぉ)

 望は千恵をそのクリッとした大きな瞳で見つめる。

 天井を見上げ何某かを企てている頼りなさそうな風貌の持ち主、だがその外見とは裏腹に頼もしい先輩の姿を望はいつもより強く高鳴る胸の奥に、希望という名の好奇心を見出していた……が、一つだけ引っ掛かる。

「ちょっと千恵?」その引っかかりが判明した。

「部長と呼びなさい望、それにわたしはこれでも先輩なのよ」

「いや、それはどうでも良いんだけど。凶暴とか……悪魔に魅入られしとかって?」

 ピクピクと自己をアピ―ルする青筋は、いつもより三倍太かった。

「ん? あっ、ほら、今からそう言った修飾語で飾っておけば、はったりもきくでしょ」

 もっともはったりじゃないけどね、とは小声だったがキッチリと望の耳に届いていた事は余談である。



 入りくんだ迷路のような巨大建築物は、みるものに複雑怪奇な造形を印象づける。渡り廊下やあらたに建設している増設棟。この異常なまでの建て増しはなにを見習ったのだろう? 場末の温泉宿なのか、はたまた予想外に入院患者の多くなった総合病院なのか? どちらにしろ、なにかを真似た結果がこの――安直な建て増なんだろうか。

 新旧入り交じった外壁の濃淡がデジタルハイビジョンよろしくクッキリと俺の目に飛び込む。

 人を探しているくせに余計なところへ目がいき届くのは、あまり捜す気がないからだろうか。ふかい溜息を一つ吐くと、春になったばかりの空を仰いでみた。

 雲はいそぎ足で青い世界を流れゆき、輝く日差しは木々の濃い部分に反射して、色鮮やかな色彩を演出している。

 外気温の冷たさも、やんわりとした暖かみのある日差しのお陰でちょうどよく、とても至福で贅沢なひとときを演出してくれていた。


 温かさに気分をよくした俺の名は柴田 亮介。主人公的三大オプションのひとつ、ボケキャラ幼なじみの五月雨(さみだれ)美菜(みな)のことを考えていた。

 答えの出ない堂々巡りは、敷地も建物も未知の場所で少しのうざったさと共に溜息がもれる。

 俺は新一年生と言うには少しすれてる方かも知れないが、この春に誠綾学園高等部へエスカレ―タ―で入学した。入学できただけでも親御さんにしちゃちょっと自慢ネタになること請け合いの学園で、自分のレベルに似合う慎ましい夢や理想を胸に秘めて頑張ろうという訳なのだ。

 慎ましくも素晴らしい高校生活をおくろうとした矢先に、俺を悩ますヤツが居る。

(誰かって……ヤツだよ)

 何を言い淀んでいるかというと、初めての登校で、初めての授業を終え、初めて高校生として帰宅する初めてづくしを堪能できる筈だった今日、俺が『肌寒いな』と何気にいった一言を曲解した幼なじみは、初めてきている未知なる場所だということも忘れ、自販機の低糖コ―ヒ―を探しにいった。

「亮ちゃんは迷子になるから、動いたらダメだからね」

 ちなみにこの言は、両手を腰に当てて姉さんぶった幼なじみ、五月雨 美菜が遭難直前にはいて捨てたセリフだ。

 たったかた―っと走っていったのがかれこれ30分前。もちろん『あっ……おい』という暇すら与えてくれなかった。

 昔っからヤツはそうだ。『面倒見がよい』のと『面倒をかける』の両方を、知り合ってからの12年間という長きにわたり、必ず律儀に守りとおしてきた。

 そして俺はいつもその尻ぬぐい。

 今日もなんの気無しにいった一言のお陰で俺は、春先の寒空に身をさらけ出して、馬鹿面で帰って来るのか来ないのかわからない幼なじみを待ち続けている。

「どう考えてもお世話系幼なじみキャラとしては失格だぞ……美菜」

 ぼそりと愚痴が漏れてしまうのはいつもの事だった。

「さて、どうすっかな」


~馬鹿面を曝し続けて30分が過ぎた~

 

 そろそろ限界が近づいていた。

(いくら人の良い俺でも春先に30分とは些か待ちすぎた。もう少し早めの捜索に着手すべきだった。いや、そもそも捜すという行為自体、無意味な気がするのは気のせいか?)

 4月の肌寒い外気は俺に諦めという気持ちを促進させる。

 となると当然、早く帰りたくなるのは当たり前。

(それにほら、遠く彼方で泳ぐ雲はいう)

『もう頑張ったよ君は……』そう微笑みかけてくれている。

 とても俺的に都合の良い……いや、とても俺的に優しい雲が広がっていた。

「え~っと、青年。アンニュイな雰囲気に浸ってるときに何なんだけどさぁ、話聞いてくれるかな?」

 肩をポンポンと叩かれて、びくっと怒り肩を押っ立てる俺。

「あのね、わたしたち、変な人じゃないから安心して」

 弁明するにしても、変な人じゃないって前置きはどうかと思うぞ。

「あ~っと……まんま冗談だから、気にしないで」

 呆気にとられながら振り向くと、そこには元気印爆発といった感じの長身な2年生と、大人しそうで秀才チックな面持ちの3年生女子が並んで立っていた。

「うっわぁ~青年、目付きワリィなぁ」のっけから余計なお世話である。

「ちょっと望、これからって時に喧嘩売らないで!」

 人畜無害って顔をして……かなり裏を感じる台詞回しを用意している上級生だ。

(つ―か入学早々俺って喧嘩売られてるのか?)

