13・週末の朝は昼まで寝るものだ
静かな教室に、紙の上を滑る鉛筆の音だけが響いている。外は夕焼け、窓から入るその光で、教室の床は濃いオレンジ色だ。
無機物のモデルを前に、弟はそれをろくに見もせずにスケッチブックへと向かっている。しかし描かれるデッサンは、写真のような正確さで、そのモデルの姿を写し出していた。
「上手いものだな」
「勝手に入って来てんじゃねぇよ、部外者」
「仕事のついでに迎えに来たんだがな、酷い言われようだ」
教室の入り口に背を向けて作業に集中していた弟だったが、急に聞こえた声に驚きはしなかった。手を休めず、振り向かないまま会話を続ける。
「で、今から仕事か?」
「あぁ。残念だが…」
「オレはお留守番ってか?」
「物分りの良い弟を持って、俺は幸せだな」
手を止めた弟が、不機嫌そうな顔で振り向く。腕を組んでデッサン画を見ていた兄も、それに合わせて弟と視線を合わせた。
「…そろそろ休業の時期じゃねぇのか」
「これが今年最後の仕事だ。どうした、心配か?」
「違ぇよ」
スケッチブックをたたみ、少し手荒に身の回りを片付けながら言う弟に、兄は小さく笑った。
「で、わざわざ来たって事は何かあんだろ?」
「あぁ、伝言だ。俺が居ない間に客が来る」
「客?」
物を押し込んだバッグを肩に掛けて兄と並び、怪訝そうに眉を寄せる。弟が隣に立ったのを確認した兄は、ゆっくりと歩き始めた。
「古馴染みの男だ、お前はまだ会った事がないな。仕事のついでに寄ると連絡があった」
「へぇ、どんなやつだ?」
「黒人、名前は…まぁ詳しくは移動中に教えてやる。だが…先に教えておかなければならない情報がひとつあるな…」
「?なんだよ」
不思議そうに少し首を傾げる弟に、兄は少し言い淀んでから口を開いた。
「ゲイだ」
「…は?」
「生粋というわけではないが、奴は女嫌いの男好きでな。お前の事は言っておくが、一応気を付け」
「パス、オレ誰かん家泊まりにいくぜ」
言葉を遮り弟はすかさずそう答えるも、兄はそれをたしなめるように言葉を続ける。
「まぁそう言うな。荷物を持ってくる、それを受け取るだけで良い」
「…見返りは?」
「……春になったらワシントンに花見に連れていってやる」
「よし、乗った」
互いに出した手の平をパチンと打ち合わせ、2人の交渉は成立した。
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「…誰だよ…うるせぇな…」
休日、惰眠を貪っていた弟はドアを叩くけたたましい音で目を覚ました。インターホンもついていると言うのに、それが鳴らされる様子はない。
弟はベッドから起きると、床に脱ぎ散らかした服を拾い、袖を通す。いつもの私服よりは幾分かマシな格好だ。部屋から出てまず、エントランスにいるだろう家族に声を掛ける。
「ダンテ、一応上に…」
行っていろ、と続けるよりも早く、螺旋階段を上った先の床に大人しく伏せる彼と目が合う。
「…Good」
賢い愛犬に和むも、玄関のドアを叩く音は止まない。治安が良いとは言い難い場所に建つ家だ、兄や弟の仕事柄、物騒な客が来る時もある。弟は少し警戒しながらドアのロックを外し、Hello?と言いながら開けるつもりだった。
「Long time no see!!」
しかし、それは訪問者によって勢い良く開かれたドアと、久しぶりだな!の大声と抱擁によって遮られる。逞しい胸板に顔を押し付けられた弟は一瞬何が起こったのか、と動きを止めるが、すぐに現状を理解して腕を突っ張った。
「ちょっ、誰だアンタ!?」
そう声を上げるや否や、訪問者は抱擁をとくと弟の肩を掴み、マジマジとその顔を覗き込んできた。
「………」
そこで初めて、弟は訪問者の顔を見た。黒い肌、大きなサングラス、ドレットヘアは後ろでまとめられているようで、少し長い。
サングラス越しに弟の顔をじっと見つめてしばらく沈黙していた男が、ようやくその重たい口を開いた。
「………だ、誰だお前……?!」
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