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第二話

 玄関のドアを閉めた瞬間、部屋の音が消えた。


 ワンルーム。

 靴箱の上に置いた鍵。

 脱ぎっぱなしの靴。


 どれも、いつも通りだ。

 仕事に出るためだけに存在していた部屋。

 帰ってきて寝るだけの場所。


 照明を点けると、白い壁が浮かび上がる。

 余計な装飾はない。

 来客を想定していない部屋だ。


 俺は上着を脱ぎ、椅子に掛けた。

 ネクタイは、もう必要ない気がして、そのまま机に置く。


 誰も「帰ってきた」とは言ってくれない。


 冷蔵庫を開けると、ボトルコーヒーが一本だけ入っていた。

 キャップを開け、喉に流し込む。


 味がしない。


 ベッドの端に腰を下ろした瞬間、

 張りつめていたものが、ふっと切れた。


「……っ」


 声が出る前に、視界が滲んだ。


 情けない。

 四十手前の男が、一人で泣くなんて。


 だが、止められなかった。


 真面目に働いてきた。

 残業も断らなかった。

 現場が危険だと聞けば、資料を徹夜で作った。


 誰かの命が助かるならと、

 数字と規程に向き合ってきた。


 ――それで、これか。


 顔を覆い、声を殺す。

 壁の向こうには、誰もいない。


「向いてる向いてないは、やってから決めるものです」


 元部下の声が、やけに鮮明に蘇る。


 成功した冒険者。

 生き残る側の人間。


 善意だ。

 本当に、そうだ。


「課長みたいな人が来てくれたら、助かる人、たくさんいます」


 助ける。


 その言葉が、胸の奥をえぐる。


 今日、ダンジョンで見た光景。

 回収された身体。

 名前の刻まれたタグ。


 俺が冒険者だったら、

 あの場所で、何かできたのだろうか。


 それとも――

 同じように、回収される側だったか。


「……遅すぎるんだよ」


 誰にともなく、呟く。


 年齢。

 体力。

 経験。


 全部、言い訳だと分かっている。

 分かっているから、余計につらい。


 涙が落ち、シーツに染みる。

 拭っても、次から次へと溢れてくる。


 俺は、仕事がすべてだった。

 仕事があれば、自分の価値を疑わずにいられた。


 だが今は、

 仕事も、肩書も、役割もない。


 それでも、心の奥で消えない声がある。


 ――本当に、このままでいいのか。


 元部下の背中。

 自信に満ちた立ち姿。

 それでも、彼が俺を見ていた目は、軽蔑じゃなかった。


 必要だ、と言った。


 俺を。


 床に落ちた社員証を拾い上げる。

 使えなくなったそれを、しばらく見つめる。


 やがて、静かに息を整えた。


 泣き終わった後の部屋は、

 相変わらず静かで、何も変わらない。


 だが、胸の奥に残った痛みだけは、

 確かに、次へ進めと訴えていた。


 答えは、まだ出ていない。


 それでも――

 考えることを、やめる気はなかった。


 テーブルの上に、一枚の紙が置かれている。


 冒険者資格講習申込書。


 ハローワークでもらったパンフレットの中に、紛れ込むように入っていたものだ。

 白地に黒文字。

 拍子抜けするほど、あっさりしている。


 氏名、年齢、住所。

 緊急連絡先――空欄。


 ペンを握ったまま、俺は動けずにいた。


 これに名前を書けば、後戻りはできない。

 会社員に戻る道が閉ざされるわけじゃない。

 だが、「冒険者になろうとした」という事実は、確実に残る。


 元部下の言葉が、また浮かぶ。


「今からでも、遅くないです」


 本当に、そうなのか。


 ペン先が紙に触れ、離れる。

 それを何度か繰り返し、結局――名前を書いた。


 字は、驚くほど震えていなかった。



 講習初日。


 会場は、元は体育館だったらしい広い建物だ。

 天井には結界用の魔導装置。

 壁際には、救護班の待機スペース。


 受付を済ませると、年齢層の広さに気づく。


 二十代前半の若者。

 三十代の転職組。

 そして、ごく少数だが――俺と同じくらいの年齢の人間。


 全員が、同じ紙切れに名前を書いた人間だ。


「まずは、基礎体力測定を行います」


 講師の声が響く。


「冒険者にとって、魔法適性やスキル以前に重要なのは、“生き残る体”です」


 嫌な予感が、確信に変わる。



 最初は、持久走だった。


 魔力補助なし。

 純粋な体力測定。


 スタートの合図と同時に、周囲が一斉に走り出す。

 俺も遅れないように足を動かすが、数分で息が上がった。


 肺が、熱い。


 若い受講者が、横を軽々と抜いていく。

 魔力を使っていないはずなのに、身体の出来が違う。


「……っ」


 五周目に入る前で、足が止まった。


 視界の端で、講師がメモを取るのが見える。