 いぶかしげな俺の視線に気付いた3年女子は、俺に一枚のチラシを差し出した。

「下校中にごめんなさいね、これ読んでもらえるかな?」

 急いでるし、受け取らないと言う選択もありだったが、眼鏡をかけたやさしそうな風貌は俺的に直球ストライクちょいハイ。しかも上級生がわざわざ見やすいよう、チラシを俺に向けて差し出してくれたその心配(こころくば)りも、俺の手を動かすに十分な配慮だった。

 が……。

「ミステリアス研究会……新入部員集まれぇ?」

(はぁ?)

 ろくでもない勧誘だった。親切心はどうやら仇になるのが通例らしい。しかもこのくそ寒くて忙しい時に。

「えっと、わるいが……」「みなまで言うな青年!」

 出鼻を見事に挫かれた俺。

「ミス研とはですね、主に小説などの媒体を使って推理したり仮説などを……」

 慌てて眼鏡っ子先輩が食い下がる。

「小説とか文芸はまったく興味無し、悪いな」俺も間髪入れずに言い返してやった。

(うわぁ……)が、世の中は俺が考えるほど甘くはなかった。

 俺が一言いう度に、ずんずんと暗い顔になってゆく眼鏡っ子3年生。

(マジで俺が苛めてるみたいになるじゃね―か)

 だからそそくさと退散を決め込む。

「じゃ……な」

 と、別れ話直後の彼氏って感じで、命の危険を感じつつキャッチセ―ルスから逃げようとする俺に。

「あまぁ~いっ! いま逃げたらアンタ人生損しまくりだよっ! アタシにはハッキリ見えるねぇ……アンタのメチャクチャ可哀想な人生。そしてこれから起こる例えようもないひ・げ・き・がっ!」

 街角の占い師にすらそこまで言われたことないし、それ以前に、俺がメチャクチャ可哀想になるのは『アタシが主体的にそうするからさ』と言っているとしか聞こえない指のバキバキ音。それは俺の耳が悪いからだろうか?

「まぁまぁ、若いんだからお姉さん達に任せてさぁ……」

「いや、急いでるんだ」

「かぁ~っ、かわいくないねぇ最近の青年は」

「なぁ、頼むよ。本気で急いでるんだ」

 掴んでいる裾を優しく振り解こうとするが、意外にがっちりと握られている。

 ほんでもって、

「何を急いでんのさ?」

 と人のプライバシ―にズカズカと乗り込みやがる上級生。その顔は『喰らい付いたら離れません!』って覚悟がバッチリと見て取れた。

(はぁ、それなら事情を説明した方が早いか)

 いまさらだが、説明した方が早く解放されるだろうと、俺はことの事情を説明した。


 …………。

 ……。


~更に20分が経過した~


 さぁ、帰るか。

 煉瓦調のインタ―ロッキングがまるで遊歩道のように続く校舎裏。

(いや『まるで』ってよりも、これってまんま遊歩道なんだが)

 認識を訂正したくなるほど、金のかかり方が半端じゃない校舎裏にちょっと驚き。

 そして俺の面倒見のよさにも驚いている。いや、顔はもちろん驚き顔じゃなくて呆れ顔なんだけどな。

 わざわざ正門から校舎裏まで散策に――いや、捜索に来たんだ。明日ヤツが迎えに来ても因縁をふっかけられることはないだろう。

(だけどなぁ……)

 振り返るとまだ探してる。以外と律儀な先輩達だった。

「さみだれみなさ~ん、どこですかぁ~」

「お―いっ! 柴田亮介のおさななじみぃ~、いたらでてこ~いっ」

 と、こんな感じで当の本人より一生懸命さがしてるが――だ、

(フルネ―ムでしかも呼び捨てにするなボケッ!)とは声に出して言えない。

 そんな訳で、気分転換に改めて周囲を眺める。驚かされるのはこの広い敷地だろうか。捜索を開始しても一向に進んだ気がしない。ようやく校舎裏へ来たというのに、すこぶる広大だった。

 ここらへんはちょっとした憩いの場が設けられており、ベンチや遊歩道、委託売店が外からでも買えるような作りになっている。

 厚生に気を遣うのは良いことだが、人間なんでも限度という言葉があるんだと、知って欲しい。そう心の底から思った。


~そんなこんなで、また10分が経過した~


 広大な学校の校舎裏を探したが、あまりにも入り組んだ建物のせいでさすがに迷いそうになる。

 ちょうど目の前3m弱にある建物の角。

(そこを覗いたら今日の捜索は打ち切りにしよう。すまない……美菜)

 断腸の思いで美菜に合掌。

(寒いんだよ、春先ってさ)

 我ながらしょぼい理由に脱帽しつつ、改めて周りを覗う。相変わらず先輩達は微妙さ加減を爆発的に発揮してる。なにをさがしてんだか疑問に感じるポイントをこれでもかってくらいほじくり返しまくる。

