八品目
とある日の昼休み――。
とある高校の中庭のとあるベンチ。
上総和影は、昼食を食べ終えたあと、春の陽気に包まれながらひとり微睡を楽しんでいた。
空は淡く霞み、校舎の壁に反射した光が芝の上で揺れている。生徒たちの笑い声が遠くから届き、パンの匂いと風の匂いが混じり合って心地よい。
和影は腕を枕にしてベンチに横たわり、うつらうつらとまどろみの世界へ入りかけていた。
だが、ポケットの中のスマホが不意に震える。
眠気を断ち切るように、短いバイブ音が響いた。
和影は顔をしかめて取り出し、画面を見て、すぐに嫌な顔をした。
差出人の名前を見ただけで、内容が予想できたからだ。
『今日から新人の月見里春歌さんと言う子が入ります。君の学校の一年生だから、面倒見てください』
――やっぱり悠馬。
和影は無言でスマホを伏せ、空を仰ぐ。
雲がゆっくり流れていくのを眺めながら、重たい息を吐いた。
渚の時は「年が近いから」。
翠の時は「同じ高校生だから」。
そして今度は「同じ学校だから」。
悠馬の言い分はいつも単純で、やっつけだ。
(なんでいつも俺なんだ?)
そう思いながらも、言ったところでどうにもならない。
和影はもう一度目を閉じた。春風が頬を撫で、遠くでチャイムが鳴るような幻聴が聞こえる。
あと少し、眠りの淵に落ちかけた――そのときだった。
隣のベンチに、ぱたぱたとスカートの裾が揺れる音。
新入生らしい女子二人組が座り、キャッキャと楽しげな声を上げた。
(頼むから寝かせてくれ〜)
和影は腕で顔を覆い、寝たふりをする。
だが、耳に入る声がやけに具体的だった。
「これが許可証?」
「そそ。バイト先に提出して記入してもらってまた提出だって」
「で?バイト先どうだった?」
「ギャルの副店長が怖そうだけど、店長はちょろそうなガリヒョロ親父。多分バレないよ」
「今日からでしょ?帰ってきたらまた教えてよ」
和影はうっすら目を開けた。
会話の内容に、妙な既視感を覚えたからだ。
(……なんか、うちの店みたい)
ギャルの副店長。ガリヒョロ親父。
いや、まさかとは思うが。
(奇人変人が集まるのはウチだけじゃないんだな……)
和影は自嘲気味にそう思い、再び目を閉じる。
だが無情にも、予鈴が鳴り響いた。
「ああ! 俺の大事な微睡タイム!」
和影は上半身を起こし、ぼさぼさの髪をかき上げた。
昼下がりの柔らかな光が、ベンチの影を長く伸ばす。
周囲を見渡すと、ちょうど校舎に戻っていく二人の女子の後ろ姿が見えた。
そのひとりの髪が陽光を反射し、金色がかって見えた。
(なんか嫌な予感がする)
和影は立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだまま、校舎へ戻っていった。
昼下がりのはいから亭。
ランチタイムが終わり、店内は静寂を取り戻していた。
コーヒーの香りと食器の乾いた音だけが残る。
絵恋が指示を出し、パートたちが昼の賄いを持って休憩に入っていった。
「……ふぅ」
絵恋は短く息を吐き、椅子に腰を下ろす。
そこへ、外出から戻ってきた悠馬が事務室の入り口に立った。
「あ……あのぅ……佐伯さん」
悠馬が苦笑いを浮かべる。
絵恋は悠馬の席でくつろいでいる。
悠馬が来ても退く気配はない。
「『退け』と言っても退かないぞ。どこで休憩しようが私の勝手だ」
「困りましたねぇ」
悠馬は上着を壁にかけ、もう一つの椅子に腰を下ろした。
「この前面接した月見里春歌、今日が初出勤だよな?」
「ええ。ですので、書類の関係もありますので、彼女が出勤するまではお店にいますが、夕方からセントラルキッチンに行きます。そのまま今日は直帰します」
「あ、そ」
そっけなく絵恋が答える。そのとき、悠馬のスマホが振動した。
「御影です……」
悠馬が電話に出た途端、眉間に皺を寄せた。
「……そのお話、詳しく聞かせていただいて構いませんか? 後程折り返します……はい。十分後で」
電話を切ると、悠馬は慌ただしく書類をカバンに詰め始めた。
バタバタと準備する悠馬を尻目に、絵恋はのんびりとコーヒーをすする。
「ごめんなさい。急用が入りました」
「あ、そ」
絵恋のそっけない返事。
「月見里さんが書類を持ってきたら記入して持たせてあげてください。私の印鑑使って大丈夫です」
「あ、そ」
「今日は直帰しますので、戸締りと機械警備のセットをお願いします」
「あ、そ」
悠馬は呆れ顔で笑う。
「絵恋さん」
「なに?」
「今日も綺麗ですよ」
一瞬の沈黙。
「テメー! 喧嘩売ってんのか!」
耳まで真っ赤にした絵恋が椅子から飛び出さん勢いで立ち上がった。
「それでは行ってきます」
絵恋の怒号を背に悠馬が事務室を出る。
休憩室では休憩中の充が何事かと目を丸くしていたが、悠馬は会釈だけしてそそくさと出ていった。
「何があったの?」
充は突然の絵恋の怒号に呆然としていた。
すぐに鼻息荒く、耳まで真っ赤にした絵恋が事務室から飛び出してくる。
「後で〆る!」
鼻息荒く宣言する絵恋に、充は何も言えず苦笑いを浮かべた。
そのとき――。
「おはよーございます! 今日から働きます、月見里春歌です!」
裏口から、元気いっぱいの声が響いた。
絵恋が顔を上げる。
「おぅ、そこで叫ばずにこっちに来い」
休憩室から顔だけを出して、絵恋が手招きする。
「今日は制服を合わせたら上総というバイトに頼んでいるから、ラストまで上総について教えてもらいな」
絵恋は机の上のクリーニング済みの制服を指差した。
「制服は二着まで貸与する。持ち帰りは禁止だから、洗濯が必要な時とかもしっかり聞いておけよ」
「分かりました!」
春歌は貸与された制服を抱え込んだ。
「更衣室の中のロッカーの一つに名前を書いたから、好きに使え。壁に着付けがあるから、それを見ながら着てみろ」
「わっかりました!」
制服を受け取った春歌が元気よく返事する。
「元気のいい子ですね」
充が嬉しそうに言った。
「真面目そうですし、仕事もすぐに覚えてくれそうで」
「そのうち嫌でも知るよ。この店舗には変人しか集まらないってね」
絵恋が冷めたように言い放ち、充は苦笑いした。
「おはようございます」
そんな時、和影が出勤してきた。
「上総、聞いているな?」
「聞いてます」
と、和影は暗い表情で返事した。
「今着替えているから、今日はラストまでついてやってくれ」
「分かりました」
がっくりと項垂れるように更衣室に入っていった。
その背中を見送りながら、絵恋はコーヒーを一口すする。
春の午後の陽射しが、静かな店内に差し込んでいた。
はいから亭の空気に、またひとつ新しい風が吹き始めていた。
昼休みの微睡と、午後の店の静寂。いつも通りのはずが、また新しい厄介が和影の前に現れる。はいから亭に吹く新しい風――月見里春歌。その笑顔の裏に、少しだけ計算の匂いがした。




