1話:ひじり無
ようやくこのクラスが慣れ始めた5月始め。
僕のクラスでは席替えが行われた。
結果、僕は窓際から2列目の一番後ろの席という幸運くじを引いた。
そして隣は大人しい瀬々羅木聖になった。
瀬々羅木は一言で表すと"清楚"であり、長い黒髪は今の時期は後ろでポニーテールで束ねている。
制服も着崩す事はせず、校則に沿って着用していた。
1年の時に彼女と同じクラスだった男子の話によると、運動神経も抜群で成績も優秀であるらしい。
そのため先生からも気に入れられているという。
「それでは、お昼休憩です」
クラス担任の石本詩織がそう言った。
その言葉で昼休みが始まった。
僕はかなり空腹だったので、急いで鞄からお弁当を取り出した。
『1時に昼食なんておかしい』
ふとそんな言葉が頭をよぎった。
そんな規則に文句を言っていた中学時代が懐かしく感じた。
チラリと横を見ると、瀬々羅木は自分の席からグラウンドを眺めていた。
「お弁当、持ってくるの忘れたのか?」
僕は思わずそんな事を言葉にしてしまっていた。
突然話しかけられて、瀬々羅木は目を丸くしていたが、それも一瞬の事で、すぐグラウンドに視線を戻した。
「お腹、空かなくなったのよ」
彼女はそう悲しそうにポツリと呟いた。
"お腹が空いてない"ならまだ理解できるが、"空かなくなった"とはどういう事なのだろうか。
彼女の言葉のニュアンスが非常に気になった。
「それ、どう言う事」
「…如何して、東雲燐に言わなくちゃいけないの?」
すると先程と口調を変え、僕の顔をしっかりと見つめてきた。
流石にこの台詞を吐かれると、人間は反論できなくなる。
返す言葉が見つからないまま、黙り込んでしまった僕を冷めた目で見た彼女が、この沈黙を破った。
「…胃が、なくなったのよ」
風が止み、辺りが静寂に包まれた。
僕の耳には彼女の声しか聞こえなかった。
彼女の告白は僕の心に重く響いた。
その言葉はあまりにも衝撃的すぎて。
今度は違う意味で返す言葉を失ってしまった。
「だから、お腹は空かないの」
僕はすっかり空腹だった事を忘れ、彼女の言葉に興味津々だった。
真面目な彼女がふざけた話を言うわけがない。
「なんで、胃がなくなったんだ?」
「…私にだって、わからないわよ」
こんな有り得ない事が当たり前に起こる。
それはつまり『妖』が関係している、という事だ。
もしかしたら、僕に協力できる事があるのかもしれない。
そう思った僕は、すぐ彼女に提案をした。
「何か協力できるかもしれない」
その言葉に彼女はしばらく返事を返さなかった。
もしかしたら疑っているのかもしれない。
だから僕は先程の言葉に付け足した。
「僕も、瀬々羅木と同じような経験をした事がある」
そう言うと彼女は少し安堵の表情を見せた。
「わかった。東雲燐、貴方を信じるわ」
僕の思いが少しでも彼女に伝わった事が嬉しかった。
きっと不安だったのだろう。
不可思議な現象が起こったのは自分だけだと思っていたのかもしれない。
人間は”仲間”を見つけると、自然と強くなれる生き物なのだ。
僕はとりあえず今後の事を彼女に話した。
――5月3日(日)
毎年ゴールデンウィークは暇だ。
休暇中に遊びに行くような友達もいなければ、家族もいない。
しかし今年は違った。
久しぶりに、本当に何十年ぶりかに、この人ごみの中にいる。
瀬々羅木は時間通りに待ち合わせ場所に来た。
彼女は僕が最後に見た日――金曜日に比べて、少し痩せた気がする。
「瀬々羅木、少し痩せたか?」
「当たり前じゃない。食べてないんだから」
なるほど。
と納得してしまってはいけないのだ。
これは『怪奇現象』なのだから。
僕はとりあえず、今から懐かしい場所に向かった。
そこはいつも暗かった。
昼時に行っても、そこだけは闇に包まれているようだった。
そこは、他の場所に比べて空気が変わっている。
不気味で、でもどこか興味をそそられる。
それはまるで恐怖心がありながらも、好奇心旺盛な子供のよう。
だから僕もあの日、彼に付いて行ったのかもしれない。
「ここ、なの?」
瀬々羅木は疑いの目でその家を見つめた。
「あー、うん」
僕は適当に返事を返す事しかできなかった。
僕も最初、彼女と同じ気持ちだったからだ。
こんな廃校に人が住んでいる気配はない。
でも、彼は住んでいた。
門の前に立つと、いつものフクロウが話しかけてきた。
「確認、確認」
僕は右目を覆っている長い前髪を開放的に分けると、右目をゆっくりと開いた。
その赤い、赤い、血の色をした僕の目を見ると、フクロウは相変わらずの口調で話した。
「承認、承認」
僕はその言葉を聞くと、再び右目を閉じ前髪で隠した。
しっかりとその場面を見ていた瀬々羅木は驚いた顔をしていた。
フクロウが日本語を話しているからなのか、僕の右目が赤かったからなのか、わからなかったが。
「その横、誰」
「ああ、こいつは僕の連れ。瀬々羅木、フクロウに向かって話して」
「瀬々羅木聖」
瀬々羅木はフクロウに向かって、ぺこりと頭を下げた。
「承認、承認」
すると固く閉ざされている門が開いた。
中は一本通路になっている。
これがあの男の気分次第で、距離が変わる事になる。