 そんな彼女らに、

「俺はこの角を確認する、今日はご苦労さん!」

 遠くにいる2人へ合図をする――と、小走りでやって来る先輩2人。

「打ち切り……なんて辛い響きなんでしょう」とは宮住先輩。

 そして、かなり激しい物理的衝撃。

「ま……しょうがないか。意外と帰ってるかもよっ!」

 どう考えても『よっ!』って表情と俺の頭に衝撃を加えた握り拳がマッチしない。痛みにうずくまりつつも怨みがましい目を向けたら、向こうの方がつり目になっていた。

「アンタとアタシ、わるいんだけど同学年じゃないんだから、言葉遣いくらい使い方を憶えときなさいっ!」

 脳天直下に落ちた拳は言葉では言い表せないほど良い力加減だった。


「まっ、役にたったかは判らんけどさぁ、明日はきっかりウチの部室に来なよ」

 確かに役にはたたなかった。だが先程の殴打で学習したので声には出さない。

「うわぁ……嫌な顔つきでこっち見てるよぉ~千恵ぇ」

 誰かに似てるキャラクタ―だと思いつつも、なるべく俺はサラッと受け答えした。

「わかった。約束は守る……が、なに部だった? それに行くだけだからな」

「さっきも説明したけど、アンタと美菜ちゃん? ちゃんと2人で来てウチらにゲットされな……いいなっ!」

(メチャクチャ打算だらけじゃないか……)

 ニコニコとした表情で、そよいでくる風に髪を揺らしている近衛と言う先輩がやけに悪魔っぽく見える。

「ほ……ほらっ、柴田君。早くあっちも捜さないと、幼なじみの子が寂しくて泣いちゃうかもしれないわよ」

 促されたままに、そそくさと捜索打ち切りポイントまで小走りで進む。

 植樹林も数が少なくなり、枝振りも過疎になったせいで日差しが強く感じられるようになってきた。少しだけ暖かい空気が俺の身体をホッとさせる。

 もう少しだけ捜索の手を伸ばそうとも考えたが、俺には判る。どうせその角を曲がったところで美菜を発見できる訳がない。

 あるのは代わり映えのない裏路地だけ。見るまでもなく、俺はそんなイメ―ジを抱きながら曲がり角を進んだ。

 後ろで帰ろうとしている2人には悪いが、このパタ―ンだと先に帰ってる美菜が平然と「遅かったねぇ」とか言ってのけるのがオチだと見たぞ。

「それじゃ、またあしたね柴田君」「放課後おくれんなよぉ~」

 少しだけ騒がしかった2人が消え、辺りは下校時間らしい閑寂が残った。

「さてと……捜すか」

 残りの捜索地域へと首を向けると、そこは案の定、手入れが事切れて鬱蒼となっている校舎裏。さきほどの綺麗な散策路とは打って変わって、そこはすでに芝生の整然とした美しさなどはなく、なんの草だか判らない生命達がひきしめ合っている土地だった。

 生命の息吹を満面に感じることができる反面、人の手の介入は拒否された一画だということが容易に想像できる。

(うわぁっ……さすがにこんな所は入ってかないよ――な?)

 目の前にひろがっているのはうす暗く、雑然さを感じさせる光景。足を踏み入れなくても想像に足る湿気、そして殺伐とした雰囲気。

 そのどれもが人の進入を拒否していると感じるその中に、一つだけ俺の目をひいた木。

 それを俺は大きいと形容したかった――が、言葉が違うような気がする。

 では……なんだろう。この光景を伝えることの出来る形容の言葉は。

 俺の画角に収まりきれないほどの大樹は多分……桜だと思う。その秀逸なまでの外見は今まで見たどの木よりも壮大で、まだ肌寒い季節に贅沢なほど大輪を咲かせていた。

 鮮やかな薄紫と淡い桜色のグラデ―ションが近寄りがたいほどに厳かな雰囲気を醸し、そよぐ風は自らの流れに色を染めるかのように、そっと桜の花を己の中に招きいれた。

「きれい……だ」

 無意識に俺の口から漏れた賛美の言葉。

 俺は生まれて初めて、自然に心を奪われていることを知った。

 桜はそんな俺の賛美に恥じらう乙女のような仕草で、さらなる芸術を見せてくれる。

 日差しが雲の切れ間から顔をのぞかせ、黄金色の神々しいまでの輝きが斜光となって降り注いだかとおもうと、照らし出された桜の大樹は薄いオ―ラ―を身にまとう。

 初めて目にした桜がまとう光彩あざやかな光景は観る者の言葉を奪い、ただただ双眸を見張ることしか許さない。

 風は緩やかな薫風となり小枝をゆさゆさと揺らして手招きをする。俺はそれに答えるかのようにゆっくりと足を踏み込んだ。

 吸い込まれるように一歩、また一歩と俺は桜に呼ばれてゆく。

 いつしか桜の周りは殺伐とした雑草から、先の揃えられた芝生に変わっていた。湿気もない、あるのは青々とした清涼な香りと安らぎを感じる明るい光。

 近づくほどに見上げる角度は急になり、幹は驚くほどに太いことが見て取れたその時、ジジッ――と頭の芯を焦がすような音とともに、なにか薄い皮膜のような、微かにあった抵抗感を俺の身体が突き破った。

 驚いて周りを見回してもなにもない。さわれる物があるのかと、新鮮な空気で満たされている空間に掌を泳がすが、あるのは人の触感は及びもしない透徹の層。

 数歩の歩みを経たのちに俺は立ち止まった。マジマジと手を見つめるが、その答えは俺の手の内にはない。

 振り返っても先程の答えは用意されていなかった。

 もちろん周りにもなにもない。

 あるのは……突然とおとずれた風。

 風はひときわ輝いて見える一枚の花びらを枝からひと掬いする。

 ふわり、ふわりと緩やかに落ちては浮かび、数度の揺らぎを経た後に、俺のもとへと舞い降りてきた。

 ジッと目を凝らし、手のひらに掬おうと、そっと……慎重に腕をのばしたその時。

「主は……だれじゃ」

 花びらが今まさに掌へ舞降りようとしたその時、凛と響きわたる涼やかな音色が耳に届いた。その突然たる声に肝を冷やした俺は、背中に棒っきれを突っ込まれた子供のようにビクッと固まってしまった。