 記録されている。

 客観的な現実として。


 次は、筋力測定。


 魔物を押し返す想定の負荷装置。

 俺は全力で踏ん張ったが、数秒も持たなかった。


「はい、終了です」


 あっさりと告げられる。


 最後は反応速度。

 魔法罠を避ける想定だ。


 結果は――散々だった。


 遅い。

 鈍い。

 そして、疲労が抜けない。


 講師が、淡々と評価を読み上げる。


「体力:基準未満」

「反応速度:基準ギリギリ」

「総合評価:要再検討」


 再検討。

 不合格とは言わないあたりが、優しい。


 だが、優しさは救いにならなかった。



 休憩時間、壁にもたれて座り込む。


 汗が冷えて、身体が重い。


「……厳しいですね」


 隣に座った受講者が、苦笑した。


「ええ」


 それ以上、言葉が続かない。


 俺は、知っていた。

 頭では、最初から分かっていた。


 年齢を重ねた身体は、

 簡単には、若さに追いつけない。


 命を賭ける現場で、

 この体力は致命的だ。


 ――それでも。


 測定表を見つめながら、奇妙な感覚があった。


 悔しい。

 情けない。

 だが、不思議と「間違っていた」とは思わなかった。


 これは現実だ。

 数字で示された、今の自分。


 会社を失った現実と、同じだ。


 逃げてはいけない。


 俺は、申込書に書いた自分の名前を思い出す。


 ここまで来て、

 やめる理由も、続ける理由も、両方ある。


 だが一つだけ、はっきりしている。


 ――このまま、何もせずに戻る気はない。


 冒険者になるとしても、

 ならないとしても。


 俺は、この現実から目を逸らさない。


 測定表を折り畳み、

 静かに、立ち上がった。


 体力測定が終わり、受講者が三々五々に解散していく中、

 俺は講習会場の隅で、配布された資料を眺めていた。


 眺めている、というより、視線を落としていただけだ。


「少し、いいかな」


 声をかけられ、顔を上げる。


 講師だった。

 年齢は五十代前半。

 装備は簡素だが、体幹が崩れていない。


 現役だと、直感で分かる。


「佐伯さん、でしたね」


「はい」


「率直に言う」


 前置きなしだった。


「君みたいなタイプは、珍しい」


 思わず、眉をひそめる。


「体力的には、正直言って厳しい。これは数字が示している」


 測定表を、軽く指で叩く。


「だが、さっきの講義中、君だけ違うところを見ていた」


「……違うところ、ですか」


「走りながら、床と壁を見ていた」


 胸が、少しだけ跳ねた。


「罠の位置、段差、死角。

 あれは“逃げる人間”の目じゃない」


 講師は、淡々と続ける。


「“生き残らせる人間”の目だ」


 その言葉に、喉が詰まった。


「俺はこれまで、何百人も見てきた」


 彼は壁にもたれかかり、腕を組む。


「力がある人間。魔法が使える人間。

 だが、そういう連中ほど、簡単に死ぬ」


 嫌な沈黙が落ちる。


「なぜだと思う」


 問いかけられ、俺はしばらく考えた。


「……自分が生き残れると思っているから、でしょうか」


 講師は、静かに笑った。


「正解だ」


「逆に、君は」


 俺を見る。


「最初から、自分が弱いと理解している」


 それは、褒め言葉ではないはずだ。

 だが、否定もできない。


「だから、無理をしない。

 無理をしない人間は、仲間を無理に巻き込まない」


 俺は、思わず視線を落とした。


「……それでも、俺は冒険者には向いていません」


「前線には、な」


 講師は、はっきり言った。


「だが、冒険者は前線だけじゃない」


 その言葉に、顔を上げる。


「隊列管理、撤退判断、事故予測。

 それを“仕事”としてやれる人間は、驚くほど少ない」


 管理。

 判断。

 事故予測。


 聞き慣れた言葉だった。


「会社で、そういう仕事をしてきたんでしょう」


「……はい」


「なら、武器はある」


 講師は、測定表を返してきた。


「体力は鍛えれば、最低限までは届く。

 だが、“考え方”は、鍛えても身につかない」


 彼は、少し間を置いてから言う。


「君が冒険者になるなら――

 生き残るためじゃない。

 誰かを生き残らせるためだ」


 胸の奥で、何かが形を持ち始めた。


「考えてみるといい」


 講師は踵を返す。


「向いていない理由は、

 そのまま、向いている理由になることがある」


 その背中を、俺はしばらく見つめていた。


 申込書に書いた、自分の名前を思い出す。


 冒険者になるか、ならないか。

 その問いは、少しだけ形を変えた。


 ――どんな冒険者になるか。


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