通路はただ真っ暗で、どれくらい歩いたなんて確認できない。
瀬々羅木はきょろきょろと辺りを見渡していた。
「いつ、終わりがあるの?」
「さあ、この通路の長さは、あの男の気分次第で変わるから。でも、今日はちょっと長いから、そんなに気分は良くない」
全く理解できてない瀬々羅木の表情は、初めて見るとふと思った。
いつもは少し余裕があるが、今は全くと言っていいほど余裕がない。
むしろ、僕のほうが余裕だった。
余裕のない彼女は、かなり貴重だと思った。
「東雲燐、さっきの目は…」
瀬々羅木は僕の右目が気になっているようだった。
僕は別に過去の事を隠すつもりはない。
「うん、"妖"ってやつに奪われた」
「あやかし…?」
彼女はキョトンとした顔で僕を見た。
「そう、妖。おそらく瀬々羅木の胃も、妖が盗んだんだと思う」
瀬々羅木には別次元の話のように聞こえているだろう。
普通の日常を過ごしてきた彼女だから。
僕も最初、この世界を知った時は驚きを隠せなかった。
だから瀬々羅木の今の気持ちは痛いほど理解できた。
「胃は返ってくるの?」
「ちゃんと交渉すれば」
「じゃあ何で東雲燐の目は返って来てないの?」
「それは…」
僕は言葉を詰まらせた。
瀬々羅木の意見は正当だ。
僕はあの日、あの妖から目を返してもらうのを拒んだ。
「妖が、可哀想だったから」
こんな事を言ったら、完全に馬鹿にされる。
自分の目を抉り取られた相手に同情するなんて。
「…そう」
すると彼女の返事は意外なものだった。
「でも、私も感謝しなくちゃいけない」
彼女は自分に言い聞かすように呟いた。
感謝する、とはどういうことだろう。
誰に対しての礼なのか、僕には理解できなかった。
ようやく長い長い通路の終わりが見えてきたようだ。
どこからか風が吹いている。
それがとても開放された気分になれるのだ。
通路の終わりには扉がある。
それを抜けると、ようやく彼がいる部屋に辿り着ける。
「着いた」
僕は確かめるようにそう言葉にした。
すると部屋から現れたのは、相変わらず黒いシャツに黒のパンツを穿いて、黒のコートを羽織った男だった。
男は僕の顔を見ると、不気味な微笑みを僕に向けた。
「お久しぶりです」
「ああ、久しぶりだな。知らない間に可愛い子捕まえやがって」
「違います」
男の言葉に僕ではなく瀬々羅木が反論した。
「そんなに僕が彼氏っていうのが嫌なのか」
「嫌よ」
彼女の返答は刹那だった。
今までの優しさは全部演技だったのか!?
半泣きで瀬々羅木を見ると、彼女はツンとした態度だった。
そんな僕たちのやり取りを楽しそうに男は見ていた。
「ははっ、面白い!まぁ、燐にあんたは勿体無すぎる」
「そうよ」
なんで2人が意気投合してんだよ!?
もうツッコむもの面倒になり、僕は心の中でツッコミを入れた。
「――で、話を進めるけど、まず自己紹介して」
「瀬々羅木聖」
「おう、オレは无邪志ってんだ」
「ムサシ、さん?」
「ああ、そう呼んでくれ」
无邪志さんは相変わらず女には甘い。
だから今もあの妖がこの屋敷に住んでいるのだが。
僕と扱いが違いすぎて、少し虚しくなってくる。
「で、用件はなんだ」
「胃が盗まれました」
瀬々羅木はいつも唐突だった。
これには无邪志さんもビックリしていた。
しかし瀬々羅木本人は平然としている。
「いきなり言われても、ビックリすんだろ!」
「あ、すみません」
彼女は純粋に謝った。
そして本題へ移った。
彼女が胃を盗まれた理由。
どうやら、4月23日の帰宅途中に可愛らしい狛犬に会ったとか。
すると胃が盗まれてしまったらしい。
瀬々羅木の説明が終わると、无邪志さんは真剣な顔で彼女に質問した。
「本当に、それだけか?」
「……はい」
彼女は少し躊躇いながらも返事をした。
「オレに隠してることはないな」
「ありません」
无邪志さんはまるで彼女の心を見透かしているようだった。
けれど瀬々羅木もいつになく真剣な瞳を、无邪志さんから逸らさなかった。
すると今度は、无邪志さんは彼女から僕に視線を向けた。
「なら、いい。悪いが今から仕事だから、また明日来てくれねぇか」
「わかりました」
「夜は仕事が多いから、午前中に来てほしい」
その言葉に僕は同じ言葉を繰り返した。
僕たちは无邪志さんに一礼すると、この部屋から退室した。
出るときは通路が短い。
だからすぐ門へ辿り着ける事ができた。
僕は門から出ると、明日について彼女に話した。
「明日は、10時に今日と同じ場所に集合」
「わかったわ」
ところで。
1つ僕は彼女に聞きたい事があった。
ずっとタイミングを逃してきたが、今なら言える気がする。
「あの、瀬々羅木」
僕の言葉に彼女は振り返った。
「ゴールデンウィークは家族で出かけたりしないのか」
「…そんな余裕なんてないわよ」
彼女は金曜日の告白の時と、同じ表情をしていた。
切なくて、今にも泣きそうな顔。
でも無理して笑顔を作っている。
「そう。それじゃ」
だから僕はこれ以上聞かないでいた。
いや、今の言い方には語弊があるかもしれない。
正しく言うと、彼女のあの表情を見て、聞く事ができなかった。
きっと彼女には隠したい思いがある。