 もちろん掬おうとした花びらは俺がフリ―ズしている僅かな隙間をぬって、どこかへと逃避行。

 若い女性の声。だけどそれは春先に流れる小川の清流を感じさせる程に冷ややかで、女性にしてはやや低いト―ンが意志の強さを暗示させる。

「いやっ……なんだその、これは……」

 何となく咎められた気がして、キョドりながらも必死で言い訳を考える――が、なにも思いつかないその訳は、べつに悪いことをしていないからに他ならない。

 だけどそれに気がつけるほど、今の俺に心のゆとりなんてご大層なものはなかった。

 それどころか悪戯でも見つかった子供みたいに、バツ悪そうな風体を全身でかもしだしつつ振りかえっている。

「近づいたらまずかったのか?」

 震える声はうまく誤魔化したが、目は泳いでしまった。

 声の質からして教師だと思ったその女性は、おなじ制服を着て一年がつける桜色の学年章代わりのリボンを結んだ、まったくもってなんの変哲もない同級生だった。

(脅かすなよ……まったく)

 安堵の溜息が思わず口をでた。そして同級生だと判明した途端、少しばかり心の余裕がでてきたので彼女をよく観察してみた。

 俺の眼前で腕をくんでいる同級生。長く艶やかな髪は腰をこえるほどに長く、この桜をすこし色濃く染めた美しい紫で彩られている。もちろん派手さなどは微塵もなく、逆に高貴な風情を感じさせるってところが好印象をもてた。

 顔の造形を一言でいい表す努力をすれば――それは氷雪の女神像だろうか。美しい造形美を引き立てるために添えられた芸術は、まるで触れることのできない凍てついた心を映す面差しに見える。

 俺を射るように見つめている視線は、桜に近づいたことを窘める意味をおおいに含んだ冷たすぎるアイライン。きつめの印象がバッチリ……というか目付きが悪いんじゃないかアンタ。

「アンタ、俺と同じ一年だろ?」

 見とれていることに気がつき、我に返ってやっといえた一言。鼻の頭をカリカリとバツ悪そうに掻いている俺って図がかなりイタイ。

「あぁ、環境係か緑化委員かなんかに選ばれたのか?」

 それ以外、同学年に窘められる意味が浮かんでこない。となると、有無を言わさない雰囲気も相まって職業意識を振りかざしてるってところだろう。

(まぁ、これだけ立派な桜だ。誰かが守らにゃ綺麗に咲くことも出来んだろうな)

 管理が凄くうるさいんだろうという事で自分を無理矢理納得させる。

(いや、それだったらせめて柵でも紐でも使って囲っておいてくれ。更にいうと『さわるな危険』くらいの機転を利かせてくれたら俺的にけっこうポイント高いんだが……ちょい待て、それよりも管理側の怠慢を棚にあげて注意をうけるというのも冷静に考えれば納得のいかない話だ)

 俺は今更だが少し反発したような顔で声の主を見た。が――それより早く彼女は言う。

「主はどこの手の者じゃ。儂も不完全な身とはいえ、易々と消滅される結界をはった覚えはないのじゃがな……存外に腕達者が遣わされてきたようじゃ」

 言っていることの単語と意味、その殆どが不明な繋がりだった。そもそも結界とか易々とか、ましてはそれを越えてきた芸達者ってなんだ?

「いや、悪いがアンタの大それた想像はこれっぽっちも当たってない。俺はただ人をさがしてここに来ただけだ」

(俺の目的は美菜をさがしていただけなんだが、どうもこの雰囲気って、かなり嫌な予感がする)

「そうか、逸らして語らぬもまた選択か。さすがは結界を越えてくるだけの事はあるという訳じゃな」

(いや……そもそも「じゃな!」じゃねぇし)

「主は……なにを望むのじゃ」

 呆れてバカらしくなっていた俺の気を丸飲みするほどに鋭い眼光がぶつかっていた。その光の意味するものは怒気――いや敵意なのだろうか。

 そして俺は、コイツの敵なんだろうかと、一瞬心の隅で考える。

 ただの同級生だったはずなのに。

「主はこの朧桜になにを望み……なにを奉ずるのじゃ?」

 気勢だけで俺を飲み込もうとしている。

 冷水よりも冷たい空気が俺の背中を一舐めすると――クッ! 数メ―トル離れていた名も知らない同級生が、まばたきの間を縫って俺へと詰め寄っていた。

 流れる薄紫の髪と服。

 腕は残像となるほど鋭く、辛うじて俺の頭部へ伸ばされていると判断できたが、狙いが外れたのか衝撃は来なかった。

「――クッ!!」

 頭皮が熱くなる。瞬間、引っ張られていることが容易に想像できた。いや、引っ張られているのではなく、固定されている!? なぜ?。

「お……おい、なにを……ぐぐっ」答えは身近なところにあった。

「己が知ることを謳うか、はたまたこのまま事切れるのか……それは主の裁量じゃ」

 右手に握られた扇子は綴じられたまま、先端が俺の喉元を狙っている。

「待て……よ、なんの事だ」

 掴まれた頭はビクともしない。いや、それどころかコイツの目に射竦められた瞬間、俺は悟った。

(コイツは……本気だ)

 映画に出てくるヒーローのように余裕を見せるシーンなのだろうが、そんな悠長な時間はないと俺は悟った。

「ほう……シラを切るか」もう一段、冷ややかな目付きへと変化する。

「そ、そうじゃない」

 側頭部の髪を鷲づかみにされた痛みが、さらに強い感覚となって俺を襲う。

「すまぬな、寄り代と同化して日が浅いゆえなぁ、力の加減が侭ならぬのじゃ」

 静かに、でも力強く込められる握力に皮膚はあがなう事もできず、頭皮が一点にむけて強引に捻られる。とてもこの年齢の女性が出せる力じゃないことはこの俺にだって瞬時に理解できた。

 耳から聞こえるのか、それとも頭骨へ伝導する軋みが音として認識されているのか、悲鳴にも似た音が俺に届く。

「いづづづづづづっ!!」

 視線が狙いをすまし、俺の喉へ向けられるのだろう扇子が数ミリほど後退した。

「許せ、儂はこの場で生き続けなければならぬ由があるのじゃ。主達に遅れをとる訳にはいかんのでな」

(来るっ!)

 次の瞬間、俺の命は無いと悟った。突然と与えられた状況は、俺に覚悟もなにも持たせてくれない。

(まだ友達100人も作ってないんだよ)

 冗談と言われようが、高校生活を満喫するために俺が夢見るささやかな願いだった。

 いくら大志を抱いても、この扇子が俺の喉へ沈められたら、確実に助からないだろう。(いや、刺さってんのに生きてるって俺もイヤだけど、さすがにこれはあんまりだ)

 殺される理由などなにも判らず、ただの偶然が死を運ぶ。別に今の世の中、珍しいことじゃないのは判ってる。

(でも……こんなところで訳の分からない死に方なんて、絶対に認められない!)

 恐怖に支配される腕に神経を集中させると、こわばった腕がピクッと反応した。

 それを皮切りに、徐々に俺の意に答える腕。

(う……ぁ!? お、俺、まずった……)

 それは久しく感じたことの無かった破壊衝動。幼い頃に封じた筈の、芯から火照る脈動と歓喜が俺の中に渦巻く。

 秘めた力、放たれざる禍々しい記憶と共に封ぜられた血が、俺の足、腹、胸へと上り詰め、心を徐々に支配しようとしている。

「なぁ、もう止めないか? 俺も……止めが効かなくなっちまうんだ」

 恐怖、それは誰に対する恐怖なのだろう?

 目の前にいるこの女に対してなのだろうか? それとも……自分?

(俺は俺に恐怖を感じている。だけど……)

 女の細い二の腕を、俺は逃げられないように手のひらの奥深くへ握る。俺の筋繊維は自らを脈立たせ、人としては到底出しえない力を振り絞りだすが、気を抜けば脈動に飲み込まれたまま、この女の腕をトマトか何かのように握りつぶしてしまいそうになる。

「んっ……」

 今まで一方的に押さえつけられていた女の腕が、小刻みな震えをともなってくる。先程まで無の表情で己を飾っていた女に、微かな変化をもたらした。

「わるいなぁ、俺も人殺しができるくらいに……力自慢が得意なんだ」

 俺の瞳を串刺しにしていた冷酷な双眸が、微妙な驚きのかたちへと変化する。

 ゆっくりと、力の均衡が崩れてゆく。側頭部を鷲づかみにしていた腕は今、俺の支配下にあった。

 自分の腕なのにどこか自分のモノではない感覚。自分の身体なのにどんどん意識が遠のいて行く感覚。そんな不確かなモノが物心ついた頃から存在した。

「っと……」

 少しでも気を緩めると、もう片方の腕が女の白い首筋に手を掛けようと動き出す。だから俺は神経を集中して何とか動きを押さえ込まなければならない。

「主達は……何故、くっ! 儂に仇なすことを止めぬのじゃ」

「な……なんなんだよ、その仇とか……って。い、いいか、俺はな、ただ満開の桜を近くで見たかっただけなんだっ!」

 抑えがたい衝動と共に、力が湯水の如くみなぎる。心の奥底から破壊の衝動と共に。

「んぐっ!」

 唇の端をギュッとかみしめる。それでもはっきりしない俺の意識。

 殺したい……と言うよりも、爪を、指を、この白い肌に食い込ませたい。そう言う……破壊的な衝動がグングンと胸に沸き上がる。

 そして俺はずっと昔にもこれと似た体験をした記憶がある事をうっすらと思い出した。

「う……んっ!!」

 苦悶を示す女の声が耳に突き刺ささり、俺はあわてて腕の力を抜こうとする。しかし意志とは逆に力がどんどん込められてゆく。筋繊維が膨らめば膨らむほど……俺はある種の快楽へ溺れてゆく。

 抜けかけた意識を取り戻すため、噛み締めた唇を……噛み潰した。鉄臭い酸味が口の中に広がると、意識がはっきりとしてくる。

 女は俺の力が弱まって安堵したのか、一瞬の間隙が訪れた。痛みが意識を保たせてくれる合間に、俺は力を加減しながら女の腕を捻った。

 肘が逆を向くと鈎状に関節が極まる。そうすると固められた痛みのため、正中線のバランスは自ずと崩れだす。

「フッ!」

 後ろ手に回した肘を逆関節で極めて、正中線を崩しつつ足を払って背中から叩き落とす筈だったが、自分的百戦錬磨の俺とは思えない事態に陥ってしまった。

 確かに女は俺の術中にはまっていた。見事と思えるほどに腕は極まり、背中を取ると同時に腕を極め、極め腕とは反対の肩が持ち上がり、正中線は見事に崩れていた。

 後は足を払うばかりだった。

 だが……。

 女は次の瞬間沈みきった。

 しゃがみ、けっして重くは見えない全体重を、極めてある手首に集中させてた。俺は慌てて体勢が崩されないよう……半歩近づいてしまった。

 そしてそれが俺の敗因だった。

 鈍い音は顔面から、もちろんこの世のモノとは思えない痛みも顔面からって、ゴメンもう実況してらんない……。

 頭突きを喰らい、反射的に顔面を抑えた俺を待ちかまえたモノは、更なる衝撃だった。

 俺が鼻っ柱の激痛で昏倒するのをどうにか耐えていると、地面すれすれで片足をコマのように半回転させ弧を描く。

 回転するその先端は辛うじて認めることのできた踵。学園指定の小柄なスカ―トがまるで花のように優雅な広がりを見せていたが、それは素早い動きを更に素早く見せる小道具にもなっていた。

「クッ」鼻を押さえながら見入ってしまった。

 恥ずかしいことに避ける暇も無いまま、両足を綺麗に払われた。

「儂の見込み違いか。膂力の他は存外に他愛ないのう?」

 痛苦しいほどに鈍い音、そして憎らしいセリフ。立場は逆転し、なぜか背中を強打したのは俺の方だった。痛みでもうろうとしている間にのど仏を押さえられては、もう俺に為す術は残っていない。

「最後に問う、主はなぜに儂に仇をなすのじゃ」

 倒れ込んでいる俺の胸に片膝を乗せる女。モノの見事に大接近だったがこの場合、甘い意味ではない。

 だが今度は……距離も近くてゆっくりと女の顔を見ることが出来た。

 もう、女かの瞳から険しい色は見て取れない。多分、先程よりも優位な体勢になったからだ。

 相変わらず冷たい、無を表す表情だったが……先ほどよりはいいだろう。

(しかしまぁ、こんな事態にもかかわらず呆れるほど綺麗だな)

 残念だが、これは男として仕方ない誘惑だ。例え場違いと言われても。それでも、見とれたまま殺されるわけにも行かない。俺はありのままの理由を答えた。

「でっかくてきれいだったんだよ……。満開の桜が」

 もう観念して、寝っ転がりながら息を整えて俺は正直に話した――って言うか、ココに近づいたのはもともと、それ以外の目的はない。

 眼瞼が細められ、さきほどよりも慎重な面持ちで俺を覗う。

(答えになってなかったか?)

「主は……桜を観賞していただけと申すか?」

 少しだけまぶたの持ち上がったその顔は、相変わらずきれいで冷ややかな印象が勝っていたが、幾分……お茶目に感じた。

 そして女は唐突に俺の手を握り、勢いよく引っ張った。地面の冷たさに、心地のよさを憶えていた俺は、いまだダメージの残る身体を労りながら立ち上がる。

 俺の疑問をよそに何かを得心した顔で、しかも溜息まじりに一言。

「主には、アレが満開に見えるのか?」

 そして俺は満開に咲き狂う桜に視線を向けた直後、今日で2度目の驚嘆を憶えた。

「――な……ぜ!?」

(桜が、咲いて……ない)

 鮮烈な印象を俺に植えつけた桜。

 一目で魅了されたそれは、一瞬の合間に消えさっていた。今、頭上にあるのは空っ風がお似合いの枝、エダ、えだ……。

 そしてそれを無意味にスポットアップしている日差しだけだった。

「い、いや、ちょっと待て。た――確かに咲いていたんだ!」

 俺は訴えかけるように女性を見た。いや、もはや必死だった。

「満開で、薄紫で……とっても――綺麗だったんだ。初めて見たんだよ俺。あんな綺麗に咲く桜は……初めてだったんだ」

 ――と付け加え正当性を強調したが、この言葉はすでに『死に体』となっている。

 呆気にとられながらも俺は頭上を見上げた。

 やはり、何度見ても花どころかつぼみも開いてない。

「枝――だけだな」こりゃダメだ――と観念したかのように俺。

「そうじゃ、今ここにあるのは、つぼみすら育つことの叶わぬ幹と枝だけじゃ」

 気怠そうに言い放ち、まるで俺なんかは眼中にないかのように幹へ手をあてがう。

 先程までの気勢はすでになく、俺に背中を向けている後ろ姿は張りつめた雰囲気ではなかった。

「綺麗じゃったろ、満開の桜は」

 振り返りざま、若紫の長い髪が優しい柔らかさを携えて宙を舞い、薄黒の瞳はまっすぐに俺を見つめる。

 一瞬、何を言われているのかが判らなくて俺は問い返した。

「え――何がだ?」

「ふぅっ……観たのじゃろ、満開の桜を」溜息混じりで語り掛ける。

「アンタ、俺の言葉を信じるのか?」

 その問いに答えは返ってこなかった。いや、もしかしたら答えの代わりなのか、鋭い印象をあたえる瞳はどこか儚げともとれる影が漂う。

 目の前にいる女は微かだがいくぶん肌寒くもある風の流れにそよいだ自分の髪を、ソッと手で押し当てた。艶のある紫の髪が風に乗って靡くさまはまるで、先程の桜を彷彿させる程に艶やかだった。

「朧桜……もう幾久しく花を咲かせていない」

 質した言に添う答えではなかったが、それは含まれているらしかった。

「おぼろ?」だから俺は反芻するにとどめ、話の腰をおらなかった。

「そうじゃ、主が観たのはこの桜の名残じゃろ」

「名残って、それじゃこの桜は綺麗だった頃のまぼろしを見せたってことか?」

(しかもわざわざ見ず知らずの俺に)

 とは口に出さないけど、ここを一番強調したい所だった。

 が、しかし……。

「儂には判らぬが多分……この桜は主のことを気に入ったのじゃろ」

 得心顔で語り続ける。

「じゃがな、これで主が結界をやすやすと抜けた事柄にも合点はゆく」

 ――それにしてもじゃ、と言葉を続ける女。

「早く謳っておれば良いものを……主のおかげで互いに益なしじゃの」

 桜の大樹を仰ぎ見ながら、こぼれた声は少しふてっていた。そう言うと、女は俺に身体ごと正対した。出会って言葉を交わして、なんだか知らんが殺されかけて、そして今。

「儂の名は――白鷺 舞じゃ」静けさを含む声色が自らの名を現す。

「俺は……柴田亮介、この自己紹介はもう安心していいって合図なんだよな?」

 彼女――いや、白鷺 舞からその答えは返ってこなかったが、そのかわり一度だけ俺の名を小さな唇で口ずさんだ。

「亮介……か、よい名じゃな」そういって――白鷺はホンの少しだけ表情を変化させた。

「あ……あぁ、そうか?」

 その台詞を聞いてなのだろうか、白鷺は一瞬だけ微笑んだ。表情に変化は殆ど見られなかったが、確かに俺にはそう感じられた。

 ふわっ……とした流れ。今までひっそりと物静かだったこの空間に流れが生じた。

 微風が俺達と桜を包み込み、活力のない枝先がカサカサと、自我が存在するかのように音を立てながら揺れ動く。

 やはり満開の姿などに見間違うはずもなく、命の息吹多い春の季節にそぐわないほどに空寒い印象を醸し出していた。

「腕、だいじょうぶか?」

「儂は心配いらぬ……が、それより主は緋の血族か?」

 緋の……血族?

「って……なんだ?」

 一拍、考え込むように白鷺は間をおいた。

「そうか……知らぬなら良いのじゃ、たぶん主の血筋に居たのであろうな、緋の血族が」

「だからそれはなんなんだよ? もしかして、さっきの事と関係があるんじゃないのか」

 鋭い目付きは俺の瞳を穿つように覗く。

「そうじゃ、主の膂力(りょりょく)。アレは人の物ではないのう……十分呑み込まれぬ様、注意するのじゃぞ」

 誤解とはいえ、女に手をあげてしまったという事実は少なからず俺的に心が痛いうえ、人ならざるものの力って言われて簡単に『ハイそうですか』とは素直になれる訳がない。

「なんだよ……そのオカルトっぽい設定」

 そして食い下がる俺を見つめると、小さなため息を一つ。

「知らない方が良いというのも無体かの?」

 若干けだるそうな表情と仕草で、白鷺は朧桜の元まで歩みより、優雅な仕草で芝生の上に着座する。そこはまるで白鷺の定位置であるかのごとく、違和感なく風景にとけ込んでいた。

「緋の色に染まりし瞳を持つ大柄な民、主たちの言葉では……鬼とも鬼神ともいうのだったのう?」

「鬼って……あの昔話に出てくるあの鬼か?」

「是とも非とも言い難いのう」小さなため息。

「鬼ではなく人じゃ、ひっそりと高野の裏に住んでいたらしいがの? その膂力は時の権力者に持て囃されたのじゃよ。男は戦にかり出され、おなごは娶られていったわ」

 短い昔話を終わらせるため、白鷺はひんやりとした芝生から立ち上がった。

「緋の一族……いや、緋の民は潰えたのじゃ。だが戦場での活躍は緋の一族に要らぬ逸話を残したがの」

 それが俺達の知ってる鬼の伝説なのだろう。

 が、それでも違和感が残る。

「な、なぁ、俺、その、気が付けば止めが利かなくなっちまうんだ。その、さっきもそうだったんだ。力がみなぎって来る代わりに、心に衝動が……血を見たいって、肉をつぶしたいって衝動が……器に満たされて、それがもう零れてるのにそれでもドンドン溢れるって言うか――」

(何を俺は言ってるんだ? ついさっきは殺されかけたのに、今度は馬鹿面下げて悩み相談してるよ)

 些か自重気味に俺は心の中で自分を笑った。

 だが、俺の心を知ってか知らずしてか、白鷺の冷静な表情は俺を穿つ。

「主がただの人間にとって危険な存在であることは確かじゃ、血族の守護――と言いたいところじゃが、主にとっては呪いのたぐいになるのじゃろうの」

「守護? 呪い?」両極端な言葉が意味を理解させない。

「遠回しな表現はやめてくれ……って、おい……白鷺?」

 宙に泳がせる顔、目線は細く……何かを睨んでいると言った方が良いだろうか?

「おい――白鷺」

「すまなんだなぁ、儂の他にも起き始めているモノが居るらしい。風が腐臭を運んで来よるわ」

「起きる? ってなにがだ」

 俺達を中心にして舞い続ける風。

 それはまるで、これから起こる異質な出来事を俺に教えるかのようだった。

「おい――!? 白鷺?」

 スラッとした背筋の良い姿勢。

 その肩越しに彼女は俺を覗く。

「な……なんだよ……これ!?」

 舞っている風から聞こえる声。無数の声。

 それは甲高い笑い声。うめくように絞り出された笑い声。

 全て、女の……いや、もっと若い少女の声だった。それが俺の周りに集まってくる。

 俺の……おれの耳元で笑い続ける。

「う、うわぁ……な、なんだよ、これ?」

「怨み魂じゃ、主が結界を壊した故、入ってきたのじゃろ」

「だ、だから、なんなんだよ……それ?」

「主たち人の心が残したかけらじゃよ」

 おもむろに懐から扇子を取り出した白鷺は、弾くようにそれを開いた。すると、

「残りし御魂のかけら……風吹きて散り(まが)ふ桜に載り(の)て、身すがらを()み給まう」

 言葉と共に揺れあおぐ扇子。その先から溢れ、仰ぎの風に舞い踊る桜の花びら。

 天高く舞い上がり、渦を巻く花びらをただただ見上げていた。光の加減で鮮やかな桜色がときおり紫煙の色へと変化する。

 恐れていた心は、まるでその情景に洗い流されたように軽くなる。未知のモノに対する張り詰めた心は今、桜の花のように温かな色に満たされた。

 俺はその時ふと思った。

(怨みを抱いて成仏できないなんて……可哀想にな)

「痛いよ! 怖いんだよ! 可哀想と思うなら……お前の身体を私にちょうだい!!」

「えっ!?」

 目の前にハッキリと見えたモノ……。真っ赤な血に染まった手、それが俺の顔を挟んでいた。腕の先を恐る恐る視線で追ってゆくと……肩……いや、胸から下は引きちぎられたようでそれ以下が無い。

 ボロボロの布がぶら下がっている。

 そして……。

「お前の腕をちょうだい……」

「目を……鼻を返して……」

 俺の周りに集まった……人の山、それは人にしては……生きる為に必要な部分が掛けた元人間たち。それが半透明な姿で大勢現れていた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 映画よりも鮮烈で、小説よりもハッキリとした現実感。

 悲鳴という声も既に出なくなりかけ、俺は本当にすうっと……意識を失った。



 目を覚ましたのは薄暗い自分の部屋。

 身体はいつもの重さではなかった。何というのか……全身を何かでくるんだような、そんなまとわりつく重量感を感じる目覚めだった。

 精神的・肉体的に重くのしかかる。疲労だろうか。

 満身創痍の感が強い。だがしかし、薄暗いが部屋という現実の中に存在しているのが少しだけ精神的負担を和らげてくれる。

「夢……か」

 重い瞼をこすろうと右手を顔に持ってゆく時、不意に違和感が走り、ついで鈍痛と言うにはやや痛覚の勝った痛みが脳髄を駆け上った。

「ぐぅっ!?」

 背中がびくんと弓なりになったかと思うと、額にはじんわりと汗が湧き出してくる。

 鼻の頭にも同様に脂汗が滲んでくる。なぜ? そう言う疑問が声帯を通るよりも早く、答えが鼓膜に訪れた。

「まだ傷は癒えておらんのじゃ、動かすことまかりならん」

 脳裏に記憶する聞き知った声。夢の続きかとも想ったが、俺の横たわるベッドのすぐ近くからその声は聞こえる。

 そして声だけではなく感覚もこれが夢ではないことを俺に告げる。少しヒンヤリとした手が、痛みで持ち上げることを中断した手に添えられた。

「疼くであろうの、すまなんだな……」

 少しク―ルで無愛想にも聞こえるそれは、紛れもない白鷺の声。

 ゆっくりと俺の腕を掛け布団の中へ戻してくれる。

「なぁ、俺……」

 記憶を整理する為に、白鷺へ記憶の断片を投げかけようとした俺の言葉。それを白鷺は首を横に振ることで遮った。

「儂も回生して間もないゆえなぁ、助力するのが遅れてしまったのじゃ。なに、目立つ外傷は無いゆえ心配致すな」

 そうして俺のおでこに、彼女の手の平が宛がわれる。

「熱は出ておらぬようじゃが、宵の頃には疼きも増してこよう。丸薬をおいておくゆえ様子を見ながら摂るがよい」

 そして今度は熱を測るのとは違った意味で俺のおでこに手を宛がう白鷺。

「恐ろしかったじゃろ……」

 ゆっくりと前髪をかき分ける手が、なんとなく頭を撫でているように感じられて、少しだけ気恥ずかしかった。

「いや……なんだ」

 顔が真っ赤になってゆく。だから俺はそれを悟られないようにするために、少し子供っぽかったが顔をぷいっと背けた。

「無事で良かったよ。なんだかよく訳のわからんうちに助けられちまったけどな」

 俺の言葉を吟味しているのだろうか、時間もわからない薄暗い俺の部屋で沈黙だけが木霊する。そして……。

「理もわからぬ、出自もわからぬ。そんな儂になにも主は問わぬのじゃな」

 俺自身……何でと聞かれてもわからなかった。ただ不思議な事が多すぎた今日一日。

 それを考えると白鷺の存在なんて不思議な事の一つくらいにしか感じてなくて、いつの間にか納得してしまったのかも知れない。

「わかるかよ……そんなこと」もう、俺ですら答えのない行動。

 強いていえば、あの桜が導いた――縁と言うのだろうか? そんな縁があるのなら、少しだけ白鷺を信じてみるのも面白いかと……思っただけだ。

 それに俺は白鷺に全てを見せた。あれだけの目にあったってのに、コイツだって俺のことを助けた。

「お前だって……俺を助けたじゃないか」

「己の力も抑止できぬアホゥだから……じゃ」

「アホって余計だ――痛っ、くぅぅ、すまん、痛むなやっぱり……って、おいっ?」

 痛む体に無理を言い、体をひねって白鷺の姿を探す。

「白鷺?」

 先程まで確かにいた薄紫の髪を持つ少女。

 その冷ややかで美しい容姿は、霞のように姿形もなくなっていた。

 ただ一つ、俺の腕は彼女がいたことを証明するかのように少しだけ……ヒンヤリとしていた。


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